論考

Thesis

人間観の広がり -二宮尊徳と「新しい人間観」-

私にとって人間観とは不定形なモノであり続けている。自らのうちに潜む人間性を振り返り、同時に構築すべき人間観の根底となるヒントを、自らの土地に探ろうとする欲求に駆られ、二宮尊徳という人物に触れてみることとした。

1.はじめに

 「塾主の人間観を考察しながら『人間とは何か』についてテーマを設定し各自の考えを述べる」という課題にそって、これまで定期的に論考を進めてきた。毎度毎度、その人間観について書かれた著作とにらみ合い、格闘してきたが、実はなかなか腹に落ちないできている。それは松下幸之助という人物自身の人間観のみならず、そもそも人間観という存在自体が自らの内であやふやであるということの裏返しかもしれない。

 しかし、一方で、そうした自らの混乱に意義があるようにも考えている。そもそも人間という存在を認識するフレームワークがそう簡単に構築できるようには思えない。借り物であっては有害無益、結果的に同じであろうと違おうと、各種の参考例と実体験をもとに、自ら構築していく作業は一生涯続いていくと考える。

 入塾以降の日々の活動を通じ、人間に関して腹に落ちている自分なりの確信が一つある。それは、人はその生まれ育った環境に、人間性の根っこを大きく依存しているということである。人間の発想や行動、瞬発的な感情の発露の根源に、その土地、国に根ざす文化や歴史、慣習が影響している場合が多い。それは、被災地での活動だったり、選挙で行った先々だったり、識者を訪ねていった各地だったりする。日本も海外も含めて。苦楽を共にし、酒食を共にするなかで、少しずつ見えてくる「土地の人間」に共通した感覚の根っこを探ると、そこに生まれ育った風土の後姿を見るのである。新潟に見た芯の強さと沖縄に見た底抜けの明るさ、中国に見たたくましさと台湾に見たしたたかさは、やはり思い出深い。

 文化や歴史、慣習と言ったが、突き詰めていくとそれは、地理、地勢、地形、気象といった、その土地の自然に行き着くように感じている。暖かい・寒い、沿岸部・山間部、河川がある・水資源に乏しい、街道沿いにある・奥地にある…。そうした土地の自然特性が、その土地固有の文化や歴史、慣習を生み出し、そうした独自性を根底とする「土地の人間」を連続的に生み出してきたのだろう。

 そう考えたとき、自らのうちに潜む人間性を振り返り、同時に構築すべき人間観の根底となるヒントを、自らの土地に探ろうとする欲求に駆られることになる。二宮尊徳という小田原を出身地とする人物を知ろうと考えたのもそんな理由であり、同時に、思考の幅を広げる比較対象を得るために松下幸之助の著作を離れてみるという意図もあった。

2.二宮尊徳の人と思想

 薪を担いで本を読みつつ歩く姿。これが二宮尊徳、幼名金次郎の一般的なイメージだろうか。冷静に考えれば分かるとおり、歩きながら本など読めるはずもなく、実際には歩きながら大声での暗唱だったという説が強い。これに限らず、尊徳には多くの虚像がある。

 まずは、忠君愛国のシンボルとしての尊徳である。かつて、あらゆる国民学校に尊徳の像が建立されていたことは有名である。銅像の尊徳が読んでいるのは『大学』であり、その中にも出てくる父母への忠を、人間の存在理由として、彼が強調したのは事実。その忠を天皇及び国家への忠誠心とし、かつ尊徳の思想を単なる倹約に曲解し、「欲しがりません勝つまでは」に結びつけて利用したのである。加えて、農民尊徳の虚像も指摘していいだろう。農民であったには違いないのだが、例えば宮沢賢治のような目線を農民と同じ高さに持って活動した人物とは全く違った。彼は、一農民であること、厳しい現実をただ忍ぶだけの農民像に背を向けて、独学し、半武士階級の一人として農民らしからぬ半生を送った人物だったのである。

 では、尊徳の実像と、そこにあった思想はいかなるものであったろうか。また、そこに垣間見られる人間観はいかなるものであったろうか。若干の周辺情報を含めて、抽出しておきたい。

