論考

Thesis

国家の役割

普段の生活のなかで国家を感じることは少ない。しかし、いざ問題がおきたとき、有事を迎えたとき、私たちは国家の出番を期待する。国家とはいかなるものなのか、そして国家に何をどこまで期待してよいのだろうか。

問題提起

 私の祖父母のふるさとは福岡県の喜多良という村だ。これで「きたら」と読む。随分縁起のよさそうな名前だが、何か特別なところかというと特段、そうでもない。いわゆる中山間地域に分類されるところであり、平地の殆どを田んぼが占め、周りは山で囲まれ、高齢化が進んでいる。私は福岡市近郊で育ったが、自宅から祖父母の家まで車で一時間半と比較的近いため、よく田舎に帰っては野山を巡り遊んだものである。特に夏休みのときは楽しみであった。川に潜っては魚をとり、山に行ってはセミを追いかけていた。ただ少し残念なことがあった。山に行ってもカブトムシやクワガタがいないのである。それは何故か。カブトムシやクワガタが好む広葉樹林がないからである。田舎なのになぜ広葉樹林が少なく、スギ・ヒノキの林ばかりなのか、子供のころには分からなかった。

 昭和30年代、日本は戦後の高度経済成長を迎える。あわせて木材需要も拡大し、政府はその旺盛な重要にこたえるため、木材価格の安定、木材供給量の増大を図り、昭和32年に「国有林生産増強計画」、昭和36年に「木材増産計画」を施行し、官民あげて人工林への転換と増産が行われた。その過程で成長の遅い広葉樹林は伐採され、成長の早い人工林が広がった。スギ花粉でお困りの方も多いと思うが、スギ林が広がったのはこの頃である。現在、全森林面積に人工林が占める割合(人工林率)は全国平均で41%であり、福岡県は64%と、全国の中でも上位に位置する(平成19年度、農林水産省HPより)。当然、喜多良も人工林転換に関して例外ではなかった。当時二十歳代だった祖父母も植林を行っており、人足をつれて夏の暑い中作業をしたときのことをたびたび話してくれる。炎天下の中、地肌むき出しの斜面を苗木と道具を抱えて登り、足場の悪いなか下草を刈り、穴をほって一本一本植える作業は本当に重労働だったに違いない。昨年夏に和歌山県熊野にて一週間、林業実習として下草刈り、植林、間伐作業を経験させていただいたが、たかだが一週間でもその大変さは骨身に沁みた。

 さて、その国産木材の需要も10年で減少を迎える。昭和42年をピークに国産供給量は減少し、反対に価格の安い外国産木材がシェアを伸ばしていった。そして現在の国産木材は全体供給量の2割程度である。更に、林業を生業とする人も減り続け、当時植えられた木々も50年経ち木材として立派に成長したにもかかわらず、そのままにされている。祖父母の苦労、村人の苦労は無駄だったのか。毎年お盆の頃、墓参りのため山中にある代々の墓にいくと、誰かれともなく当時の植林の話をはじめる。ヒグラシの声が響くスギ林で聞くその話は当時の姿をありありと想起させ、聞くたびに何とも悲しい気持ちになる。

 私は田舎が好きだ。自然が好きだし、田舎の文化も好きだ。一方で、田舎にいるとさまざまな場面で政治を感じる。神社にある戦没者慰霊碑、稲作用に整備された田んぼでの畑作、そして、村に迫る黒々としたスギ・ヒノキ林。国家は村に何を与え、何を残したのか。そして、それは村に住む人々の人生にどのような影響を与えたのか。今、喜多良には祖父母が時代の名残とともに住んでいる。政治は、国家は国民の人生に大きな影響及ぼし、そしてその影響は未来にいつまでも尾を引くことが往々にしてある。政治や国家が果たすべき役割とは何か。大変漠然とした疑問であり、答えを見いだせるのか分からないが、以上が本レポートの問題意識である。

