活動報告

Activity Archives

7月現場体験実習報告

1. どんぐりについて

(1)「ふれあいの里・どんぐり」の説明(詳細は、別紙1「どんぐりについて」参照)

ア.歴史

 1986年、「卒業後、在宅だけにはさせたくない」「聞こえないという障害に配慮ある作業所がほしい」と、ろう重複障害の子供をもつ親と教師、関係者も想いから、関東ではじめてのろう重複障害者の作業所『どんぐりの家』が生まれた。

 年々仲間が増えていく中、亡くなったり、高齢のため介護ができなくなるなどの親が出てくる中で「親亡き後」の仲間の生活の場の保障、社会的、人間的な自立を目指す必要性から、ろう重複障害者の生活労働施設『ふれあいの里・どんぐり』をつくる建設運動が1991年に開始され、自己資金2億円を集める運動を展開して、1996年1月に入所型重度身体障害者授産施設として開所した。

イ.人員構成

 「どんぐり」は、基本的に満18歳以上の重度重複障害者が在籍している。入所部・通所部・ショートステイで構成されてあり、入所部は定員50名であるが現在52名の仲間が在籍している。通所部は定員5名で現員も5名である。 ショートステイは障害者を抱えた親が疲れたようなときに一時的(2週間ほど)に預かるものである。 現在、入所部については30名以上の入所待ち状態である。

定員現員
入所部50名52名
通所部5名5名

ウ.基本方針

 「どんぐり」は、介護施設ではない!生活労働施設である。従って、仲間の使える機能をできる限り使って、それでも難しい場合にだけ力を貸すことを基本方針としている。

 私自身、山口施設長から仲間の面倒を丸抱えでみないように、できそうにない場合に手助けをするようにとアドバイスを受けた。

(2)仲間について

ア.仲間の生活実態

 「どんぐり」にいる仲間たちは、ろう重複障害者(ろう障害にその他の身体障害・知的障害・自閉を併せもっている人たち)である。身体障害・知的障害については軽度の人もいればかなり重度の人もいる。

 仲間たちは「どんぐり」で生活をし、働いている。仲間たちはそれぞれの障害者年金から「どんぐり」に対して、食費・宿泊費等を支払っている。

 施設の2Fが女性の部屋で、1Fが男性の部屋になっている。部屋は二人一部屋で、カーテンで仕切られている。部屋の備品はベットと衣装ダンスぐらいでそれ以外は個人個人で持ち込んで生活している。

 週末は実家に帰る仲間もいるが、諸般の事情で「どんぐり」に残って過ごす仲間もいる。その割合は半々である。

 仲間たちの生活のサイクルはこのような感じになっている。

曜日内容
仕事はなく、部屋および施設掃除、調理実習・健康管理・散髪等をしながらゆったりと過ごす。
火~金朝・夕方と仕事をする。
土・日・祝祭日実家に帰る人は帰る。どんぐり」に残る人はゆったりと一日を過ごす。
7:007:309:30※12:0013:3016:0017:0018:0019:0022:00
起床朝食作業昼食作業終了入浴夕食入浴就寝

※パン班のみ8:30から作業開始

イ.仲間の労働実態

 身体・知的ともに障害の程度についてはかなりばらつきがあるため、労働については、程度にあわせて以下の4つに分かれて作業を行う。

仕事内容
パン班天然酵母を使ってパン・クッキーを作る。
リサイクル班カンビンの仕分け、カンプレス、ボルコンの解体
縫製班共作連ふきんづくり、小物手芸づくり
ゆったり班鳥・うさぎ・花の世話など

●パン班

 障害の程度が軽い人たちがパン・クッキー作りに取り組んでいる。

 朝8:30からパンをつくり、どんぐりの店で販売するとともに、昼には近隣の埼玉平成高校等の学校や企業に納入している。パンを作り終わったあとにクッキーを焼いて、これもどんぐりの店で販売を行う。 パンは1個80円~200円、クッキーは一袋200円で販売している。

 パンは1年間、パン職人に教わったあと、今は仲間と職員で製造を行っている。パンは約30種類くらいあり、クッキーは全部で7種類を製造している。 仕事は朝、8:30~16:30までで取組んでいる。

 パン班の月収は、大体2万円ほどである。

●リサイクル班

 男性を中心として、カン・ビンの仕分けおよびカンプレス、ダンボール等の廃品回収、ボルコン(電線をつなぐ部分)の解体を行い、給料を得ている。 夏は炎天下の中、冬は寒風が吹きすさぶ中9:30~15:30までその作業を行っている。

 ボルコンは出来高払いで業者からお金をもらう.

