論考

Thesis

坂東俘虜収容所とお遍路接待文化

歴史には、多面性がある。その多面性とは、同じ時間の流れの中でも、立場によって違う物語を経験することである。史実に基づいて検証することこそ、歴史に学ぶ第一歩であろう。「第九」の音楽から紐解く、身近な歴史考察・第一弾。

毎年決まった日に「第九」の響く街がある

♪Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt;
 alle Menshen werden Brüder, wo dein sanfter Flügel weilt.
(貴方の御力により、時の流れで容赦なく分け隔たれたものは、再び一つとなる。全ての人々は貴方の柔らかな翼のもとで兄弟になる。)

 毎年師走も暮れになると、日本ではいまや恒例のごとく流れる音楽がある。ベートーベンの「交響曲第九番」である。その本邦初演奏が、今から約九十年前、徳島県は鳴門市郊外に設けられた、ある収容所で響き渡った。演奏された六月一日を鳴門市は第九の日と定め、毎年六月の第一日曜日に「第九」の演奏会を開催している。

 ある収容所とは、当時、全国十六カ所に設置された捕虜収容所の一つ、「坂東俘虜収容所」である。

 鳴門海峡を望む、渦潮で知られる鳴門市は気候温暖な人口六万三千余の市である。直径二十メートルにも達する壮大な渦潮は、世界でもほとんど類を見ない。筆者は、その渦潮にも負けないこの日のオーケストラと大合唱団のエネルギーが、地元に根付く文化と強く融合しているように感じるのである。

 日本初の「第九」は一体どういうことから演奏されたのか。その手がかりを知ることが出来る建物が、鳴門市中心部から西に十数キロの大麻町の山裾にある。四国八十八ヶ所一番札所霊山寺と大麻比古神社のほど近くに、その洋館は突如として現れる。平成五年に現在の地に新築移転された「鳴門市ドイツ館」である。ヨーロッパ本国から遠く離れたアジアの地で囚われ、「歓喜の歌」を歌うことになったドイツ兵たちの数奇な運命を、その歌がそれぞれの現在と過去の歴史をつないで語りかけてくれる。

 時は大正三年六月二十八日、セルビアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたことがきっかけで、一ヵ月後の七月二十八日第一次世界大戦が勃発した。やがて日本は日英同盟の誼から、八月二十三日にドイツに宣戦布告し、陸海軍合わせて七万人余の大軍を、中国山東半島の青島を攻撃するために派遣した。青島は明治三十一年以来、ドイツが極東進出の拠点とした租借地の要の都市だったからである。この戦いで敗れた四千七百名近くのドイツ兵たちは、俘虜として日本に移送され、各地の収容所に容れられた。その一つが「坂東俘虜収容所」であった。鳴門市ドイツ館から南に五百メートルほどのところにその収容所はあった。

 青島ドイツ兵俘虜の最後の生存者と目され、平成四年に九十七歳で死去したパウル・クライは晩年、「世界のどこに坂東のような収容所があったでしょうか、世界のどこに松江大佐のような収容所長がおり、そこに暮らす人々がいたでしょうか」と周囲に伝えられたと言われる。

 後にドイツで、かつての坂東収容所の俘虜たちにより「坂東会」が結成されたのも、このことと関連している。もちろん、その良き日々を懐かしみ、敬いを持ってこの地の名を冠しているのである。ドイツ館や地元鳴門市には、元俘虜やその子孫から様々な資料が寄せられているともいう。所長と住民との心の交流が彼らの行為の根底にあったと思われる。

 松江所長は同僚の非難に遭いながらも、俘虜に対して可能な限り最大限の配慮を示し、俘虜による自主的な活動や、近隣住民との交流を許した。その人間味溢れる人柄から、松江所長は俘虜から敬意を払われ、また慕われもした。このことから坂東収容所は模範的収容所と言われる、全国でも随一の収容所となったのである。

 「武士の情」を貫き、「彼らも祖国のために戦ったのだ」と俘虜を労わる松江所長の姿勢と、その人道的な収容所運営によって、俘虜と地域住民との交流も盛んになった。住民たちは俘虜を「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、彼らからソーセージやパンの製法、西洋野菜の栽培、酪農など多方面で先進ドイツの技術を学んだ。俘虜たちも住民から日本文化を吸収してお互いの友情が育まれた。そうした交流の一環として本邦初の「第九」が坂東の地で演奏されることになったのである。

