論考

Thesis

セーフティーネットとしての医療 ~米国テキサス州ヒューストンにおける約3ヶ月間の研修から~

息子を連れてアメリカに渡り、アメリカの医療の「影」の実態を、格差社会の底辺から探ってきた約3ヶ月間。政経塾での3年間の総まとめとして位置づけたこの研修で、私が目にし、耳にし、そして考えてきたことを、ここに紹介したい。

1.はじめに

 その男性は、巨体だった。男性は、同じように巨体の若い女性と、対照的に小さく細い体つきをした年老いた白髪の女性を連れていた。女性は二人とも杖を持っていた。若い女性の杖は白い杖で、どうやら目が見えにくいようであった。

 三畳ほどしかない狭い部屋の中で、向かい合って座っていた適性審査員のジョーに向かって、男性は流暢な英語で繰り返し訴えた。

 「妻と娘はメディケイドを持っているが、私は持っていない。私の分のメディケイドは昨日申し込みに行ったが、次に通知が来るまでに1ヶ月かかると言われたんだ。そんなに先まで診察を待っていられない。」

 三人はヒスパニック系の家族だった。祖母と、孫夫婦。親子ではない。夫は32歳、妻は30歳であったが、二人とも糖尿病で、妻は糖尿病による網膜症のため失明寸前の状態であった。夫は、建設会社などで職を転々とする生活で、現在は失業中の身である。

 ジョーは一通り男性の話を聞き終わり、ため息をつきながら男性に向かってこう言った。
「この診療所では、メディケイドを持っている奥さんは医療を受けられません。あなたの方はメディケイド申請が受理されるかどうか分かりませんので、今回は例外としてひとまず3ヶ月間のみの診察カードを発行しましょう。」

 ジョーは、カードに3ヶ月間の有効期限を記入し、男性に手渡した。男性は納得した表情で、再び妻の手を引いて待合室に戻っていった。

 待合室に戻った彼に、私は持っていたアンケート用紙と鉛筆を手渡した。
「この診療所のアンケート調査を行っています。ご協力をお願いいたします。」
「もちろんいいですよ。」

 彼は快諾して、アンケート用紙に記入を始めた。書き終わったアンケート用紙にはこう書かれていた。
『あなたは現在のアメリカの医療システムに満足していますか?・・・・・・・・はい』
アメリカの無保険者率(医療保険を持っていない人の割合)は、2006年の段階で4700万人、実に全人口の15.8%に達した(*1)。この無保険者問題は、アメリカの医療システムが抱える「影」を最も如実に表している。無保険であることは、医療という国のセーフティーネットそのものから国民が切り離されてしまったことを示すものであるからだ。事実、大統領選を目前に控え、最有力候補とされるヒラリー・クリントンをはじめ各民主党候補も医療保険制度改革をその主要な政策テーマの一つに掲げている。

 私はアメリカが抱える医療の「影」を自分の目で確かめ、同時に米国民がその現状に対してどのように考えているのか、どのように感じているのかを理解するために米国テキサス州ヒューストンで約3ヶ月を過ごすことにした。主に無保険者が駆け込む病院の救急や診療所で、医者の立場ではなく、一人のボランティアとして事務や受付の仕事に携わった。

 そして、そこで私が出会った人々は、上記の例のように必ずしも自らがおかれている現状に対して不満を抱いているわけではなかった。なぜ、先進国にいながら日本では考えられないような悲惨な状況にあっても、彼らは文句を言わないのか。アメリカの社会保障は、彼らにはどう受け止められているのか。政治はどのような社会保障の理念を国民に呈示し、国民は今後のアメリカの進むべき方向性についてどう考えているのか。次々と湧き上がる疑問を、私は誰彼となく出会うすべてのアメリカ人に遠慮なくぶつけてまわった。

 医療の「影」をキーワードに、アメリカという国の価値観を格差社会の底辺から探ってきたその3ヶ月間の研修で、私が体験してきたことと考えてきたことの一端をここにまとめてみたい。そして、国家観レポートと合わせて、日本における医療の理念、社会保障の理念、そして国家の理念のあるべき姿を考えてみたい。

