論考

Thesis

達磨蔵相は日本の宝

日本の財政不安が刻一刻と大きくなる中で、どうしても考えなければいけないことがあるように思う。財政のスペシャリスト、金融のスペシャリストがやっぱり必要だと言うことである。近現代史の中でスペシャリストを探していくと、ある人物に出会うことが出来た。それこそが高橋是清である。

1、高橋是清の政治家への出番

 高橋是清が日露戦争後に政治の舞台にあがるのは、山本権兵衛内閣時の大蔵大臣からである。

 世の中は、10年の長さにわたり閥族政権を維持してきた桂太郎失脚の日が近づきつつあった。官僚閥と政友会の癒着による政治の停滞に民衆の不満が高まり、「閥族打破・憲政擁護」の一色に固まっていたのだ。

 そんな中で、日露戦争における活躍において元老や重臣から気に入られたこと、日本銀行20年という銀行屋であるのみならず、アメリカで奴隷生活をした波乱に富んだ半生の体験によってつくりあげられた高橋は、政界においても異色を放つ存在となった。のみならず、財政経済の少ない党内で重きをなし、まもなく党の政網政策決定にも指導力をもつようになった。

 山本内閣における高橋の活躍はそれほど目立たない。しかし、政治の舞台に出てきた高橋はこのあと、日本の経済への大きな決断を幾度も行っていくのである。

2、高橋是清と原敬

 その片鱗を随所に見せはじめたのは、原敬内閣での大蔵大臣に於いてである。

 原は、多年政友会が唱えてきた国防の充実、教育の振興、産業の奨励、交通機関の整備という四つの政網をかかげた。特に元老重臣、官僚との縁を清算しようとするために地方の基盤強化をすすめ、地方振興の積極政策をすすめた。当時、第一次大戦による戦時景気の余熱が冷めやらない状況にあり、積極政策を行った原だが、高橋はもともと戦時景気は頼みにならないことを見抜き、反動への覚悟をしなければいけないと説いていた。そして、来たるべき嵐に耐えるために事業の合同、事業の団結が必要であるともさけんでいたのだ。

 しかし、原内閣の政党内閣の元では予算の膨張が進んだ。高橋も緊縮をすすめようとしたが、結局前年度より二億四千万円の膨張で、予算が十億円を突破した。緊縮財政を実行できず戦後の財政整理を怠ったことは、事実であり、高橋自身も楽観的に受け流していた部分があった。このことも含め、「大正九年頃から日本全国、一時暗黒になり取引所がみな停止した」と井上準之助は『戦後における我国の経済及び金融』の中で語っている。高橋が対策を立てられず、徐々に忍び寄る恐慌は迫ってきていたのだ。

 そんな中、大正十年十一月四日に原敬が中岡艮一に殺された。これが高橋には大きな影響を及ぼしたと考えられる。そして、いよいよ「日本の宝」と言われた活躍が始まるのである。

 ここで原と高橋の関係も含め考えていく。

 原敬内閣のあと、大命は高橋是清に下った。高橋自身が『随想録』の中で語っているが、山本内閣において頼まれて政党に加入したこと、または政党政治への熱意の無さも含め、人間としては徳という言葉がよく似合うほどに周りの人から好かれ、嫌われることはなかった。しかし、利害や権力闘争への貪欲さがあまりないことから、総理大臣には不向きだと振り返っている。まさに蔵相として才能を示し、蔵相こそが天職だったと言えるだろう。

 実際に総理大臣として高橋は目立った仕事をしていない。政局は下手で、議会などで味方すら庇うこともできず不信感をつのらせた。そんな中、唯一行おうとしたのは内閣改造であった。しかし失敗し、結局内閣総辞職に至る。これは自身で話しているが「原敬の遺策」だった。

 実は高橋と原は、日銀で仕事をしている時から原には心を打ち明け相談できる関係だった。政治の世界へ入ってからは、ますます原との会う機会が増えた。原が殺される当日も会って話をしている。高橋は原の無念や原への感謝を一番感じていた人だと私は思う。さらに、この気持ちを確信させる行動が二つあるのである。

 一つ目は、原敬が亡き後の政友会が二つに分裂するが、政党にこだわらない高橋が自ら政友会を守ろうと先頭に立つこと。

 もう一つが、政党分裂後に行われたが、その際に貴族院を退き、二度まで大蔵大臣をつとめ一度は総理大臣を拝命した高橋が、衆議院議員に立候補したこと。

 今日この重大なる時局に顧みて、余命を国家のためにささげて、義を正し、道を明らかにしたいと決心したのである。

 この立候補した選挙区が、原敬の育った場所盛岡だったのである。高橋もとむらい合戦をやりたいと言い、そこには高橋の原への気持ちがあふれ出ていたのは明白である。原への気持ちに報いたかったのだろう。この姿勢こそが、高橋を「日本の宝」と言わせたものの始まりだったのだ。

