論考

Thesis

日本に根ざした違憲審査制度をつくるために ~違憲審査革命への長い道のり~

現在の日本における違憲審査制度は「形骸化」しているといわれている。憲法改正が叫ばれる中、「憲法の番人」たる機能を果たすべき違憲審査制度が十全でなければ、いくら素晴らしい憲法ができようとも実質的意味をもたなくなる。日本の歴史的背景、政治状況、法文化を踏まえた上で、日本に根ざした違憲審査制度をつくりあげていく必要がある。日本の国家ヴィジョンを体現する憲法を真に活かしていくためにも・・・・・・。

1.日本における違憲審査制の現状

 現行の日本国憲法のもとでの違憲審査制の運用は、「司法消極主義」に立ったものであり、特に最高裁における違憲審査は「形骸化」していると指摘されることがある。実際に、日本国憲法施行以降2004年現在まで最高裁が出した違憲判決は5種6例にすぎないということもこの指摘を裏付けているようにも思われる。ただ、違憲審査権はそもそも憲法81条の文言にもあるように「憲法に適合するかしないか」の決定であって、違憲判断によって政治部門に対し抑制機能を果たすとともに、合憲判断によって政治部門の行為を正統化する機能をも果たすのである。最高裁は、確かに違憲判断には消極的ではあるが、憲法判断そのものには非常に積極的であり、その結果として合憲判断を積極的に下すことで政治に対して正統化機能を果たしているという意味では必ずしも「形骸化」しているともいえない。私達が違憲審査権が十分機能しているかどうかを認識するのは、形式的な違憲判決の数の少なさから判断するのではなく、その裁判所の憲法判断・違憲判断の積極性・消極性が、人権保障にとってどのような影響を及ぼし、ひいては社会のあり方にいかなる影響を及ぼすのかという点に注目する必要があるといえる。

 現在、個々の条文における憲法改正が大きく注目される一方で、その「憲法の番人」たる裁判所のあるべき役割・機能に関して議論されることは非常に少ない。また、他の諸国と比べて最高裁の判断が、法律家の関心を超えて社会のあり方に関する重要な問題提起を、思想や文化の世界に呼び起こすこともあまりにも少ないといえる。今後、憲法改正を行っていく大前提として、新生憲法をいかに維持・運用していくかの本質となる真に憲法裁判機能を発揮できる「違憲審査制」のあり方を創りあげていく必要がある。現在、憲法調査会においては憲法改正のなかで「憲法裁判所」の設置を検討している。ただ、現在のアメリカ型の付随的違憲審査制度を大陸型の憲法裁判所制度に変えればそれで済むという問題ではない。2つの違憲審査制度は各国の歴史のなかから生まれ出て定着したものであり、その検討なしにして日本に適した違憲審査制度のあり方を考えることはできない。ここでは、各国における違憲審査制度が生まれてきた歴史的経緯を踏まえたうえで、日本におけるあるべき違憲審査制を展望していく。

2.日本に適した違憲審査制度とは

 上記したように、憲法改正の具体的内容を審議する憲法調査会においても、「憲法裁判所」の設置については専門家を交えて議論されている。もちろん、これまで比較的とりあげられてこなかった憲法裁判のあり方が政治の場で論じられることは望ましい。ただ、単純に憲法裁判所を創ればこれまで十分に役割を果たしてきたとはいえない日本の違憲審査制が機能するわけではないということも認識する必要がある。各国がそれぞれの憲法裁判制度を確立してきた背景には、それぞれの歴史的・文化的なバックボーンがあり、それに基づいた制度ができあがってきているのである。そのような中で、日本が現在、憲法裁判において付随的審査制をとっている意味を改めて考えた上で、今後あるべき違憲審査制度を考えていく必要があるのではないだろうか。

