論考

Thesis

安心安全な社会に向けて~「ジュニア防災検定」の取り組み

東日本大震災では「釜石の奇跡」と「大川小学校の悲劇」という対照的な事例があった。防災意識向上は喫緊の課題である。ここでは私が半年間かけて取り組んだ「ジュニア防災検定」の取り組みを述べる。

1 東日本大震災の経験

 2011年3月11日、私が松下政経塾に入塾する直前、未曾有の大災害となった東日本大震災が発生した。防災をテーマに活動し、「当たり前」の日常を守りたいと思い、松下政経塾に入塾した私にとって、テレビを通じて映し出される映像は決して他人事のように感じなかった。泣き崩れている人、呆然と見つめている人、悲鳴を上げている人。何もできない自分が腹立たしく思える現実であった。何かしたいと思い悩む日々、入塾直前ともあって、慌ただしい日々が続く。数日間、千葉県旭市でボランティアをしたものの、紋々とした日々を過ごしていた。

 入塾直後、私たち32期生は震災奉仕活動を行なった。政経塾における様々な研修のカリキュラムは組まれてはいたが、同期とともに現地に入りたいと嘆願し、震災奉仕活動を行なったのである。そして、我々32期生は気仙沼や南三陸などの東北地方へとそれぞれ足を運び3週間の震災奉仕活動を行なった。

 私が行ったのは岩手県陸前高田市である。陸前高田は本当に甚大な被害であった。人口約2万3千人の町から死者行方不明者1700人以上という岩手県内最大の被害。町の中心が海沿いにあったため市役所も警察署も消防署も病院も郵便局も津波の被害をもろに受け、町は原型を留めていない。最初に市街地を見たときには言葉に出来ない程の衝撃を受けた。

 そのような中、私は避難所となっている現地の小学校で被災者と寝食を共にし、昼間は社会福祉協議会においてボランティアに汗を流した。避難所の朝は早い。午前4時に起床し、掃除やゴミ処理などの仕事が待ったなしにある。朝食の準備をした後、朝食をとり、9時頃に社会福祉協議会に足を運び、そこでその日の仕事のマッチングをし、自分の持ち場が決まっていく。その後現場へ移動し、活動をしていくというのが流れである。主なものは泥の掻き出し、瓦礫の処理、救援物資の仕分けなど。その他には水の配給、児童施設の支援、支援物資のバザーなどもあった。一日が終わると汗まみれになっているのだが、自衛隊の設営した風呂に入れるのは三日に一回のみ。ウエットティッシュがあれほど役に立ったことはない。夜は夜で避難所の運営をしているメンバーと一緒にミーティングに参加し、様々なことを議論した。非常に大変な思いでこの3週間を過ごしたが、この経験は私自身の人生においても学びの多い、貴重な経験となった。今でも陸前高田の皆さんとは連絡を取り合う仲になっている。

 そのような活動をしているなか、印象に残った言葉がある。東日本大震災で被災を受けた陸前高田市の避難所運営の中心メンバーで消防団としても活動されている佐藤一男さんの言葉である。「津波に対して恐怖心を抱いていた人が生き残った。安心していた人は逃げられなかった」という言葉である。地震が来てすぐに避難行動に移った人は助かり、「大したことはない」と思ってしまった人々はすぐに避難することができなかったのである。災害に対する備え、一人一人の防災意識向上の必要性を痛感した言葉だった。

2 東日本大震災からの教訓

 東日本大震災は大きな教訓を私たちに与えた。象徴的な事例が二つあるので、ここで考察したい。

(1)大川小学校の悲劇

 宮城県石巻市の釜谷地区、北上川の河口から約4キロの川沿いに大川小学校という小学校がある。3月11日の東日本大震災では、全校生徒108人の7割にあたる74人が、教職員も11人中10人が犠牲になった。大川小学校に津波が到達するまで45分。学校のすぐ南側には裏山もあり、迅速に避難行動に移れば全員が助かることも不可能ではなかった。あの日、あの場所で何が起こったのだろうか。詳しく検証すると様々なことが明らかになる。
 午後2時46分に地震が発生、それと同時に生徒たちは机の下に隠れた。そして、揺れが収まると先生たちが校庭に集合するよう生徒たちに指示をした。校庭に全員が集合するまで15分、そして始まったのが点呼である。延々と時間だけが経過していく。防災無線が引っ切り無しに鳴り響く。このときになって初めて、先生たちが避難場所を巡って議論を開始した。具体的な避難所を決めていなかったことや日頃の危機意識のなさから避難が遅れたのであった。学校の避難マニュアルには単に「高台へ避難」と書いてあったそうだ。結局生徒たちが避難行動に移ったのは3時25分。この間に40分近くが経過してしまった。

