論考

Thesis

2000年紀の皇室

1. 米国のクリスマス

 私は、宗教学を学んだ者として、社会や文化に与える宗教の影響の大きさは無視できないものがあると確信している。米国に滞在していて、特に研究所のような所で働いていると、信仰を職場に持ちこむようなことはないし、私のような外国人にそれを押し付けるようなことは無論ない。ワシントンの、特に知識階層は、基本的に異文化理解の姿勢が板についているのであろう。

 しかし、だからと言って彼等に信仰心がないというわけでは無論ない。普段職場を同じくしていて、そんなことはおくびにも出さない人が、日曜には教会に行って、ボランティアをしていたりする。何とも不思議なことである。日常のコミュニケーションからは、彼等の内面のそんな部分は全くうかがい知ることはできない。にもかかわらず、彼等の精神の奥底にそうした信仰が宿っていることもまた事実なのである。

 そんなこともあって、クリスチャンでもないのに、私は妻と連れ立ってクリスマスイブの教会に出かけていくことにした。私達が選んだ場所はワシントン大聖堂(Washington National Cathedral)である。この大聖堂の建立は1893年議会で承認され、大聖堂建設の財団が設立された。1907年には定礎式が行われた。大統領の就任式の一部もここで行われている。ワシントン大統領は宗派を超えた大聖堂の建立を構想していたとのことであり、ワシントンの立像も置かれ、フリーメーソンとの関わりも刻まれている。

 ワシントンは黒人が7割を占める町であるが、参会者の大部分は白人だった。会衆の賛美歌の中を、煙の出る祭具を振りまわす先導、十字架をささげ持った少年の後に賛美歌を高らかに歌う合唱隊があげるながら歩いていく。私はNational Cathedralというぐらいだからプロテスタントだろうと勝手に思っていたのであるが、ピューリタンの末裔の米国民の教会は、不思議なことに、聖公会系、すなわちイギリス国教会系とのことである。

 驚いたのは祈りの言葉の中に、大統領と副大統領、上院下院のために祈る言葉があったことである。日本の寺院で皇室の聖寿を祈るのと同じといえばそれまでであるが、印象に残る一こまであった。司教の講話の後、周囲の人々とクリスマスを祝う挨拶を交わしていたが、日本の正月に似た感じた。

 翌日のクリスマス礼拝にはノーベル平和賞受賞者でもある南アのツツ司教の講話があったが、その模様は公共放送で放送されていた。

 こうした場所に身を置くことは、米国を知る上で本質的な意味があるように思う。ビジネスや学究のコミュニケーション空間とは全く異なる空間がそこにはある。両者がある程度分離されている、また分離されるべきである、ということ自体も、非常に米国の国の成り立ちを示しており、例えばイスラム圏ではそうではない。宗教が個人の領域、私的内面に属している、という了解は、宗教学にいう世俗化が進んでいればこその現象なのである。

 もちろん、世間目にするクリスマスは日本のクリスマスと大して変わらない。クリスマスの買い物はこちらでも盛んであるし、街中のクリスマスツリーも宗教的とは程遠い。全く日本の門松であると言って差し支えない。

 数日後アナポリスの海軍兵学校に出かけた。アナポリスは米国の古都でもあり、そうした意味でも印象深かったが、海軍兵学校の中に大きな教会があり、中心の集会所の他にそれぞれの宗派の小さな教会が設置されていることに印象を受けた。

 米国研究が渡米の直接の目的ではなかったが、せっかく米国に住んでいるのであるから、米国を知りたいと思うし、米国を知るには、米国人の宗教に接する必要があるとの感を強くしている。日本を愛するのあまりキリスト教を排撃することに熱心な人も多いが、日本は今後も国際協調の中で生きていくのであるから、様々な宗教に寛容であるべきだし、努めて理解すべきでもあろう。

2. 第一条と第九条

 上記のような文脈から日本を省みるとき、やはり皇室に思いをいたさずにはおれない。米国におけるキリスト教の位置とは異なるにしても、わが国の歴史が天皇の宗教的権威やシンボリズムと時に強く結びつきながら変転を遂げてきたことは確かである。ここでは特に、「制度」としての皇室に注目してみたい。