坂東の人々

 それでは収容所が設置された坂東地区に住む人々とドイツ兵との関わりはどんな様子であったのだろうか。

 ここに写真がある。筆者にとっては見慣れた光景、そう、地元阿波踊りを写したものである。他に五右衛門風呂に入る女の姿もあれば、農作業をする住民の姿も鮮明に写されている。しかもその多くがカメラ目線であり、にこやかに微笑んでいる。これらを撮影したのは他でもない、俘虜生活をしたドイツ兵であった。互いの信頼関係がなければ、異国人の笑顔の写真は撮れるはずもない。一端を裏づけるように、当時の俘虜収容所生活は地元の人々と密着したものであったようである。

 民衆の当時の「俘虜観」は意外なものであった。この時期の日本人には、ドイツ兵俘虜を憎む気持ちはなく、戦争で敗れた相手方の俘虜を敵国人という目線で捉えなかった、という。庶民の感覚からすれば、むしろ珍しい人たちがやって来たという印象だった。

 最初にドイツ兵俘虜が徳島に入ったとき、市民がどう反応するか日本の先導部隊は心配した。しかし、俘虜を乗せた列車が駅のホームに入ってくると、今日で言えば多くの有名人タレントを迎えるような大変賑やかな光景になったそうである。

 ドイツ人たちはドイツ唱歌を合唱し、手風琴やマンドリン、ハーモニカを取り出して大演奏を始め、日本人はハンカチを振り、娘たちは駆け寄った。一部では阿波踊りをしている姿さえ見られる。

 どこでも市民は好意的であり、好奇心旺盛で、ドイツ兵俘虜たちを見かけると歓声をあげた。収容所の立地からも、その好意的な受入れ方が見て取れる。

 四国八十八ヶ所第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)と、大麻比古(おおあさひこ)神社の近くの板野郡坂東町の陸軍演習場に収容兵舎を開設され、敷地面積は五万七千平方メートルと全国でも最大規模であり、敷地内ではそこで通用する紙幣・切手を印刷され、「タパタオ」と呼ばれる商工業街区をも作り上げた。霊山寺は元々聖武天皇から行基への勅命で建立され、八十八ヶ所巡礼の一番札所として存立、大麻比古神社は、神武天皇の時代阿波国に「麻楮」の種を播殖し、肥沃な土地を開拓した天太玉命の子孫・天富命が、守護神として天太玉命を祀ったことにはじまる由緒正しい神社であるとされる。当時、特に地元の人々にとって、仏と神に対する強い信仰が存在する場所の近隣地を、縁もゆかりもない外国人俘虜に提供し、また共に発展しようと努力したのである。開国という。当時の人々にとって一大革命から、まだ三十年程度の浅い時期に、である。田舎の住民は、初めて外国人を見る者も多かったであろう当時のことである。

 千二十八名の異国の俘虜を好意的に受け入れたこの町の住民を培ったもの何だったのであろうか。

 筆者はそれは一千年もの時が地元に生んだ、お遍路文化と深い関わりがあると考えるのである。ここで俘虜の話はしばらく置いて、この土地と住民の特徴を把握する上で、遍路文化について触れてみたい。

遍路文化とお接待

 遍路とは何か。様々な巡礼があるなかで、四国での巡礼だけが「遍路」とよばれるのはなぜか。

 四国を修行する人々の様子が最初に書かれるのは、「今昔物語集(推定千百四十年前後)」である。彼らは当時、海の彼方にあると信じられていた神道上の世界「根の国」へ渡ることを願った修行の一環ではないかと考えられている。やがて仏教の流入により、海の彼方にあるとされていた「補陀落浄土(観音菩薩が住まわれる浄土)」とが「根の国」と重なり、仏教の拡大と共に、「根の国」信仰と「補陀落浄土」信仰は混同されてしまったのではないかと言い伝えられている。

 平安期以降、日本各地で密教の広まりと共に弘法大師への信仰が広がる。

 大師は讃岐の国(香川県)の出身で、四国の山中海岸、太龍岳、室戸岬、石鎚山などで山道修行を行い、虚空蔵求聞持法智恵(広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った教え)を得、また正規の遣唐使の一員として入唐し、仏法を求めた。その後広く日本仏教の発展に寄与したことは言うまでもない。

