論考

Thesis

報徳国家

「この競争社会、やるかやられるか、うかうかしていると足元すくわれます。」「この格差社会、どんなに頑張っても這い上がれないようになってるんです。」それって本当?仕組みが変わらないと社会は変わらない?いえいえ、やり方しだいでは・・・。手本は・・!?

1.手本は・・・

  柴刈り縄ない  草鞋をつくり
  親の手を助(す)け  弟(おとと)を世話し
  兄弟仲良く  孝行つくす

などと歌ってみても、今では何の歌だか知っている人のほうが少ないに違いない。かく言う私も、そう言われれば聞いたことがあるなと思う程度である。無論歌った記憶はない。この歌の終わりは、

  手本は 二宮金次郎

というフレーズで締めくくられる。

 明治から戦前にかけて、小学校唱歌として全国津々浦々の小学校舎から流れ聞こえてきたはずの歌である。歌だけではない。どの小学校にも、校庭には必ず二宮金次郎の銅像が立っていた。薪を背に歩きながら本を読む、例のアレである。そこで学ぶ誰もがその人物が誰であるかを知っており、また知っているのみならず、その像の前で深深と頭をたれたという。もっともそれは教師によって強要されてのことであろうが、かといって決して誰も心の中でその像のモデルである人物を軽んじたりはしていなかったであろう。むしろ、自分もその人物にあやかりたいと思っていたはずである。それほどの存在であった。

 戦後、新しい思潮・教育の中で、古い記憶をかき消すようにしてそれらの銅像は取り去られていった。もちろん唱歌もまた音楽の教科書から消え、やがて人々の記憶の中からも消えていくことになる。今なお二宮金次郎の銅像を校庭の片隅に残す学校もあるが、教師ですら自分の勤める学校に像があることを知らないというケースも多いようだ。ましてや児童は、その像が誰であり何を意味するのか知る由もない。

 なぜ、戦前にそこまで国民に崇拝された人物が、戦後打ち捨てられ忘れ去られてしまったのか。まさか銅像が小学校に立っていたことで戦局が不利になったということもあるまい。

 ヒントは、歌にも銅像にも隠されていた。両親に忠孝をつくし、貧しい中で兄弟手を携えながら、勤勉に学び働いて、家族を助け国家に奉公するという姿がそこには描かれている。銅像の台座には、「忠孝」とか、なかには「忠君愛国」という文字が刻まれている。明治期以降の修身教育の中で、二宮金次郎は「忠孝報国」の精神の象徴として奉られた。戦後教育は、それが軍国主義を助長したとして、いわば二宮金次郎を民主主義・平和主義の敵として排除していったのである。

 部分的には、戦後教育の指摘にも正当性は認められるようにも思う。二宮金次郎は「お国のためなら命もいらず」という国民の意識づくりのためにうまく活用されたのだろう。その善し悪しの議論はここでは置いておいて、それが戦争推進に貢献したのだといえば、そういう面もあるだろう。しかし、それがすべてだろうか?

 明治から戦前にかけての当時、日本国民の大多数が農業で生計を立てていた。なおかつ、そのほとんどは赤貧の生活の中にあった。その赤貧の日本国民にとって、貧農から身を起こし、勤勉と知恵と努力によって幕臣にまで上りつめた二宮金次郎は、ジャパニーズドリームの象徴でもあったのではないか?

 さらにいえば、これがこの稿の主題にもつながるのだが、はたして、「忠孝報国」というのが本当の二宮金次郎の姿なのであろうか?

