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2018年1月

機械が台頭する未来に必要な働き方と社会保障政策
大久拡/松下政経塾第36期生

日本における働き方を変えることについて考えると、現在広く社会で認識されている様々な労働問題への対応策を考えるだけでは不十分と感じる。なぜなら人口動態や機械の進歩などにより私たちを取り巻く労働環境が今後大きく変化すると考えられるからだ。本稿では、雇用や働き方の未来と目指すべき社会について綴らせて頂く。

 

第一章:なぜ未来を考えるのか

 「先のことを心配し過ぎるよりも今を楽しく生きたい。」ちょうど本稿のテーマである雇用や働き方の未来について話していた時に私の友人が言った言葉だ。巨額の財政赤字や少子高齢化による社会保障費の増大など日本の将来は暗く捉えられがちだ。そこに自分たちが現在就いている仕事の不安まで持ってこられたらたまらなくなるのは納得できる。しかし、昨年30歳になったばかりの私の友人や私は少なくともあと30年、もしかしたら40年以上これからも働くのである。アメリカ人の発明家レイ・カーツワイルは、2045年頃にシンギュラリティに人間は到達し、これまでの歴史とは非連続的な未来に進む可能性を指摘している。カーツワイルはシンギュラリティを下記の通り説明している。

シンギュラリティとは、われわれの生物としての思考と存在が、みずからの作りだしたテクノロジーと融合する臨界点であり、その世界は、依然として人間的ではあっても生物としての基盤を超越している。シンギュラリティ以後の世界では、人間と機械、物理的な現実と拡張現実(VR)との間には、区別が存在しない。(『シンギュラリティは近い』p.15)

 カーツワイルの予測は極端ではある。しかし、第二次世界大戦からはまだ70年ほどしか経っていないが、その期間に世界は冷戦の終結やインターネットの普及、グローバリゼーションの深化など過去にほぼ誰も予測しなかった事態を経験してきたのは事実であり、様々な技術の発達を中心として私たちが生きている世界は今後大きく変わる可能性が高いと言える。
 世界の変化に合わせて雇用のありかたや働き方も変わる。働くことを、何かしらの労働への対価として賃金を得ること、と定義すると、資本主義社会において働くことは生きる糧を得る第一の手段であり、生きることとほぼ同義と言えるのではないだろうか。そうであるならば、私たちの生き方がどの様に変わり得るのか、そしてその変化に対してどの様に私たちは備えるべきかを考えることには大きな意義があると言える。さらに、私たち以上に私たちの子供や孫たちは変化に満ちた世界を生きるのである。子供たちに何を学ばせ、授けるべきなのかを考える上でも、雇用や働き方の未来について考えることは重要なことと言える。
 本稿ではまず、いくつかある未来の予測に共通する大きな傾向に主に雇用の観点から触れ、次にそれらの傾向を基に、極端な例としての純粋機械化経済における私たちの働き方を考える。そして最後に、資本主義社会における雇用と密接に結び付いている社会保障政策について触れ、私たちが目指すべき社会について論じる。