 選挙中、高橋は「明治大帝のつくられた憲法がふみにじられた。国民の人格と意思とを政治上に見ることができなくなっている。政治は国民の意思の上に築かれねばならぬ。余命いくばくもない私の体であります。私は天地神明に誓って憲政のため、政戦に打って出ることにしたのです。」と話し、聴衆は夢中で喝采するのであった。演説の内容などはどうであれ、華族の列位をはなれ、裸になってきた人間高橋への愛情であった。権力、金力による圧迫に抗して、高橋は人気で盛り返すだけの人望をもっていたのだと考えられる。

 高橋が国民を大切にしようとする考えはこの後分析していくが、少なくともこの選挙により、高橋は国民から絶大の支持をえるきっかけになったのである。

 時代は進み、日本は恐慌という危機の中に進んでいく。

3、金融恐慌と42日間の蔵相

 昭和二年四月、日本には大きな危機を迎える。昭和恐慌である。

 昭和恐慌の概要は省こうと思うが、大正に起こった関東大震災での震災手形の残高が二億七百万円という巨額であることや、台湾銀行がこの震災手形をタネに鈴木商店の赤字金融をなし、それがこげついてしまっていることが世間に暴露された。また、市中の普通銀行にも、この手形に融資しているものが相当あることが知れてきた。そして渡辺銀行が休業することで、この混乱が全国へ広がるのである。

 この責任をとり、若槻内閣の総辞職と同時に、台湾銀行は日銀からみはなされ、市中銀行からはコールの回収をうけ、とても営業の見込みがたたず、四月十八日から休業した。中小銀行の休業は大阪、滋賀、広島などの各都道府県にも及び、十五銀行も松方系の事業に対する融資がこげつき休業した。

 この時、若槻内閣総辞職後に大命が政友会の田中義一にくだった。その時、蔵相に懇願されたのが高橋であった。ここで、高橋の二つ目の大きな役目が生まれるのである。

 高橋はこの懇願を受けるが、ある約束をする。それは「三、四十日ぐらいの間ならば蔵相を引き受けてもいい」という約束であった。自信からか、それともあまり大臣として表舞台に立ちたくないからかは分からない。しかし、この後の高橋の行動を見るかぎりにおいては、真剣さとその言葉に裏打ちされた自信が見えてくるのである。

 高橋が任命されてからひたすら走り回る中、四月二十一日午前二時半ごろ、十五銀行休業の報が伝わると、不安におびえた預金者の群は、夜のあけるのもまたず、各銀行に押し寄せ、東京、大阪、名古屋、京都、神戸などの大都市においてはもちろん、地方の各地でも、三百人、五百人、千人という多数の預金者が銀行の窓口に殺到して取付けをはじめ、ついに全国的な金融恐慌に発展した。

 そんな中、四月二十二、二十三日の銀行を臨時休業し、日曜日をはさみ二十五日が山だと考えた。そんな中、日銀に交渉し、これまで取引していた以外の銀行に対しても資金の融通をするようにさせ、担保物の評価も寛大にさせた。二十四日の日曜日も非常貸出を続けさせ、正金でも海外支店に命じて、取付けに応ずるに十分な資金を準備させた。こうして内地の各銀行はもちろん、海外の支店も再開の準備をととのえた。すでに、三日間の休業で人心が冷静になったところへ、銀行の準備が進んだことで、不安な空気は大分うすらいだ。一番の効果は、高橋が蔵相として財界救済に乗り出したということ自体がなによりも鎮静剤であった。前任者の片岡さえも「幸い、高橋君であれば大丈夫だと思った。」と述懐している。

 結論として、四月二十五日になると人心は落ち着き、平穏にくれたという話だ。高橋の銀行休業という非常手段は、予想外に成功したのだ。この後、高橋は

「今日の事態は実にわが財界において未曾有の難局でありまして、これを匡救するには朝野一致の努力にまつのほかないのであります。私は諸君が内に財界の安定をはかり、外は帝国の信用を維持するため、政府提出の諸案に対して協賛を与えられ、もってこの難局の打開に協力せられんことを切望してやまざる次第であります。」

と言った。国家の危機に対し、誠意をつくして説けば恐れる必要なしと超党派の協力を求めた。その思いと高橋の懸命の努力により、金融恐慌という経済危機は去ったのだ。高橋は約束どおり、六月二日に大臣を辞めて、隠居生活に戻った。在職四十二日と予定した通りだった。ここに高橋蔵相の才能と、高橋自身が世のために働くということだけを考え行動し、出世や世間の中で有名になりたいという欲望がない類稀な人物であると言うことが証明される。

4、金輸出再禁止

 高橋最後の仕事がやってくる。井上準之助が行った金輸出解禁により失敗した日本財政の建て直しである。井上蔵相と若槻がこの問題に責任を負い辞職した後、大命は犬養毅にくだった。犬養はその夜のうちに高橋に蔵相を任せたのである。