 カンプレスは、アルミ缶とスチール缶に分けてプレスし、袋詰にして業者に持っていく。スチール缶は業者の買い取りではなく、その後町から報奨金をもらう。アルミ缶は町からの報奨金と業者からの買い取りによる収入がある。

<アルミ・スチール缶分別およびプレスによる収入>

 スチール缶だと、3日くらい一生懸命作業をして大体1トンくらいカンプレスができる。しかしこの表を見ていただけたら分かるとおり、6,000円にしかならない。それをリサイクル班全体で折半するため一人あたりは1,000円くらいにしかならない。

町からの報奨金業者買い取り
アルミ缶あり:1キロ=6円あり:1キロ=40円
スチール缶あり:1キロ=6円なし

リサイクル班の月収は約7,000円で時給はたったの80円前後!である。1時間働いてもジュース1本飲めない状況なのだ。

●ゆったり班

 ゆったり班の仲間たちは障害の程度が重いため、とり・ウサギの世話や花の世話、調理実習をやりながら、手話を覚え、生活のルールを学んでいる。

(3)職員について

 「仕事じゃないんだ運動なんだ!」
この言葉はある職員の方が私に仕事への想いを話してくれたときに語った言葉だ。

 この言葉に表されているように、「どんぐり」の職員の方はとても士気が高く、本当に仲間のことを考えてよく働いている。一応、早番・日勤・遅番・宿直・休みというサイクルで回っているが、遅番の人も早く来て働き、休みという表示になっていても働いている。

 実際に11人で60名近くの面倒を24時間365日面倒見なければいけないことによる業務超過に加えて、ここは聴覚障害者運動で設立された経緯もあるため、運動としての仕事もあり、みな朝早くから夜遅くまでサービス残業で働いている。

 だが、ここに限らず、障害者の作業所というのは基本的に親・関係者が手弁当でがんばっているのが現状だそうだ。

<職員の仕事>

  • 仲間の生活の世話(食事・健康管理・身支度・仲間の旅行・金銭管理等)
  • 仲間との労働(パン・リサイクル・縫製・ゆったり)
  • 仲間の仕事探し(廃品回収等の仕事を外部から取ってくる)
  • 仲間の自立援助(生活ホーム・仲間の就職)
  • 聴覚障害者運動など
(4)ボランティア・見学者

 「どんぐり」には、多くの見学者・ボランティアがやってくる。遠くは韓国!から近隣の小学校まで年間2,000~2,500人ほどやってくる。私がいた3週間の間でも200名以上の方が「どんぐり」に見学またはボランティアでやってきた。 職員はとても業務に逼迫しているので、この多くのボランティアの存在に「どんぐり」が支えられている事実がある。

また、大正大学から毎週、仲間のカウンセリングにやってきている。このカウンセリングは1対1で行われ、カウンセラーとともに絵を書いて過ごす.仲間は自分のためだけにやってきてくれた人という意味もあってか、とてもうれしいらしく、前の日からそわそわし、明日いっしょに絵を書きましょうというFAXを私にうれしそうに見せて、一生懸命手話で絵を書くことを話してくれた。

2. どんぐりでの経験

(1)私の仕事

 私の仕事は、障害者の生活の面倒から労働、リハビリテーションの付き添い、聴覚障害者運動関連と非常に多岐にわたった。

ア.生活補助

 障害者の生活の面倒は、食事・歯磨き・トイレ・風呂・ひげそりの補助を行った。食事については偏食癖の激しい仲間にきらいなものも食べるように付き添いで食事補助を行った。その後、歯磨きのできない仲間の歯を毎食後2~4名分磨き、車椅子の方のトイレ・入浴補助、男性の髭剃り等を行った。

