論考

Thesis

精神医療史に見る社会保障制度の遺残

社会保障制度は時に何十年も後の人々の生活に影響を与える。精神医療における最初の法である『精神病者監置法』が制定されてからの100年を概観し、制度の遺残が現在へ与える示唆を学びたい。

1.はじめに

 社会保障の諸制度は国民1人1人の生活に深く根ざしており、成立した制度そのものが生活を根本から覆し、時に人間の人生を変えてしまうほどの影響を持つことがある。特に社会の中でももっとも「弱者」に対する制度の場合は、何十年にも渡り成立当初の概念が引き継がれ、もし当初の概念の修正が必要となった場合でも根本的な変革に至るには社会や関係者の多大な労力を要する。

 今回は、その典型的な例の一つとして精神医療を取り上げてみたい。

 精神障害の患者は古代から一定の数が存在したが、社会からは狂人、乱心者として扱われてきた。日本ではその精神障害者に関する制度が初めて成立したのが1900年、今から約100年前のことであった。それが、『精神病者監護法』である。世界が第一次世界大戦に突入していく時代の中で成立したこの法律は、国内が軍需産業による好景気に沸き、日本が世界の一国としての存在感を強めていく過程にあって、「弱者」としての精神病者に対する社会の理解を得るものとは到底ならなかった。むしろ、医療上の対応についての規定がなく、精神病者を私宅・病院に監置することを法によって認めるものであり、結果的に私宅監置が増加することとなった。この概念と制度の基本構造の大半が改正されるようになるまでには、実に太平洋戦争を経て、約80年ほどの時が要する。この過程は、今後の社会保障政策を制定する中で、いかに対症療法ではなく長期的な理念のうえに成り立つ制度設計が必要になるかという示唆を十分与えてくれるものではないだろうか。

2. 『精神病者監護法』

 明治時代以前には精神障害者は「癲狂」と呼ばれ、丸薬や加持祈祷による対応が行われていた。狂人を「治療」するという概念が見られるようになるのは、杉田玄白が『解体新書』により脳が意識の中枢であることを示した江戸時代後期であったと考えられるが、対応する法整備としては体系化されたものはなかった。

 明治17年(1884年)から28年(1895年)にかけて相馬事件が起こった。これは、相馬藩主の相馬誠胤が精神病にかかり自宅に監置されたことに対して、藩士の錦織剛清が、家族による不当な監置だとして訴えた事件である。この事件の過程で、精神障害者に対する法体制の欠陥が明らかとなり、明治33年(1900年)に『精神病者監護法』が制定されるに至る。この法は23条に渡り、精神障害者を私宅・病院に監置する場合には、監督義務者が医師の診断書を添えて、警察署を経て地方長官に許可を得ることを定めていた。

 しかし、この法律が制定された以後も、明治42年(1909年)に行われた調査では、約2万8千人の患者が存在し、そのうち病院に収容されたのは2400名あまりで、私宅監置は3千人も存在することが明らかとなった。そこで、明治44年(1911年)に『精神病院設置に関する建議案』が採択されるに至ったが、病院の設置は進まなかった。

 そして、この状況を憂いた東京大学医学部精神病学教室の呉秀三らは、大正7年(1918年)に『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』(*1)を出版する。これは呉ら教室員が1府14県にわたって私宅監置された患者を訪れ、その部屋や生活の一部始終を図や写真を使って克明に記した報告書である。

 この文献によれば、精神障害者が私宅監置される場合、通常私宅に監置室と呼ばれる部屋が設けられ、そこに監置される。監置室は、外見は木製の小屋のような閉鎖空間であり、広さは約1坪、天井の高さは約180cmほどである。しかし、採光や換気、衛生面についての管理は極めてずさんであり、
『室内ナル被監置者ノ存在スラモ識別シ得ザルほど闇黒タルモノモアリ。』
とある。また、監置室が設置されている場所も、物置や土蔵の一角や、湿地に直に接して建てられているもの、あるいは便所に隣接して建てられているものもあったと言う。防寒・防暑対策も多くは設備がなく、
『其状況ノ全ク動物小屋ト相距ル遠カラザル如キモノモ之ヲ認ム。』
とある。そして、多くの患者は、入浴や散歩などの運動をすることもなく、室外から一歩も外に出られない監禁状態にあった。患者の家族も『精神病ヲ以テ一モ二モナク不治ノモノトナシ』、初期には多少の治療や祈祷をしても効果がなければすぐに監置室に入れ、治療は行われなかった。また患者を公的な病院に預けることができるのは富裕層に限られており、私宅監置が行われている家族の半数は貧困層であった。従って、不治の病を患った患者に時間と労力をかけることは、生計を立てなければならない家族にとって容易なことではなかった。そして、家族は日増しに被監置者に無関心となり、高度の痴呆により感情や意志が欠如した状態にまで病状は進行することとなった。