 私のように安全保障について研究している者は、現憲法の持つ「ねじれ」に関心を持たざるをえないわけであるが、終戦後の経緯を検討するならば、第一条の問題と第九条の問題が、当時の国際政治の文脈の中で密接に結びついていたことに気づかされる。現憲法はその後、冷戦という環境下で、ねじれを固定したまま今にいたっている。憲法調査会が設置され、大新聞が憲法改正案を発表するようなこの時勢、冷戦によって既定されていた視野から解放された目で、改めて現憲法の幼年期を振りかえる作業が必要なのではなかろうか。米国に身をおいていると、どうしても日米関係を意識する。自然現憲法に刻印されている米国との関係にも敏感になるだけに、一層そうした作業の必要性が切実に感じられる。

 終戦が決定された背景には、共産革命への懸念が挙げられよう。例えば近衛文麿は以下のように上奏している。「敗戦だけならば、国体上さまで憂うる要なしと存候。国体の維持の建前よりも最も憂うべきは、敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に御座候」吉田茂等が終戦後懸念したのは、ソ連軍が進駐し、クーデターを起こす、というチェコやポーランドのシナリオであった。戦後の労働争議は、その感を一層強めたであろう。

 一方米国の側からすれば、日本が再び世界秩序の挑戦勢力になることを何にもまして防ごうとしたと思われる。新憲法の制定はそのために必要だった。新憲法制定過程において、日本側では、第九条は、議論はあったにせよそれほど大きな争点ではなく、せいぜい日本は好戦国ではないと認めさせるにはよかろうという判断であった。むしろ皇室をいかに維持するかが最大の眼目であった。しかし、米国側にとっては、日本の「民主化」と「非武装化」によって日本が再び挑戦国にならないようにすることが最大のねらいであった。しかも、ナチスドイツの轍を踏まないように、日本の中に反米感情を高めない形でそれを行う必要があった。その際効果的だったのが、間接統治である。総司令部は既存の政府を通じて間接統治を行うことによって、日本が自発的に戦後改革を行っているという建前を維持することが出来た。しかし、もっと効果的だったのは連合国内の対日強硬派、すなわちソ連やオーストラリアの天皇制廃止の意向を抑えられない、という脅しである。この脅しによって、米国、特にマッカーサーは、彼が皇室を守護したという恩を大いに着せながら、自分達の目標を達成することが可能になったのである。その意味で吉田茂が「わが皇室に対して、元帥の執った態度と方針こそ、占領改革が全体として歴史的成功を収めた最大の原因だった」というのは全く正しい。つまり、結論は異なるが、石川真澄が言うように、「軍備不保持は天皇制とのバーターだった」のである。いささか皮肉なことであるが、「平和憲法」は皇室を守るための取り引きの産物であると言ってよい。そして、少なくとも第一条に関しては、この憲法を受容するにあたっての決め手になったのは先帝のご意向だったと言われる。時の幣原首相が先帝から「象徴でよい」とのご意向を得たことで閣僚達もまとまったというのである。このことへの評価は非常に難しく、今後も左右ともに議論を呼ぶところかもしれない。

 その後、わが国を非挑戦国化するための「軍備不保持」が、安保条約成立と自衛隊創設の過程を経ていったことは周知の通りである。冷戦の深刻化により、日本の指導者にとっての最大の懸念だった「共産化」は、米国にとっても実際の懸念事項となる。米国にとっては、日本が挑戦国として台頭してくる以上に、共産主義勢力の封じこめに焦点が移ってきたわけである。この時期に、(ドイツがNATOを通じてなしたように)、太平洋自由主義陣営(韓国、オーストラリア等)の集団的安全保障機構の監視の中で改憲、再軍備するというプラグマティズムを吉田茂が有していれば、歴史問題の解決と米国との不平等性の緩和はもっと容易であったはずであろうし、吉田茂が「しなかったこと」による負の遺産を我々は受け継いでいるわけであるが、それはまた別の課題である。

3.皇室と日本国憲法

 本論で注目したいのは、「軍備不保持」等との取り引きで成立した「象徴天皇」のゆくえである。我々は、新憲法の成立と共に、天皇は今のような象徴としてのお立場を確定されたと考え、それが新憲法の必然的帰結であると考えがちである。しかし、先帝は、占領下における有力な政治的主体であり、新憲法下での皇室のあり方は現在とは異なる可能性もありえたしこれからもありうる、という意味で、そうした見方は間違っている。