イ.労働

 労働について、ゆったり班での労働の補助・外出(川の博物館の見学)の付き添いや、リサイクル班でのカンプレス・ボルコン解体を行った。

 リサイクル班での労働はとてもきつい。連日38度というような異常な暑さの中、炎天下の元で作業を行う。アルミ・スチール・ペット・ビンが分別されないまま「どんぐり」に持ち込まれる。

 この袋を開けて分別するのだが、まず袋がジュースやビールなどでべとべとになっていて、正直袋を持つのもあまり気持ちのいいものではない。

 袋を開封するのだが、暑さで蒸され、発酵してしまっているようで、開けたとたん甘臭い匂いが鼻をついてきて、異臭の中で仕分けをする。仲間たちはこの匂いにいやな顔一つせず黙々と仕分けをし、カンプレスをする。仕事をしながらとても頭が下がる思いをした。

 炎天下であるため、5分もしないうちに汗だくになる。汗が滝のように流れ落ちる。

ちなみに初めの1週間目この仕事をしたが、67キロあった体重が一挙に64キロまで落ちた。

ウ.リハビリ

 週1回、車椅子の方(3名)のリハビリに川越のリハビリセンターまで出向いていった。私は、車椅子の方の車の乗り降りの補助、リハビリの付き添いを行った。 リハビリは歩行練習・手足のホットマッサージ・整体師によるマッサージで高齢者とともに行われる。リハビリに来ている高齢者の方は親切で、「どんぐり」の仲間たちに「元気?」と声をかけてくれる。仲間たちもそれがうれしいらしく笑顔と手話で応えている。その姿を見て改めて人のふれあいは大切だと実感した。

 職員の方が、リハビリに本当なら毎日いきたいのだが職員の人数の関係上できないということを申し訳なさそうに話しているのがとても痛かった。

エ.聴覚障害者運動

 「どんぐり」は聴覚障害者運動に取り組んでおり、今年度聴覚障害問題についての全国大会を開催する事務局となっている。私が入所したときは会員に案内を送付する作業の追い込みであったため、会員の住所録作成・印刷の仕事を行った。

職員の方は、少ない人員で仲間を支えなければいけないことに加え、この運動があるため、休みも返上して夜遅くまで働いている。

(2)仲間とのふれあい

 入所する前に見学をさせていただいたが、正直入所することが不安であった。圧倒的多数のろう重複障害者の中に自分ひとりで飛び込んでいくことに、そしてその自分はまったく手話を知らず、かれらとコミュニケーションを取ることができないということに、仲間に受け入れてもらえるのだろうかということにとても不安であった。 だから、見学から帰ってすぐに手話・指文字の本を買い、塾にいる間、ご飯を食べるときも指文字・手話の練習をしていた。

 正直、入所するのは怖かった。しかし、それを解いてくれたのは仲間のK君だった。彼は人が好きで老若男女を問わず新しい人がくるとその人に握手を求め、歓迎の意を示してくれる。私が入所したときもそうだった。K君は私の所に来て握手を求め、そして施設内を案内してくれた。

 そのときの彼の手話を私はまったく理解できなかった。けれども彼の笑顔と案内してくれるという行動がとてもありがたく、私の不安からの緊張を解きほぐしてくれた。 K君には本当に感謝している。彼のように分け隔てなく人を受け入れる姿は尊敬に値する。彼の人に接するスタンスは人としてすばらしい。自分も人と接するときにはそうあらねばならないと彼の姿勢から学ばせてもらった。

 はじめは、手話をどうにかして覚え、なんとかして力づくで理解してやるというような思いで過ごしていた。しかし、本で見た手話と全然違い、また障害の程度や手話を習った習っていないということにより仲間によって手話がちがうということにより大変戸惑ってしまった。