第二章:大きな傾向

 日本ひいては先進国における社会の少子高齢化と技術の発展を背景として、これからの雇用について一見相反する労働力の不足と仕事の喪失が論者を問わず広く予測されている。まずはこの二点について日本を軸として議論を進めてみたい。労働政策研究・研修機構の推計によると、2014年に6,587万人だった日本の労働力人口(15歳以上で、仕事に就いている、または休職中の人の数)は2030年には5,800万人となっており、実に800万人近い労働力人口を失うことになる。この様な予測を背景に、日本政府は昨今「働き方改革」への取り組みをはじめ、女性や高齢者の雇用を推進している。しかし、女性がスウェーデンと同じレベルで働き、高齢者が5年長く働いても2014年と比べて2030年の労働力人口は225万人減るとの予測が出ており、労働力人口の減少とそれによる影響を無くすことは難しそうだ。
 そもそも労働力不足の何が問題なのだろうか。まず、日本経済全体の労働力不足から起こると考えられるサービス業での人手不足は、消費者としてお金を支払って受けるサービスの質の低下に繋がる。社会的に必要かどうかの議論は別として、24時間いつでも買い物ができるコンビニの閉店や営業時間の短縮は消費者にとっての利便性を損なう。また、企業が人手不足のために経済活動を十分に行えないことやそれに伴って倒産することが考えられ、結果として日本の経済成長の鈍化に繋がるとも言える。逆に、人手不足に悩む企業が無理して経済活動を続けようとすれば過重労働の原因にもなることが考えられる。以上は私が一消費者として考えたことであるが、少しマクロ経済学的に考えてみたい。
 マクロ経済学的に考えると、現在の日本経済における人手不足と、将来の発生が予測されている労働力不足は別の問題であり、異なる原因を持つため別々に分析していく。まず人手不足については、厚生労働省が出している平成29年11月分の一般職業紹介状況によると、正社員の有効求人倍率(季節調整値)は1.46であり、1974年1月以来の高い値を維持しており、日本経済の広い範囲で人手不足が発生していると考えられる。しかし産業別に見ると、保安の職業が最大の8.14、介護や飲食店などにおけるサービスの職業が3.54と平均を上回っているのに対し、事務的職業は0.47となっており、人手不足の状況は業種別に大きな差がある。これが意味することは、人手不足が深刻な業種への新規就業者や人余りの業種から移る労働者が少ないということだ。経済学的に言えば、労働者の需要が供給を上回る場合にはより高い賃金を企業が払うこと労働需要と供給が均衡状態になるため、現在の人手不足が深刻な業種の状態は、仕事に見合った賃金もしくは労働環境を企業が十分に提供していないことが原因と言える。もう一点言えることは、人余りの業種におけるこれまでの仕事に慣れた就業者は、追加の学習や技能研修が必要になる慣れない人手不足の業種に移ることに抵抗を感じるために労働者の移動が起きにくいと考えられることだ。
 これら人手不足に悩む企業が現状の問題を解決するために取れる選択肢は3点あると考える。1点目は先に述べた賃金の上昇とそれに伴う就業者数の増加である。2点目は人手不足の企業での現在の就業者にさらに働いてもらい、就労時間を長くすることによって労働投入を増やすことが考えられる。しかし、長時間労働やブラック企業に敏感になっている昨今の日本社会において、この選択肢は逆に企業ひいては業種全体への評判を下げることに繋がって就業者の減少を招きかねない。故にこの選択肢を企業が取る可能性は少ないと言える。3点目の選択肢として考えられるのが、本稿で後に触れる機械やロボットの人材の代替としての導入である。現時点においてこの選択肢は業種にもよるが、全般的に導入への技術的課題やタイムラグが大きいと考えられるため実行に移される可能性は少ないと言える。結果として現時点で人手不足に悩む企業は1点目の賃金上昇を行うか、その体力がないのであれば市場から退出せざるを得ない状況になる。
 しかしながら、今後の技術発展によっては3点目の人材代替技術の導入が当たり前になっている状況が予測できる。その場合、人手不足を解決できる企業ひいては日本経済全体においても喜びと共にさらなる経済発展を享受できる一方、むしろ問題になるのは人余りの業種で抱えきれなくなった人材ではないだろうか。特に、昨今の有効求人倍率が最低の事務的職業は最も人材を代替しやすい業種と言われており、今後さらに人余りの状況が強くなることが考えらえる。本項では人手不足と労働力不足について述べるため、後に詳しく触れるが、人材代替の技術が社会で一般的になった場合において、機械やロボットが代替できない技能や知識を身に付ける時間的・経済的余裕やそもそもの意欲がなく、これまでの就労経験が労働社会において価値あるものと見做されない状態は、人間個人で見た場合に最も憂慮すべき状態と言える。そもそも機械やロボットが代替できない技能や知識とは何なのだろうか。