 まず先帝が政治的主体であったということについてであるが、まず先述のように、新憲法受容に際しては、最終的には先帝のご意向が政府上層部を納得させている。吉田茂は「これは全く聖断によって、決ったといってもよい」と述べている。また、先帝はマッカーサーとの対談で、食料供給、憲法九条、シベリア抑留等の具体的な問題について交渉されている。この点について否定的な人々は、先帝が「占領は短すぎない方がよい」と述べられたことを鬼の首でもとったかのように取り上げているが、この点については、当時の共産化の危険を考えれば、現実的な判断として間違っていたとは言いにくい。議論が分かれるところは、沖縄についての天皇メッセージについてであろう。だが、ここではその当否を論じるのではなく、新憲法の既定にも関わらず、戦後のある時期まで、先帝が有力な政治主体として振舞われたことは確実であり、それが可能であったということに注目したい。それはその後も不文律のものとして認められる範囲のものとして打ち立てられえた行為なのかもしれないし、占領期のマッカーサーとの関係、あるいは幣原や吉田という戦前の伝統を濃厚に残していた首相の思想信条故に可能になった行為かもしれないが、いずれにしても、ある時期から先帝は、直接的な政治主体として振舞われることはなくなったように拝察される。が、オランダの国王がそうであるように、政治の舞台裏で隠然たる力を行使し続けることも可能であったにもかかわらず、である。

 天皇が政治主体として振舞われていない、というのは言い過ぎかもしれない。船橋洋一によれば、1996年のクリントン訪日時、今上天皇は、かなり強いお言葉と言い方で沖縄問題に触れられ、それがクリントン大統領に強い印象を与えたとのことである。沖縄の人々の過剰な犠牲はまぎれもなく国民統合上の危機である。今上天皇が、琉語辞典を手元に置かれ、琉歌を詠まれるのも、「日本国民統合の象徴」という憲法上の規定の積極的な実践なのであろう。

 また、今上天皇が華族出身でない妃をお迎えになり、皇太子もまたその例に倣われたこと、更には、今上天皇がご自分のお手元でお子様を育てられたことは、皇室のはっきりしたご意志の表れである。今となっては当たり前のように見えるが、そうでない可能性も十分ありえたわけであり、皇室が象徴として相応しい皇室ご自身のスタイルを確立されるべく、不断のご苦心を重ねられていることが拝察される。

 政治家や国民の中から、こうした皇室のご苦心を支えるための構想が現れないのは残念なことである。皇室は、憲法上規定された立派な国家の制度、機関なのであって、他の制度や機関同様、自動的に最善のあり方に落ち着くわけではない。自由新報等には保守系議員による、ひたすら皇室をありがたがっている記事が載ることがあるが、皇室制度のあり方について改善できるところが数多くあるにも関わらず、皇室を十分輔弼することもせず、ありがたがってばかりいるのは無責任であろう。また、平成の御代になり、「開かれた皇室」を望む声や先帝との比較で今上陛下や皇后陛下についてあれこれ言う論調も喧しかったが、それらは制度論を伴わない、皇室への手前勝手な期待以上でも以下でもないように思う。以下まことに僭越ではあるが、皇室制度について思うところを述べる。

4.ポスト冷戦の皇室

 冷戦下では、皇室‐自衛隊・日米安保‐反共がセットとなって一つの概念体系を形成していたように思われる。そこに先帝個人への情緒的繋がりが接続されて皇室観が安定していたように思われるが、先帝が崩御され、ほぼ軌を一にして冷戦も終結したことによって、皇室観が動揺し、先に述べたような「開かれた皇室」「皇后バッシング」というような論調がでてきたように見うけられる。最近派は保守の側からも「天皇抜きのナショナリズム」というような主張も見られるようになり、皇室がナショナリズムの核になりうるのかが保守の側から問われている。「開かれた皇室」論は皇室はもっと国民に近づいて人気者を目指すべきだという主張であり、「皇后バッシング」は皇室にはカリスマが必要で、もっともっと無私であるべきだという主張である。いずれにしても、皇室のパフォーマンスのあり方によって、国民の心情に直接訴えかけるべきという意味ではポピュリズム的主張である。「天皇抜きのナショナリズム」は、皇室が人気やカリスマを維持するのはもはや無理であり、皇室に依存しないでナショナリズムを再構築するしかない、という主張である。一見すると共和主義の主張であるが、むしろ皇室への尊崇と国家意識を棲み分けるべきだとする主張であろう。これとても、皇室に国家意識を支えるだけの人気やカリスマがあればいいのだが、それを持ちこたえるのは難しいだろうという情勢分析に基づいているわけで、皇室をポピュリズムの観点から見ていることには変わりない。