 そんな困ったときに、ある職員がこんなアドバイスをくれた。「僕たちも仲間たちの手話をすべて理解しているわけではない。仲間たちの生活を見ていると、生活の流れの中で何かを言い、要求してくる。その流れを理解することが大切なんだ」と、これを聞き、私は仲間たちを理解しようとしていたのではなく、単に手話を理解しようとしていたにすぎないというスタンスの過ちに気づいた。

 以後、私は、彼らのありのままの姿を理解しようと考え、仲間たちとともに過ごす時間を増やし、仲間たち一人一人の特徴やどんな補助が必要なのかをメモにとり、仲間たちの一人一人の把握に努め、手話を理解するのではなく仲間のあなたを理解したいんだ。あなたたちと話したいんだ。という気持ちで接するように努力した。

 そうしていくうちに仲間も私のことをだんだんと受け入れてくれるようになり、仲間のほうから私に話し掛けてくれるようになってきた。

 H君は、知的障害が激しく、いつも唸り声を上げながら、左右にゆれている。人にあまり目をあわさない。初めのうちは彼のことが全然わからなかった。彼の歯磨きや髭剃りの補助をして、接しているうちに彼にも変化があることが分かった。私は彼の髭剃りをするとき聞こえていなくてもできるかぎり話し掛けた。終わったときはいつも「かっこええで~」と声をかけていた。初めのうちは反応を示しているようにみえなかったが、毎日のようにやっていると髭剃りをやるという動作をすると彼も私の言っていることを理解し、そしてうれしそうに顔を赤らめて、ゆらゆらゆれるのをやめてまっすぐに髭剃りをとりに行き、戻ってくる。

 Iさんは、私と同じ29歳で、初めはあまり話をしなかったが、だんだんと私に話し掛けてくれるようになった。初めは彼女は私に手話や指文字で話し掛けてきたが、私があまりできないことをしって、ホワイトボードやワープロで話し掛けてくれた。パン班の副リーダーで、確か「どんぐり」でも副リーダーをしている。彼女のワープロで8月25日夏祭りがあるから来て欲しいと書いてもらったときはとてもうれしかった。

 Kさんは一度社会で働いていたが、「どんぐり」に入所している。パン班でパンを作っているが彼は就職して自立しようとしている。私が仲間たちのところでパソコンの仕事をしていたときに、自分のお菓子を分けてくれた。他の仲間にも分けながら私にも分けてくれたことを見たとき、私はここの人たちに受け入れてもらえたんだと思った。仲間の人たちとたべたそのお菓子はとてもおいしかった。

 Mじいさんは「どんぐり」最年長で将棋が大好き、大宮や池袋の将棋センターで将棋を指している。「どんぐり」内では相手がいないらしく、私が良い対戦相手となって何度か将棋を指した。私が帰る少し前に、「海老名さんは将棋が強い。けど、海老名さんの裸王は良くないから以下の戦法を勉強してください」とアドバイスを紙に書いて渡してくれた。

 車椅子のGさんは、とてもトイレが近い。Gさんのトイレには何度つきあっただろう。Gさんは人の好き嫌いと感情の起伏が激しく、笑っていたかと思うと嫌いな人間が視野に入った瞬間怒り出す。人の好き嫌いを理解するまで、急に怒り出す姿に自分が気に障ることをしたのかと悩まされた。

 もうひとりのH君も、知的障害が激しく、偏食癖がある。食事のときは横について好きなものを取り上げて、嫌いなものを食べるように指示をする。嫌いなものだからいやらしく私に対して怒りの目を向けながら顔を突きつけてくる。しかし、好きなものだけ食べてしまったらもう食べなくなってしまうので心を鬼にして接した。また彼はすぐに外に飛び出そうとする。飛び出すたびに彼を連れ戻していた。一度本当に施設の外に出てしまい、近所のコンビニから連絡を受けてちょっとした騒ぎになってしまった。彼に外を飛び出してしまうことの危なさを伝えることができなかったのが残念だ。

