論考

Thesis

カナダ ~多元社会の民主主義から~ その3

“Democracy Again!”

“Democracy Again!” “Democracy Again!”
 梅雨のどんよりとした空に大合唱がこだましていた。
 ここは、カナダ、バンクーバー美術館前の広場だ。折からの悪天候で小雨がぱらついているにも関わらず、ざっと300人ほどの人々が集まっている。そのほとんどはバンクーバー近辺に住むインド系フィジー人だ。
 フィジーでは5月19日にクーデターが発生し、インド系のマヘンドラ・チョードリー首相等が人質となった。その背景には裕福なインド系に対するフィジー系住民の不満があったといわれている。クーデター勢力との話し合いの結果、暫定軍事政権が成立することになったのだが、このことは民主的選挙で選ばれたチョードリー政権が、事実上武力によって覆されたことを意味する。この決定に対する抗議が冒頭の”Democracy Again” “DemocracyAgain” の大合唱だ。
 Ashokさん(30)は興奮した面持ちで、「PKFを出して軍事的に介入すべきだ。早く止めないとインド系住民の虐殺が始まるぞ。」と叫ぶ。彼の親兄弟は全てフィジーで生活しているそうだ。Ashokさんだけではない。ここに集まっているほとんどの人々が、フィジーに家族、親類を残してきており、クーデター勢力とその支援者によるフィジー系住民への圧迫を心配していた。このデモを企画したFiji Canada Associationはオタワのカナダ政府に対し、フィジーからの避難民へのビザ発給を要求していた。
 家族連れで参加していたChandraさん(48)は、「私の母と妹もまだフィジーにいる。1日も早くビザの発給か、難民の受け入れの態勢を整えて欲しい。カナダと国連は経済制裁を考えるべきだし、もし本当にインド系住民への嫌がらせが強まるようだったら、軍事的介入にも踏み切るべきかもしれない。」と語る。

<注>会場は異常な熱気に包まれ、“Democracy Again!” (民主主義を再び!)“Equality to Indian!”(インド系に平等を!)“Unity of Society!”(社会の統合を!)などと書かれた数々のプラカードが所狭しとぶつかりあっていた。

多民族社会における”Democracy”の意味

 カナダやアメリカ合衆国のような北米の社会は、移民による多民族社会である。フィジーからの移民だけでも、カナダ全体で約20万人、このバンクーバー周辺でも約6万5千人も住んでいるという。
 こうした肌の色も顔かたちも違う人々が集まって1つの社会が出来上がっているのは、自分と同じ日本人に囲まれて育った私から見れば、正直よくもまあこれでうまくやっていけるものだと思ってしまう。もちろん住んでいる場所や収入が偏っていたりすることはあるのだろうが、それでも一目見て人種の違うのがはっきり分かるカップルや、当たり前のようにいろんな肌の色の子供達が入り乱れて遊んでいるのを目にすると、感心してしまう。こうした多民族社会を支えているのは”Democracy”の理念だ。後から移民してきた新参者だろうと、どこから来た何民族であろうと平等に扱わる。能力があり一生懸命働けば認められるのだという信念に支えられている社会である。その意味で彼等にとっての民主主義は人権思想そのものだ。