 アメリカでは、通常の司法裁判所において「事件および争訟」の審理に付随して適用法令の憲法適合性審査を行う付随的審査制を採用している。これは、アメリカにこの国特有の司法オプティミズムがあるからであるといえる。米国政治思想上の最重要文献とされるハミルトンが著した「ザ・フェデラリスト」においても「個々人に対する圧迫が説きに裁判所によって行われる」ことを認めながらも、「人民全体の自由一般を裁判所が危うくすることはありえぬ」としたうえで、「自由は、司法権からだけならば、特に怖れるべき何物もない」としている。それゆえ、通常裁判所に違憲審査機能を持たせている背景があるのである。

 一方、フランスにおいては、違憲審査を担当する憲法院は通常裁判所とは異なる位置づけとしておかれており、憲法上も「司法の権威」と題された第八篇ではなく、第八篇に別個に規定されている。このような制度の背景には三権分立の基礎をつくったモンテスキューの母国における司法ペシミズムが影響しているといえる。彼の著書である「法の精神」において、「裁判する権力」とは、犯罪を処罰し、個人間の紛争を裁判する権力」と定式化しており、「裁判する権力」は一般意思の表明としての立法権・執行権(現在の行政権)とは異なり、個人に向けられるものであるから「人々の間でかくも怖るべきもの」とされており、だからこそそれを「常設の機関」にあたえてはならないとしているのである。

 日本国憲法の違憲審査制の基本構造としては、警察予備隊違憲訴訟において最高裁が抽象的審査権のないことを述べて(最大判1952.10.8)以来、アメリカ型の制度的運用が確立している。以上に述べた違憲審査制の2類型はそれぞれに長所と短所を含みもつが、日本が採用している付随的審査制の長所としては、最も利害関係を持つものが訴訟当事者になるため、問題がより現実感をもって真剣に争われ、その中で裁判所が具体的な生活関係にもたらす効果を考慮しながらより妥当な結論に導くことが期待されるという点である。もちろん、現在の日本の理念の根幹なき政治の現状を考えれば、しっかりと憲法秩序にもとづいて国家の方向性をさだめ、個人の権利侵害とは関係なしに「憲法保障」機能をもつ憲法裁判所を設置することも一計であるといえよう。しかしながら、日本は歴史上、第二次世界大戦において国家的利益の維持のために個人の権利が大きく侵害されたという「痛み」をもった経緯がある。その経緯を考えたときに、「憲法保障機能」が重視される「憲法裁判所制度」ではなく、本来「司法」がめざした立法府による多数決原理では救済できない「少数者の権利」を救済することを土台にした「人権保障機能」が重視される付随的審査制を日本がとっていることにはひとつの意義がある。日本が現在採用している付随的審査制は、生活関係に密着した下級審のなかで行われる憲法判断の積み重ねを重視していくことで、最高裁判所の最終的判断にもより大きな説得力をもたせ、あくまで個人の権利を重視した「結果として」の憲法保障機能をももたせることができる制度であるといえる。この現行の付随的審査制度そのものが悪いのではなく、それを下級審レベルからの積み上げによりしっかり機能させることこそが日本における違憲審査制のあるべき姿であると考える。

3.違憲審査権を有効に機能させるためには

 違憲審査制度そのものに問題があるのでなければ、それがうまく機能しないのはいかなる要因があるのであろうか。

 まず、第一に日本における政権交代の欠如ということがあげられる。政権交代が欠如している結果として、憲法違反の疑いがある事例においても政治過程においてチェックする機構がうまく働かないため、様々な困難な問題が司法の場に持ち込まれることになる。しかし、実際には司法は政治で解決できないような微妙な問題に対して判断を下す専門性も、国民による正統性の裏づけもないため、政府の意向を追認する合憲判断を下してしまう傾向を生み出すのも必然であるといえる。