 Jさんはとてもうごきがスローだ。夜は6時から夕飯だが9時過ぎまで食べている。それでも早くなったほうで、以前は一日中朝食→昼食→夕食という感じだったらしい。リサイクル班でカンの仕分けを行うが、暑い寒いや匂いに関係なく黙々と仕分けをする。休憩時間も返上して仕分けをする。土日は本当は休みだが、お構いなしに仕分けをする。仕事というよりも仕分けをすることが自分の生きている証のごとく、黙々と淡々と仕分けをする。その姿はある種神々しくもあった。

 通所のS君、かれはお母さんと一緒に「どんぐり」にやってくる。お母さんが大好きで、さびしくなるとすぐにお母さんという手話をする。私のスポーツの絵のTシャツが好きらしく、それを見ると顔をうずめたり、噛んできたりする。彼も知的障害が重く、遠くのほうを向いてしまうことが多い。彼もときどきいなくなってしまうため、いなくならないように注意し、どこか行きそうになったら怒って引っ張り戻した。会った初日から何度も怒ったんで嫌われたのではないかと思ったが、帰る間際にお疲れ様という意味で肩をたたいてくれたときは、怒った真意を理解してもらえたと思い、うれしかった。

 Yちゃんは、なぜか分からないが私のことをとても気に入ってくれたらしく、いつでも私を見かけると手招きをして自分の席の横に座るように言う。食事や仕事の時にはいっしょにくるように手を引っ張って歩く。人の名前を聞いて書くのが大好きで、私を隣に座らせては名前を聞き、私のメモ帳に名前を書いて遊び、手に人の名前を書いてあげるとうれしそうにうなずいていた。

 まだまだいろいろあるが、「どんぐり」の仲間はみな、とても心優しく、親切だったみんなとの別れはとてもつらかった。

 特にK君とYちゃんとの別れは、入って不安な自分をとても助けてもらったことに感謝していたのでつらかった。K君も別れが分かったらしく、いつも僕が話し掛ければ笑顔で手を合わせてくるはずが、まじめな顔で握手をしてきた。

 Yちゃんには気に入ってもらえたことがとてもうれしく、とても助けてもらえたので、別れの手話をするのはとてもかった。別れを理解して欲しいという想いと別れを理解して欲しくない想い(自分の下手な手話を理解しないで欲しい)という想いに挟まれながら挨拶をした。初め彼女は笑顔で私の手話を見ているだけだったので、理解していないんだと思っていた。しかし彼女が私の手をいつもよりずっと強い力で握ってきたとき、彼女も私の複雑な真情も合わせて理解していることが分かり、正直とても心が揺り動かされた。

3.学んだこと

 3週間の間、「どんぐり」の仲間との触れ合いから学んだことは以下のことである。

(1)「話す」ことの大きさ

 『話す』ということがあまりに簡単便利であるため忘れてしまいがちだが、失ってみて初めてわかることだが、人と人とがコミュニケーションを取るうえでこの『話す』ということがいかに大きいかを知ることができた。

 これから『話す』ことの意味を良く考えていきたい。

(2)コミュニケーションマイノリティーとして不安

 「どんぐり」の仲間たちは、全員がろう重複障害者であるため、一般社会では話せないため“コミュニケーションマイノリティー”である。

 しかし、私が「どんぐり」に入るので、私が“コミュニケーションマイノリティー”である。

 “コミュニケーションマイノリティー”「になってみて分かったことだが、回りが自分の理解できない方法で会話をし、喜怒哀楽を示すのを見ているだけなのは、とてもつらく不安なことだった。本当に異世界にいるような気持ちになった。恐らく、これがずっと続けば、本当に一人ぼっちの寂しさから、みずから「どんぐり」を出て行っていたかもしれない。

 そんなときに、「どんぐり」の仲間の人が、私のほうに歩み寄り、笑顔で話し掛けてきてくれた。確かに何を言っているのか自分の力では分からないが、話し掛けてもらえるというだけで自分の存在を認めてもらえたと思い、大変うれしかった。 恐らく、多くの障害者が社会でこのマイノリティーとしての不安を経験しているのではないだろうか、その不安をとりのぞくには私たちから話し掛けてあげることが大切なのだ。