2.研修の日々

(1)テキサス州ヒューストン

 私がやって来たのは、米国テキサス州ヒューストンである。テキサス州をなぜ選んだのかと言えば、この州の無保険者は全米で最も高い24.1%を占め、実に約4人に1人が無保険者という状態であるからだ。
その広大なテキサス州の南東部に位置する都市、ヒューストン。ブッシュ大統領の地元として知られ、石油ビジネスやNASA(米航空宇宙局)をはじめとする産業の中心地でもある。

 このヒューストンは同時に、テキサス・メディカル・センター(TMC)と名の付いた巨大な医療地区を有し、医療は石油や宇宙航空業界と同じくヒューストンの主要な産業の一つである。この地区には、46の医療施設が集合しており、13の病院、2つの医科大学、研究機関などが含まれ、今もなお新しい施設の建設が進んでいる。中でもM.D.アンダーソン癌センターは全米のランキングで第2位にランクされる世界に名だたる研究機関であり、世界中から患者が訪れる。TMC全体で訪れる年間患者数は550万人に上り、施設もホームレスから石油王に至るまでありとあらゆる患者に対応できるサービスを備えている。雇用者は7万3600人であり、TMC周辺には医療従事者用の住宅のほか、長期に宿泊する患者用の宿泊施設も豊富である。

 その巨大な医療施設を抱えながら、ヒューストンの無保険者率はテキサス州の25の主要都市(Metropolitan Statistical Area)の中でも第6位の27.7.%に及ぶ(*2)。さらに、無保険者率が上位の都市においては通常年間平均賃金が低い、つまり「貧乏な」都市が多いが(例えば無保険者率第1位のラレドは、年間平均賃金が第23位)、ヒューストンは、ダラス、オースティンに次いで第3位の39,675ドルであり(*3)、「金持ち」の都市であるはずなのだ。すなわち、ヒューストンは産業に恵まれながらも貧困層と金持ち層とのギャップの著しい、米国を代表する典型的な「格差社会」なのであり、その格差が医療にも着実に反映されているのである。

 私がこのヒューストンを研修の地として選んだのは、米国を代表する医療格差都市であるヒューストンであれば、アメリカの医療の「影」の実際を正確に捉え、その「影」をめぐる人々の考え方を把握することができるのではないかと考えたからであった。

(2)サンノゼ診療所

①サンノゼ診療所とは?

 そのヒューストンには、米国の他の地域と同様に、「慈善診療所」や「地域診療所」があちこちに点在し、無保険の人々や低所得者層の人々の駆け込み寺となっている。種類もさまざまであり、民間の非営利団体や政府系あるいは地方自治体系の診療所、無保険者あるいはホームレス専用の診療所やメディケイド及びメディケア(いずれも政府による公的保険)専用の診療所などが存在する。

 そうした慈善診療所の1つが、ヒューストンのダウンタウンの外れにあるサンノゼ診療所である。1922年に創立された米国内に現存する最古のフルタイムの慈善診療所であり、無保険者を対象とした医療を提供している。

 サンノゼ診療所は、その名(San Jose)の通り、聖ヨセフを信仰するカトリック系の団体が運営する。アメリカでは宗教団体がこのようなセーフティーネットの役割を担うことは決して珍しくなく、むしろその活動範囲は広く影響も大きい。サンノゼ診療所は歯科治療、眼科を含めた初期診療を担い、血液検査や処方箋を提供している。患者数は年間約2万7千人であり、50人ほどいる医師は1人を除いてボランティアである。運営資金の主体は企業や個人からの寄付であり、年間約270万ドルが寄付されている。患者の支払い代金は、収入によって15ドルから5ドルごとに最高35ドルまでの5段階に設定されており、この代金で薬代もカバーされる。

 アメリカの医療制度は極めて複雑である。民間企業による医療保険や公的な医療保険を含めて多種類の保険が存在し、その保険によって受診できる医療施設や医療の種類が異なる。そこで、医療機関によっては、「適性審査窓口」が設けられており、この窓口で患者がこの医療機関を受診できるのかどうかが確認される。各州によって、あるいは各地方自治体によっては、独自に医療保険制度を設けているところもあり、その場合はさらに話がややこしくなってくる。

