松下政経塾 The Matsushita Institute of
Government and Management

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人間観
2006年4月

塾生レポート

福祉の現場から、人間を考える
安田壮平/卒塾生

「人と人とが向き合う福祉の現場には、人間の本来の姿があるのではないか」。この仮説に基づき、福祉の現場にて実習を行い、そして人間本来の姿を感じ考えた。この本来の姿を取り戻すことこそ、いま私たちに求められているのではないだろうか。

 

はじめに

 今年の6月から暫くの間、私は茨城県の2つの社会福祉法人において、ケア(広い意味での「お世話」)の実習をさせて頂いた。施設としては、保育所・放課後児童健全育成事業のための施設(いわゆる学童クラブ)・児童養護施設・重症心身障害児施設・身体障害者療護施設・特別養護老人ホームの6種類にわたる実習となったが、その第一の目的は、「将来に政治の道を目指さんとする者として、重要な課題である福祉の、現場を体験することを通して、今後あるべき福祉のあり方を探る」というものであった。

 しかし、もう一つの目的は、福祉の現場を通して、人間の本来の姿を感じ考えることにあった。というのも、人間が地位・名誉・性別・年齢・出自などの属性という「皮」を一枚ずつむいていくと何が残るのか、この問いへの手掛かりが福祉の現場にあるのではないか、と考えたため、何としてでも実習しようと動いたのである。私は、このような人間の本来の姿をつかんでこそ、政治に挑戦して多くの人々を幸せにする、あるいは不幸せにしないということが達成できると考える。これは間違いなく、松下幸之助塾主が私たち塾生に対して、まずは人間を把握することを訴えた想いにも通じるだろう。

 はたして、福祉の現場には、人間の本来の姿を垣間見る瞬間があった。もちろん、人間の本来の姿は一つだけではないだろうし、様々なものが考えられるだろう。その中でも、私が今回、感じ考えたものを以下に述べようと想う。

施設について

 その前に、まずは実習をしたそれぞれの施設について、概況や特徴を述べる。

 保育所とは、保護者に代わり就学前の乳幼児を保育する施設である。文部科学省が監督官庁となる幼稚園と異なり、厚生労働省の管轄下に置かれる。私が実習をした保育所は、太平洋に面した海岸近くにあり、庭からの借景が素晴らしく、子供たちの情操教育にも良い効果があると想われるような施設だった。

 いわゆる学童クラブとは、保護者に代わり小学生を放課後の数時間のみ保育する施設である。近年、共働き世帯の増加により、全国的に普及しているようだ。私が実習をした施設は、小学校1年生から3年生が対象で、土曜日や夏休みの一定期間なども運営しているということだった。運営日程などについては、施設によってある程度の幅があるようだ。

 児童養護施設とは、かつて「孤児院」と呼ばれたものであり、家庭にて生活することが困難となった児童(約2歳から18歳まで)が生活をする施設である。戦後、戦災孤児を救うために全国的に整備が進められた。入所事由としては、親の不在・行方不明・長期の出稼ぎ・病気療養などに加えて、近年では、親の児童虐待や薬物中毒などに起因する家庭生活の崩壊によるものが増加しているという。まさに、世の中の暗い部分が、弱い子供に現れているといえよう。ちなみに、0歳から約2歳までの乳児のための施設は乳児院となる。

 重症心身障害児施設とは、0歳から18歳までに重度の身体障害・知的障害を重複して発症(主に、生後直後の脳性麻痺が原因だという)した方が治療と生活を行う施設である。発症は18歳まででも、生涯にわたって入所する年配の方も多い。医療を行うために、医師や看護士の配置が厚いのが特徴だが、この治療と生活を併せた「療育」という発想に基づく制度・施設は、欧米にはないわが国独自のものであるようだ。しかし、わが国政府の現行の福祉政策見直しの流れからは、廃止の可能性が高いと懸念されている。

 身体障害者療護施設とは、身体障害や知的障害を持つ方が生活を行う施設である。障害の程度が、重症心身障害児施設の入所者よりも軽いので、医師や看護士の配置も比較的少ない。私が実習をした施設は、車椅子などを使って自由に行動できる方も多く、生活空間もかなり広い造りになっていた。

 特別養護老人ホームとは、身体的、または精神的な障害があるため介護を必要とする65歳以上の方が生活を行う施設である。高齢化が進行するわが国において、家族への負担などを考えて、入所を希望する方が絶えない状況であるようだ。私が実習をした施設も、個室が整備され人気が高いらしく、既に満員状態で、入所待ちの方が多いようであった。

 以上のような施設で、私は利用者・入所者のケアをさせて頂いた。子供と踊ったり歌ったり走ったり、人生の先輩方と話したり食事をしたり車椅子を押しながら歩いたりした。

 「福祉」と一言で表現しても、対象者や施設の種類によって、施設環境や運営状況は異なる。しかしながら、底に流れる何かしら通じているものがあると感じる。それは、モノとでもコンピューターとでもなく、主に「人間と向き合う」動作・作業が繰返し行われているという共通点から生じる人間の本来の姿ではないかと考える。それでは、その共通して底に流れる、人間の本来の姿について、考察を深めたい。

