論考

Thesis

医療者と患者のコミュニケーション

医療現場における患者による「医療者への不信」と医療者による「患者への不信」の対立は深刻さを増すばかりである。今回の個別テーマレポートでは、双方のコミュニケーションギャップを生み出す医療本来の特性を、医療者と患者の双方の視点を考慮しながら考察していきたい。

1.はじめに

 医療現場において医療者と患者の双方の信頼関係が近年崩壊の一途をたどっていると実感しているのは、どの医療現場に携わる人間も同じなのではないかと思う。

 患者の不信感を象徴的に現しているのが、医療訴訟の増加である。現場のコミュニケーションに納得が行かず、かつその医療行為の結果が不幸なものとなったとき、患者が訴える術は、現実のところ訴訟だけであるからだ。一方で、医療行為に伴うリスクの高い科では医師が医療訴訟を敬遠し、そもそもリスクのある医療行為は行わないという進路選択を取るようにもなった。それは逆に、医師の、患者に対する不信感の象徴であるとも言える。

 このような双方の信頼関係の崩壊の原因には、もちろん医療現場そのものが持つシステムや制度の不備が背景としてある。医師や看護師の労働環境は過酷であり、労働環境の過酷さは現場の余裕のなさを生み出し、結果的に単なる会話での信頼関係を損ねるだけでなく、医療ミスにつながる場合もある。その労働環境の改善にあたっては、医療ミスに対する仕組みだけでなく、国の医療制度設計を根本から問いただされる事態となっている。

 特にこの医療者と患者の不信感から生まれたコミュニケーションギャップを現場レベルで埋める鍵を考える際に、医療者の私にとって重要なのは患者の視点を学ぶことにあると考え、私はこの1年弱ほどの間そのための研修を続けてきた。今回は、その研修過程を通じて考察してきた、医療現場における医療者と患者のコミュニケーションについて、ギャップを生み出す医療本来の特性を、医療者及び患者の双方の視点に立てるように努めながら、考察していきたい。

2.コミュニケーションギャップ

 医療現場はその行為自体がコミュニケーションギャップを生みやすい土壌を持っていると考える。まずは、その土壌の特性を考えてみたい。なお、そもそもこの特性はそれぞれが独立して存在するわけではなく、もちろん相互が深く関係し、ギャップを生み出していると考えている。

(1)グレー・ゾーン

 医療という行為は常に100%の正しさを持って行われているわけではない。しかし、もちろん100%間違っているわけでもない。リスクとメリットを天秤にかけ、リスクを最小限にとどめながら可能な限りの対処を行うのが医療である。ただ、その天秤の評価の基準はグレー・ゾーンの範疇にあることが多く、このグレー・ゾーンは医療者と患者のコミュニケーションのギャップを生みやすい医療という行為本来の特性であると言える。

 例を挙げよう。10ヶ月の男の子が朝から39度の熱を出した。本人は多少ぐずりながらもいつものように遊んでいたが、午後になって熱は40度を超えた。そこで心配になった母親は近所の小児科クリニックに息子を連れて行った。診察室で診察を行った医師は、熱以外に何も症状がないことを確認し、
「おそらく風邪でしょう。ただ、突発性発疹の可能性もあります。突発性発疹の場合は、3日ほど熱が続いて下がったかと思うと発疹が出ますが、ほっておいて大丈夫です。水分をきちんと取ってくださいね。もし熱が続いたり、他の症状が出てきたりするようならまた来てください。」
とだけ母親に伝え、処方は出なかった。母親は、まだ1歳に満たない子供が40度の熱を出しているにも関わらず、解熱薬すら出なかったことに大きな不満を感じた。

 小児の発熱は頻度も多い症状でありながら、解熱薬の対応方法はグレー・ゾーンの範囲が大きい。そもそも発熱というのが症状の一つであって、病気の原因ではないことは明らかである。つまり発熱を抑えても風邪が治ることにはならない。ただ、熱が高いと体力を消耗したり、体内の水分が減少したりしやすいのは事実である。また、発熱のせいで夜眠れず、看病のために母親も疲れてしまうこともある。そのようなときには、解熱薬を使えば、多少症状が落ち着き、水分が取れるようになったり、夜眠れるようになったりすることがある。