 二宮金次郎は、江戸後期、荒廃した農村をいくつも立てなおし、いわば地域の財政を立て直すことによって、支配者である武士階級に認められ、幕藩体制、つまりお国への貢献を高く評価されている。

 しかし、この事象だけではナマの二宮金次郎は見えてこない。なぜなら、これはあくまで「幕藩体制」から見た二宮金次郎の評価である。そこに二宮金次郎自身の思想や意図、あるいは農村復興の実際のアクターである農民の姿はないからだ。つまり「忠孝報国」は、体制による二宮金次郎像であり、二宮金次郎の実像では必ずしもない。

 「お国のため。幕府のため。藩のため。」だけでは、痩せさらばえた土地に収穫を生むことは難しいし、飢えに苦しむ農民に力を与えることは出来ないはずである。

 どん底におちてしまった地域をもう一度蘇らせること、荒れ果てた地域住民の心に自信を植え付けることは、並大抵なことではない。

 それを実現した二宮金次郎には、「忠孝報国」という言葉では到底言い尽くせない、遠大な志と、深い思想と、様々な創意工夫があったのではないか?

 そして二宮金次郎の地域復興アプローチは、疲弊する地方を多く抱えて、“つぎはぎだらけのしぼんだ熱気球”のようになっている現代日本国家を蘇生させる、大きなヒントともなるのではないだろうか?

 はからずも戦後不当に憂き目をみた二宮金次郎への同情と、日本の出口の記された地図を求めて、二宮金次郎の足跡と目線を探ってみた。

2.二宮金次郎の足跡

 二宮金次郎は、天明七年(1787年)に小田原藩栢山村に生まれる。二宮家は、元は土地の名士に繋がるそれなりの家系であったが、酒匂川の氾濫によって田畑を失い、さらに金次郎14歳のときに父親を、16歳で母親をなくし、残された金次郎と弟二人は、別々に預けられた。幼少時から思春期にかけて、金次郎はこの世のどん底を味わったといっていい。ただ貧しいだけでなく、貧しさに端を発する屈辱を経験した。たとえば、新年の神楽が回ってくるときに、祝儀の出せない金次郎一家は居留守を使い、その事件をきっかけに村人から非情な嘲りを受けた。「貧しいけれども手を取り合って親と国を助けていこう。」などと唄歌の中に描かれているような、明るい希望や心のゆとりはそこにはない。まして、金次郎の勤労によって親や弟たちの生活が助けられる、という慎ましくも美しい家庭像は実際のものではなかった。現実には、そうしたくても出来なかった。もちろんそうしたいという意思はあったが、その意思の眼前に厳しい現実の壁が立ちはだかり、その壁を乗り越える前に一家は離散してしまったのだ。「忠孝」と美銘を打つには、あまりにも過酷な少年期である。

 少年期から青年期にかけての金次郎の原動力は、忠孝・報国ではなく、二宮家の再興にあった。彼は勤労と勉学に励み、二十代の前半には立派な自作農として自立していた。

 その力量と、勤勉さ、学識の深さを買われて、小田原藩家老服部家に仕えることになる。当初嫡子の家庭教師役として服部家に入った金次郎は、経済感覚の鋭敏さと指導力を評価され、ボロボロになっていた服部家の台所を立て直すこととなる。二宮金次郎といえば、出自が農民であり、農業技術に長けており、農業技術指導を施すことによって農民と農村を再生させたようなイメージが付きまとい、土のみを友として生きて、カネなどというものには無縁に生きた人物という印象を抱いてしまいがちだが、事実はそうではない。金次郎を一歩また一歩と世の中へと引きずり出すきっかけをつくったのは、むしろそのカネの方である。経営手腕といってもよい。服部家での見事なまでの復興手腕は、必然的に藩主・大久保忠真の目にとまり、三十代前半のとき、大久保家分家の宇津家領である下野国桜町の再興の指令を受ける。

 苦難の道を経て、荒廃しきった桜町を奇跡的と呼べるまでに復活させた金次郎は、以降、全国からその実績を嘱望され、天保四年(1833年)から、旗本川副家の青木領、細川藩の谷田部領と茂木領、烏山藩、小田原本藩、下館藩、相馬藩と次々に復興を手がける。この間、天保十三年、老中・水野忠邦によって、五十六歳にして幕臣に取りたてられる。嘉永六年(1853年)二月、幕府の下にある日光神領の荒地開拓に着手するも、その途上の安政三年(1856年)十月、七十年の生涯に幕を下ろす。明治維新まで十余年である。