国家の役割

 国家が果たすべき役割にはさまざまあるが、国内治安維持や国防がすぐさま思い浮かぶ。それは国益を守るためであり、国民の生命、財産を守るためである。昨年10月に一週間、沖縄県に行ってきた。一昨年に政権は自民党から民主党に変わり、当時の鳩山首相は普天間基地移転先に関して、最低でも県外を訴えていた。結果はご存じの通り、自民党政権時代の方針通り県内移設である。そのため、戦後長らく米軍基地問題によって負担を強いられてきた沖縄県民の怒りは爆発し、基地問題は混迷を極めた。この基地問題を切り口に日米同盟を研究するために沖縄に行ったが、普天間基地の移設問題に接するにつれて国家が果たす役割とは何か、改めて考えさせられるようにもなった。15万人の県民の犠牲を払った沖縄戦、その後の米軍基地の駐留継続、そして現在、日本にある米軍基地の約3/4が沖縄に集中しており、日常の事件、事故は年間50~70件とも言われている現状。上空を飛ぶ軍用機の爆音を聞くにつれて、国家は国益を、国民の幸せを守るためのものではなかったか、分からなくなった。確かに、沖縄県民にはその見返りとして国から振興策としての予算が充てられてきた。例えば、1995年の少女暴行事件に端を発して、普天間基地を含む沖縄県内11の米軍施設の返還に日米政府が合意し、その関連で基地所在市町村の振興に10年間で1000億円、普天間基地移転先北部振興のために1000億円が計上され、そのお金は地域振興に寄与しただろう。しかし、社会的、経済的振興が施されたからといって、基地による被害と相殺されたとはいえないだろう。なぜなら、沖縄県民が本当に望むものは、基地に頼らない経済、基地のない静かで平和な生活であるはずだからだ。

 国家は国民の幸せ、国益を守るためにあるべきだと思う。しかし、それは往々にして誰かの犠牲や不利益の上に成り立っている。結局はバランスだ、という安易な結論にはしたくない。バランスは大切だが、誰がこのバランスを決めるのだろうか。直接決めるのは政治的権力をもつ人々であり、一般の国民ではないだろう。では、一般の国民は一部の政治権力をもった人々が種をまいた結果である国益に甘んじるだけで良いのだろうか。そのために税金という犠牲を払っているではないか、とも言える。しかし、それでは先ほどの沖縄の振興策と同様、金が犠牲を相殺できるということになってしまう。答えはないのだから、仕方がないではないか、と言ってしまえばそれまでだが、それ以上のことはできないのだろうか。最終的には現実に変化がないといけない。それは大変むずかしく、それこそ一人の国民にはハードルが高すぎる。しかし、私達にもできることはあるはずだ。それは、まずは国民一人ひとりが可能な限り等しく、国益を享受できる姿、あるべき国の姿を考えることではないだろうか。隣人のお陰で現在の自分の幸せが保障されていることはよくあることだ。電気にしてもそうだ。国の電力の約23%は原子力発電所で賄われているが、約60基の原発を受け入れてくれた自治体があるからこそ、安定的に電気を使うことができる。つまり、我々一人ひとりが国家の一員であることを自覚することから始めてはどうだろうか、ということである。国家は、観念上のものではなく、実体をともなったものであり、そうあるべきだからこそ、我々にできることもあると信じるのである。

 16世紀、イングランドの哲学者トマス・ホッブスはその著書「リヴァイアサン」の中で国家について以下のように述べている。

 「自然は、人間の技術によって、他のおおくのものごとにおいてのように、人工的動物をつくりうるということにおいても、模倣される。(中略)技術はさらにすすんで、自然の理性的でもっともすぐれた作品である、人間を模倣する。すなわち、技術によって、コモン-ウェルスあるいは国家(ステート)とよばれる、あの偉大なリヴァイアサン(聖書に出てきて「地上にはかれとならぶものはなく、かれはおそれをもたないよう」につくられた動物)が、創造されるのであり、それは人工的人間にほかならない。」

 そして、主権(Soveraignty)は全身体に生命と運動を与える人工の魂であり、為政者や役人たちは人工の関節、すべての個々の構成員の富と財産は力、公正と諸法律は人工の理性と意志、と国家を擬人によって描いているが、私達一人ひとりは国家の構成員であり、国家とは実体のあるものなのだ。そして、それゆえに恐るべきリヴァイアサンを凶暴にするのも、理想に近づけるのも国民次第だと思うのである。手をこまねいて凶暴にだけはしてはならない。理想の国家にするために、まずは理想を描こうではないか、一部の人間だけに理想を描くことを委ねるなどともったいない、国民一人ひとりが国はこうあってほしいと思うことから始めることが大切で、我々にできることだと思うのだ。

 今、中東ではチュニジアに端を発して民主化運動が急速に進み、独裁的国家を揺るがし始めている。それを支えたのはインターネットである。私達の互いの思いや、訴えは、目に見える形で共有することが可能な時代を迎えていることを今一度思い起こしてほしい。そしてそれは国をも動かす可能性を秘めている。だからこそ、一人ひとりが国はこうあってほしいと思うことはますます重要であり、決して観念上の議論にとどまるものではないのだ。