 次に日本で将来発生が予測されている労働力不足について分析する。労働力不足と聞いて、先に述べた企業などでの人手不足をイメージする人が多いかと思うが、経済学における意味での労働力不足とは日本の経済成長に必要な要素である労働力が不足するという意味となる。マクロ経済学において、付加価値の生産の増大もしくは経済規模の拡大と定義される経済成長の要因として、人口増加による労働力の増加、機械などの資本の蓄積、そして技術革新が挙げられている。つまり、これら3つの要素の内どれか一つが減少すると経済の成長が弱まったり、衰退したりするのである。人口減少が予測される日本では労働力の減少が予測され、経済成長に必要な労働力が不足する、という意味で労働力不足と経済学的には言われる。労働力不足がどの様な事態を意味するのか次項でより具体的に考えていきたい。
 労働力不足は言い換えれば、労働人口×労働時間で表される経済への労働投入の減少である。労働人口が減っても労働時間の延長である程度補うことは可能と言えるかもしれないが、一日の時間は24時間と限られていることに加え、人間的な生活を営み幸福を得ることを考えると労働時間の延長には限界がある。故に労働人口の増減が経済成長に必要な労働力に大きな影響を与えるのである。しかし、日本や欧州の先進国では人口の大幅な増加は既に止まっており、経済成長の大半は労働力の上昇ではなく技術革新が担っているのが現実である。技術革新が経済を成長させる理由は労働生産性の上昇をもたらすからだ。例えば、これまで人間が10人で一かかっていたある範囲の森林の伐採作業を1人の人間が伐採機を使って半日で終わらせてしまう、といったことが可能になるのである。すると、それまで伐採作業を行っていた他の9人の労働者は労働力がより必要とされている業種で新たに就業し、更なる経済成長に寄与するのである。それでは、本稿で扱う機械やロボットがマクロ経済の視点から見た労働力不足や経済成長にどのような影響をもたらすのかを考えてみたい。
 機械やロボットが人間を代替できるようになった将来において、マクロ経済の観点からは更なる経済成長を見込めるポジティブな予測が少なくとも2つ立つ。1点目は、経済成長の要素であり、これまで人間しか担えなかった労働力を機械やロボットが代替して担えるようになることで人口減少下においても労働力が伸び、結果として経済が成長するということだ。メンテナンスは必要かもしれないが、人間と異なり24時間疲れることなく稼働し続けられる機械やロボットの導入が労働投入(労働人口×労働時間)量にもたらす影響は計り知れない。働く人間の数、働く時間を減らしながら経済成長の恩恵に授かることができる人間はより幸福になると言える。また、2点目の経済成長の観点における予測は、経済成長の要素である技術革新とそれに伴う労働生産性の飛躍的な上昇が見込め、その結果として同様に経済が成長すると考えられることだ。労働力としての人間を代替できる程の機械やロボットが人間にとって面倒であったり煩わしかったりする作業を行ってくれることで、一緒に働く人間はやりたいこと・やるべきことに集中できるようになる。結果として、その個人の生産性上昇に繋がることは当然の帰結のように思える。これまでマクロな経済成長の視点から将来において人間を代替する機械やロボットの導入と労働力不足について述べた。それでは、そのような未来において人間が行う、もしくは人間に残る仕事とは何なのかを考えたい。
 ここで、技術の発展を背景として予測されている仕事の喪失について考えてみる。多くの論者が語る技術とはロボット工学における人工知能とロボットの発達と意味している。人工知能とロボットの発達によってこれまでの機械が行ってきた様な肉体労働の代替を超えて、ある程度の頭脳労働すら代替し始めると一般的に語られていることが多い。オックスフォード大学のマイケル・オズボーン准教授およびカール・フレイ博士と野村総合研究所による共同研究からは、日本のおよそ半分の労働人口が就いている職業が人工知能やロボット等による代替可能性が高いと分析されている。これまでも産業革命や情報革命による経済構造の変化を経てそれまでの仕事が機械などに取って代わられてきたが、同時に新しい技術に付随する新しい仕事が人々に雇用を提供してきた。しかし、これから私たちが経験する変化はこれまでと異なる、とアメリカ人の起業家マーティン・フォードは次の通り語っている。

