論考

Thesis

グローバリゼーションに関する考察

「アンチ・グローバルキャピタリズム!!」

 日本でも報道されたそうだが、今年のメーデーでは、世界中から多くの若者が、英国ロンドンのパーラメントスクエアに集まり、「アンチ・キャピタリズム」を思想的背景とした「フェスティバル」を行った。
 地方選挙を目前に控えた左派労働党政権の英国政府の努力もあって、最初は平和裡に進むかに思われたその「フェスティバル」も、結局は資本主義の象徴とされたマクドナルドの店舗や大銀行への襲撃、警官隊との衝突と言った事態に発展してしまった。つい先日、決裂し物議を醸したWTOシアトル会議の際のアンチ・グローバリズムを掲げた若者の暴動は皆の記憶に新しいところと思うが、今回のロンドンでの騒動もその一連の流れを引き継いだものだ。私も当日現場を訪れていたが(あくまで勉強のため!!)、何ヶ月も前からインターネットを通じて世界中に呼びかけられていたこともあり、現地紙の記事によれば4000人もの若者が集まっていたそうで、あれだけの人の多さは予想を越えたものだった。日本でも最近盛り上がりつつあるグローバリゼーションを巡る議論であるが、西洋諸国のみならず、アジア、南米他世界中でもグローバリゼーション、もしくはグローバルキャピタリズムを巡る議論が過熱して来ているようだ。

 私は、現在、日本の国際経済政策、特にアジアにおける通貨政策を主なテーマの一つに据えて、研究活動を進めている。現在の日本の混迷、特に「失われた10年」とも言われる現在の我国の低迷は、グローバリゼーションといわれる国際的な経済環境の変化に起因しているという考えからのテーマ設定である。今月は、フェロー活動最初の月例報告ということもあり、経済問題を語る際常に行き着きがちな「グローバリゼーション」「グローバル・キャピタリズム」というものに関し考えたことをまとめておきたい。

「経済の自由化は人々を幸せにするか?」

 「経済の自由化」が人々の幸福の為に本当に良い事なのか、という問いが、特にシアトルでのWTO決裂後、政策を巡る議論の場を始めとした多くの場で発せられる機会が増えているように思う。アジア通貨危機他多くの国際経済(特に金融)危機が続く中、「そもそも、現在のグローバリゼーションという流れの方向自体が正しいのか?」という根源的な問いが為されるのはある意味当然のことであろう。

 結論から言えば、私の考えは、「経済の自由化が人々の幸福の為に本当に良い事なのだ」、というものだ。より正確に自分の立場をいうならば、「他に道はない」、というものだ。資本主義は、民主制と自由主義の基盤であり、資本主義の維持は、人々の幸福追及の必要最低条件と信じる。市場の拡大は、資本主義存続の必要条件である。よって、グローバリゼーションという市場拡大の流れの否定は、資本主義の否定に他ならない。一定の規模の中で産業の新旧交代を繰り返すことにより資本主義の維持は可能ではないか、という能天気な意見を耳にすることもある。しかしそういう意見は大抵の場合、市場の拡大=社会の工業化=自然破壊という前世代的な安易な思い込みに囚われている。そういう図式が悲観的な思い込みに過ぎないことは、環境産業というものが現在成立している時点で証明されている。またマクロ経済の観点から言えば、ゼロ成長では深刻な雇用不安をはじめとした問題が起こることは現在の日本を見れば明らかであり、ゼロ成長下で社会秩序が保たれるというのは想像できない。またミクロな観点から言えば、儲けが増えないにも関わらず、現在の職を手放して、リスクと手間のかかる新規事業に人々が挑戦するということは考えられず、産業の新陳代謝は進まないであろう。個人的にもフロンティア(つまりは市場の拡大余地)の存在しない社会には住みたくない。新規事業が生まれない社会では社会の硬直化は避けられず、旧ソ連と同じ道程を辿るのは必然である。
 よって、資本主義にとっての市場の拡大は必要条件である以上、グローバリゼーションの否定は、資本主義の否定に他ならない。(後述参照→

 かつて、英国の名宰相W・チャーチル(今回のメーデー騒動の中、パーラメントスクエアに据えられた彼の像も、不遜にも悪戯される被害にあった)は、「民主主義」を指して、「最低の制度であるが、今までの中では一番マシな制度」と評したとされる。私の資本主義社会に対する認識も彼に倣って言えば、「問題の多い社会だが、かつての封建主義や宗教主義、社会主義等今までに存在し、また唱えられた全ての社会形態の中では、一番マシ」というものだ。
 しかし、あまり意味を持つようには思えないが、一般的な分類で言えば,自分は、反グローバリズムである。アジアの通貨危機を目の当たりにして、グローバリズムを全面肯定できる人間を私は知らない。
 では何が問題なのか。

「グローバリゼーション」は「グローバリズム」ではない!!