 松下幸之助塾主は「無税国家」や「国土創生論」を提案した。「無税国家」とは国が税金を積み立てて基金をつくり、その運用益で国の財政を賄うというものである。そのアイデアの背景には、当時の国の税金の使いたかに対する不審があった。また、「国土創生論」とは、平地が少ない日本のデメリットを解消するため、山を削って土地を創造しようというものである。その当時の実情に即したアイデアである。可能かどうかはまずは抜きにして理想の国の形を描いている。理想の国が実現可能であればそれにこしたことはないが、しかし、それほど大きな問題ではないのではないか。大切なのは、まずは理想を描くこと。そして、その理想にむかって歩みを進めることである。逆にいうと、理想という目標がなければ歩みを進めることもできないし、間違いだと気付いたときに修正をほどこすこともできない。

 当然理想の姿は時代によって変わるもの、変えるものである。人口が増えていた当時では「国土創生論」は有意義なアイデアであるが、人口減少になった現在において当時の「国土創生論」をそのまま適用するのは適当ではないだろう。時代、時代にあった理想を描き、その理想にむかって歩みを進めるべきなのである。冒頭に紹介した戦後林政、農政が現在に至ってうまくいっていないのは、国が時代にマッチした理想を描くことができずにいるからではないか。戦後、木材需要があったとき植林政策はよかった、しかし、その先の未来は描いていたのか。戦後食糧難のときにコメの増産と安定供給のために国が一律に買い上げ流通させるシステムはよかったが、その先の未来は描けていたのか。

 常に適度に先を行く未来(半歩先を行く未来)、理想の国の姿を描き続けることこそが、国家が最初になすべきことではないだろうか。

最後に~国家にどこまで望むべきか

 国家は個人では為し得ない、強大かつある程度安定的な力をもっている。それゆえに、困ったことがおきると国家に依存したくなるのは人情である。リヴァイアサンが膝を擦り剥くと、そこの細胞(国民)は国に手当をしてほしいと要求するだろう。しかし、いつも国に手当をしてもらうだけでいいのだろうか。それで、その傷は本当に良くなったといえるのだろうか。国による手当と同時に、自己治癒力を上げることもすべきことではないだろうか。現在、日本は国と地方を合わせて約900兆円の借金を抱えている。また所与の条件として人口減少、高齢化がある。そのような中で今後社会保障をどうするかが喫緊の課題だが、国による持続的な社会保障制度の構築とともに、自己治癒力の向上、つまり、国民一人ひとりがどうすれば国に頼らず、自分自身の、家族の、ご近所の老後を支えることができるのか、考える必要があるのではないだろうか。その思考を止めてしまうと、生活の隅々にまで国家に依存することになる。それではお金がかかるのも当然だ。格差問題でも同じことが言えるのではないか。国家による手当は必要だが、それとともに地域の自己治癒力を如何に高めていくかも併せて考えていく必要があると思う。それができてこそ、本当の解決であり、国家も若々しさを取り戻すのではないか。

 私は過疎問題の解決を志し入塾した。主に離島や中山間地域で進んでおり、1727の全市町村のうち、実に776の市町村(44.9%)で過疎が進んでいる。農地面積の狭さ、交通の不便さなどから条件不利地と言われ、なかなか経済的活性や社会的機能の充実をはかることは難しい。できれば国による手当を望みたいところである。しかし、それでは本質的な解決にはならないと思う。どれだけ、国に頼らずに自立・持続し、免疫力を高めることができるのか、それが「活性化」ということの目安になるし、目指すべき指標である。それには当然、前章で述べたように理想を描きそれに向け実践しなければならないし、また時代の半歩先を行く未来を描き続けない限り、この国は川上から徐々に老衰していくと考えている。国家の一員、一細胞として、私は過疎問題への取り組みを通して、まずはこの国の理想を描いていきたいと思う。

参考図書

松下幸之助著 『松下幸之助が考えた国のかたち』 松下政経塾
松下幸之助著 『日本をひらく 新国土創生論』 PHP
ホッブス著 水田洋訳『リヴァイアサン(一)』 岩波文庫

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内田直志の論考

Thesis

Tadashi Uchida

内田直志

第31期

内田 直志

うちだ・ただし

福岡県みやこ町長/無所属

Mission

過疎対策および地方経済の活性化策の研究

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