雇用全般に及ぶ脅威とは、創造的破壊が進むにつれ、その「破壊」が主として小売りや食品調製といった従来からある労働集約性の高い分野に降りかかる一方で、「創造」が生み出す新しいビジネスや産業は多くの人々を雇わないということだ。要するに経済は、雇用創出が完全雇用に必要な水準に常に達することがない転換点へと向かっていると考えられる。(『ロボットの脅威』p.220)

 「破壊」の部分は、経済構造の変化と機械の発達によって労働集約型から資本集約型に変わったアメリカの農業は1910年に労働者の3割以上が働いていたが、今日では全体の1%しか働いていないことと同様の変化と言える。しかし、これからの「創造」で新たに興る産業は過去の製造業やサービス産業の様に他の産業からの労働者を吸収できない可能性が高いのである。その結果として、経済全体として仕事が喪失したままの状態が続き、新しい技術導入がもたらす「技術的失業」(テクノロジー失業)が増加してしまうと言える。
 次に具体的にどの様な仕事が残り、もしくは代替されるのかをマッキンゼーが分析した昨今の労働市場の変化から読み解く。

繰り返し行われる事務作業や、工場の作業プロセスは自動化されてきた。一方では低賃金の手作業による職種の需要があり、もう一方では高賃金・高スキルの職種の人材が求められるという二極分化が、労働市場で着実に進行してきたからである。そして、この二極分化の中間にいた労働者の職が、技術革新の進行と新興国との競争により蝕まれてきたのだ。(『マッキンゼーが予測する未来』p.271)

 アメリカ人の経済学者タイラー・コーエンも著書の大格差において現在進行している「労働市場の二極化」について言及しており、最終的に社会は大きく二つにわかれると述べている。それは、「テクノロジーに牽引された活力ある産業」において高度な機械と一緒に働ける知的能力の高い人たちから成る豊かな層と、サービス産業でフリーランスとして働く様な「それ以外のすべての人たち」から成る貧しい層だ。つまり仕事の喪失とは、誰もが失業者になるわけではなく、現在多くの人が享受している様な生活を送るのに十分な収入を安定的に得られる雇用、としての仕事が無くなるということと考えられる。
 本章の話をまとめると、日本で現在起きている人手不足と長期的な視点で語られる労働力不足はその影響も原因も別物であるが、そのどちらに対しても人間を代替するような機械とロボットの導入は解決策になり得るということだ。2017年5月12日に開催された労働政策フォーラム、The Future of Work-仕事の未来-、に登壇したILO(国際労働機関)のガイ・ライダー事務局長に、日本の人口減少に対する労働力としての機械の台頭の影響について筆者がフォーラム後に質問した際には、技術的失業への世界的懸念は残るものの労働者そのものが少なくなる日本への影響は未知数と返答を頂いた。人手不足と労働力不足を機械とロボットの導入で解決し経済成長を続ける未来の日本社会においてむしろ問題になるのは、コーエンが述べているような高度な機械やロボットと協働できず、労働力としての存在が“人間であること”のみを残して埋もれてしまう可能性のある人々の存在である。そのような人々がどのように働き、生きていくことができるのかを次章以降で考えていきたい。

第三章:純粋機械化経済における私たちの働き方

 人間が行うすべての仕事が、人工知能とロボットを含む機械によって置き換わった経済において、私たちの働き方はどの様に変わるのだろうか。仕事や働き方の変革が求められている現在、私たち人間にしか行えない仕事とは何か、そして今後どの様な働き方をしていくのかを考えながら論じてみたい。コーエンは同僚のロビン・ハンソン教授の論文を参考にして、純粋機械化経済について次の通り述べている。