 二宮金次郎は、約200年前、現在の小田原市栢山(当時栢山村)に生まれた。現在でこそ、栢山という場所は富士山の雪解け水に源を持つ伏流水の豊かな地であるが、当時は側を流れる酒匂川の度重なる氾濫にさらされた「下田(げでん)」が中心だったという。二宮家は下田中心ながらも比較的裕福な家だったが、それも父母の夭逝により、一家離散の憂き目にあう。尊徳がその後、勤労に励み、失った田畑を取り戻していったことはよく知られるところであるが、しかし、それも農業労働のみに没頭したわけではない。むしろ、時に水や山の管理など村内の共同作業に背を向け、農業労働に劣らないほどの労力を、小田原の城下町にあった武家屋敷などでの奉公に向けたのである。そこから、田畑を買い戻す原資を得、更にそれを村内で低利で貸すことを通じて、経済的成功を勝ち取っていったのだ。尊徳が生涯を通じて行った各地での財政立て直しは、一農民としての積み重ねのみならず、そうした経済活動からもたらされたものだったのである。

 尊徳が行った財政立て直しは、一般に「報徳仕法」と呼ばれ、そのエッセンスは、「分度」と「推譲」という二語にある。分度とは、「身の程」をわきまえた合理的かつ現実的な節倹生活を営むことにより金銭・物資の余剰を生み出すことである。分度によって生み出された余剰は、社会や他人に譲る(低利融資)こととされ、これが「推譲」の根幹をなす。つまり、報徳仕法とは、ムリ・ムダを廃し、そこに発生する余剰を、単なる返済だけでなく、投資に振り向けることによって、経済活動の活性化を図り、個人のみならず村(社会)全体の生活を窮乏状態から救い出すことを主眼にしていたのである。

 この分度と推譲による報徳仕法を成り立たせる基本原理として尊徳が重んじたのが、人間の徳性であった。「分度」による余剰が「推譲」によって低利融資されたとしても、その返済原資を生み出す勤労と「分度」の意志がなければ仕法は成立しない。尊徳は、その原理を徳に求め、年賦にて元金返済を終えた翌年の支払い金(利息分)を報徳金と名づけたのである。

 もっとも、人間の善性としての「徳」を尊徳が完全に所与として仕法に臨んでいたわけではない。口語訳された「語録」のなかにも、「人は富貴を求めて止まるところを知らない」とされたおり、分度の困難さのみならず、徳性が必ずしも全ての人間に顕在化しているとまでは考えていなかったことが読み取れる。銅像にある彼が『大学』を手にしており、仕法を進めるなかで書き記した五常講にて仁・義・礼・智・信を繰り返し唱えたことを念頭に置けば、本質的な徳性を信じつつ、目の前で生きる武家屋敷の奉公人や村人をはじめとする人間は、こうした規範論にて裏打ちされるべき人間でもあった。

3.人道と天道、そして「新しい人間観」

 こうした人間像が、尊徳自身がその人生の中で目にしてきた人々の姿の総体であったことは想像に難くない。彼は、この現世を天道と人道という世界観から表現しており、ここから「新しい人間観」の理解への示唆を得ることができるように思う。

(以下引用)
翁曰、夫世界は旋転してやまず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明れば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず、(中略)、爰で喰へらす丈の穀物は、田畑にて生育す、野菜にても魚類にても、世の中にて減るほどは、田畑河海山林にて、生育し、生れたる子は、時々刻々年がより、築たる堤は時々刻々に崩れ、掘たる堀は日々夜々に埋り、葺たる屋根は日々夜々に腐る、是即天理の常なり、然るに人道は、是と異也、如何となれば、風雨定めなく、寒暑往来する此世界に、毛羽なく鱗介なく、裸体にて生れ出、家がなければ雨露が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず、爰に於て、人道と云物を立て、米を善とし、莠を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす、皆人の為に立たる道なり、依て人道と云、天理より見る時は善悪はなし、其証には、天理に任する時は、皆荒地となりて、開闢のむかしに帰る也、如何となれば、是則天理自然の道なれば也、夫天に善悪なし、故に稲と莠とを分たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ、人道はその天理に順といへども、其内に各区別をなし、稗莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす、爰に到ては天理と異なり、如何となれば、人道は人の立る処なれば也
(「二宮尊徳『夜話』」より、下線筆者)

 仏教(禅宗)のバックボーンを持った尊徳は、人間を取り囲む世界を善悪の区別なく「旋転」するものとし、「天道」と認識した。そして、その天道の中で、人間は衣食住を生きるために「米を善とし、莠(はぐさ、水田の害草)を悪」とする善悪の区別を持つ「人道」を人為的に立てているとする。天道は「旋転」であり、人道は天道と「異」なるのである。

 これを「新しい人間観」と対比すると、二つの側面でその相違が際立って見える。第一に、天および宇宙というそれぞれの根源をなす基礎原理についてである。「新しい人間観」において、尊徳で言う「天道」と対置される「宇宙」の基礎原理は生成発展と認識される。片や「開闢のむかしに帰る」天道、片や「生成発展」の宇宙。生成と消滅がセットになった尊徳の世界観と、生成と発展がセットになった松下幸之助の世界観(宇宙観)とは明らかに違いがある。

