論考

Thesis

これからの人類に必要な「新しい人間観」とは

松下政経塾の塾是には、「真に国家と国民を愛し、新しい人間観に基づく政治・経営の理念を探求し、人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献しよう」とある。 ここには、これまでの宗教や哲学、いまある思想、主義が、そのままでは、その人類全体の理想を達成し得ないことを意味しているといえる。その理想を実現する理念を探求するためには、これからの人類が、何故に人間観の転換を迫られているのか、そして、これまでの人間観をどう革新していくべきであるかを自分自身の頭で考えられなければならないであろう。

1.はじめに

 人間は生物学的には「ホモ・サピエンス(知性人)」であり、この知性によって、右往左往しながらも今日にいたる社会を築いてきたのが人類の歴史であるといえる。人類の絶え間ない知性は、神の存在、あるいは宇宙の法則を想定することによって、この世界を定義することもあれば、哲学や科学の発展によってそれらの定義を揺るがすことも実行してきた。そうしたなかで、人間社会は進展していき、人間の生活様式や善悪の判断基準といったものから、思想や主義といったものまで、人間の生き方も変化を遂げてきた。現代社会においては、その変化の過程にあって、科学の分野はあらゆる物に達し、生命科学というように生命そのものにも達し、人間の生き方も様々な風土、文化において、多様を極める宗教があり、思想があるといえる。

 こうした人間は、それぞれの個人や国家として幸福かつ平和な理想社会を想定しながらも、人種差別、身分制度、戦争においては同じ人間同士で殺し合い、さらに利益や利便性のために自然を破壊するといったことを行ってきている。他の生物の行動規範は、「種の生存」というものに集約され、構成されているかに見えるが、人間はその枠から飛び出し、自ら調和を乱し、善悪、是非の判断をその時々の社会において変化させてきており、未だその全体の調和を実現し得てはいないといえる。
 こうした生き方がいつまで可能であるのか、地球環境、止まない紛争、拡がり続ける貧富の差といった地球上の現状をみても、現代社会は人類全体の行き方をどうすべきであるかという難問に直面しているといえる。人間には、こう生きるべきであるという指針、本質は、宗教、倫理あるいは政治学その他の論理といった面において、多様化しながらも存在していることは確かであるが、人間はその行動において、自らの思考によって決定される極めて自由な存在であるがゆえに、人類全体として結局はその根本たる理想に向かう理念を見出しているとはいえないであろう。人間が、どのようにすれば自身の自由な行動を根本から見つめなおし、人類全体が調和、平和、繁栄を求めていく方向へと実践していくことが可能であるかが、21世紀を生きる人類には避けられない問題となってくるということが予見できるのである。

 人間観、すなわち「人間とは何か」という問いは、究極にはこの世界がなぜ存在するかを考えることになるが、段階的には、人間の本質を探り、さらには、人間がどう生きるべきか、人間が生きる意義とは何かを追究していくことであろう。これからの人類は、その喫緊の課題として、既存の思想や主義、哲学や科学がそれぞれに特化したもの、本質から離れた細部に拘るのではなく、そのような自らの存在に対する、本質を、生き方を、意義の普遍的、根源的な考察を行った新たなる人間観を追究していかなければならないのである。そして、この人間観を日々高めながら、科学の急速な発展に対応し、政治や経済といった人間が生きる社会のあり方においても、それが本当に人間の本質に沿っているか、真理と離れていないかを問い続けなければならないのである。
 ここでは、松下幸之助塾主が提唱した「新しい人間観」を中心に考察していくことによって、塾主がその人生をかけてまとめ上げられたその叡智を受け止めながら、これからの人類に必要な人間観の神髄とは何かを私なりに考えていきたい。そうすることによって、塾主の「新しい人間観」自身も日に新たに理解することができ、人類全体が調和、繁栄、幸福、平和への道を切り拓いていくという目的を実践していくことになるであろう。

2.「新しい人間観」における人間の本質

 これまで人間の本質が、どう捉えられていたかを簡単に振り返ってみると、知性が他の生物との違いとして特徴つけられ、それが、理性や愛、良心を形成する。しかし、この知性は、また、人間のなかに憎悪や強欲、殺意といったものも発生させる。そうした両面性を持つのが人間であるといっていいであろう。宗教や哲学においても、様々な形で、その善悪の両面を望ましい方向にするための解釈や定義といった努力かがなされてきた。
 例えば、キリスト教では、人間の持つ原罪を人間として生まれた神と同じ存在のイエスが負って神の生け贄になることにより、神が人間を無限に愛すようになり、人間はその愛を受けて隣人を愛していくのである。儒教においても性善説、性悪説があり、この両面のどちらに焦点を合わせて政治を行うべきかといった議論がなされた。これまでの宗教や哲学は、こうした人間の弱さを認識し、それを本質としたものであると言っていいであろう。