機械が人間の仕事をすべておこなえるようになったとしよう。その場合、経済学的に考えると、困った状況が訪れる。人間の働き手に支払われる賃金は、同様の業務をこなす機械の製造コストを上回ることができない。機械をつくるより金がかかれば、誰も人間の働き手を雇わないからだ。そのうちに、きわめて安価に機械を製造できるようになれば、それにともない、人間の賃金も落ち込んでいく。ことによると、機械の製造コストは、人間が生計を立てるために必要な最低限の収入をも下回るようになるかもしれない。(『大格差』pp.164-165)

 この様な経済の帰結として、コーエンは急激な人口減少や慈善事業に頼って人々が生きていくことを予測しているが、私たちに未来をどのように生き抜いていく可能性があるのかを本章で考えてみたい。まず既存の市場経済の枠内で生きていくかどうかという選択があるかと思う。金銭的収入や貨幣経済の枠から出て、食料やエネルギー、住居など最低限生きていく上で必要なものを自給自足することができれば、発達した機械との争いから抜けて穏やかに生きていけるかもしれない。しかし、今日まで発達した市場経済で様々な豊かさを享受しながら生きてきた私たちに、いきなり原始時代のように全てを自給自足して生きることは困難であるために現実的ではなく、かつ大幅な生活水準の下落に繋がるので望ましくない。そうであるならば、既存の市場経済の枠内でどう生きることができるかを次章で論じたい。
 既存の市場経済の枠内で生きる場合、日々生きていくための糧である収入を私たちがどのように安定的に得るかがポイントとなる。現在の大多数の人々のように、働くことによって生きていくための主な収入を得る生き方の場合、3通りが考えられる。まずは、コーエンが述べたような機械と争いながら収入を得て生きていく方法だ。最低賃金の話は一旦置いておいて、機械でもできる仕事を機械の製造コスト以下で私たちが引き受けることは、仕事の依頼者には経済的メリットがあるため成立する。しかし、新しい仕事や技術への適応が瞬時に可能で24時間稼働し続けることができる機械と私たち人間の競争は、新たな底辺への競争とも言え、物価が下がらない限り、賃金と生活水準は機械の製造コストに合わせて低下し続ける事態をもたらす。社会の大多数の労働者が貧困か生活保護を受けざるを得ない状態に陥ることが容易に想像でき、私たちに別の未来の可能性に目を向けさせてくれる。
 既存の市場経済で収入を自分が働くことで得る生き方の残り2つは、コーエンが述べたような機械と協働すること、そして人間にしか実行できない高次の創造的分野で働くことだ。日本の経済学者の井上智洋は純粋機械化経済を、生産活動の機械による自動化が極端に進んだ経済と定義した上で次の通り述べている。

例外的に、クリエイティヴィティやホスピタリティの面で優れた人間の仕事は増大し、彼等はひっぱりだこになるでしょう。しかし、機械との競争に負けている平均的なスキルを持った労働者の需要は増大しないのです。(『人工知能と経済の未来』pp.184-185)