 避難先の判断にも問題があった、大川小学校のすぐ裏手には小高い山がある。生徒が放課後サッカーなどをしているとボールが裏山に入り込み、それを取りに行くのは日常的にあったそうだ。ここに避難していれば、全員が無事に避難することは可能だった。しかしながら、この時に生徒たちが避難したのは川沿いであった。避難を開始した10分後の午後3時37分、北上川沿いの県道で生徒と教職員が波に襲われ、犠牲になった。

(2)釜石の奇跡

 一方で、釜石の奇跡と呼ばれる事例もある。釜石市内の小中学校の生徒たちは、全生徒2926人中、学校を休んでいた5人を除く全員が津波から逃れることができた。背景には釜石市の危機管理アドバイザーを務めた群馬大学の片田敏孝教授の防災教育があった。生徒たちはこの指導の下、自らの主体的な判断と行動によって生き抜いたのである。片田教授は「避難の三原則」ということを繰り返し生徒に指導し、いざというときに如何に行動すべきかを生徒に教えてきた。「避難三原則」とは以下の3つである。

1 「想定にとらわれるな」

 片田教授がまず子どもたちに教えたのは「想定にとらわれるな」(*注)ということである。端的に言えば、「ハザードマップを信じるな」ということである。津波ハザードマップを配られた子どもたちが大抵始めることは「僕の家は津波浸水想定区域から外れているからセーフ」「君の家は区域の中だからアウト」と言いながら一喜一憂する。しかしながら、相手は自然である。自宅が浸水想定区域から外れていても。それをもって大丈夫とは言えない。想定を鵜呑みにすることなく、自分の判断で行動することの重要性を説いた。

2 「その状況で最善を尽くせ」

 「ここまで来ればもう大丈夫」と考えるのではなく。「その時できる最善の行動をとれ」(*注)ということである。釜石東中学校の生徒たちは、地震で揺れている間にも「津波が来るぞ、逃げろ」と呼びかけ、避難を開始した。隣接する鵜住居小学校の生徒にも避難を呼びかけ、避難先に指定されていた「ございしょの里」というグループホームに到着したのである。しかしながら、施設の裏の崖が崩れかけている様子や、津波が家々を壊す様子を見て、中学生たちは「ここじゃだめだ、もっと高台に逃げよう」と言って、さらに高台にある介護福祉施設へと避難したのである。最初に避難した「ございしょの里」は、3メートルの津波が押し寄せていた。最善を尽くさなかったら、生徒たちは犠牲になっていたのである。

3 「率先避難者たれ」

 人間はいざというとき避難行動に移れないものである。火災警報器がなっても、逃げずに留まっていることが大半である。勇気を出して、最初に避難することが如何に大切かを説いた。結果、小中学生の避難行動を見て、近隣の大人たちも避難を開始した。

 このような防災教育の成果が東日本大震災で現れたと言えよう。

(3)二つの事例から言えること

 この二つの事例を通して我々が学ぶべきことは何であろうか。私は以下の二つだと考える。第一は日々の防災意識の差が生死を分けたということである。第二は、小さい頃からの、特に小中学校における防災教育は喫緊の課題だということである。

3 学校教育の現場

 ここまで読まれた方には、防災教育が如何に重要かがおわかりいただけたと思うが、現実的に防災教育を推進していくとなると難しい問題も多い。2011年度に学習指導要領が改正され、政府は「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へと大きく舵を切った。それに伴い学校における授業数も学習内容も大幅に増加し、学校側の負担も増えたのである。実際、学校現場を訪問しても「学習指導要領をこなすので精一杯。防災教育まで手が回らない」という意見を伺うこともあった。防災を学べる可能性が唯一あるのが「「総合的な学習」の時間であるが、これでも、国際理解、情報、環境、福祉・健康、政治参加などやるべきことは多岐にわたり、防災教育のみを扱うわけではない。