 これに対し、塾主の「新しい人間観」においては、ある面では進歩をしながら、他方で争いを絶えず続けるというつねに弱く愚かな現状の人間は、未だ人間の本質を十分に表していないからであり、本来はもっと優れた別のところに本質があるとする。 この発想の転換は、なかなか理解するのが難しい。なぜなら、人間の本質を認識するためには、それまでの人間がどのような行動をとり、歴史を重ねてきたかを考察することから始まるはずであるが、ここでは、宇宙と人間の関係を考察することによって、人間の本質は未だ「別のところにある」、現実には人間の本質は実現されていないとしてしまうのである。
 仏教では、八正道を行い、悟りを拓くことによって、成仏するとするが、こうしてみると、塾主の「新しい人間観」では、人間の本質はもともと、仏のように崇高で偉大な存在であるとしているといえよう。もともと偉大であるのが本質であり、それが発揮できていない原因があるのだとする。その原因というのが、修行を積んでいないというのでもなく、その偉大な存在だということを自覚して行動していないからであるとするのである。

 ここには、もう一つ重要な発想があるが、それは、すべての人間が偉大であるとすることである。人間の才能に優劣があるのは周知のことであるが、塾主においては、あらゆる人間はそれぞれそのあるがままの才能において、発揮すべき役割があり、その役割を全うする偉大な存在であるとするのである。
 また、さらに言えば、人間に限らずあらゆるものに、こうした未だ十分に発揮されない「本質」があるのである。そして、そのように「人間は絶えず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって物心一如の真の繁栄を生み出すことができる」という特質を自然の理法から天命として与えられているがゆえに人間は「万物の王者」なのである。

 これまでの人間観と塾主の「新しい人間観」の根本的な違いは、まずこの「人間の本質を現実とは別なところにある」とし、「物心一如の繁栄を生み出す天命が与えられているのが人間の本質である」とするところである。あらゆる教えや修行、罪や罰によって、人間の弱い部分の現実をどう処遇するかということを考えていったとしても、結局は、その弱いという本質を認めることになってしまう。その教えの中、その立場において、その宗教の信者、その思想の範囲内、その国家における国民においては、人間の弱さをコントロールすることが出来たとしても、人類全体としては、それぞれの集団のエゴによって、たちまちその弱い部分が暴れ出し、過去の歴史にあるような様々な惨事を生み出すであろう。
 こうしたことを、塾主は次のように表現している。「人間はつねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、平和を願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸におそわれてきている。かかる人間の現実の姿こそ、みずからに与えられた天命を悟らず、個々の利害損失や知恵才覚にとらわれて歩まんとする結果にほかならない。」
 つまり、塾主の「新しい人間観」の神髄は、まず、この現実にみる人間の弱さの部分を人類全体として否定しきったところにあるといえるだろう。

3.「新しい人間観」における人間の生き方

 次に、人間の生き方であるが、前段で述べてきたように、善悪合わせ持った人間が、どういった教えを受ければ、またどういった倫理観を持てば、よく生きられるか、人間は救われるのか、といったのがこれまでの宗教や哲学であった。
 しかし、塾主の「新しい人間観」では、(現実として実現してはいないが)人類全体として「物心一如の繁栄を生み出す」偉大な存在である人間が、どういったように生きれば、この宇宙が生成発展するという自然の理法を実践していけるかということになる。これこそまさにこの「新しい人間観」を「人間観の革新」と称する所以であろう。極めて国際的、普遍的な視野で、宇宙全体の規模での人間観なのである。 そして、現実の人間が、未だ、人間の本質ではないのは、個々のエゴに囚われているからであり、「人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力ではこれを十分に発揮することはできない」からであるとしている。こうした人間は、「お互いにこの人間の偉大さを悟り、その天命を自覚し、衆知を高めつつ生成発展の大業を営む生き方」をすべきなのである。

 つまり、個々が、あるいはそれぞれの国家、民族が、それぞれにおいて政治や宗教を持ち、各々の幸福を目指しているとしても、そこにはやはり個人同士、国家間、民族間での争いや不調和を生じてしまうというのである。ここにおいても、「新しい人間観」が、個人の幸福ではなく、グローバルな視野で、人類全体の繁栄、幸福、平和を実現するために提唱されたということが見て取れる。

 この、共同生活を営んできた人間についての塾主の考察は、新しい人間観になくてはならないものである。他の生物ももちろんのこと、巣をつくり、群れをなし生活する。しかし、人間の場合、その共同生活は、小集落から、集落、集団、民族、小王国、帝国、国と高められてきており、精神面と力の面で秩序を保つ柱となる宗教、政治が存在してきたのである。「人間は自ら共同生活を営み、つねによりよき共同生活をめざしていくものである」というのが人間の本性、使命であり、この本質が自覚認識されていなかったがゆえに、お互いの共同生活に不幸をもたらしてきたとしている。