 コーエンの前提である機械が人間の仕事をすべておこなえるようになった社会、の勝手な解釈を承知で述べさせて頂くと、どれだけ機械が発達してもその機械のハード面での設計やメンテナンス、ソフト面でのプログラミングを行う人材はある程度必要とされると考える。そして、そのような高度に技術的な仕事ができる人材は、機械が機械自身をデザインしてメンテナンスする社会が訪れるまでは、機械と争うことなく豊かな生活を送るのに十分な収入を稼ぎ出せるだろう。同様に、独創的かつ多くの人々に支持される音楽や絵画、デザインなどの芸術作品を創り出す創造性を持つ人材も、機械が単に過去の芸術作品から抽出した要素の集合体以上の作品を生み出せるようになるまでは、機械と争うことなく豊かに生きていけると考えられる。井上が示唆しているように、これらの卓越した人材としての生き方の問題は誰もができるわけではないという一点である。
 最後にもう一点、既存の市場経済の枠内で現実的に考えられる生き方に触れたい。それは生活の糧を私たちの日々の労働以外から得る生き方だ。機械は発展し続け、機械との争いも既に様々な業種で起こっており、その争いから抜け出て既存の仕組みで生き抜く手段は限られた人々にしか開かれていない。そのように想像される未来において、生活の糧とその糧を得る手段としての労働を切り離すことは現実的な選択肢の一つになり得る。本稿冒頭で述べた、働くことは生きることとほぼ同義との認識を崩していきたいと思う。社会で生きる全ての人々を対象とすることから提供の主体は行政と考えると、安定的に生活の糧を人々に届けられる手段は3点考えられる。1点目は現物支給である。実際にはフードスタンプのような形になるだろうが、人々が生きていくために必要な物資やサービスを社会化して収入と関係なくアクセスできるようにすることで、機械が台頭する未来での“普通の”人々の生活の質や豊かさを担保することができるのではないだろうか。しかし、このような行政による生活必需品の現物支給やサービスへのアクセス提供はどこか共産主義下での計画経済を彷彿とさせ、市場経済で自由に生きている人々の要望を行政がどこまで満たせるかに疑問が残る。
 行政が主体となって社会で生きる人々の生活の糧を担保する案の2点目は、既存の社会保障制度の一つである生活保護を通してさらに広範な人々の生活を支援していく方法だ。機械との競争に負けて困窮している人々の生活を行政が支援していく、という構図は生活保護制度の意図から全く外れてはいない。しかし、生活保護の受給を不名誉なことと捉えがちで、受給者へ厳しい視線を送ることが多い日本社会においてこの制度を通した行政による支援は、例え未来の社会の多数を占めうる機械との競争の敗者が仕方なしに望んだとしても、彼らにとって人間として心地の良い生き方ではないと察せられる。『資本論』においてカール・マルクスは、失業して仕事を求める労働者を「産業予備軍」と呼び、需給の関係から彼らの増加は賃金の傾向的低下を招くと分析した。そして資本家の搾取が続き、賃金の低下が最低限の生活水準を維持できない点に達した時に、「民衆による少数の横領者の収奪」が起きて資本主義が終焉すると説いた。行政による富の再分配は市場経済社会において社会の安定を維持するために必要な政策ではあるものの、社会が支援する側と支援される側に分断され、支援される側が誰かに生かされているといった生きにくさを感じるとすれば、それは理想的な社会とは言えない。安定した社会のメリットを享受するのはそこに生きる全員なのだから、機械の台頭を経ての経済成長や社会の安定、人々の豊かさや生きやすさを保障できる全く新しい制度に私たちは目を向ける必要があるのかもしれない。
 行政が人々の生活の糧を担保する最後の案は最低限所得補償である。最低限所得補償は、社会で生きる全ての個人を対象に行政が一定の金額を給付し、彼らの日々の生活において全般的に必要になるものを満たせる状態に達するための制度として考えられている。昨今先進国の地方に暮らすブルーカラーを中心に見られる反グローバル化運動や、ポピュリズムの台頭はマルクスが予測したシナリオと捉えることができ、地球規模で社会の不安定化を招いている。次章では、純粋機械化経済に向かう市場経済社会の安定を図るための新しい社会保障政策としての最低限所得補償、そのなかでも昨今議論が活発になってきているベーシックインカム(BI)の制度や政治的な実現可能性について考えていく。

第四章:二極化する労働市場に必要な社会保障政策

 これまで述べてきた機械の発達による労働市場の二極化の結果、多くの人が生活に十分な収入を安定的に稼げなくなる事態への対応策として、BIが昨今注目を集めている。本章では社会保障政策としてBIが必要と考えられる背景と期待されている効果、そして課題について考えたい。井上はBIを次の通り説明している。

「ベーシックインカム」(Basic Income, BI)は、収入の水準に拠らずに全ての人に無条件に、最低限の生活費を一律に給付する制度を意味します。(『人工知能と経済の未来』p.217)