 台湾から去年移民してきたという友人、Jhonny(26)の車に乗せてもらっていた時のことだ。赤信号で一時停止した途端に、わきから飛び出してきた2人の白人の少年がふざけ半分に私達の車を磨き出してしまった。磨くというよりは水をぶっかけてモップで無理やりこするだけなので実際には汚くしているだけだが、それでもちゃっかり2ドルも要求してきた。再び走り出しながら、Jhonnyは露骨に眉をひそめてこう言った。
 「ここには、ああいう努力しないで小金を稼いで遊んでいる奴らがたくさんいるんだよ。僕は英語もまだ下手だし、黄色人のチャイニーズだけどね、いつかコンピューターサイエンスで博士号をとるからね。それで事業を起こして成功者になってみせるさ。」それから大金持ちになったらもう一度呼ぶからバンクーバーまで来てくれ、と冗談混じりに笑った。
 英語では、博士号を取ると呼称がMR.(ミスター)ではなくてDR.(ドクター)になるそうだ。これをはじめて知った時、「何で学歴ごときで人の呼び名が変わるんだ?ちょっと学歴偏重しすぎじゃないの?」と思ったが、やっと合点がいった。Jhonnyとしては台湾から移民してきた途端にマイノリティーのChinese Canadianになり、その上言葉も通じない新参者になってしまったわけだ。そうすると頼るものは努力の結果がフェアに出てくれる学歴と金になるのは自然な流れだろう。これだけはその人の社会的地位を、マイノリティーだとか新移民であるとかに関係なく、能力にどおりフェアに表してくれる。
 アメリカ社会は金、学歴の競争社会という批判をよく聞くが、なるほどそうならざる得ない理由もあるのだなと妙に納得してしまった。訴訟社会という点についても同じである。もし私が移民して仲間も少ない、言葉も通じないという弱い立場に立たされたら、自分をフェアに扱ってもらうための最後のよりどころは法律だろう。移民による多民族社会というのは、まさに「全ての者は法の下に平等である。」を地でいっている社会なのだ。
 実際、北米の多民族社会はこうした移民達の期待に報いてきた。例えば前述のChandraさんは18年前フィジーから移民してきた時は英語もできず散々苦労したそうだが、家族を支える安定した収入を求めて、働きながら一生懸命勉強したそうだ。彼は今やバンクーバー市役所に勤める公務員になっている。ここでは移民が公務員になることさえ珍しくない。(それどころかカナダなら、規定では首相にもなれるそうだ。)また1代でうまくいかないとしても、ここで生まれた2世代目は最初から英語で教育を受け、親よりも高学歴になり豊かな暮らしをつくることが多い。北米の社会はそれが可能な皆にフェアにチャンスを与えてくれる社会なのだ、という確信が移民を支えている。
 この確信が人種、民族の違う多くの人々、新しく移民してきた人々を一つの社会の下にまとめている基盤だ。フィジーのデモンストレーションのプラカードにあった “Equality to Indian!”(インド系に平等を!)という民族間の平等の訴えは、ここ北米ではそのまま“Unity of Society!”(社会の統合を!)を意味している。そしてこれを象徴的に表す理念が“Democracy”(民主主義)なのだ。

“Democracy”の対外拡張

 こうしたセンスは日本で育った私とは大分異なっている。ほぼ均質な民族構成を持つ日本で育ってきた私にとっては、”Democracy”から多民族の共生を連想するのは中々難しい。私にとっての”Democracy”は政府がきちんと民意を汲んでいるかどうかといった筋で出てくるものだ。
 しかし、ここ北米の多民族社会に住む人々にとっては、”Democracy”の欠如とは、社会の統一性そのものの喪失であり、多民族をうまく融合、共存させていた原理、秩序が一気に崩れ去ってしまうという問題だ。彼等にとっては、”Democracy”の欠如は、そのままイコール、無法の民族差別、エスニッククレンジング(民族浄化)まで連想させるような意味合いを持っている。
 そしてもう1つ、他国との距離感にも明らかに違いがある。私にとっては日本の国外で起きた事件は、たまたまその国に友人がいるのでもなければ、1つのニュースに過ぎず、同情を感じるくらいで、そこの政治体制が”Democracy”であるかどうかなど、もはや政治談義の枠を出ない。だが冒頭のインド系フィジー人の人達が合唱する”Democracy Again” は、そうした同情や単なる政治談議ではない。フィジーに住む親兄弟の命の問題だ。ここで訴えなければフィジーに住む自分の家族の命が危ないかもしれないと真剣に考え、切実な主張をしているのだ。
 実際、カナダのニュース番組では、連日トップニュースで地球の裏側、アフリカのジンバブエの民族浄化問題を取り上げている。また、カナダでも毎日のように目にしたが、ここ数ヶ月間アメリカ合衆国では、漂着した10歳のエリアン少年を母国キューバに送り返すかどうかで大もめにもめていた。結局、エリアン少年はキューバから迎えに来た実父とともに帰る決定が下ったのだが、最後まで少年の帰国に抵抗したマイアミのキューバ人コミュニティーにとっては、アメリカに裏切られたという気持ちなのかもしれない。自分達は共産党独裁のカストロの国、キューバを捨て、自由と”Democracy”のアメリカを信じて今までやってきた。それなのに、せっかくここに逃げてきた少年をそのキューバに返すのか、という思いなのだろう。時に私からすると内政干渉では?と少し強引にも見える、アメリカの人権外交を支えるのは、こうした人々の切実な思いが作り出す世論なのかもしれない。多民族共生の基礎としての”Democracy”、それゆえ”Democracy”の欠如はそのまま、民族差別、民族浄化まで連想させる。しかも移民社会のため、他国の国内社会との距離感が異様に近い。こうした日本の中からは想像できない特性が、アメリカやカナダの世論を動かし、意思決定に働きかけている。

