論考

Thesis

教育とは政治である

宗教が時の為政者に利用されてきたことと同じように、教育が政治に利用されてきた。しかし、その意味付けは時代の変遷とともに変わってきた。国民主権の現在、教育がどのように政治的に取り扱われていくかは国民自身に責任がある。教育とは何か? 時代という座標軸に置きながら、政治と対峙させ、明らかにする。

第一章 社会の変化

1、この100年間を振り返って

▼戦前の日本

 明治時代は列強支配から国を守るために、国家安全保障を第一とし、その基盤となる財産、知識、兵力を中央に集中させていった。その成果は、日露戦争の勝利という形で現れた。その後、日本は一等国として名を連ねていくことになる。そのためにも圧倒的な生産力が国力として必要だったと思われる。絶対的な産業力と外交力を有した覇権国家イギリスは、石油と機械工業を裏付けに発展してきた新興国アメリカに、基軸通貨を始め世界秩序が移行している。このあたりを機に、経済力が世界を動かす時代へ移行したと考えられる。

 静岡県磐田市、旧豊岡村の『豊岡村史』に次のような記述を見つけた。

1923年10月『敷地之要報』「彼ノ世界大戦ノ余波ヲ受ケ経済界ハ長足ノ進歩発展ヲナシ為ニ国民ノ多クハ好況熱ニ浮カサレ、都会人士ノ如キハ一攫千金ヲ夢想シ、奢侈遊惰ニ耽ル。其悪国ハ逐次農村ニ及ビ先祖伝来ノ美田ヲ捨テ、鍬钁ヲ擲チ、徒ニ都会ニ走ル青年、日ニ加増スルに至ル。此結果、農村ノ頽廃ハ其ノ極に達セントス。」

 日本国内も理由の如何を問わず、湧き上がる経済成長と豊かさの享受に目を奪われる様子が見て取れる。日本は開国当時、3,000万人ほどの人口が、たった50年ほどで倍増。好景気にはその人口を工業労働者として都市部に吸収していった。昭和に入り、世界恐慌が押し寄せ、多くの人が一気に貧困にあえぐ状況に陥った。満州国設立は膨張し続ける経済のマイナス面を請け負うという目的を追っていたものだと考えられる。しかし、貧困層の増大と秩序の欠落はとどまることなく、教育や法整備などにより思想統制を敷き、やがて全体主義へ。鬱積する不満が、世論を戦争へと導く結果となってしまった。

 特に昭和史は今と状況がよく似ていると感じられる。100年前の繰り返しとなるのか?これからの100年を見据える上での重要な示唆を与えると私は見ている。

▼戦後の日本

 敗戦後、日本は安全保障を事実上アメリカにゆだね、経済復興に特化していった。戦前とは異なり、戦後復興の特徴は次のようなものだと考える。それは、これまで共同体や家庭の中で行われてきた自助・互助システム、例えば、学校給食、健康保険制度、共有地管理、河川管理、道路管理などが行政サービスとして政治的に取り込まれていったことである。また、これまでなかった学校給食や、健康保険制度、年金制度などの行政サービスが充実。こういったシステムの恩恵を受けることで、老後の心配が軽減され、共同体のしがらみから解放されたのではないかと思われる。国民は自由に職業を選択し、経済へ専念できる基盤を得たのではなかっただろうか。

 しかしバブル崩壊以降、膨張し続けた行政サービスは、財政赤字の累積や、少子高齢化などによる社会保障費の増大、税収減などに伴い、無駄なサービスとして批判が集中し始めた。官僚の天下りなど、自己組織維持が目的化しているなどと指摘されるなど、スリム化が叫ばれるようになった。‘90年代以降の新党ブームから出現しはじめた、政治に企業経営の考え方を導入していこうとする新しいタイプの政治家たちが軒並み、非効率なものをカットしはじめた。

 ところが非効率のものの中に、かつて共同体から行政サービスへ移行したものも含まれていた。サービスは、国民にとって宛てにしていたものであり、サービスの依存を前提にした経済活動を営んできた。カットされたものは民間がその受け皿となっていった。民間とはかつての共同体ではなく、多くは指定管理者制度やPFIなど様々な形態をとりながら、民間資本へ移行していった。問題は、経済力のある人はサービスを利用できるが、そうでない人は、サービスを利用できない。