 大師信仰が四国に広まるにつれ、補陀落浄土に至るための修行は、大師にあやかろうと、多く僧らが悟りを求め、各地より大師ゆかりの遺跡や霊場に修行・参拝に訪れるようになった。

 それが、お大師さまを思い四国を巡る現在のような遍路に変わっていく。当初、海辺の道や土地を表す言葉「辺地」・「辺路」は、「偏禮」「邊路」と変わりその後「遍路」と変化した。

 そうした事から四国では、大師信仰の広まりと共に、根の国・補陀落浄土への信仰はその姿を消していった。遍路が広まりを見せるこの江戸期前後は、「根の国」もしくは「補陀落渡海」を望む修行者と「大師」信仰による巡礼者が交差する修行の地であったと考えられている。

 しかし、大師信仰が庶民にも浸透してくるにつれ、在家の人々の中にも四国に行きたいと願う者が現れ、こうして徐々に、四国にも庶民が訪れるようなったのである。

 江戸時代を境に全国で民衆の巡礼が益々盛んになった。特に、当時四国での巡礼者の特徴は「職業遍路」の多さであった。

 つまりこれは、四国を巡りつづけることを職とした人々の総称である。様々な理由で地域や社会からはじきだされた人々が遍路となり、「お接待」と呼ばれる風習によりかろうじて生き延びることが出来ていたのである。

 「お接待」とは、遍路者を支援する昔ながらの風習である。無償で宿や、食べ物などを提供し、巡礼する遍路者に自らの願いを託すのである。険しい道のりだった四国遍路で、お接待こそが遍路の存続を大きく支えたのは想像に難くない。なかでも、職業遍路が四国に流入したことはこの接待を抜きには考えられない。

 実は、職業遍路の主な人々は貧困による難民層である。当時の身分制度の中で低階級の労働者の生活は厳しく、貧富の差は広まる一方であった。失業者には何の保証もなく、路頭に迷った多くの人々が接待をあてに遍路者になったのである。

 現在、四国以外では接待はほとんど見られない風習だが、歴史的に見ると、実は接待は日本のどこの霊場でもあった行いだったようである。なぜ他の地域では接待は姿を消したのか。その理由には他の霊場・巡礼地が観光化していったことが挙げられる。

 接待はそもそも、行をおこなう人々を支援することで仏恩(仏の恵み)を受けようという行為である。「私の分まで宜しくお参り下さい」という代参を託す意味合いもあるし、接待自体が行でもあり功徳となることでもある。観光色の強くなった巡礼に当然このような思いを向ける人々も減り、接待は徐々にその姿を消していったのであろう。

 四国に接待が残るにいたった背景には、四国独特のきびしい巡礼事情も関係していると考えられる。現在でさえ八十八ヶ所、約千三百四十キロを歩き抜くことは至難の業である。特に「歩き遍路」を試みる者は、その40%程度しか達成しないという調査もある。四国は江戸期以降も街道の整備が遅れていたため、当然、遍路道も大変険しく山道も多く、今よりも八十八ヶ所を歩き通すことは困難な道であったことは容易に想像出来る。

 このように厳しい巡礼に行くにはそれなりの覚悟と思いが必要であったはずであり、それを汲んだ地元の人々が遍路者を純粋な信仰者として受入れ、惜しまず支援を続けてきたのであろうと考えられる。

 接待は江戸期に限らず、その後、今日まで続けられてきた。今でも遍路道の街道沿いで自らの徳を積む目的で、巡礼者にお接待を施す姿をよく目にする。

 明治以降の遍路はその目的や信仰に関わらず、一般の人が多く訪れるものとなった。他の巡礼では信仰者が中心であるのに比べて、お遍路は逆に接待文化が一般の巡礼を支えているという、他にはない特質を持っていると考える。これこそがまさにこの土地柄であり、ここの人々の特徴である。それはまさに異国の人間を受け入れる下地であったと考察出来るのである。

 ドイツ人俘虜は、決して巡礼に訪れた人々ではない。しかし戦いを経て、今はお互いが敵でなく人間同士として生きている。恐らく坂東住民はそこに哀れみを感じ、彼らと共存することを選択したのであろう。だからこそ、住民は古来より繋がる信仰への願いを持ち、ドイツ兵は「第九」の歌詞に込められた願いを持つことを通じて、心のつながりに至ったのではないかと、筆者は考えるのである。「お接待」に代表される地域の人々に根づく心情こそが、遠く異国の地より俘虜として収容されたドイツ兵たちを、温かく迎え、盛んに交流した要因であると認識するのである。

♪Wem grosse Wurf gelungen,Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,Mische seinen Jubel ein!
(一人の友人を得るという大きな賭けに成功した者よ、一人の優しい妻を努めて得た者よ、その歓びの声を、共に一つに混ぜよ!)