 例えば、配車サービスのUberでドライバーとして働く人のように、フリーランスとしてサービス産業で単発の仕事を行って収入を得るギグエコノミーへの対応策がBIと言える。労働市場の二極化が進むと、多くの労働者が参入障壁の低いホスピタリティを生かすサービス産業に流入すると考えられる。その結果、高い付加価値を付けられない仕事への賃金は減少し、最低限の生活を維持するのにも苦労する人々が社会に溢れてしまう。BIには、そのような人々に収入を補完的に給付することで生活を安定させる効果が期待されている。
 機械と人間の競争が本格化した社会の安定と人々の豊かさの保障のために、行政が実行するべき政策とBIはなぜ望ましい制度なのだろうか。先の井上はまず既存の社会保障制度には無駄が多い点を指摘している。既存の制度を補強する形でより多くの人々に様々な給付や保障を提供してきた現在の社会保障制度は同時にとても複雑になっている。故に、様々な保障制度における給付資格の審査などを行う人員や、プロセス自体が多大な行政コストとして社会的なムダを引き起こしている。そこでこのような複雑な制度を、社会に生きる全員に最低限の生活費を給付するシンプルなBIの導入によって、より効率的に給付を行えるとしている。また、機械の台頭によって社会の大多数の人々が低所得の仕事にしかつけない状態の解決策として挙がる、クーポン型社会、つまりそのような機械を所有する企業の株主として社会の人々が利益分配を受けられる社会、の実現には現在の所有者から権利を奪わなければいけない問題があるためBIが望ましいと井上は指摘している。何より、BIの優れている点は受給資格などの要件が複雑な社会保障制度において本来救われるべき人が救われない取りこぼしや、生活保護といった形で支援を受ける際に人々が味わう屈辱感がない点である。
 制度として理想的なBIではあるが、社会に生きる全員に一律給付を行うための巨額の財源をどうするのだろうか。先の井上と同様にBIを支持する日本の経済学者の原田泰は、「二十歳以上人口の一億四九二万人に月七万円(年八四万円)、二十歳未満人口の二二六〇万人に月三万円(年三六万円)ずつ給付」した場合に九六・三兆円の予算が必要になると述べた上で次の通り財源を試算している。

財政的に考えると、九六・三兆円から(雇用者報酬と自営業者の混合所得に三〇%の税率で課税した際の税収)七七・三兆円を差し引いた一九兆円、これに現行の所得税収入一三・九兆円を足した三二・九兆円がBIを実現するために必要な予算額となる。これでも莫大と思われるだろうが、BIは、基礎年金を含む多くの社会保障支出に代替するものである。問題は三二・九兆円の代替財源があるかということである。(『ベーシック・インカム』p.119)

 続けて原田は、公共事業予算五兆円を始めとして政府支出の削減で捻出する一五・九兆円と、老齢基礎年金などのBIの導入によって削除可能になる社会保障関係費一九・九兆円を合計して三五・八兆円が上で言われている代替財源になると述べている。巨額の予算を誰が負担するのかという最大の課題をBIは抱えていると私は思っていたが、既存の政府予算の枠組みの変更だけで試算上制度の実現は可能と言える。
 BIの導入において、財源の問題がクリアされるとするならば最後に残るのは政治的実現性である。制度の導入にあたって井上は、高所得層の反発を予想している。いくらBIが収入水準に拠らずに支給されるといえど、累進課税などで高所得層が原資の多くを負担し、社会全体で大規模な所得の再分配を行うことに変わりはない。また、コーエンは機械の台頭後に起こる労働者の二極化の結果として裕福な人々の数も現在より増えると予測しており、彼らが団結して政治力も持つことになれば、社会保障政策としてのBIの政治的実現性は非常に低くなりえる。機械の台頭により社会での平均的な人々さえ生活の安定が脅かされる事態の認識を高所得層含む社会全員で共有した上で、生活を保障する必要な制度として社会的議論と合意を得ることが必要不可欠だろう。

