論考

Thesis

死を待つ人の家

インド東南部、西ベンガル州の州都カルカッタ。公称人口1200万、しかし職を求めてやってくる人々の多くが、スラムにそのまま吸い込まれていくという。当然彼等は人口統計に記載されはしない。
 腐った肉の臭い、生の人間の体臭、うず高く積まれるゴミ、道に座る老人のうつろな目の先に飛ぶ烏でさえどこか物憂げな町、スラム。

1948年、カルカッタのスラム街に1人のアルバニア人の少女が2ルピーだけを握りしめてやってきた。彼女は、誰からも見捨てられた人にせめて最後の死の瞬間は安らかに過ごせるためにありとあらゆる困難に打ち勝ち、安息の場所を築き上げた。

 彼女の名は、マザー・テレサ。施設は「死を待つ人の家」と呼ばれる。そして現在では孤児の人のための施設「シシュ・バワン」や、ハンセン氏病患者の為の自主コミュニティー「サンチガール(平和の村)」の建設等、ますます活動が広がっている。

 私は8月中旬に、その死を待つ人の家でボランティアをしてきた。一日はまず通称マザー・ハウスと呼ばれる本部建物に朝6:45頃に出向いて始まる。早朝ミサが6時から行われているのだが、そちらには出ずに、支給される簡単な朝食を取った後、それぞれカルカッタ市内にある施設へ三々五々出勤する。

 バスで大渋滞をくぐり抜ける事約50分。多数のヒンズー教徒の信仰を集めるカーリー寺院に到着する。カーリーとは破壊神シバの妻で、殺戮を好む残忍な神として知られている。毎朝生け贄の羊が首をはねられ神殿に捧げられる。どこか血の臭いが漂う寺の裏に「死を待つ人の家」がある。

 施設は大部屋2個所にそれぞれ男50人、女50人が収容できる規模であるという。中に入ってみると30坪ほどの、私の感覚で言えば土間の様な大部屋に、ぎっしりと隙間なく簡易なベットが並べられており、患者であふれ返っていた。  消毒薬と汚物の臭いが混濁している中でシスターと、そして世界中から集まったボランティア達がめいめい働いている。ボランティア達には特に誰かが命じているわけでもなく自分で仕事を見つけているようだ。逆に言えばボーとしていては何もできない。私もさっそく、うろちょろ動き回って患者の衣服の洗濯から始めた。

 ここではもちろん洗濯機などの文明利器は存在しない。古来より延々と続けられてきたであろう、手洗いと、脚洗いの両方のみで洗濯する。ただ違いと言えば消毒薬の臭いが強烈に鼻につく。

 患者は主にスラムで罹患して、見捨てられている人が中心だという。そのためエイズ、肝炎患者など重症の伝染病患者が多いそうだ。彼等の汚物が付いた衣服を洗うのには正直抵抗がある。洗っている時にどこか足の先や、指先の小さなキズから病原菌が入ってきはしないか、もし発病したとき自分の人生はどう変わるのだろうか・・。ふと隣で衣服を洗っているシスターを見ると彼女はゴム手袋にマスクを付けて完全防備。私はなにもわからず全く何も付けずに洗っていたが、大丈夫だろうか・・。

 今自分は人の為に働いているのだから、悪いことは起こるまい、ましてや「死を待つ人の家」はそもそもキリスト教の施設などだから、キリストも面子にかけて私を守ってくれるだろうと、思いこむしかなかった。

 11:00になると昼食の用意。さすが本場インドだけあってメニューはカレー。それを患者に配る。だが自分で食べることができない者も多く、食事介護が必要だ。私もある患者の食事介護を行う。うつろな目で虚空を見つめる彼に、「どうだ、うまいか」等と語りかけながら口にスプーンを運ぶ。彼はもちろん日本語は理解できないだろうが、言語を音として聞こえているか疑わしい。だが、私は彼に少しでも安らかな気持ちになる手伝いができたらとの思いで彼に話続けた。  ふと彼が私の顔を見つめた。ぼさぼさの髪、整わずに生えている髭の回りはカレーがあちこちにこびりついている彼の顔。目はただじっと私の目を見つめる。やや濁りがちで、瞳孔の開き具合がややおかしい彼の瞳は、今まで何を見つめて来たのだろうか。どのような光景をその眼底に焼き付けてきたのだろうか。彼の人生がフイルムの早回しの様に、彼の目の中で、私に映し出されているように思えた。

 そこが私の限界だった。彼の目を見つめることができなくなった。

 自分の器の小ささを強く実感する。  もっと人間を大きくしなくては。

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豊島成彦の論考

Thesis

Naruhiko Toyoshima

豊島成彦

第16期

豊島 成彦

とよしま・なるひこ

公認会計士・税理士

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