日本人精神の側面

 長い歴史で培った文化と、外国人の間に結ばれた友愛を徳島に見るとき、ここに日本人の伝統精神を見るに至る。松下幸之助著『人間を考える 第二巻』中では、日本の伝統精神の特徴の一つを、以下のように述べる。

 「日本人は二千年もの間、一方では国内においていろいろな形で衆知を集め生かしつつ、また一方で広く海外の衆知を吸収し、それによって日本を今日の姿にまで発展させてきたわけです。(中略)日本の伝統性、国民性に即してこれを吸収し生かしてきたわけで、日本人としての主座というものを保ちつつ、広く海外に衆知を集めたわけです。」

 まさに上記した、神道上の世界「根の国」と、仏教の「補陀落浄土(観音菩薩が住まわれる浄土)」を融合し、新たな信仰対象として八十八ヶ所霊場巡礼文化を生み出した経緯、またドイツ人俘虜を人間同士として認め、先進ドイツの農産業について教えを請い、新しい文化の流入が少ない田舎の町で柔軟に受け入れることができたことは、この特徴の正当性を裏づけるものと言えるのではないだろうか。

歴史の多面性

 こうした史実から、我々は歴史の多面性を感じざるを得ない。当時の日本、ひいては東アジアを取り巻く世界的情勢は、大きな潮流の中にあって混沌とした様相を呈していた。

 維新開国後四十年程で、日清・日露の二度の大戦争を経、また当時の朝鮮・中国が内政の弱体化し帝国主義の植民地化政策により国土を蝕まれていく。その中にあって、日本の先人たちはアジアの砦となるべく懸命に文化と歴史と国土・国民を守ってきた。その評価はここでは割愛するが、世界規模の戦いの中で、心の文化は根強く国民の中の内に宿り、国同士は敵対していても国民同士心と融合させあったこのこと事実として存在したのである。

 我々は、歴史を知る機会が非常に限られてきた。小学・中学・高校・大学と、歴史年表に関する出来事の変遷を追うに止まってきた。しかし、歴史の中に必ず存在した、名も取り立てて挙がることのない人々の生活・文化の歴史については、ほんの表層しか学んでいないのではないか。一方で、今自らが存在すること自体が、脈々とその歴史を継承していることも事実であろう。それを確固たる歴史の資産として受け継ぐためには、それを事実に基づいて認識していく他ないのである。歴史に学ぶ。それは、先人の真の姿にまで迫ることであろう。

 近年、お遍路が再び興隆しているようである。物質に溢れた今の時代だからこそ、注目に値する誇るべき「心の文化」である。これが単なるブームとして観光化され、「お接待」のような継承すべき人々の触れ合い、心の温かさの側面を消滅させることのないよう、今こそ我々が歴史から学ばねばならない。

 坂東収容所俘虜となったドイツ兵が、戦後故国へ引き上げた後、またこの地を訪れたいと思ったように、心の文化を心で受け止め、次の世代に繋げられる人間であり、地域でありたい。

[参考文献]

http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kcpo/legacy/33rd/B-Sym9/Sym9-trans.html
(ベートーベン交響曲第九番 岩田倫和氏による文/日文訳)
「松江豊寿と会津武士道」 星亮一著 ベスト新書
「奇跡の村の奇跡の響き」 秋月達郎著 PHP研究所
「青島から来た兵士たち」 瀬戸武彦著 同学社
中村粲先生講義資料
「人間を考える 第二巻」 松下幸之助著 他

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中西祐介の論考

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Yusuke Nakanishi

中西祐介

第28期

中西 祐介

なかにし・ゆうすけ

参議院議員/徳島・高知選挙区/自民党

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