 一言で問題を言い表すのであれば、それは、「グローバリゼーション」と「グローバリズム」が混同、もしくは同一視されていることと考える。日本語に直せば、「世界化」と「世界主義」となるのであろうが、「世界化」というある一つの社会的流れと、世界主義という一つの思想は当然異なるはずだ。例えば、現在台風が来ているとする。天気予報は、徐々に西から回復に向かうと告げる。全体的な流れとしては「晴れに向かう=晴天化」(つまりは、先に言う「世界化」の例え)だが、しかしだからと言って「晴れたと見なして考える=晴天主義」(先に言う「世界主義」)わけではない。いくら天気が回復に向かうからといって、大雨が降っているのに傘を持たずに外出する人はいない。
 現在のグローバリズムを巡る多くの問題は、こう言った将来予測という「未来地図」と「過程への対応」を混同した観念的誤謬に起因するところが大きい。
 最近のアジアやロシアの金融危機に対するIMFの対応は、まさに土砂降りに見舞われた国に対し、「あなたの国が傘などさしているから雨が降るのだ」「傘を閉じれば雨は止むので傘を閉じなさい」「世界はもう晴れているので傘を捨てなさい」というものに近かった。

「国家の再定義」と「新たな調整単位・機関の模索」

 まさに、現在我々が直面している「グローバリゼーション」とは、一つの「過程」である。「過程」というのは、あるものから、異なるものへの移行を意味するのであり、「グローバリゼーション」とわざわざ言われるということは、逆説的に言えば、まだ現実は、世界化していないということだ。完全に「グローバリゼーション」が完了した社会においては、確かに一部で言われるように、国家の役割が終わることも考えられる。しかし、現在の世界の状況は、未だ経済規模としては、各国単位の意義が大きい。確かに、今までの国家の主要な役割であった財政政策が、主に先進諸国においては、その役割を終えつつある傾向にあるのかもしれない。しかし財政政策のそもそもの意義は、国内の所得・地域格差の是正にあり、財政政策の意義が無くなったということは、ようやく経済単位が国単位では統合された(つまりナショナライゼーションが完了した)ということであろう。現に一方の国家政策の根幹である金融政策においては、未だ各国の違いの大きさは否めない。金融政策の意義は、その国の経済速度の調整にあり、金融政策が異なると言うことは、それぞれの国の時間の流れが違うということだ。それぞれの国の時間の流れが異なるにも関わらず、強引の国独自の経済速度まで統合してしまったのが、主に、米国、英国により誘導された80年代初頭以降の「金融の自由化」政策であり、現在の混乱は多分にこの強引な政策に起因している。しかし、結果として、「グローバライゼーション」は進展した。今や世界各国は、自国のみで自国の経済速度を調整することは不可能に近い状態になってしまった(つまり金融政策の自律性を現実的に失った)。

 今までの国家の経済的意義が、①財政政策(国内格差の是正による国内経済の統合)と②金融政策(国内の経済速度の調整)にあったとすれば、今後は、①の代わりに、③国際経済、世界各国と自国の金融政策の調整という新たな意義が、国家の意義に加えられる。もちろん、そういう国家同士の協議機関として、国際機関や地域経済機関も再定義されるべきだ。当然、超国家の公権力も検討される時期に来ている。
 現時点での自分の認識では、我国では③の意義が確立されていないと考える。国際的な通貨・金融政策を統括するセクターが我国には存在していない。また、超国家的な調整組織としては、もちろん、米国・欧州諸国との全世界的な規模での協調が重要ではあるが、全世界規模での調整にこだわり過ぎて、リージョナライゼーションの流れに乗り遅れては、世界規模での交渉においても我国のプレゼンスを下げてしまう恐れもあり、緊急の課題として、経済のレベルに比して遅れているアジアでの国家間の政策協調を促進することが重要と考える。

 先のメーデーの話に戻る。現在のグローバリゼーションを巡る議論は、多いに意義のあるものとは思うが、一連のアンチ・グローバリゼーションの問題提起では事態は少しも進展しないだろう。「アンチ」になってになってしまったということは、つまりは人々が思考停止に陥っているということだと考える。
 現在の日本の政治は非常に低迷している。その主役を担っている50~60歳前後の世代は、かつての学生運動で反資本主義を掲げ政治に明け暮れた世代である。彼らが学生運動後沈黙してしまい日本の政治が発展しなかったという悲劇を私達は繰り返すべきではないだろう。日本は常にその地理的特性からか、海外の情勢に対し江戸末期の尊王攘夷のような集団ヒステリーに陥りやすい。「アンチ」を唱える前に我々には現実的にやるべきことがあるはずだ。「過程」に対する戦略的対応こそが今求められているのであろう。

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「そもそも資本主義社会は、拡大しなければ崩壊するという論法」であり、人によっては本末転倒している印象を持つかもしれない。簡単に言えば個人的には、現在の資本主義社会とは、サメのようなものだと認識している。サメは、泳ぐのを停止すると呼吸が出来なくなるそうである。故にサメは、呼吸をするために、泳ぎ続けなければならない。本来、生物は、動くために呼吸をするのであり、活きるために酸素が必要なのだが、やや極論すれば、サメはその主客が転倒していて、酸素の為に活きるのである。ただサメにとっての酸素と違い、「金=マネー」とは、人間の、人間による、人間のための、最も人間的な観念的創造物の一つであり、愛や信頼と並び愛され守られるべきものと認識している。愛のために生きる人間を非難する人間はいないであろう。愛自体は素晴らしいが、盲目的な愛が良くないのと同じで、マネー自体は素晴らしいものだが、それに盲目になるのが良くないだけではないか。
 そもそも人は皆、生きるために「愛」なり「幸福」なりが存在するとは考えていないのではないか。それが、幸福になるためであったり、人を幸せにするためであったり、愛のためであったり、何にしろ、人は~のために生きていると認識しているのであり、そういう意味ではそもそも人間の認識は主客が転倒しているのだ。

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鈴木烈の論考

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Retsu Suzuki

鈴木烈

第20期

鈴木 烈

すずき・れつ

八千代投資株式会社代表取締役/株式会社一個人出版代表取締役

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