 サンノゼ診療所も例外ではない。15ドルから35ドルまでの支払い代金の額を決定するためには、患者及び家族の身分証明書、所得税証明書、ヒューストンに住んでいることを証明する公共料金の明細書等の3種類の書類を準備し、審査を受けなければならない。

 そこで、私は、サンノゼ診療所の受付から「適性審査窓口」までの案内及び補助業務を担当させていただくことにした。適性審査員は数名いたが、私はボランティアの審査員であるジョーに特に親切にして頂いた。彼は退職した元会社員であるが、英語の教師を勤めていたこともあり、私には熱心に英語の指導もしてくれた。

②無保険者の実際

 そして、そのジョーの下で出会った人々のうちの典型的な一例が冒頭に紹介した患者である。

 もう1つのケースを紹介したい。
その患者は、同じくヒスパニックの50代の男性だった。その日の待合室は混んでいた。適性審査を受けるにも2時間以上の待ち時間であった。ようやく順番を呼ばれた男性に、スペイン語でジョーは話しかけた。
「今日は、どんな理由でいらしたのですか?」
男性は小さな声でぼそぼそと答えた。
「息が苦しい。咳をすると血が出るのです。」
ジョーは驚いて言った。
「それならすぐに呼吸器の専門家の診察を受けなければなりませんよ。では書類を見せてください。あれ、申し込み用紙の裏面が記入されていませんね。」
申し込み用紙の裏面には、現在受けているメディケイド等の公的な社会保障の収入があるかどうかをチェックする欄があった。
「メディケイドは?受けていませんね。CHIP(公的児童保険)もなし、と。ゴールドカードは?」
「持っていると思います。」
「ゴールドカードを持っているなら、この診療所では診ることができません。すぐにゴールドカードが使える以下の診療所へ行かないと・・・。でもあなたの場合は、本当は救急へ行った方が良いかもしれません。」
「・・・でも・・・、もう期限切れと言われて・・・。」
「それなら新しいカードを申請しなければ。新しいカードの発行はどこへ行けばもらえるか知っていますか?」
「・・・よく覚えていません・・・。ここの診療所のカードは・・・?」
「発行できますが、その代わりゴールドカードはもらえないですよ。この診療所にはレントゲンすらありませんが、ゴールドカードが使える診療所はそれなりに充実した設備があります。」
「・・・・。」
男性は、すべての質問に要領を得ない答え方をしていたが、最後には黙ってしまった。しかし彼の健康状態も鑑み、ジョーは、彼のカードを発行した。彼の所得水準から彼の診察料金はランクA、すなわち、最も低い15ドルのクラスとなった。
なお、ゴールドカードは、ヒューストンを含むハリス行政区が独自に発行する公的医療保険サービスである。

 さて、冒頭の例とあわせて、無保険者のいくつかの特徴を紹介したい。
まず、人種別で言えば、無保険者となりやすい人種はヒスパニックである。ヒスパニックの無保険者に占める割合は34.1%であり、逆にヒスパニックのうち36%が無保険者である。特にテキサス州はメキシコと国境を接しており、元々メキシコから独立したテキサス共和国を経てアメリカに併合された歴史も持つため、ヒスパニック系の人口は全人口の1/3以上を占める。現在でも、中南米から国境を越えてアメリカに移住する人の数は非常に多く、テキサス州のみでも移民は約340万人である(*4)。そのうち、160万人近くが不法移民であり、特にメキシコや中南米からのヒスパニックの移民のおよそ半数は不法移民であると推計される。移民問題は、米国政府が頭を抱える社会問題の1つでもあるが、統計に寄与している主要な無保険者の大多数はこうした不法移民ではなく、アメリカの市民権を得た米国民であると言う(*5)。

 サンノゼ診療所にやって来る患者もヒスパニック系の人々が大多数を占める。彼らは、時に自分の名前すら書けないほど、教育水準が低い人々もいる。スペイン語しか話せない人も多く、診療所のスタッフはスペイン語と英語の2ヶ国語を話せる人が多い。彼らは家族が多く、診療所には時に子どもや親戚を大勢連れてやって来る者もいる。