 たとえば、介護サービスも、実に3割が経済的理由により利用できていないという調査もあるやに聞く。かつての田舎暮らしであれば、家は広く、働く場所も近かったこともあり、また、隣近所の付き合いも深かったので、なんとか面倒を見ることができた。しかし、現在の都市生活では、物理的なスペースもない上に、ほとんどの人が居住地を遠く離れた場所での勤務を強いられている場合が多い。しかも、頑丈な扉があり、近所の人たちが気軽に声を掛け合うような雰囲気でもなくなってしまった。経済力のある人は民間に預け、ない人は場合によっては見捨てるしかない。

 そこには、共同体機能 → 政治的介入・行政サービス → 民間資本 → 生活に必要なサービスへのアクセスに格差が生じる → 経済格差の固定化 へとつながっていく流れが垣間見える。

2、経済を中心にした社会

▼経済成長とは回転率

 経済成長の指標として代表的なものがGDPである。GDPの成長率が世界中の資金を呼び込み、経済発展の原動力となる。この成長は普通、量として捉えられている。しかし、私は物の移動スピードを表す回転率という側面もあるのではないかと考えている。

 たとえば、10年に一度車を買う人が5年に一度買い換える。1週間に一度、外食していた人が二度外食する。という具合になればGDPが2倍になる。成長し続けるということはこのスピード・頻度がどんどん加速していくことになるのではないだろうか。極言すれば、「成長」という借金を抱えながら生産、消費という経済システムに我々は組み込まれてしまっているという風にも捉えられる。

 ところが、人間の営みが成長率に連動しているとは限らない。たとえお金があったとしても、外食は飽きるかもしれない。テレビや車も何台も必要ない。しかし、仕事はしなければならないので生産量は増えていく。消費を刺激するためのイノベーションが成長スピードに比例して繰り返さなければ、資金は集めることができず、経済は停滞してしまう。このようなスピードレースに乗り切れる人と乗り切れない人が、どうしても出てくる。

 そして、これだけのスピードで生産すると環境への影響も懸念される。昨今話題になっている二酸化炭素排出もさることながら、資源の乱開発と、増え続けるゴミ。都市化に伴う水資源やエネルギー資料量の増大。ある中国人と話をしたときに、「もし、中国人が全員車を乗ったならば、地球は壊れてしまう」と断言していた。この予測はおそらく間違いではない。環境という観点から捉えたならば、上昇し続ける経済成長などということは現実的にはあり得ないはずである。

 「成長」という借金の向こうには、幸福・繁栄が約束されていると見るよりも、忙しくなりつづける仕事と破滅だけが約束されているのかもしれない。

▼成長から持続へ

 EUを中心として取り組まれている、排出権の取引によって温室効果ガスの減少には寄与していないという。その他鉱物資源や化石燃料、農作物、森林など鑑みると状況は悲惨だろう。特に最近話題になっているのが水資源である。特に中国は急速な都市化に伴い、安全な飲料水を確保することは難しくなりつつあるという。その他、世界各国で行われている紛争なども、水資源確保が原因であることが多いという。

 「成長」を基準にした経済至上主義から、成長しないという選択肢を選び、「循環」、「持続」を基準にした人間の営みへ移行していく必要性がいよいよ出てきているのではないだろうか。

第二章 教育事情

1、戦前までの人づくり思想

▼江戸時代

 近世、わが国は世界有数の教育国家であった。幕府御用達の昌平坂学問所を筆頭に、各藩に藩校が設置。また、庶民が学ぶ寺子屋が、現在の小学校の数に匹敵する、一万六千か所も存在していた。寺子屋で学ぶものでも優秀で評判が立った場合、藩校、江戸などにとりたてられることもあったという。武士階級を中心として取り組まれていた学問が、身分制度を乗り越えるルートになっていた。それ故に、裾野まで広げていくことができたと考えられる。教育は国を治める文治政策としての意味付けがあった。

▼明治以降

 明治以降の教育は、国を治める政策から国を興す教育へ移行したと考えられる。語学、法律、政治、工学、物理、会計、軍事、文化など西洋風の合理的思考に長けた人材を緊急に中央に集めてくる必要があった。帝国大学を筆頭に、近代学問を伝授し、人材を吸引する公教育システムを確立した。修身教育(徳育)は、知識伝授に偏る教育に危惧する声が上がる中でカリキュラムへ編成されていった。明治23年、教育勅語を掲げ、国民の精神的支柱として教授。しかし、事実上、学力優秀なものが取りたてられる事実は変わらず、修身教育は事実上形骸化していたようである。修身教育が、即、全体主義、軍国主義とみられる向きがある。しかし、広田照幸の研究によると、世界恐慌以降、経済格差が広がり、貧困問題などによる様々な社会秩序が乱れていく中で、思想統制として利用されていったと指摘している。