3.二宮金次郎の目線

 二宮金次郎は、なぜこうも見事に次々と荒廃した農村の復興を成し遂げられたのか。ただ復興しただけではなく、金次郎の手がけた農村は、天保の大飢饉にも餓死者を出さなかった。それほど強い生命力を持ったのである。時は、自給自足型の農本経済から商品流通経済へと変貌を遂げ、農本経済を基礎に作られた政治体制が根本的に揺らいでいた時代である。さらに天災が追い討ちをかけた。桜町ならずとも、多くの農村が疲弊し、民が悲鳴を上げていた。同時代の大塩平八郎は、百人の同志と共に、民のことを慮らず既得権益にあぐらをかき、硬直した官僚主義を貫く支配者階級ならびに国難に当たっても私利を貪らんとする資本家に対して、反旗を翻し、結果鎮圧された。

 そのような、どん底にいる人間においては生活改善の夢も希望も持てない閉塞した状況下にあって、二宮金次郎は、奇跡を起こすかのように、村を、藩を、蘇らせていったのである。

 しかし、もし金次郎に尋ねたならば、「これは奇跡ではない。」ときっぱりと断言するであろう。

 金次郎のやり方は常に「積小致大」。地道に一つ一つの小さな事を積み重ねて目的地点に到達する。その目的地点も遥か彼方にあるパラダイスではなく、現実に努力すればなんとか手に届く場所を見定めて設定する。その厳密な目的地点の設定のために、徹底的な調査を行う。そして一旦設定した目的地への到達のためには、休むことなく努力するのである。結果は見事な実績としてあっても、その過程は決してスマートなものとは限らない。特に金次郎は農民出身である。身分にうるさい武家社会において、農民金次郎主導の地域復興、農政改革、財政改革は、ただでさえ変化を嫌う支配者階級から、そしてまた閉鎖的な村社会からも大きな抵抗を受けた。それは、とてつもないいばらの道である。決してマジックを使って、村が一変したのではないのである。

 金次郎の復興手法は、報徳仕法と呼ばれる。これは、藩主・大久保忠真が金次郎の手法、生き方を評してのたまわった「以徳、報徳(徳をもって徳に報いる。)」という言葉に由来するのであるが、大久保公は、さすがに老中に抜擢された賢公だけあって、金次郎のやり方をよく見ている。

 金次郎は、まさに天地自然、モノ、そして人の「徳」を掘り起こし、磨きあげ、その「徳」を活かすという形で復興を推し進めた。「徳」とは、美徳、長所、あるいは潜在的なパワーと言い換えても良いだろう。

 金次郎の思考の源泉は、少年期から読み漁った儒教、仏教、神道などの書物から得られたものであるらしい。ただし、これらを鵜呑みにすることなく、またどれか一つの教えに偏ることもなく、それぞれの中から、社会の実際に有益な要素だけを抜き出し、咀嚼して融合してしまったのだと自身が述べている。

 そこから導き出されたものに、「天道」と「人道」という考えがある。天地自然の理によって運動を行う「天道」は、なるべくしてそうなるのであって、そこに歯向かうことは出来ない。ありのままを認め、その恵みに畏敬する気持ちが重要であるが、ただ闇雲に受け入れるということではない。そこに工夫を施し、天道を人の社会に役立てる、あるいは「天道」の中に新たな働きを打ちたてる。それが人のための人の道、「人道」であるというのである。ただし人のためといっても、人間のことばかりのみを考えていては、天によってしっぺ返しを加えられる。あくまで天に生かされてこその人の道ということであろう。天の道に従い、天の徳を発見し、人の徳を「一円融合」=一致協力のもと「開闢」し、「生々発展」させて、天の徳と結合させることこそ、報徳仕法の極意なのである。