 しかし、逆に発熱が感染の原因となっているウイルス等と戦うのに有用だとも言われている(詳細はいまだ不明である)。特に1歳未満の乳児という段階では、感染に対する抵抗力が弱く、発熱を抑えることでかえって症状が長引いてしまうことも考えられる。また、発熱を抑えることにより、発熱で示していた体調不良のサインが隠されてしまい、後に症状が悪化した際に熱がどのように出ていたかを把握できなくなって後の診断に影響を与えることがある。

 したがって、このケースでは、解熱剤を処方することが、100%正しいとも100%間違っているとも言えない。ただ、解熱剤がほしかったのに処方してくれなかったとなると、その間に存在するグレー・ゾーンに対して、患者のニーズと医師の指示が異なることとなり、コミュニケーションギャップが生まれる。

 このように、解熱剤の使用一つとってみても、グレー・ゾーンは多く存在する。実際、診察、検査、診断、治療のどの段階においても、そのグレー・ゾーンは存在している。ちなみに、上記の解熱剤に関する私の解説部分でも、「~ことがある」や「~とも考えられる」という表現をしていることに注意を向けてほしい。100%そうだ、とは断定できないが、100%そうではない、とも言えない、となると、このような表現をせざるを得ないのである。

(2)感情

 医療現場は感情がそのままぶつかり合う場所である。コミュニケーションギャップに影響を与えると思われる感情面での特性については次の三点が特に重要であると考える。

 一点目は、医療が人間の「生命」に直接関わっているということがある。この「生命」に対する価値観は人や文化によっても異なってくるが、自己や他者の存在の一番根本につながってくるために、どうしても日常生活では普段現すことのない感情が、むき出しになる。「生命」がすべての価値観の中でももっとも重要な価値の一つに含まれているという事実は、一概に理屈で片付けられるものではなく、主観的な要素が強いものである。しかし、だからといって考慮の対象から排除できる点ではない。

 二点目は、患者が医療施設に訪れるとき、そもそも感情的に負の状況にあるということだ。端的に言えば、患者は不安や恐れを抱えてくるという当たり前の事実である。この事実は残念ながら医療者が日常生活に忙殺される中で最も忘れやすい前提でもある。しかし、この患者が自分の病状に対して抱いている不安や恐怖は、ほぼすべてのコミュニケーションの場において、ギャップを生じさせる要素である。

 例えば、待ち時間である。不安を抱えながら待つ時間は、通常よりも長く感じる。不安の大きな患者にとっての30分の待ち時間は3時間にも感じられることだろう。

 そして、診療の最初に医師と対面した時点で、医師と感情的に対等に話せる状況にあるとは限らない。むしろ常に対等ではないと捉えた方が良い。医師は図や絵に描いて丁寧に説明したと考えていても、患者は一度では理解できないことが多い。特に、患者に不安や恐怖のある段階での説明はほとんど頭の中に入っていないことがある。

 また、不安は時に別の不満に転換されることもある。医師の説明が頭に入らないうちに次の医療行為が行われたり、患者にとって予測不可能な事態が起きたりした場合に、その不安が医療行為への不満や医療者への不満へと転換される。

 三点目は、医療は人が直接触れ合う、人中心の現場であるということである。人と人が関わるとき、まったく無感情ではいられない。好みの問題は必ず発生するし、話し方で印象の良し悪しがある。そこには必ず何らかの感情の問題が存在する。相手が威圧的だとか、あるいは優しそうだとか、そのような主観的な印象が必然的に生まれる。そして、その主観的な印象により、行われる医療行為そのものに対する印象が変わってくることがある。たとえ、医療に間違いがなくても、医師の態度が横柄であれば患者は不満を感じることもあり、逆に注射に失敗しても、対応が丁寧ならば患者はそれほど不満に思わなくなることがある。これは医療者の側も同じである。患者が乱暴な言葉遣いをする人であれば、医療者も対応に苦慮する。患者に対する印象の良し悪しにより、コミュニケーションギャップが生まれやすくなるのである。