4 「ジュニア防災検定」に関して

 そこで民間側から何かサポートできないかと考え、有志で結成したのが、一般財団法人防災検定協会である。協会では「ジュニア防災検定」という小中学生の検定を主催している。私も参画させてもらっている。

 もっとも既存の防災に関する検定がなかったわけではない。しかし、従来のそれは暗記中心で、思考力・判断力を問う問題ではなかった。以下はある検定の問題である。

問題 2001年から配備が始まったドクターヘリコプターは、2012年11月現在、
  日本全国で何機配備されているでしょうか。
 (1) 0機 (2) 30機 (3) 40機 (4) 45機 
(正解は(3) 40機)

問題 2012年に改正された原子力災害対策特別措置法によって法定化された「緊急時防護
  措置準備区域」は次のうちどれでしょうか。
(1) EPZ : Emergency Planning Zone
(2) PAZ : Precautionary Action Zone
(3) UPZ : Urgent Protective action Planning Zone
(4) PPA : Plume Protection Planning Area
(正解は (3) UPZ)

 しかしながら、いくらこのような問題を解いても避難行動ができるとは限らない。子どもたちに災害から自らを守ることを学ばせるためには、雑学の領域に留まることなく、自ら考え行動する力を養うことを目的にしなければならない。以下は「ジュニア防災検定」の初級のサンプルである。

 問題 地震が起こったとき、家の中では、タンスや棚、冷蔵庫などの家具が倒れてきたり、家具の中に入っているものが落ちてたりして危険なことがあります。家具と天井の間に突っ張り棒をしたり、家具の下にマットを敷いたりして、家具が倒れないようにするなどの工夫をすることは、危険をさける方法の一つです。

問題1

 棚はどのような状態のときに倒れやすいのかを知るために、上のような装置を例にして現象をとらえていきましょう。ひじょうに軽いプラスチックの筒の中のある部分に、丸めたねん土を入れました。この装置を二つ用意し、次の①、②のように、ねん土の位置が上側、下側になるようにして机に起き、机をゆらしたとき、②よりも①の方が倒れにくくなります。
  棚の中に物を入れるとき、どこにどのようなものを入れるのかを工夫することで、棚が倒れにくくなるようにすることができそうです。右のような棚のそれぞれの段に、本、タオル、プラスチックの容器、調味料の入ったビンを1種類ずつ入れるとすると、あなたは何段目にどれを入れますか?その理由も合わせて説明しましょう。

問題2

問題3

(問題終わり)

 科学の知識を予め提示したうえで、その場で判断し、棚にはどのような配置をすればいいのかを問題を通して考えさせるのである。問題作成には日能研の協力をいただいている。

 また、「ジュニア防災検定」は、筆記試験だけではなく、事前課題と事後課題があるのが特徴である。事前課題では親子や兄弟で話し合ったことをレポートにまとめて提出する。家族間で災害時の取り決めなどを話し合うことで、子どもが災害について考える意識づけをする。事後課題は自分が住んでいる地域や学校のまわり、通学途中で起こると予測される災害について、防災マップや災害年表など自由研究方式で提出する。課題は個人でもグループでもクラス単位でも構わない。

 このようなことを積み重ねることにより、知識ではなく、自分で判断し、行動できる力を育んでいくのである。松下幸之助塾主は、松下政経塾設立5年目のインタビューで、昨今の学生が知識偏重になり、いくら学んでもそれが実社会で生かせるものではないことを嘆き、「経営学を知っていても、焼き芋屋一つ作れない。政治学を知っていても本当の政治は知らない」という発言をしている。まさに「防災学は知っていても、避難行動に移れない」ということになってはいないだろうか。「ジュニア防災検定」は、こうした状況を変えていく力になるに違いないと私は思っている。

 協会は5月に発足したばかりであるが、5月23日の記者会見の翌日は全国紙をはじめとする新聞各社、テレビ、雑誌などに採り上げられ、話題となった。すでに自治体では神奈川県座間市、私学では佐野日大中学、日大豊山中学が「ジュニア防災検定」の実施を決定した。12月8日が検定当日である。今後も検定の普及や平時における防災啓発活動を続けていきたい。

<注>
*片田敏孝著『人が死なない防災』(集英社新書、2012年)より

<参考文献>
片田敏孝著『人が死なない防災』(集英社新書、2012年)
ジュニア防災検定ホームページ(http://www.jbk.jp.net/

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