2、戦後の人づくり思想(‘70年頃まで)

▼社会教育

 日本国憲法の理念に基づく、平和的で民主的な国家の形成者の育成を目指し、全国に公民館が設置された。聞くところによるとGHQの戦後政策の一環だったようである。

 衣食住の洋風化。政治経済の民主主義的な在り方。国連など世界外交の動向など。これまでの日本の伝統文化は未開文明の象徴であり、改め、新しく学びなおさなければならないという占領政策だったようである。

 私は宮崎県の諸塚村というところに出向いた折、そこの企画部長から、戦後、基礎自治体ごとに公民館を一つ、設置するように指令が出された時の話を伺った。これまで村にあった66の集落が17か所に集まり、若者衆、女衆、大人衆ごとに定期的に集会が開かれており、それを社会教育として認めてもらいたいと東京のGHQまで直談判したという。村に一つしかないところに集まることは山間深い諸塚村では一日がかり。合理性を説く社会教育の場としては非合理かつ非効率。結局、その要望が受け入れられ、それが現在でも継承され続けられている。これは昔の互助システムそのものであり、道路整備や河川管理、その他今では行政サービスとして任せてしまっているものを任せず、かつての共同体が行っていたように自分たちで取り組んでいる。行政コストは低く、「諸塚方式」として現在では基礎自治体の公民館活動や社会教育のモデルケースとして注目されるに至っている。

 何か絶対的なものを受け入れ、依存してしまう状況が発生すると人は考えなくなってしまうのかもしれない。自立していく気概と、培われてきた知恵が継承されていくことで間違いのない方向を見出すことができるのかもしれない。

▼学校制度

 戦後、デューイなどの経験主義的教授法が導入。戦時中以前に教育されていた内容の伝承を分断しようという占領作戦の一環だったのではないか。

 その後、‘57年のスプートニックショック以降、学習指導要領による国の教育内容の統制と系統主義的教授法が導入。ここで教育の政治的な意味付けがなされるはずだったが、効力を発揮できなかった。

 理由の一つとして、日教組などの教科書裁判や共通学力テストの拒否などがあったこと。もう一つの理由として、教育が政治的な営みから、立身出世という個人的な意味合いが強くなっていったことが挙げられる。

 この時期、教育は政治的な意味付け、あるいは社会的な意味付けから遊離してしまった。学校と親のものになっていく過程であったと考えられる。一方で、戦後の日本の学校教育の成熟期にあった。下部層から中級層を底上げしていくような、班別学習など支えあう学びや、異なる観点からのものの見方の共有、生活衛生の向上や体力の向上。世界最高峰の産業力と学力の基礎へ寄与していった期間でもあった。

 こういった指導は、学力上層部の生徒には退屈でたまらなかっただろう。それが、「門切り型」「学校文化」「過度の平等主義」などと、知識人やマスコミ、一部の家庭から批判されてしまうこととなる。

3、‘80年代の教育改革

▼政治が教育へ

 落ちこぼれ、家庭内暴力、暴走族、いじめ、不登校など‘70年代後半から立て続けに教育問題が取りざたされた。「できない」「わからない」者も高等学校の進学率が上昇し、全入しなければならない状況に社会情勢が変化していた時代でもあった。

 学校が荒れた理由は、こういた複雑な社会の変化と相まってもう一点、別の要因があると私は見ている。それは、ある自治体の教育現場のフィールドワークの中で気づいたことである。教員の年齢構成のアンバランスさである。今、驚くほど若い先生が多い。一方で中堅の教師が少ない。その原因を尋ねてみると、私が訪問した先の学校の校長たちが仕事に就いた‘70、‘80年代のころと状況が似ているという。当時は、戦後教育を担ってきた教師陣が大量退職時代と団塊ジュニアで子どもの数が多い時期でもあったこともあり、教師が足りないと言われたほどであった。

 専門職である教師が一人前になるには10年は掛る。これは他の職業と比べてだいたい変わらないと思われる。その間、中堅やベテランのフォローを得ながら、乗り越えていくというのが通常である。しかし、中堅が不在で、ベテランが急速に抜けていき、生徒数は急増していく中にあって、学校の指導力が一時的に低下してきたことが考えられる。