 しかし、一般参賀やご在位式典に何人人が集まったか、何で集まらないのか、というような観点で皇室を捉えるのはおかしいと私は思う。必要なのは、皇室の威を維持しながらも、それぞれの時代に見合った形で皇室と国民の紐帯を強固にするシステムの創設である。

 以下の提案は、わが国の独立と統合に大きな役割を果たされ、伝統的な儀礼や振る舞いを通じてわが国の威儀を大いに盛んにされている皇室制度を守護する立場からのものであることを始めにお断りしておく。

①皇室顧問制度の創設
 皇室にまつわる重大事については皇室典範で規定されている皇室会議によって決定されることになっているが、皇室がご自身のありようについて日々検討されるときに、相談相手が宮内庁というのでは、大胆な発想や大局的な見地から陛下のご下問にお答えすることは難しいであろう。人格経験ともにすぐれ、国民こぞって納得する人物を「皇室顧問」に据え、陛下や皇室の方々の多方面のご相談にお応えする任にあたるようにすることが望ましい。吉田茂や佐藤栄作は、それに類した大業を果たす希望を持っていたと伝え聞くが、現在の政治家に人格識見ともにその任に堪えうる人物がいるか、はなはだ心もとなくはある。にも関わらず、政治経験者がその任にあたることは皇室と政治の関係を調整する上で有用であろう。

②栄典授与権の皇室への移管
 現在勲章制度が議論されているようであるが、現在のやり方では栄典授与が政治に左右されすぎるのではないだろうか。吉田茂が提案していることであるが、栄典授与も含めて皇室大権専門の機関(イギリスにおけるPrivy Council)を創設し、栄典授与の決定もこの機関で審議するものとする。

③お言葉のTV放送と海外への放送
 新年等節目にあたっての陛下のお言葉は、記者のお目見えやプレスリリースの形で伝わってくるのみであるが、これを録画によるTV放送とする。参賀においてお言葉を述べられている場面がTV中継されはするが、時間も限られ、また参賀の人々に話しかけられていることから、TVの視聴者向けではない。そこで年の節目や天災等の重大事に、TVを通じて陛下より直接のお言葉をたまわり、国民と問題意識を共有いただくことも検討してみてはいかがであろうか。

 クリスマスにCNNを見ていると、エリザベス女王のクリスマスの勅語が、ほぼノーカットで放送されていた。英米の歴史的繋がりや言語の共有、米国民の関心にもよろうが、陛下のお言葉が世界の放送に流れるならば、わが国や皇室への好感を得るに大であろう。蛇足であるが、米国の皇室報道にはしばしば歪曲が見られ、抗議とは異なる是正の方法(カンファレンス等)が検討されるべきであろう。

④エスタブリッシュメント文化の育成
 福田恒存が指摘していることだが、わが国の皇室の特殊性は、皇室と国民の間に華族制度というつなぎを持たないことである。皇室のご婚姻が時に困難であるのは、生活様式等の面で共通点を持つ華族制度を持たないからに他ならない。もちろん華族制度には腐敗が多く、戦前の華族はおおむね不人気であったときいており、その復活は論外であるが、皇室と皇族あるいは一部の名家だけが品格ある様式を維持されるというのは問題である。歌会始のような伝統儀式が、皇室外の国民文化から切り離されているのももったいない話で、少なくとも指導者層はそうした古雅を味わう余裕があって欲しいものである。その政界、財界、官界、学会を問わず、栄達に応じて品格や威儀が養われるような工夫が必要なのではないだろうか。学校教育がそれを担うのか、クラブ組織のようなものがそれを担うのか分からないが、皇室のご招宴等に相応しい威儀を備えた指導層の創出が望まれる。これは対外関係も必要と思われる。