 彼らは非常に勤勉であるが、所得水準は低い。米国全体の統計においては、無保険者の3分の2は貧困あるいは貧困に近い人々(FPLの2倍未満の所得者)であるが(*5)、中でも問題なのは、無保険者の2/3を占める仕事を持つ成人である。低所得者を対象とする公的保険であるメディケイドの受給額をやや上回る程度の所得しか持たない、いわゆるワーキングプアである。特にテキサス州では中小企業が多く、米国で最も医療保険を提供する主体としての雇用主が、保険を提供できない場合が多いのである。米国内では53%を占める雇用主による医療保険は、テキサス州内では48%である。しかし、だからと言って、彼らには民間の保険を購入する経済的な余裕がないことは言うまでもない。

 頼みの綱である公的保険やその他の医療サービスもハードルは高い。メディケイド自体、受給資格を得るための所得制限が、テキサス州では3人家族で4,822ドルに設定されており、18,000ドルのカリフォルニア州や25,000のニューヨーク州と大きな差がある。そもそも、公的保険にはメディケイドを含めていくつか種類が存在し、ヒューストン近郊には多種多様の医療機関が存在するものの、その仕組みが複雑で、特に低所得者の患者には極めて利用しづらい仕組みともなっている。それぞれの医療機関で適用される保険の種類が違ったり、医療機関が開いている時間帯や曜日もバラバラであったりするため、どの医療機関に自分がかかることができて、今、どこの医療機関が開いているのか、という情報を得るのは、彼らにとってはたやすいことではない。そして、そもそも診療を受ける前の保険の手続きの時点で、どの保険に自分が申請可能であるかを知り、さらにその申請をするために書類を手に入れ、該当する行政窓口へ出向く、といったプロセスはなかなか教育水準の低い人々には難しいのである。また、プロセスすべてを完了するのに時間がかかり、結局更新期限のあるサービスは、更新すらしなくなってしまう人も多い。

 無保険は患者の健康に着実に影響を及ぼしていく。冒頭で紹介した例のように、糖尿病など慢性の疾患を持つ患者の容態はすぐに悪化し、若くして糖尿病の合併症である神経疾患による脚の切断や網膜症による失明に至る例などが跡を絶たない。また、早期発見が必要な疾患でも重症に至る例もある。なお、25歳から64歳までの無保険者のうち、無保険のために死に至った例は年間1万8千人と見積もられている(*5)。

(3)ベン・タウブ病院

 苦しそうにあえぎながら中年の白人男性がふらふらと受付にやってきた。
「ここが救急ですか?とにかく苦しいんだ。早くしてくれ。」
そう言いながら、その男性は、受付にいる私ではダメだと言わんばかりに、奥の看護師のいるトリアージルームにすでに向かってしまった。その男性の後を追おうとすると、後ろから別の初老の男性に声をかけられる。
「ちょっと、ここかい?足が痛いんだ。紹介状を持っているから直接向こうへ行っていいだろう。」
と、手にした封筒を私に見せながら、その男性も奥へ進もうとした。
「その前にここにサインして、この書類を書いてください!」
そう答えていると、今度は若いヒスパニックの男女が、記入を済ませた用紙を持ってやって来た。
「彼女は妊娠していて、出血したんです。救急ですから、看護師さんに取り次いでもらえませんか?」
これは本当に救急だから報告しなければと思い、看護師のいるトリアージルームへ行って看護師に声をかけた。
「妊娠している女性が、出血したと言っています。」
忙しくてキリキリしている看護師は、早口でまくしたてた。
「あなた、実際の血を見た?具合悪そうだった?とりあえずここへ連れてきて!」
待合室へ戻ると、今度は一見してホームレスのように見える男性が、私に声をかけに来た。
「あと待ち時間はどのくらいかね?」
仕方がないので、一言で答える。
「分かりません!」

 ベン・タウブ病院の救急外来の受付は一日中忙しい。しかも、私から見れば、どの患者も重く見える。そして皆早く医者に診てもらいたいという一心である。時に待ち時間は3時間以上となり、12時間に及ぶこともあると言う。小児科医の私は大人のことは素人であり、苦しそうにしている患者を目の前にしていると、気が気ではない。