 学校の荒れ、により、教育が、マスコミのネタになっていくことで、国民の関心事へ。それを政治的に解決しようとしてきたのがこの時期であった。これにより、教育が再び政治に取り込まれることとなる。問題を抱える教育・学校に対して政治・行政が解決していくという絵図が受け入れられるようになってきた。

▼教育の新自由主義政策

 臨時教育審議会は当時の首相中曽根康弘氏の諮問機関として発足。明治、戦後、に次ぐ第三の教育改革と実行するという取り組みであった。その答申は、21世紀を見据えた提言であり、「個性重視」「生涯学習体系への移行」「国際化・情報化などの変化への対応」を基本方針として示され、現在進められている教育改革もその延長線上に位置している。

 80年代半ば、これまで紆余曲折を経ながらも、有利に進めてきた日本の産業界は岐路に立たされることになる。円高、機械化、女子労働者の賃金差別撤廃、地方労働者の減少などコスト優位性が失われてきた。国際競争力を鑑み、教育レベルの格差による、雇用形態の合法的な低賃金化が必要と考えられた。

 そこで、考えられたのが「ゆとり教育」である。新しい想像力は固定的な受動的な教育という態度からでは育ちにくく、自発的な興味関心を持ち、自ら学んでくという学習という態度へ移行していく必要がある。自発的な学習をしない子どもはどうするか? それも個性とみなそうというものである。その結果、非正規雇用制度導入の下敷きとなり、安価な人件費に貢献し、戦後最長の平成の好景気に寄与することとなった。その面では「ゆとり教育」は成功したと言える。

 教育はクレーム処理対応の政治的ツールに。教育が国民のものから行政サービスへ取り込まれていくことになる。

▼三つの失敗

 臨時教育審議会の答申を踏まえた教育改革は、いくつかの見通しに失敗したと思う。

 第一に、格差が生じてしまったこと。とりわけそれが雇用の面に表れていることは見過ごすことができない。諸外国に比べ日本人は、労働に対して生きがいや幸福感を見出そうとする特殊性があると私は見ている。アイデンティティの根幹である労働が、戦後日本の秩序と産業をけん引してきたことを鑑みると、この代償は大きいのではないか。これまで国民国家として一体であろうとしていた国家が意識の上でも二分されていく素地を形成してしまった。また、乱れていく社会に対して過度の規制・管理・統制などの強化に向かう傾向を孕み、戦前の全体主義状態へ逆戻りする可能性がある。イギリスでは街のすべてに監視カメラを設置し、犯罪防止に寄与しているという。

 第二に、人材が育たなかったこと。斉藤孝氏はここ十数年で東京大学の入試問題のレベルを下げていると指摘。その理由として、正答できる受験者が減ってしまったと述べている。企業においても、これだけ大学が増えているのにもかかわらず「人材不足」を常に嘆いている状態である。この失敗の原因は‘70年代までに積み上げられてきた教育を「門切り型」と切り捨ててしまったことにあると私は見ている。日本には武芸を中心に、型を習得することによって人をつくるという思想が息づいていた。数百年来積み上げてきた伝統的な手法を古臭いものとして捨て去ってしまったのではないだろうか。アメリカ、イギリス、フィンランドなどはこの時期に‘70年代頃までに積み上げてきた日本の公教育の在り方を研究し、‘90年代に生徒として積極的に取り入れている。フィンランドはその成功例として注目されているが、元は日本である。「門切り型」教育を否定した多くの優秀な人たちは、残念ながら、繰り返される日常の営みの中に、次への創造が秘められている考え方を理解できなかったのだと思われる。

 第三に、人材が流出してしまったこと。日本のノーベル賞受賞者が海外で活躍しているのが一つの例。地方で人を育てても東京に行ってしまう。東京の大学生は、外資系など割のいいところへ就職してしまっている。医師などをはじめ、教員、パイロット、技術者など専門職も不足しているという。その理由として、割に合わないということらしい。このことは教育が個人の能力を開花させる私事になっている象徴であろう。国や地方の投資も、個人の投資も、外国資本へ買われてしまい、投資効果を発揮していない。こういった現状を鑑みると、国家として教育費を投入していくことに疑問が生じかねない。

▼本当に学ばなければならないこと

 我々は日本国憲法によって個人が各々の幸福を追求することを保証されている。しかし、政治も教育も個人的な利得を得るための手段に陥っている現状を鑑みるとき、本当にそれでよかったのだろうか? との疑念を抱かざるをえない。経済の成長スピードを考えると蜘蛛の糸にぶら下がることができる重量には物理的に限界があるのかもしれないが。

