論考

Thesis

文化と教育

はじめに―私の問題意識―

 私は自身のテーマとして、「日本を取り戻し、日本を護る」という大きなテーマを掲げている。9.11のテロ以降、文明の衝突が実際に目に見える形で始まり、グローバリゼーションの進展とともに我が国も何を軸に生きていけば良いのか自問する事が強く求められている。そもそも自分がこの政経塾を志したのも、何故、日本がこのようになってしまったのかという大きな問題意識からであった。私は、今のような、荒れ果てた日本社会を目の当たりにして何をすれば良いのかという事をずっと考えて来た。日本の再生(復興)を目指す私にとって、経済(景気)が回復をしたからと言って、果して日本は再生するのかというのが大きな問題意識であった。

 様々な日本の状況を見る中で、私は多くの問題の根本はやはり教育にあるのではないかと考えるようになった。これは日々のニュースで信じ難い出来事が起こっているのを聞いて、一体、子どもはどうなっているのか、そしてどうなって行くのかという事がとても心配になって来たからである。そして、塾生としての個別活動では、教育問題をテーマとして研修活動を行って来た。私が関心のあるのは、狭義の教育問題(ゆとり教育是か非かの議論でされるような表面的な問題)ではない。時代を担う子どもを根本的にどう教育すべきか、そして、日本人はどう生きるべきかというのが大きな問題意識であった。

教育の機能

 教育が大事とは皆がいうが、ここで教育のもつ機能について考えてみよう。教育の果す機能には、大きく分けて、一、その社会で生きる個々人が生きて行ける技術・知識を身につけさせる事、二、その国の文化を伝承する事、三、社会の中での人材の振り分け等の機能があると考えられる。一についてはさしずめ、昔なら「読み書き算盤」であろうか。今なら、情報機器をある程度使いこなしたり、ある程度のコミュニケーション能力をつける事等もそうだろう。いわゆる基礎学力と言われる部分もこの機能の部分だろう。この教育は様々な方法で熱心に行われている。そして、いわゆる、教育論争の殆どがこの部分についての関心から行われる。「ゆとり教育」の是非論も殆どがこの部分への関心だ。

 三についての側面は、特に高度成長期に強くあったであろう。今は、かなり自身の人生を自身で選択出来るようになってきているし、生涯学習・リカレント教育なども普及し、この機能は低下して来ている。私は個人の考えとして、教育が人間振り分けの手段になる事は断じて望ましい事ではないし、徐々にこの側面が薄まってきている事は歓迎すべき事だと思っている。

 さて、翻って、今の日本の教育に二の機能があるだろうか。残念ながら、私は殆ど低下してしまっていると思う。しかし、この二の機能こそが、本当は教育のもつ機能の中で最も重要なものなのではないだろうか。本来的にはこの機能は地域社会や家庭を通じて行われて来たものである。しかし、多くの方面から指摘されているように、現在の日本では、急激な都市化の結果、旧来の地域社会は崩壊し、更に核家族化の進行、親の自覚のない若い親の出現などによって家庭(家族)のもつ機能も大幅に低下してしまった。

 学校教育も本来であれば、一の機能だけではなく、二の機能を果たす事も期待されるのであるが、残念ながら充分にその機能を果しているとは思えない。本当は国語や社会(特に歴史)という教科教育でも、二の機能を果たす教育を行えるのであるが、今は「文化を伝承する」という観点からの教育が教科教育の中で充分に行われていると言えないと思う。この原因については後に詳しく言及するが、とにかく今の日本の教育から二の機能が大幅に抜け落ちている事は確かであろう。

「学級崩壊」や「学校崩壊」「不登校」「いじめ」「ひきこもり」などの問題が指摘されているが、これらの原因について考える時、私は一の機能ばかりを重視した教育の弊害が現れた結果だと思う。よく「心の教育の充実が必要」などという事が言われるが、二の機能を重視して、実際に日本にある文化を伝承するという教育を行っていれば、起こらなかった現象も多いのではないかと思う。では今から、どうすれば良いのだろうか。それは、教育の本来もっている二の機能の回復し、実際の取り組みを始める事だと思う。すわなち、文化を伝承するという事を積極的に行う事が重要なのではないかと思う。

文化とは何か

 ではそもそも文化とは何であろうか。「文化」を辞書で引いてみると、(1)世の中が開けて生活水準が高まっている状態。文明開花「――生活」(2)人類の理想を実現して行く、精神活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く課程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現。(岩波国語辞典 第四版 西尾実・岩淵悦太郎・水谷静夫編)とある。文化とは出来あがった文物だけではなく、その底に精神活動があるのである。

 私なりに考えてみると、文化とは、その根底において、気候風土と歴史が培った「こころ」が存在しており、有形・無形の様々に現れたものではないかと思う。宗教・哲学等の精神文化や匠の技のような伝統文化、芸能等の芸術文化など表面への表れ方は様々であるが、根底にそれぞれの「こころ」が存在する。よく、言われる文化事業や文化政策というと、行政が何かの記念に音楽会を開くというようなイメージであるが、文化とは深い部分に精神性がひそんでいるものであり、またどこの国・地域にもあるものである。また、政治や経済システム等の諸々の社会システムを規定するのがその国(地域)の文化である。文化に根ざさない「民主主義」も「資本主義」も本当はありえないのである。