 これは単なるテクニック論としての再建ではない。人の人としての心構えを、そしてその大元には宇宙観と呼べるものを据えている。「人間革命」というべきアプローチである。役人というよりも、むしろ宗教家の要素を色濃く持っていると言えなくはないだろうか。

 ところが、金次郎の宗教家とは異なるところは、高邁な理想ではなく常に目の前の現実を見ていること、そして現実の改善の為に、現場における具体的実践を重視する点である。その姿勢は、実際的過ぎて少々興ざめするほどである。しかしその一方で、その実際的手法の根底には、確実に「人間のあるべき姿」というものが脈を打って流れているのである。

 たとえば、金次郎は、庶民やあるいは武士階級の間にも、生活資金の融通をするための金融システム「五常講」というものを作った。五常とは、儒教の教えである人倫五常の道、つまり「仁・義・礼・智・信」である。

 商品流通経済の発展する時代背景の中にあって、カネは欠くべからざる生活手段であったが、武士階級の支配する社会においては、カネは不浄なものであるという意識があった。よってカネを借りても、返す責任を全うしようとする意識も少なかったし、一方で、貸すほうも不当に厳しい利子を要求した。

 この意識を変えて、経済、金融という社会の仕組みに「徳」を発見し、その経済、金融に対する人の姿勢の中にも「徳」を開闢して、この経済、金融の仕組みを如何なく「人道」に役立てようとしたのである。

 具体的には、貸す側は「貸してやる」とか「貸し付けて利を得る」という姿勢ではなく、他人よりも多く増やすことが出来た蓄えを、思いやりの心で他人に差し出す、という姿勢で貸すこと。これが「仁」。借りる側は、借りられることを恩義とし、期限にきちんと返すよう努めること。これが「義」。返す際には、感謝の気持ちをこめて、感謝の意として「冥加金」を差し出すなど「礼」を表し、返すために、生活を工夫し、倹約を図るなど「智」を使う。そして、全体に約束事を守り、お互いの「信」のもとに運営する。これが「五常講」の仕組みである。聞いてお解りかと思うが、仕組みというよりもむしろ心構えに近い。しかしこの心構えは、それまでの賃借慣行の常識を打ち破るものであり、やがてこの金融システムが「生きたカネの循環」となって、地域や家の再興・発展に役立っていくことになる。

 さらに、報徳仕法の骨格をなす考え方で、この五常講の仕組みにもありありと表れているものに、「勤勉」・「分度」・「推譲」がある。「勤勉」は説明不要であると思うが、「分度」とは「度をわきまえること」。つまり五常講でいえば、「借金を返すためにきちんと節度を保つ生活を行うこと」で、「出費を減らすこと」である。大きくは、天道の中における人道の節度を守ることであり、徳の開闢においても、その限度を知ることである。これは、金次郎が農村の開発の目標に限界値を設定したことにも表れているし、財政改革の際には、「入りを量り、出を制す」形で、領主にすら生活の厳格な緊縮を強要した。歳入の度をわきまえた歳出を行うということである。そして「推譲」である。これはある意味、報徳仕法をもっとも色濃く特徴付けるものといってよいかも知れない。「推譲」には「自譲」と「他譲」があると金次郎は言う。「勤勉」と「分度」によって富を得た者は、ただ富を貪るのではなく、将来のためあるいは子孫のために、蓄積したり投資したりする。「自譲」である。ここまでなら人は自然になしうる。重要かつ難しいのは、その先にある「他譲」である。親類縁者、地域、さらには社会全体へと自らの生んだ余剰の蓄積を還元することで、後ろ向きな争いを避け、逆に還元される側の「徳」を開闢して、その「徳」をさらに社会に活かすことで、社会全体を活性化させることが出来る。好循環を生むのである。