 今日の世界においても、国家、民族間の戦争というものが、いまだに絶えない。また、進化した科学技術や変化した生活習慣によって、人間の住む環境に、あらゆるところでひずみが生じてきている。「よりよき共同生活」を営む人間の本質に立った人間観によって、国家間においては、他国のものと調和、発展するものでなければならない。また、それぞれの国家内においても、経済、教育、文化、科学技術、思想といったものが、それぞれの分野にとらわれることなく調和し、進化をとげなければならない。

 経済のために人間があるのでもなく、人間のために経済があるのであり、それらが、より人間の生活に調和と繁栄、幸福をもたらすように政治は調和を図っていかなければならないのである。現代社会は、どこか資本主義に捉われていたり、教育が混乱したり、科学に翻弄されているような部分があるようであるが、もう一度、人間の本質に立ち返って考えなければならないであろう。

 また、ここでは、これ以上、詳しく述べられないが、この「新しい人間観」における人間の生き方には、これからの国際社会における国家がどう生きていくべきなのか、またそこにおける日本の役割や日本の伝統精神の使命がなんであるのかが懐柔されている。次回のテーマとしたい。

4.「新しい人間観」における人間の存在意義

 さて、最後に、人間が生きていく意義についてみてみる。塾主は、以上述べてきたような特性を与えられた責務があるのが人間の存在意義であり、宇宙が人間にその特性を与えたのは、「自然の理法」によるとしている。
 この「自然の理法」というものは、宗教でいうところの「神」や「宇宙の大生命」というものであろう。科学の発展し、革新を遂げた人間観においてもやはり、この天地自然の理というものが出発点なのであることに変わりはない。この宇宙が存在し、あらゆるものに力を与えているということの神秘に対する畏怖、威光、それに対する信仰心というのは、人間にとって永遠に必要なものなのであろう。

 また、松下幸之助塾主は、伊勢神宮を模した「根源の社」というものを、真々庵や松下電器本社に設置し、その宇宙の根源の力に感謝と祈念を捧げられていた。
 この伊勢神宮は、神話にある天御中主神という宇宙創造の神のもと、日本国土を造った伊邪那岐命の禊によってその左目から生まれた天照大神、日本の皇祖神が祀られている神宮である。
 日本の伝統、国民性というものに立ちつつ、自国内に人類の衆知を集め、また国と国との間にも衆知が集まるよう貢献し、人類の共同生活全体を高めていくことが、根源であり、人間の使命であると考えられていたとみることができる。
 塾主の「新しい人間観」は、それぞれの民族や国家にある人間が、それぞれのその特質をうまく生かして人類全体の調和を図って、自然の理法を全うしていくという根源的、全人類的な位置において設定されたものなのである。

5.これからの人類に必要な人間観の革新

 冒頭にも述べたが、今日の人類は、地球全体でみれば、急速に進捗する地球温暖化、また石油燃料の枯渇、核廃棄物の残存、大量破壊兵器の生産と人類の存続そのものを脅かす危機に曝されている。それぞれの国内においてみても、非民主主義国家が存在し、発展途上国の実情と発展のあり方、国家財政の破綻といった様々な問題が山積している。
 そうした現状に対しても、それぞれの国家における思想、主義、経済利益にとらわれるばかりに、解決の道を妨げ続けているのが実情である。こうしたところに、これまでの人間観の革新の必要性がある。

 自国においてはその持てる力を結集すべく過去から現在のありとあらゆる知恵を結集して、国民全体の天分を発揮さる。
 さらにそういった地球上すべての国家間においては、それぞれの進化した伝統、文化を持って、人類全体の繁栄、幸福、世界の平和に向かって、お互いの共存共栄をはかって、感謝協力し、衆知を集めていく。そういった実践を、ありとあらゆる政治・経営の場において行っていかなければならない。

 ヨーロッパでは、国境、民族、過去の戦争を超えて25カ国が統合し、大欧州が実現した。その大欧州は今後どうあるべきか、またアジアはどうあるべきか、国連はどうか、そこにおいてアメリカは、日本は、そういった人類全体の視野における宇宙のなかの人間のあり方を人類の未来に向けて、追究し、すべてが人間の本質を発揮し、衆知を集めていかなければならないのである。

[参考文献]
『松下幸之助発言集』 (PHP)
『日本精神通義』 安岡正篤 著 (黙出版)
『人生問答』 松下幸之助/池田大作 (聖教文庫)
『人間を考える』 松下幸之助 著 (PHP文庫)
『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』 松下幸之助 著 (PHP文庫)
『口語訳 古事記』 三浦佑之 訳 (勁草書房)
『福沢諭吉と松下幸之助』 赤坂昭 著 (PHP研究所)

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前川桂恵三の論考

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