⑤参賀等の見直し
 一般参賀の人々の数は基本的には低調ときく。また、ご即位十周年の式典も、芸能人や有名人の出席にも関わらず、人の集まりも思わしくなかったとのことである。しかし、これは当然のことではないだろうか。天皇や皇室は芸能人ではないので、そうした行事で何か面白いことがあるわけでもなく、教育等により皇室のお役目が明白に理解されているわけでもない以上、積極的にご在位を寿ぐ気持ちにはならないだろう。また、参賀や式典の告知があまりにも不足であり、よほどの皇室マニアでないかぎり、そうした行事があることを想起することはなかろう。大胆を承知で言えば、ご成婚やご即位のような特別時以外の一般参賀を廃することも検討してよいと思われる。一般参賀は、戦後、皇室と国民の間の懸隔を埋めようとする必要から出来たもので、当時は皇室を直接拝見する機会もそれほど多くはなかった。皇室と国民の懸隔が変わった以上、一般参賀の人が少なくなるのも当然ではなかろうか。

 今年は2000年ということもあって特別かもしれないが、ワシントンでは、American Millenniumということで、大統領を迎えて、音楽や花火等の催しに、スピルバーグによる米国の栄光ある過去を振り返る映画の放映や大統領の演説が続く盛大な行事が行われた。これも、別にクリントンに人気があるから人が集まるわけではない。考えてみると、わが国では、終戦記念日の行事が厳粛に行われはするが、わが国の繁栄と栄光を映像や演説によって共に振りかえり、祝福する国家行事が極端に少ないのではないか。そうした行事を積極的に構想し、そうした場に陛下にご臨席いただき、国民と時を共有していただくべきである。皇室に、面白いこと、人気が出ることをしていただいて人を集めるかのような議論は止めにして、国民こぞってわが国の足跡を祝い、功労者を称え、これからも共に前進していくべく盛り上がる国家的行事を企画し、そうした場に皇室のご来臨を仰ぐのが正道ではなかろうか。

5.結語

 皇室は国の重要な制度であり、そのあり方を皇室にのみお任せするのは国民として無責任である。皇室と国民の紐帯を支えるには、それに見合ったシステムが必要であり、そうでなければ他の社会制度から切り離されたところで象徴性(シンボリズム)を維持するという過剰な負担を皇室におかけすることになる。現状は、憲法の極端な縮小解釈によって皇室制度の可能性をせばめているように思われる。他の社会制度との「つなぎ」がないことが皇室制度ののびやかな発展を阻害している。「あこがれ天皇」という言葉があったが、そうしたポピュリズムの観点でなく、皇室は制度であるという観点からの議論が必要ではないか。皇太子妃殿下をめぐる先般の報道の混乱もそうした議論の不在が招いた不幸である。

 私見はそうした議論を喚起するための試案にすぎず、識見人格ともに優れる人々の衆知を集める場が必要なのであろう。

 近代の曲がり角、わが国もあらたな転機を迎えている。戦後、西田幾太郎は、グローバリズム(普遍)の中でのローカリティ(個別)の象徴として皇室を位置づけなおそうとした。皇室をめぐるパースペクティブは今まさに西田の構想を必要としているのであろうか。

 「2000年紀の皇室」という逆説的な題を冠した所以である。
 先帝は終戦直後次のような歌を詠まれている。当時が偲ばれると共に、あらゆる人々に対して将来にわたって贈与され続けるお歌である。

 ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしきひともかくあれ  昭和天皇


<参考文献>石川真澄「平和憲法の本当のねじれ」世界 1999年9月号
田中明彦『安全保障』読売新聞社
ジョン・W・ダワー「天皇制民主主義の誕生」世界1999年9月号
徳岡・半藤・山崎「20世紀天皇家の試練」文藝春秋2000年1月号
船橋洋一『同盟漂流』岩波書店
吉田茂『回想十年』(中公文庫)
世界 特集「2000年の象徴天皇制」 2000年1月号

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金子将史の論考

Thesis

Masafumi Kaneko

金子将史

第19期

金子 将史

かねこ・まさふみ

株式会社PHP研究所取締役常務執行役員 政策シンクタンクPHP総研代表兼研究主幹

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安全保障・外交政策 よりよい日本と世界のための政策シンタンクの創造

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