 第二の相違点は、基礎原理たる「天道」「宇宙」と、人間との関係性についてである。「人道」とは、自然回帰の天道に対して時に抗う形で打ち立てられるべき人為。従って、「人道」は「天道」の原理を基本的に拒絶し、その外部に位置する。一方、「新しい人間観」における人間とは、生成発展する宇宙の法則、自然の理法から出現した存在とされる。従って、「人間」はその本質において生成発展の原理を「宇宙」と共有する。「天道」「宇宙」と、人間との関係性についても、基礎原理の共有という観点において、尊徳と松下幸之助の発想に違いがある。

 この両者の違いはどこに起因するものだろうか。二宮尊徳と松下幸之助の人物像には、多くの共通点がある。幼くしての一家離散と奉公、経済活動に開眼しそれぞれの時代で成功、実利の世界に留まらず精神生活にまで深く追求…。二人が人生において目にした人間たちは、時代の違いこそあれ、それほど違わなかったのではないか。

 即ち、二宮尊徳が農村や武家屋敷で目にした人々を松下幸之助も見ていたであろうと考えるのである。更に言えば、尊徳が描く人間像を松下幸之助という人物が許容できないと思えない。丁稚を経て独立し、努力と工夫を積み上げていった松下幸之助の人生は、尊徳が唱えた「分度」と「推譲」そして「人道」を体現するものとも言えるではないか。それならば、なぜ、両者の間に「人間」認識の違いがあるのだろうか。

4.人間観の広がり

 人間観の広がり、これが差異を生み出す要素ではなかろうか。尊徳に描かれる人間は、いわゆる「俗物人間」である。一方、「新しい人間観」にて描かれる人間は「万物の王者」である。松下幸之助が尊徳の描いた人間像を許容したとすれば、万物の王者としての人間は、もちろん俗物人間を無視したものではない。それは、松下幸之助の人生を振り返っても確信していいだろう。だとすれば、改めて小さく根源的な気付きに立ち返らざるを得ない。

 「新しい人間観」に言う人間観とは、目の前の農民と農村、武家屋敷のみに適用されうる現在的な意味での人間観ではないのだ。現在のみならず、無から有の宇宙発生から未来永劫を見通す果てしない時間軸と、観念として存在する様々な階層を持つ人間観軸とでも言うべき二つの軸によって、人間観とは三次元の広がりを持つこととして認識されるべきなのだろう。そして、それが故、新しい人間観の「提唱」と副題が付されていることを改めて思うに至ったのである。そう考えたとき、「素直な心で衆知を集め…」という一節を重く感じることができる。今という時代における人間観の階層と、過去から未来への時間軸に流れる人間観の広がりは、尊徳の言う積小為大に類する衆知を集めることによって成り、それを可能とするのは私という人間の素直な心なのかもしれない。

 特段、新しいことに気付くことができたとは思えない。前から分かっていたとも言える。しかし、当たり前すぎることを、今まで流してしまっていたようにも思う。私にあっては、こうした遠回りのプロセスをたどらなければ、「新しい人間観」の意味を本当に理解していく糸口を見つけることはできなかった。

 静的な点としての人間観のみならず、動的かつ広がりを持つ人間観を認識したことは、私にとっての一つの成果である。ただし、それは、私にとって空箱の大きさを再度意識したに過ぎない。今なお、私にとって人間観とは言葉にしようとすら思わないほど、不定形でかつ真剣に対峙しているものである。借り物のネタを自らの空箱に入れることは是が非でも回避したいし、既製品を無批判に信仰するのも性に合わない。広がりを持つ人間観を、先例に触れつつ自らの人生を省みながら、構築していく過程は今後も続いていく。

以上

【参考文献】

松下幸之助 「人間を考える」 PHP文庫 1995年1月
PHP研究所編 「松下幸之助発想の軌跡」 PHP研究所 1982年7月
PHP研究所編 「松下幸之助発言集10」 PHP研究所 1991年8月
松下幸之助 「道は明日に」 毎日新聞社 1974年10月
佐々井典比古 「二宮尊徳『語録』『夜話』抄」 三樹書房 1985年10月
佐々井典比古 「尊徳の裾野」 有隣堂 1998年6月
守田志郎 「二宮尊徳」 朝日新聞社 1989年7月
境野勝悟 「二宮尊徳」 到知出版社 1996年11月

Back

神山洋介の論考

Thesis

Yosuke Kamiyama

神山洋介

第24期

神山 洋介

かみやま・ようすけ

神山洋介事務所代表

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門