 また、人が中心の現場だからこそ、変えにくい部分がある。もし人格に関わる問題でコミュニケーションギャップが生じたとしても、主観的で評価がしづらく、同時に変えるとしても、人格を変えることは容易ではない。

3.コミュニケーションギャップを助長するもの

 さて、前章で述べた二点は、医療の特性の中でも最も本質的な問題であり、その特性自体は否定することができないし、どのような解決法によっても根本的に解決できる問題ではない。もちろん、その事実は解決へ向けての努力を抑制するものではなく、むしろこの前提は常にあるものとしてギャップを最小限にするための解決策を模索していかなければならない、ということである。

 そして、日本の医療現場におけるコミュニケーションギャップは、その基本の二点の特性の土壌の上に、さらに他の要素によって助長されている状況で生まれていると考える。それは、困難さは伴うが、改善はできる点である。そのような要素は多く存在するかと思うが、ここでは最も影響が大きいと考える点を述べていきたい。

(1)「見えない」こと

 患者の不安という感情を増強するものの一つは、自分が「見えない」部分で何かが起きていると感じることである。「見えない」ことには、医療行為自体の「見えにくさ」と、医療機関の仕組みへの「見えにくさ」がある。

 医療行為自体の「見えにくさ」は、グレー・ゾーンの存在が現れた結果とも言えるのだが、そのグレー・ゾーンによる「見えにくさ」を助長するのは、グレー・ゾーンにおける医師の判断のプロセスが示されることがあまりないことである。近年では情報公開やインフォームドコンセントは、医療現場において広まりつつあるが、医師が「十分に行っている」と考えていても、患者には伝わっていないことがある。検査の結果や治療についての説明だけでなく、一つ一つの医療行為に至った判断のプロセスを示すには、医学の基本的な考え方や捉え方についての知識を患者に与える必要があるが、その時間と労力は膨大であるので現実的には難しいことが多いからだ。したがって、他の医師がどのように判断するのかを求めるセカンド・オピニオンが増えるのも自然なことである。ここで、グレー・ゾーンに関する例をもう一つ挙げてみる。

 50歳の女性が、職場で健康診断を受けた。数日後、かかりつけの医師より、検査結果の説明があった。医師は、
「ALTという検査の数値が160で、少々あがっていますが、それ以外は大丈夫ですね。あまり気にすることはありませんが、今後の検査で変化を見ていきましょう。」
と伝えた。心配になった女性は、
「ALTとは何でしょうか?」
と尋ねたところ、
「肝臓の検査です。肝炎という病気など、肝臓の細胞が障害を受けると上昇します。」
との答え。女性はそれでもよく分からなかったので、帰宅後に本で「ALT」という項目について調べてみたところ、
「ALT(アラニンアミノ基転移酵素)は、肝臓に多く存在する細胞内の酵素。正常値は5~40IU/L。高値の場合は急性肝炎や慢性肝炎の可能性がある。」
とあった。女性は、正常値の4倍もある検査データを見て、本当は肝臓に悪い病気が隠れているのに医師が伝えなかっただけなのではないか、と不安になった。

 この例では、グレー・ゾーンの問題も含め、医療という行為の基本的な考え方についての知識がなければ、この女性の不安は解消されないだろうと考える。

 グレー・ゾーンの一つは、血液検査のデータの捉え方である。正常値が「5~40IU/L」と記載してあれば、当然160では高いと思うに違いない。しかし、それぞれの検査で、どのくらい上昇していれば異常と言えるのかという境界線は非常に曖昧なものである。もし、「41IU/L」であれば異常かというと必ずしもそういうわけではない。この上昇の程度、あるいは下降の程度は、検査の数値ごとに異なってくるためなおさら分かりにくいが、そこには明確な境界線が引かれているわけではないのである。追加の検査をするかどうか、という判断も、このグレー・ゾーンの範疇にある。