 Chandraさんと話していて、複雑な気分になったことがある。「君は日本から来たなら”Democracy”とか人権が何たるか分かるね。
 アジアにはひどい国がたくさんあるからねえ。中国のあたりにはどうも儒教とかいうのがあって、権威主義を肯定するそうじゃないか。どうもアジアの国では正しい”Democracy”が育たないらしいね。

 先日、ベトナムからの移民女性が里帰りした際に、麻薬を所持していることが見つかり、死刑を言い渡された。カナダにいるその女性の親族が、泣きながら抗議する様子がTVニュースで伝えられたが、その中の街角インタビューで、ベトナムからずいぶん前に移民したという男性が、あきらめ顔でつぶやいた一言に愕然とさせられた。
「しょうがないさ。彼等はまだCivilized(文明化)されてないからね。」

 この世には文明化された文明(Civilized Civilization)と文明化されていない文明(UncivilizedCivilization)という区別があるようだ。そして多分に”Democracy”をどの程度まで達成しているかが、そのモノサシになっている。
 冷戦が終わり旧共産圏の門戸が開かれた現在、グローバリゼーションの名の下に、”Democracy”(民主主義)、”Capitalism”(資本主義)は、全ての社会に適用される理念として世界中に広げられている。これは日本にとっては基本的に喜ぶべきことだ。特に中国、北朝鮮、ロシアなどの体制が異なる(異なっていた)社会と原則を共有できるようにする変化は、日本こそが多少の苦労を背負ってでも積極的に進めるべきことだろう。
 しかしまた、その”Democracy”のモデルとされている北米社会と比べた時、同じ”Democracy”を憲法に掲げ、信じてきているはずの我々日本社会でさえ、土台となる社会が移民による多民族か、古くから続く島国のほぼ均質な民族社会で、北米の人々とは想像するものも大きく異なるし、”Democracy”のあり方にも多少の違いがある。
 一から十まで全て北米社会と同じような”Democracy”を持てといわれても不可能だ。それぞれの社会の成り立ちや文化に違いがある。しかしだからといって、いくつかのアジアの国が過去に行ったように、「わが国にはわが国の文化に基づいた独自の”Democracy”がある。」と開き直って、独裁を肯定する理論に使うのもおかしい。またもし本当にフィジーで民族差別政策が取られるとしたら、それを見過ごすことはできない。
 どこからどこまでが”Democracy”の原則として世界全体どの社会も共有すべきなのか、どこからどこまでがそれぞれの社会の成り立ちや文化による多様性として尊重すべきなのか、この微妙な線引きが求められてくるのではないだろうか。


<注>
フィジーはこの月例報告を書いている2000年7月10日現在、クーデターを起こした武装勢力と国軍が、人質解放を合意したと伝えられている。

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森岡洋一郎の論考

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Yoichiro Morioka

森岡洋一郎

第20期

森岡 洋一郎

もりおか・よういちろう

公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾 研修部長

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