福祉の現場から感じ考えた人間の本来の姿

1.「自ら立とう」とすること

 わが国の現行の福祉(高齢者福祉・障害者福祉・児童福祉)政策・制度を全般的に貫く理念は、「自立支援」である。たとえば、児童養護施設においても、入所者は高校卒業後には施設を退所して、自立を余儀なくされる。そのような法制度上の現実があるとしても、私は特に障害者や高齢者から、人間の本来の姿は「自ら立とう」とすることである、という姿を見せつけられた。

 たとえば、食事において、彼らの腕を動かす能力・食べ物を噛み砕く能力・飲み込む能力は、一人ひとり全く異なる。よって、各々の能力に合わせて、同じ食事メニューでも形状や柔らかさを変え、使う食器なども変えている。そして、職員の方々の補助を受けつつも、「自らできることは自らする」という姿勢を貫きながら、食事をしている。

 もちろん、このことが先の「自立支援」という理念に基づく施設の運営方針や、「究極のカスタマイズ」ともいえる職員の努力によって成し遂げられているということも事実である。障害者や高齢者が現有する能力を衰えさせないため、という配慮もあるだろう。

 しかしながら、彼らが「自らできることは自らする」という意志を発揮しない限り、それが為し得ないことも事実である。食事については、生きていくための必要性からも、その意志が発揮されやすいことは確かだろう。だが、彼らに「自ら立とう」とする意志があるからこそ、職員も納得して補助をすることができるのではないか。そして、施設もその方針を守って運営することができるのではないか。

 私は、たとえどんなに時間がかかっても、途中で失敗しても、「自らできることは自らする」という姿に感動した。これこそが、様々な肩書きなどの「皮」をむいていって最後に残る、人間本来の一つの姿であるように想う。この意味で、人間の本来の姿は、「自由」よりも「自立」ではないだろうかと考える。どんなに身体が「不自由」でも、「自立」に向かって進むことができるからである。

 そうであるからこそ、私たちは五体満足にして「自立」を目指さないニートやパラサイト・シングルと呼ばれる人たちに不快感を覚えるのではないだろうか。

 いくら「自由」を唱えても、私たちは完全に「自由」ではあり得ない。法律や習慣やあらゆる人間関係に縛られている。精神的な「自由」にしても、通俗的な常識や閉ざされた言論空間の中での情報に囚われている可能性も否定できない。私たちに新たな視点を与えた『国家の品格』で藤原正彦氏が指摘するように、「自由」はフィクションであるということを常に頭の片隅に置いておかなければならないと考える。

 もちろん、完全なる「自立」も、この目に見えない支え合いの世の中においては、無人島にでも行かない限り、なかなか達成できないだろう。しかしながら、戦後のわが国において、「自立」よりも「自由」の方が強調された分、個人でも、自治体でも、あるいは国家そのものでさえも、「自立」の達成度が弱いということに共感する方は少なくないはずだ。国防然り、エネルギー資源確保然り、財政然りである。

 人間の本来の姿は「自ら立とう」とすることであり、これを敷衍して、自治体や国家に適用したとしても、それがまさにそれらの本来の姿であると、私は考える。

2.「自ら立とう」とすることができない部分について、支え合い高め合うこと

 施設の障害者や高齢者は、本音で生き、そして「自ら立とう」とする姿を強く見せつけてくれた。そうでありながら、もちろん全てを一人で処理できる訳ではない。職員の助けを借りなければならない。だからこそ、彼らは愛嬌が豊かである。職員も、どうしても助けずにおれなくなってくる。基本的に「自ら立とう」としているからこそ、そうできない部分については、納得して補助するのだろう。これも、努力する人を応援したくなる、素直な心情の現れではないか。

 私がさらに気付いたことは、職員が一方的に障害者や高齢者を助けているのでは決してなく、お互いに教え教えられ、支え合いながら、人間として高め合っているのではないか、ということだ。

 たとえば、職員は、私よりもはるかにコミュニケーション能力、特に障害者や高齢者の発するメッセージを感受する力や彼らを観察する力が高いと感じた。これはおそらく、経験によるコツもあるだろうが、より本質的には、決してコミュニケーション能力が万全ではない障害者や高齢者のニーズを何とか知りたい、という強い想いによって、相手の立場に立って共感しようとする姿勢が強まっているためだろうと考える。

 また、高齢者は人生の先輩ばかりであり、教えて頂く知恵や見識には、往々にして人生の真理が含まれている。それをしっかり受け止めることで、職員にも大切な学びとなり、さらにその過程において、根気や忍耐力が高められているように感じる。

 このようなことを通して、お互いに支え合い高め合う関係が築かれていることを感じ、これが本来の人間同士の姿、さらには福祉のあるべき姿なのではないか、と考えたのである。

 私は決して、福祉の現場で起こっている状況を美化したい訳ではない。しかし、私が素人の眼で、人間同士が向き合う場を凝視した時に、このような意味合いを抽出できると考えたのである。