 ベン・タウブ病院は、TMCの中で最も大きな病床数650床の公的病院であり、その運営主体はハリス行政区病院地区(Harris County Hospital District; HCHD)である。公的病院ということもあり、ベン・タウブ病院の救急外来には、連日のように無保険者や低所得者層が列をなして受診する。救急外来になぜ来るのかといえば、24時間365日受診でき、同時に予約や紹介状が必要でない点、さらにお金がなくても見てもらえる点、つまり、誰でもいつでも受診できるからだ。

 無保険者が急増したため、ベン・タウブ病院を含むヒューストンの救急外来の患者数は1994年から2004年の10年間で50%以上増加した(*6)。

 無保険者は支払うことができないにも関わらず、結果的に具合が悪くなれば救急外来に駆け込まざるを得ない。その結果、病院など医療提供者側のコストが値上がりし、その値上がり分は、医療行為の価格を値上げすることによって賄わなければならない。今度は、その値上げによって保険会社は、保険料を高く設定しなければならなくなり、結局はそもそも保険料を支払っている人が、より一層高い保険料を支払わなければならないという悪循環が生まれるのである。テキサス州の有保険者の人々は、こうして無保険者にかかる医療費のため、1,551ドルを余計に支払っている(*6)。

 すなわち、無保険者の問題は、結果として無保険者だけでなく、有保険者に直接影響を及ぼしているのである。

 有保険者にとって、アメリカの医療の「影」は無視できない別の要因もある。米国内の破産原因の約50%が医療費によるものであり、年間200万人以上に上るという報告がハーバード大学により発表された(*7)。1981年から2001年までの20年間の破産は、全体で3.6倍に増えたが、医療による破産は22倍に増えた。また、医療により破産したケースのうち68%は保険に入っている人々の破産であるが、実際には保険に入っていても病気のために職を失い、失業のために医療保険を失ってしまうと言う。なお、こうした人々の9割は中間所得者層だ(*8)。

 さらに、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『シッコ』でも明らかにされたように、保険に入っていても、高額な治療費を請求された場合、保険会社から支払いを拒否されたという例は後を絶たない。

 ヒューストンに在住の日本人の林さんは、アメリカ人の夫を7年前に亡くした。夫は心臓移植を受けてから5年間生存したと聞き、私はぶしつけな質問を承知でおそるおそる尋ねてみた。
「治療代はかなり高かったのではないかと思いますが、いかがされたのでしょうか。」
「あのね、夫は医療保険も3つも加入していたんですよ。ブルークロス・ブルーシールドと他に民間の保険会社のを2つも。でも、心臓移植にかかるお金が高すぎて、支払いを拒否されてしまったんです。3つも入っていたのに、一体何のために入っていたのかわかりませんよね。仕方がないので、メディケア(高齢者用の公的保険)を申し込みに行きましたが、そのお金もすぐに使い終わってしまって。そのうち、支払いが滞ったので、カード会社から電話が来るようになりました。ブラックリストに載ってしまったんでしょうね。まあ、一生かかっても私では払えないお金だわ、どうしましょう、って、あの時は本当に途方にくれました。でも、夫の知り合いの弁護士さんがいましてね。その方に仲介を頼んだら、その後は毎月少しずつでもお金を返せば良い、っていうことになったんです。今は毎月50ドルずつ支払いしています。」

 林さんのように弁護士と知り合いで仲介をしてくれるケースがそう多いとは思えない。林さんのような中間所得者層でも、大病を患った場合には、決して今までの生活を老後まで享受できるとは限らないのだ。
つまり、アメリカの医療の「影」は、高所得者以外のすべての層に着実に浸透しているのである。

(4)医療を取り巻く人々の価値観

 明らかにこの国の医療セーフティーネットは崩壊している。そう思いながらも、こうした無保険者たち自身が、自分たちの受ける医療についてどのように考えているのかを調べるため、アンケート調査を開始することにした。

 アンケート調査は2007年11月から12月にかけて、患者計100名に記入式で実施した。記入用紙はスペイン語と英語の両方を用意した。100の回答のうち、2つは質問に対する答えにつじつまが合っていなかったため除外し、98の回答をもって統計処理を行った。質問項目は7項目であったが、特に重要な質問は、以下の2つであった。
a.政府は医療分野への補助金を増額するべきだと思いますか?
『はい』と答えた場合、その補助金を増額するための増税には賛成ですか?
b.この国の医療システムに満足していますか?
『いいえ』と答えた場合、その理由は何でしょうか?