 自分の実体験のとおり、たとえ意味が分からなくても、触れ合いがあるという事実がとても大切なのだと思う。

(3)知りたい・伝えたい気持ちが大切

 経験で書いたとおりだが、単に手話だけを理解しようとしていてもまったく理解できない。

 しかし、その人を理解する(知りたい)気持ちと伝えたいんだという気持ちを持って接すれば、たとえ手話が拙くても思いは伝わるし、お互いに自分のことを効果的に伝えることのできるコミュニケーション方法を探して話そうとするようになる。

 やはり、人と接する上で、この気持ちを持つことがとても大切なことだと実感した。

4. 私の夢・今後の活動

 3週間、「どんぐり」で過ごし、障害者やその支援する人々とじかに触れ合うことができ、本当に貴重な経験ができた。

 私は、Jさんの雨にも負けず風にも負けず、暑さ寒さもものともせず働く姿勢に「どんぐり」にかかわった人たちだけでなく、そうでない人たちも見て働く意味を考えてもらえるような社会にしたい。再び社会復帰を目指し、就職先を探しているKさんが本当に自立して生活し、働くことのできる社会にしたい。K君が「どんぐり」の中だけでなく、「どんぐり」の外でもいろいろな人と出会い、その出会いを楽しめる社会にしたい。Yちゃんが「どんぐり」の外でもっともっといろんな人の名前を聞いて楽しむことができる社会にしたい。

 私の夢の一つは、障害者も社会の一員としてともに働き、生活できる社会の仕組みを作ることだ。

 すなわち、私の夢も一言で表すと「ノーマライゼーションの実現」ということになるだろう。しかし、私自身ノーマライゼーションについて全然分かっていない。今回の3週間の研修を通して初めてこの言葉のことを知り、考えるようになった。

 今回の「どんぐり」での経験をベースにしながら、ろう重複障害だけにとらわれず、身体・知的・精神障害者の実態調査をしながら、ノーマライゼーションの考えを深めてゆきたい。

 さしあたっては、以下の活動を考えている。

<私の考える活動>

  • 辻堂近隣の障害者施設でのボランティア
    (近日中に、身体障害者地域作業所「よあけ」・精神障害者地域作業所「青桐茶房」への見学およびボランティア活動と神奈川手話通訳問題研究会の見学の交渉を予定)
  • 埼玉ろう教育・労働フォーラムへの参加(8月26日)
  • 全国聴覚言語障害者福祉研究交流集会への参加(11月3日・4日)

 こうした活動を通して、日本にいる推計576万人(うち身体障害者318万人、知的障害者41万人、精神障害者217万人:12年度厚生白書より)障害者たちが、みんなとともに過ごせる社会=ノーマライゼーションの実現する方法を考えていきたい。

以上

別紙1

「ふれあいの里・どんぐり」について

<設立趣旨および歴史>

 1972(昭和47)年、はじめて埼玉県にもろう学校の重複学級が認可され、教育の対象からも外されていた“ろう重複障害者(注1参照)”とよばれる子供たちもろう教育を受けられるようになった。

 しかし、1980年代に入り、卒業期を迎えたろう重複障害児の進路、社会参加にはたいへんきびしいものがあった。一般企業への就職はもとより、地域の作業所や施設への入所についても、ろう重複ということで敬遠されたり、入所できても、他に聞こえない仲間や手話などで通じ合える仲間がいないため孤立してしまうこともあった。

 そこで、「卒業後、在宅だけにはさせたくない」「聞こえないという障害に配慮ある作業所がほしい」と、ろう重複障害の子供をもつ親と教師、関係者で、1985(昭和60)年に、ろう重複障害者の作業所をつくる会『どんぐりの会』が結成され、聴覚障害者や相談員、手話関係者などの多くの協力者の支えで、1986(昭和61)年に関東ではじめてのろう重複障害者の作業所『どんぐりの家』が生まれた。