 結果的にみると、現在、教育は政治家の地位を確保するためのネタに化している。また国民の不満を受け止める怒りの吹きだまりでもある。学校や教育委員会には毎日のようにクレーマーが押し寄せてくる。落ち着いて教育に専念する環境にない。

 国を一体として見ると、今の教育は発展のための礎を築いているどころか、自らの足を自ら食べているようなものである。まさに狂気の沙汰。それが偽らざる現状なのではないだろうか。

 ある福祉を学ぶ若い学生が「日本には幸福感を共有できる知恵があったんです」と語ってくれたことがあった。この“狂気”から脱出するには、個人の幸福感を超えていかなければならない。利得と契約という経済原理だけで社会が成り立っているのではなく、今こうやってあることへの感謝の念、お互い様といった心によって支えられていることへの覚醒が必要な時期に来ているのかもしれない。

第三章 政治と教育

1、近未来を想定する

 2007年頃から、大量退職、大量採用時代に突入している。2012年頃から首都圏の中学校を中心に教育問題が大噴出する恐れもあると私は予想している。教師の年齢構成のアンバランスさは日本の教育の大きな影となっている。‘80年代の繰り返しである。おそらく、この後あたりで大きな教育の改革が断行されると思われる。

 その改革は次のうち、どちらかになっていくだろう。一つは臨時教育審議会の時のように、より教育が政治に取り込まれ、管理・評価が厳しくなっていく方向。もう一つは、教育の民営化である。どちらの可能性が高いかといえば後者の可能性が高いと予想する。それは第一章で述べたとおり、行政サービスはやがて民間資本へ移行していくという流れがあるからである。教育は非効率部門の筆頭として、改革が断行されるのではないだろうか。

 塾や私学などの教員や経営者は公立学校の経営や教員や授業の質に対して批判的にみている方が多い。聞けば名前がわかるような進学校の教員が塾や予備校の講師に教授法を教わるということも、平然となされるようになってきている。ならば民営化した方がその質の向上に寄与するのではないか? といった議論が湧きあがったとしても不思議ではない。

 それが本質的な問題解決につながるかどうかは不明である。国立教育政策研究所では、南米チリの教育民営化への移行についての研究報告がなされている。その報告を見る限り、民営化したことによって学力が向上したとは統計上言えず、有意差は見られないにしてもむしろ低下していると結論付けている。

2、国の在り方を方向づける

 先にあげた二つの選択肢を10年以内に国民は政治的に委ねられることになっていくだろう。その時に考えるための指標は、21世紀の国の在り方をどう描くかである。それを判断する際に踏まえておかなければならないのは、子どもたちが成人する20年後、30年後の日本の姿である。

 その時には少子高齢化がより加速している。年金をはじめ、社会保障制度が機能しなくなる。国際競争力は新興国の台頭などにより、相対的に低下し、食やエネルギーなどの物価が上昇する可能性がある。不足しがちの単純労働力を確保するために、外国人が増加する。経験の少ない若者や教育レベルの低い人たちの慢性的な失業が続く。現在、労働者の1/3が非正規雇用であるがその割合は増えていき、経済格差が広がっていく。また、ひとり親世帯が8%と言われているが、それがさらに増え、家庭の教育力は衰退していく。環境問題が現在より深刻化するなど。挙げると決して明るいとは言えない状況が待ち構えている。

 こういった近未来を想定しつつ、選択肢を与えてくれる政治が出現しなければ、日本の未来は拓かれていくことなないだろう。格差が広がり、「国民」とか「国家」といったものが絵空事にように思えてくる。現在、保守思想が熱狂的な高まりを見せている一方で、非正規雇用や派遣切りなどにあった労働難民たちは革新思想へ靡いている。一方で、政治不信が募り、これまででは考えられないような極端に若い人やテレビタレントが政治家として誕生するなど投票行動としての政治的判断を国民が下すことができなくなってしまっているように感じられる。政治に思想が欠落し、ほとんど空気みたいなもので選択され、揺れ動いてしまっている。

 思想的な対立軸が明確化されず、それに基づいて選択されないということは、政治が機能しなくなっているということである。合意を取り付け、正統的な手続きで何かを変えていくということができにくくなっている。

 今、我々が真剣に取り組んでいかなければならないことは成長という幻想を追いかけるということよりも、治めていくという基礎・地盤を固めていくという観点をもっていくべきではないだろうか。そこに限られた資源を集中投下すべきである。それが人間の成長、つまり教育である。