 二点目は、医学の判断では「総合点」が重要だということである。疾患にもよるが、通常はある病気だと診断するには、症状やさまざまな検査を総合して判断し、治療方針を出していく。たとえば、一つの検査結果が悪くても、それは偶然検査の過程でエラーが起こった可能性もある。したがって、たとえば肝臓が悪いと疑うためには、黄疸などの症状がでていないか、血液検査の中でも他の肝臓に関連した検査の数値は上昇しているか、血液検査以外にも、超音波検査やレントゲン検査に異常がないかどうか、という得られる様々な情報の「総合点」で判断していくことが重要であるということだ。通常の血液検査で一つの検査値の異常だけを見て、その疾患の可能性があるとは言えるが、その疾患であると診断することは難しい。

 この二点を考慮すれば、医師の判断は、他の肝に関する血液データにも異常がなく、ALTの値そのものも異常を疑うほど高い数値を示していないため、経過観察という処置に至ったと考えられる。

 上記は例の一つに過ぎず、こういった医療の基本はどの科にも共通にあり、さまざまな例が考えられる。そして、医療がこの共通する知識の前提の上に患者に情報を与え、説明を加えているので、患者が理解できないことがあると考える。このグレー・ゾーンにおけるプロセスの説明が行われなければ、たとえ情報公開が進んでも、医療行為そのものに対しての「見えにくさ」は助長されてしまうと考える。

 「見えにくさ」のもう一つは、医療施設の設備や仕組みに関する情報が伝わりにくいことである。なぜなら、病院における人や物の動きは非常に複雑にできている。そもそも同じ施設での職種が多く、医師、看護師、技師、薬剤師、その他の従事者の役割と院内での動きを把握することは患者には至難の業である。しかも、この仕組みによって患者に直接影響のある医療行為がかなり大きく左右されることがあるほか、施設によって状況が異なるためなおさら「見えにくさ」による不安が増大し、コミュニケーションギャップを助長する。

 再び分かりやすくするために、先述した10ヶ月の男の子で例を挙げよう。この男の子はさらに翌日の朝になっても熱が40度のまま下がらないため、心配になった母親は、別のクリニックへ出かけ、今度は医師に頼んで解熱剤を処方してもらった。帰宅してすぐに解熱剤を使用したところ、熱は37度台まで低下した。しかし、夜11時になって、再び熱が上がり始めた。そこで母親は、今度は近所の総合病院の小児科の救急外来へ息子を連れて行った。

 救急外来では、子どもの患者が多数待っており、混雑していた。1時間近く待ったが、まだ呼ばれない。母親は次第にいてもたってもいられない気持ちになってきた。ちょうどそのとき、その男の子は急に白眼をむいたかと思うと、全身を硬直させ、がくがくと震え始め、次には口から泡を吹いた。この突然の異常な事態に、母親はすっかり仰天し、大声で悲鳴を上げた。看護師が駆けつけて処置室に男の子を運んだが、その後も男の子は同じ状態が5分間続いた。その間、母親は必死で息子の名前を呼んだが、まったく反応はなかった。その5分は母親にとってはきわめて長い時間だったが、医師は現れなかった。5分後にはがくがくとした全身の動きはおさまり、男の子はぐったりしたままボーっとした表情で、呼びかけには応じなかったが、次第に意識を取り戻し、泣き出した。そこへ15分後にようやく医師が現れた。

 母親は、病院にいるにも関わらず、このような異常な事態が起きたことに強い不満を感じた。そして、なぜ40度の高い熱のある1歳未満の息子が救急で来ているのに診察室で1時間も待たせておいたのか、もし医師が来院後すぐに診察してくれれば、息子がこのような症状を示すことはなかったのではないか、そして、このような事態が起きたのになぜおさまるまで医師はやって来なかったのか、と医師や看護師に疑問をぶつけた。

 この病院では、小児科の当直の医師は、救急外来の担当であるとともに、入院患者の当直を兼務しており、同時に産婦人科病棟での夜間の分娩に小児科医として立ち会う役割も与えられていた。この小児科当直の医師は救急外来の診察中に、入院患者の容態が急変したという知らせを受けて、入院患者の対応に追われていた。そのため、今度は救急外来から男の子についての呼び出しがかかってきたときには、すぐに対応できる状況ではなかったのである。

 このように、病院のシステムは患者にとっては「見えない」部分であるにも関わらず、そのシステムは患者に説明されることがないまま、直接患者への対応へと影響を与える。また、このような病院のシステムは病院のみに責任があるわけではなく、医師数や看護師数の問題にもつながり、それはひいては行政や政治の問題にもつながってくる。そういった病院が抱える問題の背景は、さらに患者からは見えにくい。