第五章:目指すべき未来

 本稿ではこれまで機械の台頭が本格化する将来の労働社会にて起こり得ることを見通したうえで、どの様に私たち個人は働いていくべきか、そしてそのような社会において必要になる社会保障制度について考えた。現在の日本で問題になっている人材不足、そして今後マクロ経済的な観点から問題になる労働力不足は、どちらも人材を代替できるような機械の台頭によって解決に向かう可能性が非常に高いと言える。その結果として日本にさらなる経済成長と豊かさがもたらされるだろう。しかしその一方で、社会に生きる誰もがそのような機械との競争を強いられることになり、人間にしかできないことを武器にその競争に勝つか、もしくは高度な知的生産活動を機械と協働して行わない限り、現在の私たちの生活の延長上にあるとこれまで考えられてきた豊かさを享受することは難しくなる。
 そのような社会で私たち平均的な人間はどのように生きていけるのかと考え、本稿で検討したのは新しい社会保障制度としてのベーシックインカム(BI)である。社会に生きる全ての人に一律で生活費を給付するこの制度は、既存の社会保障制度と比べれば大雑把で突飛な考えにみえる。しかしながら、機械の台頭によって社会に生きる大多数の人が最低限の生活の維持すら厳しくなるほどに困窮してしまう状態が少しでも考えられるのであれば、既存の社会保障制度を補完もしくは代替する可能性を持つBIは検討に値するのではないか。
 既存の社会保障制度への優位性と財源の観点における実現性において、BIは理論上成立するが、乏しい政治的実現性が課題として残る。特に今後さらに経済的にも政治的にも力を持つことが考えられる高所得層の反発を和らげる方策を打つことは必然である。高所得層がBIの導入に反対する理由を考えると、税の公平性の観点からのBIの財源負担の重さ、BIを受給することから得るメリットの少なさ、そして最後は私たちそれぞれの価値観に依る部分も多いが個人主義に基づく個人の経済的自立の尊重の3点にまとまるのではないだろうか。
 財源負担の重さと個人の経済的自立の尊重からBI導入に反対することへの対策は、教育や社会的議論を通した人々の考えの変容が必要であり時間がかかる。しかし、BIの受給から得られるメリットを高所得層でも多く感じられるようにすることは政策として比較的容易に実現可能ではないだろうか。例えば、相続税を大幅に引き上げる一方、BIとして得た給付金は相続税がかからない非課税財産として相続を認めることである。税などのBI財源への支払額とBI支給額に一定の累進性を付加することと合わせることで、生活に必要な収入をBIに頼る必要の無い高所得層が一種の投資としてのメリットをBIに見出すのではないだろうか。その結果として、BIの乏しい政治的実現性は上がると予想する。社会的流動性を高める政策を同時に実行しながら、BIを負担する高所得層、BIによって支援される中・低所得層とのお互いの認識を一つの社会として超えられたらと強く思う。

参考文献
-第一章
・レイ・カーツワイル(2016)『シンギュラリティは近い[エッセンス版]』 NHK出版
-第二章
・独立行政法人労働政策研究・研修機構(2015)『平成27年 労働力需給の推計』
・厚生労働省(2017)『一般職業紹介状況(平成29年11月分)』
・株式会社野村総合研究所(2015)『日本の労働人口の 49%が人工知能やロボット等で代替可能に』
・マーティン・フォード(2015)『ロボットの脅威』 日本経済新聞出版社
・リチャード・ドップス、ジェームズ・マニーカ、ジョナサン・ウーツェル(2017)『マッキンゼーが予測する未来』 ダイヤモンド社
-第三章
・タイラー・コーエン(2014)『大格差』 NTT出版
・井上智洋(2016)『人工知能と経済の未来』 文春新書
・カール・マルクス(1969)『資本論 3』 岩波書店
-第四章
・原田泰(2015)『ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか』 中央公論新社

2018年1月 執筆
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