論考

Thesis

私の国家像

塾主の国家観を考察し、農村が育んできた共同体の役割を考え、私が考える地域主体の国家像について私なりの考えを述べる。

1、はじめに

「私が特に大事だと思うのは、州制をしくことによって単に行政規模の適正化をはかるだけではなく、それらを各州に国内政治の主体をおくようにすることである。今日のわが国では、政治の主体は都道府県の自治体よりもやはり中央政府にあると考えられるが新しい州制を実施するに際しては、この関係を逆にして政治の主体を州におくことにする。つまり、今日、中央政府が中心になって進めている仕事を大幅に各州の政庁に移譲し、税金も総て州が集めるようにする。そして州それぞれが、その自主性にもとづいて日々の政治活動を営むようにすべきだと思うのである。」
(松下幸之助発言集40巻)

「日本国全体に共通する国防や外交、治安や教育行政、あるいはその基本的な国土建設といったものは、各州ごとにやるより中央政府が行ったほうが効果的である。」
(松下幸之助発言集40巻)

 松下幸之助塾主は「廃県置州」・「置州簡県」という言葉を使いながら、これからの日本国の国家像は、地域主体の国家を想像することにあると考えていたようである。今の制度をやめる、つまり中央集権的な国のシステムを地方分権的なシステムに変換する事が、効率面で考えても、自治をすすめる上でも重要であり、それを推進、実行する事は至難の業であるが、覚悟をもって、決意をもって政治家は取り組むべきで、明治以来の第三の改革の時期と捉えていたようである。今回、国家観レポートという事で私が考えるこれからの日本の国のかたちとはどういったものなのかを以下、展開してみたい。

2、地方分権の歴史と経緯

 戦後日本国憲法に地方自治の項目が設けられ、中央集権体制の象徴ともいうべき内務省を廃止した事で、地方自治の時代がはじまったと考えられている。しかしながら、その後も国は中央集権型の体制を維持しながら3割自治といわれる様に、基本的には地方が自立する為の要因が阻害されてきた。その後も中央集権体制を日本は維持しながらも、地方自治、分権を確立しようという動きは留まるばかりかよりいっそう強まってきた。そして、主に80年から90年代にかけて主要な国々で地方自治の動きが高まり、憲章や宣言が採択されるようになった。

 わが国においては、バブル崩壊後の地方財政が混迷を極めている中、地方分権の法的措置がなされ、それまで続いてきた中央集権型の政治システムが揺らぐようになってきた。これらは地方分権論者に拠れば、明治維新、戦後改革につづく第三の改革が地方分権であると述べている。小泉内閣以後は行政移譲だけでなく、「三位一体の改革」といって補助金、地方交付税交付金を含めた見直しを行っており、今後もさらに国は地方分権を促進するものと思われる。しかし、こういった取り組みが進んでいけば国家とはどういった役割を担うべきものに変わっていくのであろうか。

3、国民国家とは

 国の概念が大きく変わろうとしている。塾主が述べているように、国防、外交、教育行政、国土計画など国としての役割が限定されてくるのではないかと思われる。それは、グローバリゼーションの流れによって日本の特定の地域と諸外国の特定の地域との相互依存が非常に高まっている事、そして、国家経営の健全化をはかる上で国の役割を小さくし、分権を進めたほうが効率が良いからだと考える。私たちが学んできた経済学の研究は、がちがちに国民国家によって縛られてきた。つまり国民国家と現在我々が使っている経済学はセットで成長してきた。よって我々は国民国家とは不変のものだと考えている。