 これに関連して、児童養護施設のある職員によれば、子供たちに必要なのは、ただ身辺の世話をすることだけでなく、「周りの人々との信頼関係を再構築すること」だという。子供たちが何らかの理由のために家庭生活を継続できなかったことによって失った最大のものは、「周りの人々との信頼関係」だというのである。

 これを再構築するためにも、まずは職員のほうから、子供たちを受け止め、受け入れ、認めようとする姿勢が必要となる。次に子供たちのほうにも、職員に対して同様な姿勢が必要となる。そして、ゆくゆくは「自ら立つ」ことに基づいた支え合い・高め合いを目指すことになる。これは、その施設だけに当てはまることでなく、いま私たちの家庭や学校や地域社会などにも必要とされていることではないだろうか。

 『3年B組~』のドラマではないが、「人」という字は、人と人とがどちらも立って支え合っている。どちらか一方が寝ているのではない。まずは、自らが立つ。その上で、お互いに支え合い高め合う。この姿こそ、人間の本来の姿・人間同士の本来の姿ではないかと、私は考える。

3.自分よりも弱い者を守ること

 これは、私が子供たちや高齢者や障害者と触れ合いながら、わが身の内に感じたことであるが、上の1と2を踏まえて、さらに自分よりも弱い者を守るということが、人間の本来の姿であると考える。

 『孟子』の井戸に落ちた子供を助ける例を出すまでもないが、たとえば、相手が子供であれ、高齢者であれ、障害者であれ、共に支え合い高め合う関係を築いたとしても、職員が基本的にその弱い人たちを守ることは誰の目にも当然だと映るだろう。

 私の場合も、何の才能や技量を持たずとも、子供たちや高齢者や障害者が私を必要としてくださっていると感じた。そして、自らも彼らを大切に守らなければならないと感じた。この自分よりも弱い者への想い、すなわち情け・憐れみ・愛情・惻隠の情こそ、人間の本能として備わっているものであり、それを発揮することこそ、人間の本来の姿ではないだろうか。逆にいえば、これを発揮していないからこそ、子供や高齢者など弱い者が犠牲になる事件が後を絶たないのではないだろうか。

 自分よりも弱い者を守るという姿は、一人の人間としての枠を超えて、人類という一つの生命体にとって必要な営みであり、私たちの祖先から受け継がれてきた重要な義務であると考える。自らが幼少期に親や周りの人たちにかけてもらった愛情や世話を、今度は自分よりも弱い者へかけることこそ、人類という生命体の歴史から観て本来の姿といえるのではないだろうか。

 対象を子供に絞っていえば、私たちがこの本能に基づく義務を果たさなければ、将来においてわが国や世界を担う次の世代はどうなるのか。私たちは、個人の自由ばかりを主張すべきでないことを身にしみて感じるべきだろう。

 わが国では現在、少なからぬ小学生に保護者の送迎が必要となるまでに至ってしまった。遊ぶことが仕事である子供たちを、公園や空き地で自由に遊ばせることができにくくなってしまった。大人が自由を謳歌する余り、子供たちが不自由になってしまった。何と恥ずべきことではないか。このことを考えても、私たちがまだまだ十分に人類としての義務を果たしていないことは明白だろう。

 いまのわが国を見渡しても、弱い者を守ることが達成されていないことは、あらゆる分野・場面において見られる。幼児虐待然り、振り込め詐欺然り、官と民との所得格差然り。私は、わが国政府が「新自由主義」の旗印の下に、この傾向を助長してはならないと考える。もちろん、「本当の弱者」を見抜く眼力は必要であるが、強い者が弱い者を助けるという、本来為すべき正義こそ、最も尊重して踏み行わなければならない価値であると考える。

 よって、世の指導者たらんとする者は、自分よりも弱い者を守るという本能に基づき、愛情や惻隠の情を深めなければならない。それもなく、自由主義や合理主義、競争至上主義を過信し、弱肉強食の世の中となってしまっては、野獣と同じである。いや、野獣でさえわが子を守る。人の世は、野獣以下の世界となりかねない。

締め括りとして

 私が実習させて頂いたある社会福祉法人では、理念の一部に「人は皆佛子、佛種を内に包む」という言葉を掲げている。人は誰でも仏の子であり、生まれながらにして仏となる素質をもっているのだ、という趣旨である。

 これはおそらく、塾主の「新しい人間観」の根底にある、人間肯定の思想にも通じ、人間の無限の可能性を確信する言葉であると考える。この大きな素質、大いなる可能性である佛種を信じ、芽を育て、大木に生長させることができるかどうかは、ひとえに私たち自身にかかっているのである。

 この佛種に含まれるものが、上に述べた3つの人間の本来の姿ではないかと考える。「人と向き合う仕事」である福祉の現場を通して感じ考えた本来の姿だからこそ、これらを自らの人間観の根本に据えて、これらがしっかりと踏み行われる人の世の実現に向けて進んでいこうと考える次第である。

参考文献

松下幸之助『人間を考える』PHP研究所、1972年
松下幸之助『人間を考える 第二巻』PHP研究所、1976年
藤原正彦『国家の品格』新潮新書、2005年
その他社会福祉施設関係資料 など
2006年4月 執筆
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