 この時、実は高橋に景気刺激政策を任せていれば、またなんとかなるという国民の雰囲気が後押してくれていたのだ。それは政友会党紙『政友』にも「達磨蔵相は日本の宝、政友続けば好景気。」という宣伝まで出回るほどであった。

 高橋は就任にあたり、金輸出再禁止と金本位制からの脱却が目的であった。高橋としては、金本位制は松方正義が長い時間をかけてやっと得たものだと考えると将来の通貨制度に不安を持ちつつあった。しかし、これ以外にはありえない状況であり、国民の大多数を総括的窮乏から脱出させ、やがて産業を振興し、生活の安定に向かわせるものと感じさせるほどだった。その結果、またしてもこの再禁止により景気は好転したのだ。

 日本を二度にわたり恐慌や危機から救った高橋を、今やだれもが日本の宝とし感じたのだ。その存在に日本経済の夢を乗せ、高橋は迫り来る影との戦いを始めていた。陸海軍との予算についての緊縮である。高橋の前には誰一人、財政のことでは太刀打ちできず、いつしか軍にとって厄介者になっていた。高橋自身も身の危険を感じ始めていたようだが、日本の経済を立て直す使命のもと、高橋は軍の前に立ちはだかった。地方予算は増やすものの高橋は軍予算に関しては徹底的に削った。そして、「軍との関係が悪化した最大の理由は予算」と言う評論家も多いが、私は高橋の農村にたいするすれ違いの見解ではないかと考えている。そのすれ違いが、二・二六事件で狙われる運命を迎えるにいたるのだ。

5、高橋の農村への考え方

 忘れてはならない点とし、大正から昭和にかけての当時の農村を振り返ってみようと思う。何度となく恐慌を切り抜け景気も回復していく日本と国民があるように感じるが、しかしこの時の日本の景気回復は特異なものであった。生産や国民所得の回復と比べて物価の回復が著しく遅れ、とくにそれが農産品において甚だしかったのだ。

 不況下で一次産品が値下がりしたうえに、とくに日本の主要生産品の米と繭の値下がりがひどかった。米は、日本の台湾、朝鮮の米が低価格で大量に入ってきた。また繭については、アメリカの不況と人工繊維の開発が重なり、需要が激減した。

 昭和十年になっても、日本の農産品の価格は二、三割落ち込んだままであり、農家一戸当りの負債は二千円に達し、借金で首の回らない農村では、一家心中や娘売りや欠食児童が続出したのだ。濃漁村から徴兵されてきた兵隊と接する機会が多かった青年将校がこの実情に憤慨し、体勢の革新を求める思想に走ったのも無理はなかったと言える。

 確かに高橋はすばらしい蔵相であり、厚い人望を有し、人間的にはすばらしい魅力があったが、農村、農民に対しては、常日頃から終始一貫して「農村の自力更生」を説いたのだ。これは窮乏であろうが、貧困だろうが関係なく、精神的教養の足りないことに一因をおいたのだ。高橋のやり方、方法は無理矢理ではあるが、農家を大事にしない考えではなく、理想は理解できるが、農村で実際に生活している人間には自立を考えるだけのゆとりや状況はなかったのだ。高橋との考え方との大きなギャップが埋まる事無く存在し、日本の宝と言われた高橋といえども、農村にまでは経済効果を発揮できなかったのだ。その結果、悲劇が生まれるのであると私は考える。

6、高橋是清の再考

 高橋が殺された時、部屋から大量の手帳が出てきたという。毎日日記をしたため、いかに大酔したときでも欠かさなかったのだという。そして克明に自己の生活記録をつくり、過去を振り返り反省すると同時に、世に遅れまいとして人一倍勉強した。それこそが高橋の源だったのである。そして達磨蔵相は、最後まで日本経済の切り札として存在しつづけたのである。

 現代の日本に、これほどの人物が果たしているかは不明である。岡崎久彦は「ケインズ理論の実践者であった」と述べている。そしてケインズの理論により、赤字国債が増えすぎたという話ももちろんある。しかし、日本が成長してきた段階で、赤字国債を返済し、財政の健全化をしようとしたのも高橋是清である。晩年、日本財政のために軍と向き合い、真剣に国家を考え、行動した人物は高橋以外にはありえないと考えている。

 時には蔵相として超党派を呼びかけ、誠意だけを持参し、日本の危機を解決していった高橋是清は、混迷する今の国会にまさに必要であるし、現在の国債を見たらどのように語るだろう。その時代を超えて感じることができる愛らしさは、時代が生んだ「日本の宝」だったのだと結論づけたい。

参考文献

『近代日本政治史』 坂野潤治 岩波書店
『随想録』 高橋是清遺著 千倉書房
『高橋是清』今村武雄 時事通信社
『幣原喜重郎とその時代』 岡崎久彦 PHP文庫
『重光・東郷とその時代』 岡崎久彦 PHP文庫
『昭和史探索1、2、3』 半藤一利 ちくま文庫

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菊池勲の論考

Thesis

Isao Kikuchi

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第27期

菊池 勲

きくち・いさお

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