論考

Thesis

彷徨う子羊に関わること ~「多数の幸福」と「一個人の幸福」

「100匹の子羊の群れのなかで、1匹の子羊が彷徨い苦しんでいる。1匹の子羊に関わることが他の99匹の子羊に不利益を与えてしまう。」このような状況の下で、私が羊飼いであるならどのような行動をとるだろうか。人間の幸福とはなんだろうか、社会の幸福とはなんだろうか。答えのない答えを求めた人間観レポート第3弾。

 敢えて単純で抽象的な問いを自分自身に問いかけてみた。

「100匹の子羊の群れのなかで、1匹の子羊が彷徨い、苦しんでいる。そのとき、1匹の子羊に関わることは、他の99匹の子羊に何かしらの不利益を与えてしまう。そんなとき、羊飼いとしてはどのような行動をとるべきなのか。」

 現実はそれほど単純ではない。それぞれの人間が何かしらの心の彷徨う1匹の子羊のような側面を持ち、それぞれの人間が日々の生活のなかで何かしらの「痛み」を持って生きている。また、あるときには人々は他者の痛みを想像し得ない99匹の傍観する子羊にもなるのである。あるときには誰もが1匹の子羊になりうるし、あるときには誰もが99匹の子羊になりうるといえる。

 功利主義の創始者たるジェレミー・ベンサムは、「最大多数の最大幸福」という概念(功利性の原理)を提示している。そこにおいては、神の掟や先祖からの習慣といった外から押し付けられた既成の道徳を拒否し、人間の感覚を一切の価値の判断基準にするとしている。そうすることで、人間の内面から(感覚的に湧き出るものを重視して)何が善であり、何が正しいものなのかを決定しようとしている。そして、最終的に功利主義とはある行為の意味を、人間にそして人間全体(社会)に与える「結果」によって判断しようとするものである。この功利主義の考え方には、私自身非常に共感を覚える部分が大きい。前回までの2回の人間観レポートにおいては、「善とは何か」というテーマを取り上げたが、私自身の結論としてはやはり「人間の幸福に資するものが善」というよりほかはない。そして、「その人間の幸福とは何か」というものに対してはやはり終局的には「人間の素直な感覚」に依存せざるを得ないという結論になってしまうのである

 基本的には、功利主義的思想に共感をしながらも私が冒頭に出した一つの問いかけは、功利主義的考え方の「弱点」に対する挑戦をも意味している。功利主義的な考え方の「弱点」の一つ目は、1人が不幸になっても2人以上がそれ以上に幸福になれば全体としての幸福の総量は増加するためにそれまた「善」ということになりかねないということである。まずこの功利学的な「配分による善」という考え方に一つの克服すべき思想的弱点がある。いうまでもないことであるが、「一個人の幸福」を他人の幸福と比較衡量してその軽重を問うことはできない。しかし、主観的な価値判断の集合体としてのこの人間社会では、終局的に何らかの主観的基準で各人の幸福の軽重が「みなし決定」されている。そのようなときに、100匹の子羊の幸福の総量を考えるのであるならば、1匹の子羊の幸福の犠牲は必然となるのであろうか。それに対する答えは、幸福を「いつの時点ではかるのか」という視点、1匹の子羊とは「自己なのか他者なのか」という視点を考慮にいれたものでなくてはならない。「現在」という座標軸のみで判断すれば、1匹の子羊を犠牲にすることで得られる99匹の幸福の総量の増加は著しいものになるのかもしれない。ただ、その1匹に対する行動が「未来」の99匹の幸福に大きく影響力を与えることがありうることも想定しなくてはならない。また、その犠牲となる1匹は時には「他者」への視点としてみることができるが、あるときには「自己」となりうる可能性を秘めているとも考えられるのである。今は1%でしかない問題を看過することで膨れ上がる危険性や羊飼いの1匹への対応を見た99匹の子羊側の不安感をも考慮にいれることこそが真の「最大多数の最大幸福」へ繋がる道であるといえよう。

 功利主義的考え方のもう一つの「弱点」は、「~である」という事実を必ずしも「~すべきである」という規範に導くことができないという点である。事実として各人が快楽と苦痛という自然法則に基づいて行動することを妨げることができない以上、「最大多数の最大幸福」をめざすべきという「規範論」は全く意味をもたなくなる。現実的に、99匹の子羊への快楽を減少させることを前提にして1匹の子羊に対する苦痛の削減という結果を導くことは非常に困難を伴う。ここで羊飼いが行なうべきことは、1匹の子羊の運命の悲哀を前面に出して99匹を泣き落とすことではなく、99匹の子羊すべてがいつか同じ状況に追い込まれたときにも同じように対応してもらえるという安心感を与えていくことであろう。「現在」ただ1匹のために自分たち99匹の不利益を背負ってまで資するのは「将来」の99匹の利益に直接つながるからであるという、人間の自然な欲求にそむかない形での結果としての「最大多数の最大幸福」へ導いてことこそが重要なのである。

 この文章は私自身が将来、政治という場において「多数の幸福」も「一個人の幸福」も背負わなければならないという羊飼いのような役割に身を置いたときに自分自身の一つの心構えを示したものである。民主主義社会のなかで、一握りの少数者への固執で多数者の安定した生活が害されることは許されない一方で、誰もが少数者になりうる社会のなかで「多数者の専制」という民主主義の欠陥を垂れ流しにしておくことも許されない。正しさの基準、善の基準がないこの社会において、多くの利害関係が錯綜するこの社会において、政治に携わるものは自らの一定の主観的な価値尺度のもとで多くの「決断」を行っていかなくてはならない。その主観的な価値尺度を磨いていくために、そしてより現実に対してバランスのとれた適切な判断が行なえるようになるために、今は多くの現地現場に入り、様々な視点から「現実」を見ていきたいと考えている。彷徨える子羊が何を求めて彷徨っているのか、彷徨う子羊に関わることは本当に他の子羊に不利益を与えるのかをしっかりと判断し、目先だけではない本当の意味での「最大多数の最大幸福」となる社会へと貢献することが政治家としての役割であるといえよう。

 最初の問いに対する私の答えとしては、99匹を一時横においてでも、彷徨える子羊を探し出し苦しさから解放するということである。1匹の彷徨える子羊を安易に見捨てるような羊飼いに他の99匹が追従していくであろうか。彷徨える1匹こそまず大切にしたい、まず最も苦しむ子羊によりそってあげたい、そんな羊飼いに私はなりたい。

以上
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山中光茂の論考

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第24期

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