 回答結果は以下の通りであった。
a.補助金の増額について:『はい』・・・54%、『いいえ』・・・36%、無回答・・・10%
 増税について:『はい』・・・58%、『いいえ』・・・42%
b.『はい』・・・58%、『いいえ』・・・37%、無回答・・・5%
 『いいえ』の理由の主なもの:費用が高い(20名)、アクセスが悪い(8名)、システムが公正でない(5名)など

 驚いたのは、この国の医療の現状に満足していると答えた人が6割近くを占めているということである。また補助金についても、ある回答者は、「補助金?何のことだ?そんなことは考えてみたこともない。」と言うくらいであるから、そもそも政府が彼らに何か補助を与えるという概念すら存在していないことすらあるようだ。それは、彼らが医療システム全体についての意識を持つまでに至らない教育水準しか持ちあわせていないためなのか、あるいは、日々の生活を過ごすのに懸命で他のことは何も考えられないためなのだろうか。いずれにしてもこの状況では、彼らの声は政治的にはあまりにも小さい。

 アメリカ滞在中には、サンノゼ診療所、ベン・タウブ病院以外にも、ヒューストン近郊の様々な場所で、私はインタビューをしてまわった。アメリカ人が自分たちの国をどのように考えているのか、医療についてどんな考え方を持っているのかを知りたかったからである。そして、上記の2つのアンケートの項目は、ほぼすべての人へのインタビューで聞いた項目であった。補助金についての質問は、小さな政府か、大きな政府か、という国家のあり方に関わる質問でもある。

 ある日、TMCの近くで毎週行われているホームレスへの炊き出しのサービスを見学しに行ったとき、一人の白人男性のホームレスに聞いてみた。
「あなたは、アメリカ政府はホームレスに対する補助金を増やすべきだと思いますか?」
彼は、とんでもない、と言う目つきで私を見た。
「なんだって?まったくそんなことばかげているよ。ここにいる連中を見てごらん。この中の誰か歩けないやつがいるか?英語を話せないやつがいるか?1人もいやしない。彼らはただ働きたくないだけなのさ。ヒューストンはホームレスに対するいろいろな援助があることで名が知れていてね。働かないでこうしてタダ飯にありつこうっていうんだから。ホームレスに対する援助を増やす必要なんて、まったくないね。」

 彼の英語に訛りはなかった。ホームレス自身がホームレスに対する援助は必要ないと言うのには驚く。確かにこの炊き出しには、白人や黒人が多く、ヒスパニックは見かけなかった。また、実際、ヒューストン市内にはホームレスの救護所や食事のサービスも、教会をはじめとして様々な箇所で行われていることも確かである。ホームレスは、サンノゼ診療所の無保険者の人々よりもさらに所得の低い層の人々であるが、自助努力の必要性に対する価値観は、当事者であるホームレスたちにも浸透しているのかもしれない。

 ただ、医療システムにはやはり公的な保険が必要なのではないか。その問いかけには、医療従事者でさえも、疑問を呈する声も多くあった。
「確かに、公的な社会保険は、現状を解決するのに最も理想的な手段であると思います。かし、このテキサス州では決してうまく機能しないでしょう。」
と、慎重に答えたのは、『子どもを守る基金(Children’s Defense Fund)』に勤務するシルビアさんである。

 「単純に政府の支出を増やすのではなく、法律の規制の仕方を変えたり、使い道を変えなければならないのです。」
こう答えたのは、カトリック・チャリティーズという団体でセーフティーネットの活動を多く手がけるネオンさん。

 「政府が運営する、つまり官僚が運営する病院や診療所は、非常に効率が悪い。すべての医療制度を政府の管理下に置くのは危険です。」
こう回答したキリスト診療所のローラさんは、社会保険に対する強い嫌悪を示す。公的な保険に対する反対の声は、根強いようだ。

 一方、もちろん公的保険が必要だと感じている人もいる。ヒューストンではNPOや宗教団体が慈善活動を熱心に行っており、私がサンノゼ診療所で出会ったボランティアスタッフも、皆親切で善意に満ち溢れていた。そして、自分たちの活動は社会に貢献しているという誇りを持っていた。