 また、政権交代がないこと自体が最高裁判所の構成を硬直化させるという審査主体の問題もある。最高裁判所の長官の裁判官は憲法の規定により、内閣が任命することになっており、長官に関しての指名権も内閣が持っている。その内閣について、政権交代がないということは、最高裁判所の裁判所の人事構成に多様性が失われるという弊害がある。さらには、憲法80条により、「裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する。」とあり、下級審の裁判官の実質的人事権(司法行政権)は最高裁判所が保持しているため、その多様性の失われた最高裁判所の司法判断が下級審をも拘束している現実が生まれているのである。裁判官が憲法76条3項が掲げているような真の意味での独立の裁判を行える外的条件を整えるためにはまずは政権交代が生み出される政治的土壌をつくることが先決であり、そしてそこから生まれ出る多様な価値観を反映するための司法行政権のあり方を憲法レベルから再考していく必要がある。

4.政治と法文化の成熟による違憲審査革命を

 上述したように、政権交代の欠如に伴う司法権の硬直化というものは違憲審査制を形骸化させている大きな制度的要因となっている。それに加えて、日本において違憲判断を積極的に出すことができない要因のひとつとして、法文化の未成熟に起因する司法に対する信頼の欠如が挙げられる。

 アメリカにおいては、連邦最高裁の裁判官は「政治的機関により政治的モチーフにしたがって」任命され、主権者=国民意思につながる正統性を援用できる地位にあり、アングロサクソン社会に伝統的なステーツマンとしての自立した法律家の権威が与えられている。連邦最高裁の裁判官は「ジャッジ」ではなく、「ジャスティス」と呼ばれ、まさに「正義を託するに値する人」というイメージが込められているのである。一般国民にとっても、閣僚の名前は知らなくても「アメリカの正義」を守護する「ジャスティス」の名前は知られているという社会背景があるのである。

 一方で、ヨーロッパにおいては、アメリカと違い、裁判官の信頼、ステータスは決して高くない。だからこそ、通常の裁判所に違憲審査権を与えず、憲法裁判所や憲法院を通常の裁判所とは全く別系列でつくっているのである。しかし、憲法裁判所制度をもつ大陸法系の国家においては、ローマ法以来の法学教授の権威が重視されており、憲法裁判所の構成員としては国民からの信任をうけた法学教授が大きな正統性を持って存在している。現在、ヨーロッパ各国の憲法裁判所の長官、所長を調べてみるとほとんどが法学教授であるという共通点があるのである。この歴史的な背景からつくられた法学教授の知的権威というものが違憲審査制度の正統性、信頼性を保っているのである。

 日本においては、アメリカのようにステーツマンとしての裁判官の権威もなければ、大陸法系の国家のように法学教授の歴史的権威もないのである。最高裁判官の任命・罷免も形式的なものとなっており、司法が国民からあまりにも遠いものとなっており(「司法の独立性」から一定の距離は当然必要ではあるが)、その判断を正統化させる根拠が希薄なものとなっている。このことが国民の司法へ対する関心と信頼をそこなっている社会的背景をつくりだしているといえる。

 以上のような様々な要素の上になりたつ違憲審査制度は、単純に憲法改正を通じて制度的枠組みを変えればよいというものではない。政権交代がない日本において、その可能性を生み出すのは選挙民であり、そこに対して「ビジョン」語りかけていくのは政治家が果たしていかねばならない役割である。一方で、「ステーツマンとしての裁判官」や「知的権威ある法学教授」は、その歴史のない日本としては一朝一夕で生み出していくことはできない。しかし、各裁判官が真に「独立した司法判断」が行える体制を憲法レベルからつくりあげていくことで、下級審が生の生活事実に即しながらの意味ある憲法判断を積み重ねていけるようになり、自立した重い職責を担わされた各裁判官が違憲審査権を実質的に機能させていけることが期待できるようになる。

 政権交代を生み出す政治の成熟、自立した裁判官の実質的司法判断の積み重ねによる職業裁判官としての成熟、さらには司法に対する国民意識の成熟を生み出す地道な努力を続けていくことこそが、違憲審査革命への長い長い道のりの第一歩といえるのではないだろうか。

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山中光茂の論考

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第24期

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