 ろう学校の重複学級の卒業生だけでなく、さまざまな事情で在宅でいた聴覚障害者を掘り起こし、受けとめる中で、年々仲間が増えていった。作業所が開所して6年目の1991(平成3)年、亡くなったり、高齢のため介護ができなくなるなどの親が出てくる中で「親亡き後」の仲間の生活の場の保障、社会的、人間的な自立を目指す入所施設建設計画が決定され、ろう重複障害者の生活労働施設『ふれあいの里・どんぐり』をつくる建設運動が開始された。

 この聴覚障害による情報、コミュニケーションでの困難ともに、発達の遅れをもつ仲間、成人病等により視覚などに重複障害をもった仲間、社会的環境により精神障害を負った仲間などに、人として豊かに生きるための情報、コミュニケーション保障、生活や労働などの発達保障のための専門的援助を目的としたろう重複障害者の生活・労働施設を設立するものである。

<施設概要>

  • 施設種別 重度身体障害者授産施設
  • 定員 入所部 50名(現在52名) 通所部 5名 ショートステイ 4名
  • 設置・運営 社会福祉法人 埼玉聴覚障害者福祉会
  • 開所年月日 1996(平成8)年1月8日
  • 施設規模 敷地総面積(5,840.74㎡)・・・現理事長の寄付
    総工費 8億2,000万円(補助金 5億5,000万円 自己資金 2億7,000万円)
  • 職員定数
     施設長事務員援助員等看護婦栄養士調理員医師合計定数1111114120現員1118216130

<入所対象者>

 満18歳以上の重度聴覚障害(1,2級)、もしくは、ろう重複障害のために生活や労働などで困難をもち、聞こえやコミュニケーションの保障で特別のニーズや配慮を必要とする人。聴覚障害が3級以下の場合でも実際の困難度や重複する障害等を考慮して受け入れる場合もある。

<基本理念(めざすもの)>

  • ろう重複障害の仲間の専門施設として、聴覚障害に伴う困難に基づくニーズに対し、情報およびコミュニケーションの保障をはじめとする十分な配慮と援助の取り組みを進めます。
  • ろう重複障害者の仲間がどんなに障害が重くても一人の人間として尊重され、生き生きと働き、豊かな人生を築けるように取り組みを進めます。
  • 障害者、家族、関係者の一人一人が大切にされる討論をもとに、共同の事業として民主的な運営を進めます。
  • 地域、関係者の方々の理解と協力をもとに、地域に根ざし、地域に開かれた施設を目指します。
  • 埼玉の聴覚障害者の福祉の向上、障害者の社会参加と平等の実現を目指します。

<年表>

1985年6月大宮と坂戸ろう学校の重複学級の親・教師・関係者が作業所を作る運動(どんぐりの会)を開始
1986年10月大宮市三条町の小さな借家で共同作業所「どんぐりの家」がスタート(ろう重複障害者の共同作業所は関東でははじめての施設)
1989年4月仲間(ここではろう障害者を仲間と呼びます)が増えたため、大宮市中釘に移転
1991年10月親亡き後の生活保障・生涯保障としての生活・労働施設建設運動を展開することを決定し、埼玉県ろうあ協会・手話通訳問題研究会・どんぐりの会などの40もの団体で「『ふれあいの里・どんぐり』をつくる会」を結成、以後、自己資金2億円を目標に募金活動を行う。
1993年12月県内各地での200回近い街頭募金、募金箱募金、バザー、イベントなどどともに、山本おさむさんの漫画『どんぐりの家』の全国的反響もあって、目標金額を達成
1994年12月建設工事着工
1996年1月入所型重度障害者授産施設『ふれあいの里・どんぐり』開所

<その他>

 「どんぐり」のようなろう重複障害者のための入所型授産施設は、「どんぐり」を含め、現在全国に4ヶ所ある。来年、東京に5ヶ所目の施設が開所予定である。

  • 「いこいの村・栗の木寮」(京都府綾部市)
  • 「なかまの里」(大阪府熊取町)
  • 「第二わかふじ寮」(北海道新得町)
  • 「たましろの郷」(東京都青梅市 来年開所予定)

<ノーマライゼーションの簡単説明>

 ノーマライゼーションはデンマークの社会省の行政官バンク・ミケルセンが「1959年法」の制定により提唱したのが始まりといわれています。バンク・ミケルセンは「ノーマライゼーションの父」と呼ばれています。