 「ボランティアが単純に好きなのよ。人のために働くのが医師の原点でしょう。でも、この国の医療は一言で言えば、まったく哀れとしか言いようがないわ。社会保険の仕組みを作ることももちろん必要よ。」
と、サンノゼ診療所で2年間、ボランティア医師を勤めるアンナは語った。彼女は病院の第一線を退いた小児科医であるが、この診療所で週1度働く。そしてもちろん医療の現状には危機意識を感じている。ただ、そのようなボランティアや慈善事業だけでは根本的な医療システムの解決にはならないことを承知する数少ない医師の一人でもある。

 「政府予算の増額は絶対に必要ですし、包括的な保険も必要です。少なくとも、現在の段階ですら、必要な人々に十分な医療を提供できるだけの医療資源が足りていない。」
とその必要性を答える、家庭医のオーさんのような人もいる。彼は、公的な医療保険をテキサス州内で実現するための活動を、仲間の医師や医療従事者たちと行っている。

 ちょうど米国滞在中の10月上旬、ブッシュ米大統領はCHIP(州児童医療保険プログラム)に対する350億ドルの予算の増額を拒否した。CHIPはメディケイドの受給資格をやや上回る収入があるが、医療保険を購入する経済的余裕のない家庭の子どもたちに対する公的保険である。その大統領の判断に対し、世論は二分している。USA・トゥデイ紙による世論調査(*9)では、この件に関しては、32%がブッシュを支持し、52%が民主党を支持していると答えたにも関わらず、CHIPの適応範囲は貧困線の2倍以下までだとするブッシュ大統領の案に52%が賛成している。そして、CHIPが政府の運営する公的な医療保険へつながることを懸念していると答えている人は55%に及んだと言う。

 少なくとも、市場原理が尊ばれるアメリカ国内で、公的保険制度の導入や政府の医療への予算の増額など、アメリカ人の考える「社会主義」は、実際にはすでに卓上の議論となっているのである。

3.アメリカ型医療の是非

 アメリカにおける無保険者の問題は、医療というセーフティーネットがシステムとしてすでに機能していないことを示している。
アメリカの人々を、所得によって高所得者層(年間所得が貧困線の4倍以上)、中間所得者層(貧困線の2~4倍)、低所得者層(貧困線の2倍以下)、貧困層(貧困線以下)の4つの層に分けるのであれば、無保険者の約3分の2は貧困層及び低所得者層に多い。しかし、無保険者は中間所得者層や高所得者層でも増加している(*5)。

 そして、無保険者の増加により、回収できない医療費は有保険者の「隠れた税」となって影響を与えると同時に、たとえ有保険者となっても、失業により保険を継続できなくなったり、保険会社から支払いを拒否されたりして、患者を破産に追い詰める。

 アメリカの医療の特徴を一言で言えば、市場原理に基づく自由診療である。社会保障の単位は個人であり、政府は個人の自由を最大限に尊重すべく、規制や社会保障費を最低限に抑えた小さな政府を確立する、という理念がベースにある。

 市場原理による医療を選択した以上、多かれ少なかれ市場の失敗は避けられない。その現実は明らかだ。しかし、そうは言ってもアメリカも、市場原理に基づく医療の提供体制がもたらす欠陥を、手をこまねいてただ漠然とこれまで見守ってきたわけでもない。過去、市場原理による医療産業における市場の不完全性を補うため、様々な医療システム改革が国や州ごとに行われてきていた。規制改革としては、90年代には小規模雇用主の医療保険改革がほとんどの州で実行され、民間医療保険に料率規制を中心とした様々な規制が実施された他、事後的にリスクを軽減する再保険プールが設立されたりもしている。あるいは、その州独自の公的医療保険制度を持つ州もあり、現在、マサチューセッツ州で2007年6月から州が運営する包括的な医療保険制度が始まったほか、ベルモント州やメイン州でも同じ動きが見られた。さらに、カリフォルニア州でも、シングル・ペイヤー・プランという保険制度が提案され、実現に向けて動き出している。国の改革で言えば、メディケイドやメディケアの開始もその主翼であるし、2008年の大統領選を前に、民主党候補が国レベルの社会保険制度を提案しようとしている。