 国民国家は、16世紀半ばに定義されている。この時期は、宗教や宗派の対立が激化しており、この対立が深刻になっていた。そして、この時代、地域がばらばらに分裂しはじめたため、広大な範囲をカバーする政治的主体がかつてあり、それを真似ようとした。それがローマ帝国である。ローマ帝国は各地域が統合されていることから生じていた。よって、まとめるためには忠誠心を引き起こし、維持を可能にするイデオロギーが必要とされた。世界を支配する皇帝という考え方は、以前は誰もが認め尊敬する対象であった。ある意味、地域、国家の支配者は、万人を統合できるイデオロギー、言い換えれば、共通の祖先、言語、伝統といった統合地域に関連するものを分かりやすくブランド化できれば統率できたと同時に国民に大きな富を与える事ができたという意味では以前は効果的だったのかもしれない。その他国家に重要なものをあげてみたい。(これとは異なる意味では重視すべき事である。)まず、国民国家の概念には大きな飾りとシンボルを付ければ長く生き長らえる事が発見された。どの国も鷲や熊のような国の象徴、国旗、国家を持つようになった。これらは、忠誠心、宗教心に近い物であり、こうした飾りやシンボルができた。次は国の領土の話である。国家を分断するような党派主義や地域主義は悪であり国家にとってけしからんものであると考えられていた。経済分野はどうであろう。国民国家は自国独自の貨幣を持ち、その通貨を保護するために中央銀行を保有しているという事である。そして、国家経済とは、意図的に内向きの視野を保持させるものであり、国家経済活動は、高い関税の壁によって厳しい競争から保護されなければならなかったのである。

 それでは、国民国家が経済発展を遅らせているという例を提示したい。近代の国民国家を悪用した事例がソ連にある。スターリンは、民族自決という口先ばかりの賛同を示し民族の区分ごとに社会主義共和国を幾つかに切り分けていった。1991年ソ連が崩壊した際に、ソ連は、独立と主権を押し付けられてしまった。ところがそれを受け入れるだけの用意をしていなかったため。各共和国の為政者たちは、上記に記した国民国家の概念をそろえていった。それによって、天然資源など極めて非効率な採取しかできていない。事実、ソ連からは多くの国民国家が誕生した。

 しかしながら国民国家の概念が人々と経済の破綻をもたらしたのはアフリカであろう。1885年に欧州の列強が集まりアフリカとどのように保護領に区分けするか話し合われた事があった。これによってアフリカ人の怒りがおこり。権益を手放さなければならなくなり、独立と政治的自立を与えました。このときに新たに生まれる国民国家の国境線ができたわけだが、これによってできた国民国家は、天然資源や食料生産部門が無く、人がやっと生活できる農業ぐらいしかないので大変苦しめられた。

4、地域主権国家

 それでは次にどのようにして地域国家が形成されていくか説明したい。私たちは、複雑かつ広範囲にわたる経済活動を考えた上で今後の国のあり方を考えなければならない。今後、国家が長期的に繁栄、成長する際の中核にすえないといけないのは、地域という考え方ではないかと思う。地域は先ほどから申し上げてきた国民国家を構成する部分であるが、国境をまたがった存在になっている場合もある。国民国家の一部には幸運にも面積が広くなかった為、地域国家として機能してきた国も多くある。(北欧に多い。)最近では国家は、政治的な一枚岩であるという前提ではなく、複数の地域が融合したものとして、考えるようになってきている。しかも、資本や技術を求める場合に地域は国内だけでなく、海外を相手にしている。世界のどこかの国が協力してくれる限り、実は地域に繁栄の総ての要素が詰まっている必要は無い。経済と科学技術は地政学的に国境に変わる尺度になっている。地域国家は経済単位であり政治単位とはいいにくい。地域国家を定義する際に、あまり狭義に限定的にしない事が重要である。地域国家の人口規模については柔軟に考えるべきだ。

 まず地域には、国内投資をひきつけるための十分な域内市場が無くてはならない。従って50万以上の規模になると非常に好ましい。もし住民が多すぎると投資家に取りマーケティングがあいまいになってします。又実態をつかみにくい連帯感、社会機構それに住民自治の意識づけも欠如してくるかも知れない。逆に上限は1000万人だと思います。また地域国家には、国際空港そして国際貨物を扱える大規模かつ効率的な機能を備えた港が少なくとも一つ、そしてさらには良好な域内交通インフラが必要である。よい学生をひきつける事ができ、専門的な技術を持った学生を常に地域に供給してくれる大学や研究機関が必要でもある。