 このような私宅監置が増加する引き金となった『精神病者監護法』について、呉は以下のように指摘する。
『同法の為メニ最モ惜ムベキ欠陥ハ同法ガ精神病者ヲ法律上ニ監督シ保護スルコトヲノミ眼中ニ置キテ、ソノ医療上ノ監督保護ニ関シテハ何等特別ノ条項ヲ制定セザリシニアリ。』

 すなわち、『精神病者監護法』には医療に関する規定がなく、市民秩序を維持するために社会から精神障害者を隔離し監禁するための法律という位置づけになってしまったのである。呉は、本文献を通して、精神障害者を収容する施設を設立することを政府に強く要望した。

 呉らの『精神病者私宅監置の実況及ビ其統計的観察』の出版後、内務省保健衛生調査会の調査や日本神経学会の働きかけにもより、大正8年(1919年)に『精神病院法』が成立した。これは、精神病者の保護・治療を目的として、内務大臣が道府県に精神病院の設置することを規定した法である。公の責任として病院を設立し、精神障害者に対する監置ではなく治療を行うことを明らかにした法ではあったが、『精神病者監護法』が失効したわけではなく、病院の設置も進まず、むしろ戦争の影響で既存の病院も次々と破壊された。結果として、私宅監置が廃止されるのは太平洋戦争終了を待たなければならなかった。

3.戦後の法改正

 終戦前の精神医療に関する法制度は、精神障害者に対する社会の対応と施設のあり方の根本的な概念を築き、その後いくつかの改正を経ても依然としてその根底に現代の精神医療制度にも 影響を与えている。

 終戦後の昭和25年(1950年)、ようやく『精神病者監護法』と『精神病院法』は廃止され、『精神衛生法』が制定された。この法は、「精神障害者の医療保護、その発生予防および国民の精神的健康の保持増進」を目的とし、初めて私宅監置が廃止され、精神病院の設置を都道府県に義務付け、自傷や他人を傷つける恐れのある患者の措置入院を公費負担することなどが定められた。呉らが願っていた精神障害者に対する「治療」がようやく実現したのである。昭和40年代には、日本の高度経済成長に支えられ、病院数も著しく増加した。措置入院の患者数は昭和46年(1971年)には7万6千人に達した。一方で、戦後、世界の精神医療の潮流は、患者を施設に収容するのではなく、地域への社会復帰や外来治療を中心とした方向へ転換しつつあった。向精神薬の発見もこの潮流に拍車をかけた。日本は先進国の仲間入りを果たしたが、精神医療に関しては施設の増設が1990年代に入っても続いていた。

 昭和39年(1964年)には、駐日アメリカ大使のライシャワーが、統合失調症の少年に刺されるという事件が発生したのをきっかけに、精神衛生法の一部改正が行われた。法改正では精神衛生センターを都道府県に設置し、在宅精神障害者の指導体制を整備すると同時に、自傷・他害の恐れのある患者に関する緊急措置入院が新たに規定として設けられ、治安が強化された。

 このような患者の「収容」という概念が変化したのは、昭和62年(1987年)のことであった。宇都宮病院において閉鎖病棟で職員が患者を殺人するという事件が起きたのである。国際的な批判の的ともなったこの事件を契機に、『精神衛生法』は『精神保健法』が公布された。ここで、日本で初めて患者の人権が強調され、「収容」ではなく、「入院中心の治療から地域内での援助・支援体制の確立」という概念へと法体系が変わった画期的な法律でもあった。

 その後は、平成5年(1993年)の『精神保健法』の一部改正により、さらに精神障害者の「社会復帰の促進」が盛り込まれ、精神障害者のためのグループホームや、精神障害者社会復帰促進センターが設立された。また、同年に『障害者基本法』が成立し、精神障害者が初めて『障害者』として認定されるに至った。平成7年(1995年)には『精神保健福祉法』と名を変え、「自立と社会経済活動への参加の促進」が規定された。その後も5年ごとに改正が施されている。このように、精神障害者の脱施設化と社会生活におけるノーマライゼーションに関する制度の概念は、やっと1世紀を経てここまで到達し得たといってよい。