 アメリカ型の福祉国家は、このように市場の失敗を公的な制度による政府の介入で補う努力を常にしてきているのである。しかし、例を挙げればきりがないが、これまでのところ、まだアメリカの医療は完全に安心できる医療になっているとは言えない。この先、市場原理による医療提供体制を残しながら、これを補完する意味での公的保険制度の創設やその他の規制改革が行われたとしても、長期的にみて持続可能性を持つ医療システムが確立されるのか、懐疑的にならざるを得ない。

 医療の基本を市場にゆだね、その一方で社会の中で最も弱者と考えられる、高齢者、障害者、子ども、貧困層の人々に対しては、規制を強化したり、公的保険を用意したりすることによって支える。余裕のある人々にとっては、医療の選択肢が増え、質の高い医療を享受することも可能である。そのシステムは一見正当性を持ち、実際にも十分機能するかのようにも思える。しかし、医療という分野においては市場原理の不完全性は、アメリカのこれまでの社会保障改革の歴史を鑑みても、どうやっても補いきれるものではないと私には思える。そして、医療というのはそれ自体が国のセーフティーネットであり、その骨格が確固としていない社会システムの下では、本当に国のごく一部の人々を除いて皆社会的弱者に転落する不安と隣り合わせにいなければならない。それはたとえ、社会保障の最底辺を底支えしたとしても、結果的に「普通」の国民すべてに影響が及ぶものであることを痛感した。

 日本の医療は、現在、大きな過渡期を迎えている。アメリカでの研修を踏まえたうえで、今後の日本の医療、そして社会保障がいかにあるべきかは、引き続き国家観レポートにて考察していきたい。

4.終わりに

 「子どもを連れてアメリカへ行ってはならない。」
そう言い渡されて離塾を決意し、子どもと母と3人でアメリカへ渡った。この3ヶ月間の研修は、私の政経塾における研修の総まとめであり、アメリカでの研修は必須だと感じていた。しかし、コネがあるわけでもなく、着実に何かが得られる保証はない。私にとっても、息子にとっても、大きな賭けであったことは間違いない。

 結果的には、アメリカ医療の「影」の現実を、私はしっかりとこの目で見届け、そしてこの耳で聞くことができた。そしてもちろん、この研修は、これまでの3年間の政経塾での研修の積み重ねの上になければ、実りを得ることができないものでもあった。形式的にではなく、自分の気持ちのうえでも、これで無事に「卒塾」を迎えられると思う。

 最後に、この研修を実現するためにアメリカという異国で生活してくれた母と息子、そして離れての生活を余儀なくされながらも私と息子をアメリカに送り出してくれた夫と家族には心から感謝したい。

*なお、プライバシー保護のため、文中の人名はすべて仮名とした。

<脚注>

*1 U.S. Census Bureau 2007
*2 Texas State Data Center and Office of The State Demographer,
   “County Estimates of the Uninsured for Texas 2005”
*3 Texas Workforce Commission, Annual Wage 2006
*4 Steven A. Camarota, 2007, “Immigrants in the United States, 2007:
   A Profile of America’s Foreign-Born Population”
*5 The Kaiser Commission on Medicaid and the Uninsured, 2007,
   “The Uninsured: A Primer, Key Facts about Americans without Health Insurance”.
*6 Texas Hospital Association, 2007
*7 Himmelstein, David, Elizabeth Warren, Deborah Thorne, and Steffie Woolhandler.
   2/2/05. MarketWatch: Illness And Injury As Contributors To Bankruptcy.
   Health Affairs.
*8 Frosch, Dan. 2/3/05. Your Money or Your Life. The Nation.
*9 U.S.A.TODAY, 10/16/07,”Poll:Mixed feelings on kids’ health care program”

<参考文献>

・小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』日経BP社 2006年
・中浜隆『アメリカの民間医療保険』日本経済評論社 2006年
・広井良典『生命の政治学』岩波書店 2003年
・エリアス・モシアロス他編著、一圓光彌監訳『医療財源論 ヨーロッパの選択』 2004年

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坂野真理の論考

Thesis

Mari Sakano

坂野真理

第26期

坂野 真理

さかの・まり

虹の森クリニック院長/虹の森センターロンドン代表(子どものこころ専門医)

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