 このように報徳仕法は、生活・社会・経済を改善する基礎を、絵に描いた理想にではなく現実と具体的実践に置き、その具体的実践のよりどころを、テクニックにではなく人の心の開発においている。

4.報徳国家へ

 二宮金次郎は、報徳仕法をもって地域の経済を再生した。荒廃した人心を蘇らせた。諦めと憂いの毎日をただ過ごした人々を活性化させた。
 疲弊する産業や地域や社会制度に新しい風を吹き込むことで、自信と自立の意識を目覚めさせた。
 金次郎が手がけた地域では、武士も農民も一円融合して、難局に当たり、もはや金次郎の手を離れても、大飢饉すら乗り越える力強い地域へと育っていった。

 金次郎は、少年期の辛く貧しい経験、報徳仕法の草創期における様々な圧力から、当時の社会状況の不条理さを、身分制にもとづく政治制度の腐敗を、退廃した人心を、嘆き、憤り、変革を思い描いたに相違ない。

 しかしながら、金次郎は、同時代の大塩平八郎のように、体制への露骨な反逆を試みなかった。勇気がなかったわけではない。それは違うのだと感じていたのであろう。

 身分制に基づく封建社会もまたその時の「天道」であると悟り、その中で「人道」を精一杯開発することによって、社会制度のひずみの狭間で苦しむ民を、実質的にその社会制度のひずみから独立させていくことによって救おうとしたのではないだろうか。

 大塩の乱はわずか半日で鎮圧されたが、報徳仕法によって金次郎は、「積小」ではあるが「致大」となる「人間革命」を行っていったのである。

 金次郎は、決して人に語ることはなかったが、社会制度を外圧によって直接変革するのではなく、内部で化学変化を起こすことによって内生的に変容させることを考えていたのではないだろうか。

 すなわち、「静かなる革命」である。
 そして、その革命の先に金次郎が目指したものは、縛り付けることや互いに抑制・牽制しあうこと、あるものを奪い合うことに基づく社会ではなく、「勤勉」によって自己の「徳」を開闢し、「分度」を実践しつつ生々発展し、「推譲」の精神でお互いを思いやりながら、一円融合して、「天道」のもとに「人道」を成り立たせるような社会、言いかえれば、個の揺るぎない自立と、その個同志が思いやりつつ融合・調和・発展していく社会を目指したのではないだろうか。

 金次郎の考え方は、奇しくも松下幸之助塾主が、国家の効率的な経営をなすために、国民の千差億別な天分を発掘し、その天分を適材適所に活用しながら、天地自然の理の中で共存共栄へと生成発展していく姿を描いたことと驚くほど符合する。

 つまり、現代にも十分通用する。というよりも、時代の変化を超えて、人間社会を貫く一本の太い背骨となりうる理念と言えるものではないだろうか。

 しかし、今なお金次郎の目指した報徳の社会は実現していない。
 いやむしろ後退したとも言える。

 確かに、かつて金次郎が経験したような塗炭を舐めるがごとき貧しさは、この現代日本にはないであろう。しかしその精神は、果たして金次郎の時代に比して貧しくはないと言えるだろうか。「勤勉」に、「分度」をもち、自己の「徳」を開闢して自立できている、と言えるか。「推譲」の精神で「一円融合」して共存共栄を図っている、と言えるだろうか。現実は「天道」を畏敬することも、その恵みに感謝することも、そのもとに「人道」を打ちたてることも忘れて、身勝手な行き方をしているのではないだろうか。

 今こそ、報徳仕法で国家の土台を築き直していくべき時が来ているように思う。
 土台となる「人間の『徳』の開闢」に心血を注ぐ時は、今なのである。

 「静かなる革命」の潮が満ち始めている。

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兼頭一司の論考

Thesis

Kazushi Kaneto

兼頭一司

第26期

兼頭 一司

かねとう・かずし

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