3、21世紀の教育の在り方

 今後、教育は新たに意味付けしなおさなければならない。そこで私は、教育は未来を形成していく場として機能を果たしていくものと定義づけたい。これまで教育は、特定の国家、特定の個人の利得を得ること優先してきた。しかし、属性の利害を乗り越えた先を見据えていかなければならない。それが公(おおやけ)である。

 私がイメージする公(おおやけ)とは、畑のようなものである。人を耕す畑である。ただ待っているだけでは実はならない。土を耕し、種をまき、水をやって、虫から守り、やっと果実を得られる。それらが繰り返しなされていくことで、土が痩せないように工夫する。自らの自然への働きかけによってより豊かな土を残し、代償の一部として果実が得られる。そういう場を創造し、継承していくことこそが今、必要だと考える。

 では人を育てる畑とは何か? それは合意形成であると考える。人がどう育っていくかという当たり前の人間観を共有しておくということである。教育には、お金がかかる。人も必要である。しかし、それ以上に必要なものは合意形成であり、思いが共有された場である。それは人々の絶えざる関わりによってのみ存在しえるものである。

 人間が成長していく過程において、多少の我慢が必要である。人間関係というものは一筋縄でいかないもので、必ずトラブルはつきものである。子どもは転ぶことがよくあり、多少のすり傷はあるなど。本来、こういった諸問題が、人間を育てていく教材になっていく。ところがいまこの教材を邪悪なものとして排除しようという動きが起こっている。

 ある自治体では、子どもの数が減少しているのにもかかわらず、20年前と比べて、学校管理下でおきたケガにおける保険請求が20倍にも膨らんでいる。担当者によると、ケガが多くなったというよりも、保護者側の権利意識が強くなったと見ている。救急車での搬送件数も増え、場合によっては、これまでなら唾を付けて済ませていたようなケガでさえタクシーで病院に搬送するといった事例もあるという。また、近所からのクレームも多く、子どもたちの部活動の声がうるさいとの苦情があり、声を出さずに練習サッカー部があるという事態も本当に起きている。

 管理責任、説明責任、個人情報、進行管理。人間を育てる場である教育に、まったく相応しくない概念が持ち込まれている。学校はいたずらに忙しくなり、お金と人を欲しがるようになる。子どもは守られすぎてしまうことにより、成長していくための生きた教材を根こそぎ奪われてしまう。そういう状況こそ改善しなければならない。

 かつてなら必要がなかった、人間がどう育まれていくかという当たり前の現象に対して合意形成していく必要がある。学校はその責任を一身に受けているが、限界に来ている。政治がその合意形成を果たし、人が育まれていく畑を創っていかなければならない。

第四章 教育は政治である

 戦後教育は、墨塗りの教科書で再開されることとなった。しかし、それで我々は幸せになり、人として大切なものを継承し、積み上げてこられたのだろうか? 本当に身につけなければならない基礎基本は、本人の意思にかかわらず、注入すべきである。また、教育が政治・権力と結びつくことはあってはならないということは幻想である。ここまでずいぶんと回りくどく話をしてきたが、我々に今必要な教育観は、教育と政治は、切っても切り離せない重要な関係であるということを認識することである。それがいまだに向き合うことができないとするならば、今現在も、我々は墨塗りの教科書の時代を生きているということになる。

 何が書かれているのか? 我々は知恵を出し合い、その暗号を解読し、きちんとしたものを子々孫々に伝え、持続可能性ある社会の発展を、教育により、そして政治により、もたらしていくことが我々、松下政経塾生に与えられた使命である。

<参考文献>

・『教育の市場化・民営化の行方~南米チリ20年間の経験~』 国立教育政策研究所 斉藤泰雄 2004年
・『「愛国心」のゆくえ―教育基本法改正という問題』 広田 照幸 世織書房 2005年
・『第4次諸塚村総合計画』 諸塚村 2001年
・『豊岡村史』 豊岡村
・『「東大国語」入試問題で鍛える! 齋藤孝の 読むチカラ』 斎藤 孝 宝島社 2004年
・『教育改革と新自由主義』 斎藤 貴男 寺子屋新書 2004年
・『現代思想 8月号』 青土社 2009年
・『教育と格差社会』 佐々木賢 青土社 2007年

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寺岡勝治の論考

Thesis

Shoji Teraoka

寺岡勝治

第28期

寺岡 勝治

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一般社団法人学而会 代表理事

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