論考

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山本五十六元帥の生涯と歴史の教訓 ~なぜ海軍良識派は敗れ去ったのか~

識見を有し、対米英戦争に反対しながら、連合艦隊を率いて戦い、国に殉じた山本五十六元帥の生涯から学ぶ歴史の教訓。併せて自らの目指す指導者像を考えた歴史観レポート最終回。

はじめに――長岡にて

 新潟県中越地震のボランティア以来、久々に訪れた長岡は19年振りという大雪に包まれていた。

 私の父母の郷里は同じ新潟県と言っても県央域で、長岡はゆかりの無い土地だと思っていたが、先日、本家で渡された記録をみたところ、何代か前の橘淳治という人が、幕末期に長岡藩御殿医に住み込み修行に出ていたことを知った。もしかしたら尊敬する河井継之助にも遭遇したのかなどと思いながら歩いていると、街には「米百俵」の旗ばかりがひらめいている。

 小泉純一郎総理が就任後、国会の演説で用いたことによってか、「米百俵」が有名になり、小林虎三郎の関連商品が売られていた。私は山古志村民避難所となった長岡高校でボランティア活動をしていたが、長岡高校は、この「米百俵」の故事によって設立された長岡藩国漢学校の流れを汲んでいる。

 一方、私が大好きな、幕末明治維新期のもう一方の雄、河井継之助について尋ねると、大抵嫌な顔をされた。あの人は「街を焦土にした人だ」という答えが返ってくる。

 長岡では、郷土に英雄が出ると街が焼かれるという話がある。一度目は、幕末の戊辰戦争、この河井継之助が戦争を呼び込み、官軍(長岡では西軍と呼ぶ)に焼かれた。この時「賊軍」と言われた記憶、無念さが長岡には残っている気がする。

 二度目は、終戦直前の1945(昭和20)年8月1日から2日にかけての長岡大空襲。市街との実に8割が焼失し、約1500名もの市民が犠牲になっている。もう戦争の大勢は決していたのにおかしい、米軍が山本五十六元帥の出身地ということで、真珠湾奇襲攻撃の報復として行った、と少なからぬ人が信じている。

 滞在中、河井継之助の記念館を探してみたが長岡には無く、終焉の地である遠い会津にあるとのことだった。ところが、山本五十六元帥の記念館はあった。そして、河井継之助とは対照的に、今でも山本五十六元帥を賞賛する声が多い。店にも観光客向けの関連商品が陳列してある。

山本五十六と私の祖父

 山本五十六元帥については、海軍で対英米戦争に反対しながら、連合艦隊長官となり、ハワイ真珠湾奇襲攻撃を指揮した人物である。なぜ反対しながら、戦争の口火を切ることになり、戦死をすることになったのか。私は前々からこのことを不思議に思ってきた。

 戦間期に航海士として、七つの海を渡っていた祖父は、「日本は英米に勝てない。自分も生きて帰っては来られない。その心づもりでいろ。」とまだ幼かった父に言い残し、海軍尉官として1943(昭和18)年に南太平洋で戦死している。艦長として、敬礼したまま船とともに沈んでいったという。私が幼い頃、酔うと父はよく「かっこつけやがって」と悔しそうに言っていた。

 不遜ではあるが、祖父の生き様と重なる気もして、また長岡を訪れ、未だに続く人気を目の当たりにし、山本五十六とはどの様な人物であったのか、調べてみたいと思い立った。

 今回の歴史観レポートでは、この山本五十六元帥の生涯にスポットを当てながら、良識派がなぜ敗れ、太平洋戦争に至ったかを考えていきたい。

一.山本五十六元帥の生涯

 山本五十六元帥は、1884(明治17)年4月4日、旧長岡藩士高野貞吉の六男として生まれた。河井継之助が指揮した戊辰の役で、祖父が戦死、父、長兄・次兄は東北各地を転戦し、負傷している。

 高野五十六少年は、国漢学校の後進である旧制長岡中学校(元長岡高校)で学び、海軍兵学校に進み、優秀な成績で卒業。任官の翌年、1905(明治38)年、21歳の時に日露戦争の日本海海戦で左手の2本の指を失う重傷を負う。

 会津で西軍に捕まり、降伏を拒み斬殺された長岡藩家老山本帯刀(たてわき)の名門山本家の家督を1916(大正5)年、32歳で相続し、以後山本五十六となる。

 早くから、大鑑巨砲主義による艦隊決戦の時代は終わること、空母、航空機による機動部隊による決戦の時代が来ることに気付き、霞ヶ浦航空隊教頭、海軍省航空本部長を歴任する中、航空戦力の充実を図り、海軍航空育ての親とされている。

 1919(大正8)年に米国駐在武官になり、ハーバード大学に通った。この米国駐在を皮切りに、ロンドン軍縮会議全権を勤めるなど、英米での活動が多く、両国の国状、国力を知り、英米との戦争など無謀の極みとの結論に至る。
 米国の工業力、産業力を良く理解し、特に米国滞在中に石油資源、石油開発について、調査している。

 海軍次官時代には、米内光政(よない・みつまさ)海軍大臣、井上成美(しげよし)軍務局長とトリオを組み、米英との戦争を招くことを推察し、日独伊三国同盟に徹底的に反対した。中でも、山本五十六次官こそ、元凶・国賊とみなされ、陸軍から圧迫を、右翼から脅迫まで受けることとなるが、頑として説を引っ込めなかった。