 そして、地域国家は単に事業を行うのに適した場所ではなく、その地域で働く事ができて子供を育て一生を生活できるような、魅力的なまちでなければならない。景観や農業といった人間が真に豊かに生活を送る事ができるようなまちでもなければならない。現在あるような、長期的な戦略に欠けたアミューズメントパークやゴルフ場を建設していくのではなく、緑色あふれる地域を育む事が大切であるはずだ。駅を下車すると、消費者金融の看板しかないような画一化されたまちには多くの人々が魅力を感じる事ができていないようにみえて仕方が無い。特に地方を考えた際には、農業という産業を通して、企業組織の原型ともなっていると思われる機能的な共同体を再生させ地方の活力を再生させ、自主独立の気概のある国家にする必要があるのではないかと考えている。それでは、産業分野を活性化させながらどのように「農」を生かした地域国家を作っていけばよいのだろうか。

5、「農」の国日本

 我々日本人の生活はこの50年間で劇的に変化を遂げた。昭和35年、つまり高度経済成長以前の社会は明治だけはなく、鎌倉時代などと繋がった奮い要素がたくさん残っていたわけである。司馬遼太郎氏は著書「この国のかたち」の中で

「この国のかたちの一番の基本は稲作でしょう。水と土、この水っぽい風土と生産力の高い稲。この風土が日本の国家の原型を作った」
と述べている。

 日本における天皇の位置づけは色々あるが、私が考えるに、統治者という側面と稲作の技術者という側面があると思う。天皇家は、稲作の高度な技術を武器に周辺の豪族等を吸収し、これを基盤に税の徴収なども行うようになった。古代から、これほど稲作が国民の生活の奥まで入っていたわけである。そして、室町時代あたりで相当な技術革新が行われたが、高度経済成長期以前までは国民の生活は昔とあまり変わらなかった。しかし、現在50代以上の方々が、今は、自分のライフスタイルがイメージしていたものとは異なったものになってしまったことに戸惑っているようである。

 日本が近代化できたのは、農業の影響が大きい。もっと突き詰めると、農村を支えたムラという機能的共同体に属する事で、目標を達成するための技術と精神を学んできた事が多い。現在、このようなコミュニティーで育った人々が、都会の産業、経済を支えている事を考えると、ムラの行動原理が日本のサラリーマンの原型を作ってきたと言える。地方の農業を基盤としたムラ社会が壊れていくのは、何も農業や農村が衰退するからだけではない。日本の社会の持っている良き機能的共同体を壊すということは、自分たちの首を絞めることである。私たちは、このあたりで農業、農村が持っていた価値というか、2000年の私たちの暮らし方に潜むエネルギーのあり方を深く学び直して、新しい行動原理と暮らしの目標を立て直すべきではないか。だからといって皆が田舎に戻り、日本全体が農業の国になれと言っているわけではない。復古的に過去を賛美しているのでもない。具体的には、個人主義的な自由を一方的に賛美してきた日本の異常性に気づき、親、友達、故郷の事、そして自然、農業との付き合い方をもう一度、最も小さなコミュニティーであるムラという機能的な共同体を使って我々は学ぶべきである。そして、そのコミュニティーの延長線上に国民の幸せ、国を作るべきだと考えている。

6、最後に

 終わりに、地方分権、道州制と言われて久しい。国もそのスタンスを取っているが、税源の移譲も現段階では中途半端な状態である。広域的な戦略を持ちながらも、市民サービスを下げずに細かなサービスのできるマチを作ることが、真に自立した地域国家が生まれる要因になると思う。

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仁戸田元氣の論考

Thesis

Genki Nieda

仁戸田元氣

第27期

仁戸田 元氣

にえだ・げんき

福岡県議(福岡市西区)/立憲民主党

Mission

中小企業振興、規制改革、健康と医療

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