 「見えない」ことは、情報の氾濫につながる。誰もが関係することでありながら、このような「見えない」部分が多い分野であるからこそ、メディアによる報道も盛んになりつつある。医療機関や診療所に関する情報を扱ったテレビ番組や雑誌の特集記事も多くなった。医療行為そのものに対する評価を、手術件数によりランキング付けを行ったり、「良い病院」「悪い病院」と題して比較したりする番組もあるほか、ある一つの症状がどんな恐ろしい病気につながっているかを示す番組もある。このような情報によって、患者が自分のケースに当てはめることが妥当かどうかを判断することは非常に困難であるのだが、医療現場で判断のプロセスが「見えない」のであれば、このような情報に頼ってしまうのも仕方がないことである。そして、逆にこのような不確かな情報が氾濫すれば、さらに医療現場に対する誤解は増え、結果的に不信は増強されてしまう。「見えない」ことと情報氾濫の悪循環が生まれてしまうのである。

 医療ミスや医療事故といった情報はもちろん「見えない」部分とされるわけにはいかないが、そのような数値やデータなどの明らかに情報公開が必要な情報だけでなく、医療がそもそも「見えにくい」情報に対しても対応していくことが、コミュニケーションギャップを埋めるためには必要だと思われる。

(2)「参加できない」こと

 患者が抱える不満の一つに、「医師が患者の気持ちを分かってくれない」というものがある。医師や看護師が、患者の抱える痛みを理解し、同情や共感を示してくれない、というものである。そこには、感情の現場としての医療の特性が関与していることは2章で指摘した通りである。

 感情の理解を医療従事者に求める第一段階としては、自分の痛みや悩みをまず医療従事者に話す時間が与えられることが重要だということである。しかし、実際には、診察時間は少なく、医療従事者が忙しそうに処置を進めていると、質問したいことも言わずに引っ込めてしまうことになり、患者には不満が残る。あるいは医師の態度が横柄で不安を話せなかったと訴える患者も多い。

 そして、たとえ一度不安をすべて話すことができたとしても、診療方針の決定にコミュニケーションギャップが生じ、その過程で自らの意志が関与できない場合には、「医師は自分の気持ちを理解していない」と感じることがある。そうなると、医師はグレー・ゾーンの中での判断を、患者のニーズを考慮して行わなければならないが、同時に患者の気が動転していたり、患者の情報が不足していたりする場合には、難しい判断でもある。

 これらの問題を一言で言えば、患者が自分に対する診療行為に「参加できない」ということであると思う。自分が関与できないところですべての物事が決定され、進められていく「参加できない」医療は、たとえ診療行為に間違いがなくても、あるいは結果として症状が改善したとしても、医療あるいは医師に対する不信感という感情面でのコミュニケーションギャップの火種を残すこととなる。

 なお、患者の参加については、個別の診療だけでなく、病院内の環境整備や政策決定においても重視されるようになっている。民間シンクタンク日本医療政策機構の調査では、現在の医療制度においてもっとも不満が高かったのは、「制度決定への市民参加度」の項目であった(*1)。平成18年には、がん患者が政策決定へ初めて関与したと言われる「がん対策基本法」が成立しているが、患者が医療の現場から政策に至るまで「参加できない」ことに対しての不満や参加に対するニーズが高いことが伺われる。