4.改正と受け継がれる理念

 1900年から100年余りの長きにわたって、「監置」から「治療」へ、そして「施設への収容」から「地域の支援・社会への復帰」へと変遷をたどってきた精神医療は、法の概念としては近年ようやく進展してきた。

 しかし、実際には、ここまで見てきたように、1つの法の内容が改正を経てもなお、何十年もの間その基本設計が引き継がれ、関係者に影響を与えてきたものもあることは事実である。

 『精神病者監護法』の私宅監置の実態は、2章で見てきたように本来の精神障害者に対する「治療」の概念なしに囚人のごとく患者を監禁する冷酷なものであったにも関わらず、その法は50年にもわたり存続した。また、このときの精神障害者の「収容」という概念も、実に『精神保健法』が成立するまでの80年以上にわたって精神障害者の関連法案の骨格となる概念であった。さらには、「障害者」と認定されるまでの90年以上、精神障害者は特別な疾患として法的にも枠外に置かれ、社会の中でも障害者とはまた別の偏見の目で見られることを余儀なくされてきた。むしろ、この偏見は今でも続いているのであろう。法の概念が変わっても、社会がすぐに変化するわけではないからである。

 条項を見てみると、『精神病者監護法』から脈々と受け継がれるものも存在している。それは精神障害者の「保護者」に対する規定である。『精神病者監護法』において、精神病者を監護すべき監護義務者は、『後見人・配偶者・親権ヲ行フ者・四親等内ノ家族中ヨリ家庭審判所ノ選任シタル者』との規定がある。現在でもこの順序は変わっていない。そして、『精神保健福祉法』においても、

『第22条 保護者は、精神障害者に治療を受けさせ、及び精神障害者の財産上の利益を保護しなければならない。
2 保護者は、精神障害者の診断が正しく行われるよう医師に協力しなければならない。
3 保護者は、精神障害者に医療を受けさせるに当たつては、医師の指示に従わなければならない。』

『第41条 保護者は、第29条の3若しくは第29条の4第1項の規定により退院する者又は前条の規定により仮退院する者を引き取り、かつ、仮退院した者の保護に当たつては当該精神科病院又は指定病院の管理者の指示に従わなければならない。』

と、保護者の義務を明確にしている。ちなみに、保護者の義務規定として『精神病者監護法』から直接の流れを組んでいる条項の1つとして、「精神障害者が第三者に損害を与えた場合、保護者が責任を取る」という内容があったが、1995年の改正で削除された。しかし、2000年には、仙台高等裁判所の判決で、『精神保健福祉法』での義務規定はなくとも、『民法』による義務規定により、保護者の責任がある、とされている。この保護者の義務に関しては、現在も法改正の際には議論となっている。精神障害者の監督責任をまず家族へと向けさせた100年前の『精神病者監護法』の影響が未だに残っているという政策決定の責任の重さを示すものではないだろうか。

5.終わりに

 現在でもなお、社会における精神障害者の社会復帰は十分に達成したとはいえない状況にある。精神障害で受診した患者数は平成17年の統計調査結果で、全国で55万人であった(*2)。そのうち、入院患者数は32万人であり、1年以上入院する患者がそのうち約1割を占めている(*3)。すなわち、「施設」から「地域」へという流れはまだ社会的に十分促進されたとは言えない。

 いずれにしても、常に時代の中で、「社会の中で誰がもっとも弱者なのか」を見極め、その制度の長期的な影響を考慮することが政策に携わる者に求められていると私は強く感じている。呉が、当時の精神障害者がおかれた状況を、
『我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生マレタルノ不幸ヲ重ヌルモノト言フベシ』
と記した状況が二度と起こらないような日本であってほしいと願うばかりである。

<脚注>
*1 呉秀三・樫田五郎 『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』 精神医学古典叢書 創造出版 2000年
*2 『平成17年患者調査 推計患者数の年次推移,入院-外来×傷病分類別』 厚生労働省
*3 『平成17年患者調査 在院期間別推計退院患者数構成割合(累積),傷病中分類別』 厚生労働省

<参考文献>
『立法百年史 精神保健・医療・福祉関連法規の立法史』 広田伊蘇夫 批評社 2004年

Back

坂野真理の論考

Thesis

Mari Sakano

坂野真理

第26期

坂野 真理

さかの・まり

虹の森クリニック院長/虹の森センターロンドン代表(子どものこころ専門医)

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門