 彼はノーマライゼーションの概念を以下のように説明しています。 「障害のある人たちに、障害のない人々と同じ生活条件をつくりだすことを『ノーマライゼーション』といいます。『ノーマライズ』というのは、障害がある人を『ノーマルにすること』ではありません。彼らの生活条件をノーマルにすることです。ノーマルな生活条件とは、その国の人々が生活している通常の生活条件です。」

 現在、ノーマライゼーションの理念は以下のように言われています。 『障害をもつ人も、もたない人も、地域の中でともに生きる社会こそ当たり前の社会である。』

 厚生労働省は現在、このノーマライゼーションの理念をもとに、「どんぐり」のような入所型施設ではなく、地域にグループホームというのを作り、そこでその地域の障害者たちが生活をし、外に働きに行くという政策を行なうことを障害者問題の柱としています。

*付録 教科書問題の余波

 映画「どんぐりの家」は、この7月14日に韓国のソウルでハングル語字幕版が上映されることとなっていた。日本からも上映会のツアーを組み、障害者問題について日韓交流を行う予定であった。

 しかし、「教科書問題」により、その上映会が中止となってしまった。 以下、上映会とその中止の資料を抜粋・要約した。

<「どんぐりの家」海外上映の輪(平成13年5月30日 朝日新聞夕刊より)>

 「ろう重複障害」の子供たちと家族の姿を描いたアニメ映画「どんぐりの家」の上映活動が海外でも広がっている。「国境を越えた世界共通のテーマ」としてオーストラリア・マレーシア・香港・タイですでに上映された。(日本国内ではすでに3,300回を超える上映会が開かれている)

 韓国では、障害者問題に取り組むイベントプロデューサーが上映会の企画を日本関係者に打診し、日本側も全面協力することになった。7月14日の上映会ではハングルの字幕版を上映し、原作者の山本さんらも参加する予定だという。

 また、日本から上映会の前後に韓国の障害者施設を訪れたり「日韓障害者セミナー」を開いたりして交流を深める。

<映画「どんぐりの家」韓国上映会中止(どんぐり第167号の要約)>

 韓国のイベントプロデューサーが日本の友人からこのビデオを見て、この映画のハングル語字幕版を作成して韓国で普及したいと考えた。韓国では海外で唯一、原作漫画のハングル語版も発売されており関係者に愛読されている。

 韓国側では韓国障碍再活協会や韓国聾唖人協会の協力をとりつけ、日本の上映事務局とも連絡を取り合いながら準備をすすめてきた。7月14日には日本からもツアーを組み、原作者の山本おさむや音楽の千住明、鮎川めぐみ、高橋洋子の四氏も同行して大々的に上映試写会を行うことが決定していた。

 このツアーでは、日韓市民レベルで交流し、歴史や教育を学び、両国の障害者事情などを学びあうセミナーも企画されていた。

 ところが6月になって韓国上映会および日本からのツアーが中止となった。 中止の理由は、いわゆる「教科書問題」であった。

韓国では、長い間、現在の日本文化をそのまま韓国で発表できないという状況が続いていた。しかし最近になって金大中大統領による「日本文化の開放」方針が1998年10月より実行に移され、今年前半には全面開放となる運びだった。

 しかし「教科書問題」の勃発によりこの「開放」はストップとなり、以前の「規制」が厳しく適用される状況に戻ってしまった。アニメーションの分野では、日本の音声は勿論、画面の絵の中の日本語文字も消去された状態でなければ上映できない。

 この事態にあたり、韓国側の上映会メンバーは障害者福祉のためのイベントの位置付けとして特例的許可を求め、関係機関に働きかけを行ったが、現実の壁は破れず、上映会は中止となってしまった。

Back

海老名健太朗の活動報告

Activity Archives

Kentaro Ebina

松下政経塾 本館

第22期

海老名 健太朗

えびな・けんたろう

大栄建設工業株式会社 新規事業準備室 室長

Mission

「ノーマライゼーション社会の実現」

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門