 こうした状況下で、米内光政は、山本五十六の命を心配し、1935(昭和14)年連合艦隊司令長官に転出させる。ほぼ同時に大将になる。

 しかし、トリオが去った後の中央では、独伊との枢軸派が勢いを得て、1940(昭和15)年、日独伊三国軍事同盟が成立。対米英戦争が不可避となっていく。

 軍政家としての山本五十六は米英との開戦に最後まで反対したが、転出されたことにより、軍略家として、生きざるを得なくなった。日米開戦が不可避の際には、当時優位にあった航空力を駆使して、緒戦の段階で圧倒的に勝利し、早期講和を目指す戦略を建てた。

 遂に、1939(昭和14)年12月8日、綿密な計画の下、ハワイ真珠湾奇襲攻撃を実行し、戦争の口火を切る役を果たすこととなる。大戦果を挙げたが、駐米日本大使館が手間取る間に対米宣戦布告が遅れ、意図に反して、だまし討ちとされる結果となってしまう。ミッドウェー海戦での敗北後、1943(昭和18)年4月18日、戦闘機で慰問に訪れようとしたところを米側に待ち伏せされ、ブーゲンビル島上空で搭乗機が撃墜され、戦死。60年の生涯を閉じた。戦死後、元帥に昇進、国葬が営まれた。

二.なぜ対米英戦争に至ってしまったのか――海軍良識派はなぜ敗れたのか

 1939(昭和14)年10月、米内海軍大臣は、陸相、外相などとの五相会談の席上、
「(日独伊の海軍が英仏と戦って)勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は、米英を向こうに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍に至っては、問題になりません。」
と発言しているが、当時のまっとうな状況分析以外の何ものでもない。

 しかしながら結局、わすかこの一年後に日独伊軍事同盟が成立し、正論が敗れ去る。独伊との枢軸を主張する陸軍になぜ、山本五十六ら海軍は敗れ去ったのか。主として三つあると思う。一つには政治力、二つ目には時勢、三つ目には後述する海軍内の対立があった。

1.政治力の差

 一つ目の政治力(というか腕力か)。陸軍は、自らの考えを推し進めるために、陸相を内閣から引き下げ、内閣をつぶすということまでやっている。また右翼を先導し、海軍省に連日押し掛けさせ、脅迫を加えたりしている。海軍は陸軍からの攻撃に備え、陸戦隊を海軍省に配置するところまで追いつめられた。常軌を逸したやり方もとったが、最終的には目的を達し、枢軸同盟の締結に至る。

2.時勢

 二つ目の時勢。仏印進駐、枢軸同盟成立、米の石油全面禁輸など段階的に進んでいった。定見の無い新聞世論にも煽られ、山本五十六などトリオが省を去ってから、海軍省内でも「対外情勢では反対であるが、国内情勢からやむを得ない」となってしまった。

3.海軍内の不一致

 三つ目には海軍内の対立。条約派と艦隊派の対立。
1921(大正10)年のワシントン軍縮条約を締結した当時の加藤友三郎海相は「国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦闘を避くることが目下の時勢において国防の本義と信ず」と述べている。この前年、八八艦隊を建設するために海軍は29%もの国家予算をとっており、これ以上の負担に国庫はたえられないところまで来ていた。建艦競争を続けた場合、却って米国との差が開く、条約によってたがをかける、こうした至極まっとうな考えをとったのが、条約派と言われる人々で米内らを指す。

 一方で何が何でも大艦隊をと考えたのが、艦隊派である。
 艦隊派は大艦隊同士の決戦で制した日露戦争、バルチック艦隊との日本海決戦の栄光が忘れられずに、航空機の急速な性能向上により、時代が変わったことを受け入れなかった。
また米国と戦うことを目指し、日独伊枢軸を志向した。陸軍と意見が一致している。山本五十六ら条約派トリオが去ってから、省を去ってから、意気を吹き返し、三国同盟を締結、対英米戦争に至った。

三.歴史の教訓から学ぶ

 陸軍はもとより、海軍内でも栄光を引きづり、艦隊決戦に固執する守旧派が頑迷で、正論が通らない状況となってしまった。

 これは現代の日本でもあてはまる。戦後の復興期や経済成長期の栄光に固執し、政治が、行政が、企業が変わらない。正論を言うものが左遷された事例も枚挙に暇がない。

 正論を主張した山本五十六は、軍政から退けられ、軍略に転じることになり、命を落とす。山本五十六元帥の人生を見ると、国の方針が決まった後は一切反対意見を表明せず、自らの職に奉じ、国に殉じたことは立派としか言いようがない。戦死した祖父の態度もやはり立派であったと誇りに思う。

 正論が必ずしも通らないのが世の常ではあろう。しかし邪論が政治力・腕力でまかりとおってしまったこと、反対に良識・見識ある人々が、政治力を行使するという決断をくださなかったには誠に残念なことである。

 議会政治がその機能を停止し、実権を握った指導者に識見がなかったことから起こった悲劇は繰り返してはならない。

 私は、見識を有し、かつ政治力を持ち、最後は国と国民に潔く殉ずる議会人・指導者を目指して精進していく所存である。


【参考書籍】

「山本五十六 上・下」阿川弘之 新潮文庫
「怨念の系譜」早坂茂三 集英社文庫
「指揮官 上」児島襄 文春文庫
「日本海軍の興亡」半藤一利 PHP文庫
「大東亜戦争の実相」瀬島龍三 PHP文庫
「日本海軍がよくわかる事典」太平洋戦争研究会 PHP文庫
「近代戦争史概説 下巻」陸戦学会

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橘秀徳の論考

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Hidenori Tachibana

橘秀徳

第23期

橘 秀徳

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