(3)「認められない」こと

 医療者の感情面に作用する要素も存在する。実際、医療者からの患者に対する不満も非常に多いが、その多くは「認められない」ことに起因していると思う。

 患者の中には、無理な要求をする患者や他人への迷惑を顧みない患者、暴力を振るう患者も存在する。その中で、医療者は患者に対しては優しく、思いやりを持つことを課題とされている。時には演技を要することもある。医療における労働の特性とは、このような「思いやり労働」を行うことが「モラル」として考えられている点にある。特に日本では過度に強調されている面があるかもしれない。「モラル」としての労働には際限がない。例えば、患者と話をする時間を取るために、毎晩夜10過ぎまで働いている医師が、さらに時間を取って夜12時過ぎまで働いたとしても、その努力の差は必ずしも認められるわけではない。丁寧に対応したつもりでも、患者が「態度が悪い」と指摘すればその一言で否定されてしまう。最近では医療不信の高まりにより、患者の権利意識も強まってきているため、特に問題が生じやすい。どこまでの「思いやり労働」をしても評価することは難しく、優しさや思いやりが報酬や勤務の軽減につながるわけではない。逆に、患者のことを考えたつもりでも、訴訟を起こされる結果に終わることもある。しかし、「モラル」である限り、続けなければならない。無理な要求をする患者に対してすらも、「思いやり労働」は強いられるが、それが報われるとは限らない。このような「認められない」労働は医療者の不満の種となり、そもそもコミュニケーションを改善しようという意欲すらも低下させる。患者側だけでなく、医療者に対する感情面での問題も、コミュニケーションギャップを助長される大きな要素となるのである。

4.医療に「こころ」を取り戻すために

 医療者と患者のコミュニケーションを取り戻す試みは全国で様々に行われてきている。特に最近では、医療者と患者の双方の視点を取り入れようとする動きがある。

 その一つが、東京都にある新葛飾病院での医療安全対策室の取り組みである。ここでは、医療現場で働いた経験を持ちながら、同時に家族を医療事故で失った被害者でもある方が、患者と医師のコミュニケーションを仲介する「セーフティーマネージャー」として働いている。病棟で医療事故が起こった際や、コミュニケーションに関するトラブルの際には、このセーフティーマネージャーが双方の言い分を聞き、対応法をともに考えていく役割を果たしている。実際、医療事故の際には、この仲介者の存在により、患者の気持ちが和らぐことがあると言う。このようなコミュニケーションの仲介者は、欧米ではメディエーターとして存在している。例えば、スウェーデンでは医療は公務として行われ、医療機関は行政に属しているが、その行政機関の中に「患者オンブズマン」が存在し、患者からの苦情を受け付け、時に医師に取り次ぐ役割を果たしている。このメディエーターに関しては、そもそもメディエーター自身も人間である以上、その個人の人格がまた仲介を行ううえで問題となることや、仲介者が双方の狭間に立たされて燃え尽きてしまい、本来の役割を果たせなくなってしまうという限界もあるが、少なくとも新葛飾病院におけるメディエーターとしての言動の的確さは多大に評価されるべきものと考える。

 また、ささえあい医療人権センター(COML)は、患者からの電話相談を行っている団体であるが、近年では医療者からの相談が増えているという。その中で、医療不信の高まりにより医療現場が萎縮し、防衛反応に出てしまうことは、医療におけるコミュニケーションを阻害するものであるとして、医療者からのホンネと悩みについての電話相談事業を3日間行った(*2)。結果的には、医療者からの相談は3日間で26件に止まったが、このような患者団体が医療者に近づこうとする試みは非常に興味深い。

 コミュニケーションに対するアプローチには正解はない。一つの解決法ですべてが解決されるわけではないが、患者と医療者の双方の視点が必要であることは明確な事実である。医療者には医療者の思いがあり、患者には患者の思いがある。今のままでは双方のコミュニケーションギャップは増大する一方であり、医療から「こころ」が失われてしまう。相互に高まった不信感を乗り越え、医療に「こころ」を取り戻すためにも、コミュニケーションギャップの土台を前提とした模索を続けていかなければならない。

<脚注>

*1 『2006年世論調査結果-国民が真に求める医療政策とは-』日本医療政策機構 2006年
*2 http://www.coml.gr.jp/kouen/index.html(COMLホームページ)

<参考文献>

『患者の声を医療に生かす』大熊由紀子・開原成允・服部洋一著 医学書院 2006年
『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』鷲田清一著 TBSブリタニカ 1999年

<参考資料>

http://www.dipex.org/DesktopDefault.aspx(DIPExホームページ)

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坂野真理の論考

Thesis

Mari Sakano

坂野真理

第26期

坂野 真理

さかの・まり

虹の森クリニック院長/虹の森センターロンドン代表(子どものこころ専門医)

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