 文化を伝承する事は、その根底にある精神を知り、その心を感じる事によって、自国の文化に誇りをもつ意味で非常に重要な事だと思う。最近の新聞で読んだ記事でも、自国を誇りに思うかという質問で日本人はアジアで最低という事であった。これは原因がない事ではない。文化を伝承するという事をやっていないからである。自国の文化(思想・宗教等の精神文化であれ、それが文字によって表された文学であれ、歌舞伎や能・音楽などの芸能であれ、生活に密着した工芸品のようなものであれ)について頻繁に触れ、理解を深め、その根底にある「こころ」を知るという事の重要性が認識されていれば、人々は自然に自国に誇りを持つようになると思う。無理やり自国の他国に対する優位性を教えるのが大事なのではない。まずは、自分を知る(自国の国柄を知る)という事が大事なのである。国柄を知り、それに即した制度を構築して行かなくては何もうまくは行かないからである。文化を知り、その根底の心を理解し、国柄への理解を深める事は何にもまして重要な事ではないかと思う。

 国際政治学者の中西輝政氏は『なぜ、国家は衰亡するのか』(PHP新書)の中で、「…たとえば、「ボーダレス化」やグローバリゼーションが進み、ますます「国境がなくなる」といわれている時代に、なぜ「国家」に軸を置いた思考が重要だということになるのか。「国単位」の発想は、二一世紀には無意味になるのではないか、という疑念を依然として抱かれる読者も、今日の日本では多いのではないかと思われる。(中略)しかし、本書では国家のあり方とその行方を考える時、「文明」という視点を強調している点をここでもう一度押さえておきたい。仮にどれほど「国境のない世界」になっても、様々な文明の核にあたるものの独自性は決してなくなりはしない。とくにわが日本のように、文明という点ではめざましい独自性を確固としてもっている国にとって、「国境がなくなる」などということは断じてありえない、と私は思う。」と述べている。私も同感である。しかし、意図的に文明・文化などを意識しないようにさせられて来たのが戦後であり現在である。

戦後から現在の日本の状況

 では、戦後から現在の日本の状況はどうだったのか私なりに整理したい。戦後はGHQの占領政策が戦後、共産党・社会党左派の指導する日教組に引継がれた結果、我が国は日本の独自の伝統文化を子供に伝承しなくなってしまった。教育の場の機能から「文化を伝承する事」が抜け落ちてしまったのである。変わって、植えつけられたのが、経済万能・科学万能の思想である。この思想は左派教師が教育現場で戦後の子どもに植え付けたが、実は資本主義社会に適合するする人間を育てる観点から見てもとても効果的であった。人生の価値を「金」におくのは、資本主義・自由主義者も社会主義・共産主義者も共通であったからである。文化や根底にある精神などに関心すら持たず、物質的なものに最終的な価値を置くのに資本主義・自由主義者も社会主義・共産主義者も区別はないからだ。

 断っておくが、私は自然科学を否定しているのでもなく、経済発展を否定、もしくは意味のない事と言っているのではない。また言うまでもなく科学的な思考を否定しているのでもない。経済・科学が「万能」と思われている事、もはや一つのあまりに巨大なイデオロギーと化している事への危機感を持っているのである。80年代後半や、更にバブル崩壊を経て、「モノの時代から心の時代へ」などと言われ始めはしたが、果して、この10年間、日本人の心は充実したのだろうか。不景気で余裕がないが、価値観が変わらないために一層、心も充実しなかったというのが日本の現状ではなかろうか。

 戦後の日本は表向きには自由主義と社会主義の対立、アメリカを中心とする西側諸国とソビエト連邦を中心とする東側諸国の対立が、自民党対社会党(あるいは背後にある財界対労働組合)という形で凝縮されて持ち込まれたかに見えていたが、(55年体制)よくよく、考えてみると、これは表向きの対立に過ぎなかったのかもしれない。より本質的な部分で見てみると、全てはアメリカ(あるいはアメリカすらも突き動かす大きな勢力)が仕組んだ通りに進んで来たのではないだろうか。そして、今やいわゆる「保守派の論客」すら対米追随一辺倒になってしまった。そして一方に未だに少しいる、進歩的文化人、左翼の流れを組む論者はひたすら「護憲」のみを唱えている。

 しかし、冷静に考えたい。資本主義対社会主義の対立に持ち込まれても、よくよく根底部分をみれば、日本にあった対立は、自国(日本)の文化を捨て去った上での経済発展とそこで生まれた富をどう分配するかのみの対立であり、日本のアイデンティティーをどう復活するか、大事にしていくかという議論は殆どなされて来なかった。今こそ、こういう雰囲気を打破して、日本人は文化というものを深く考えなくてはならない。戦後、経済復興に全力を尽くして来た事自体は間違いではなかったが、文化を捨て去っての経済発展に走ったのが間違いだったのだ。戦後の復興を主導した人は戦後生まれではない。この世代の人々はまだ日本の文化を継承している人々だった。この世代が活躍しているうちに本当は次の世代の日本人にも文化を受け継いでおくべきだったのだ。それが出来ず、何も継承していない戦後世代が社会の中軸になって来てから、この日本がおかしくなってきたのだ。

 先日、日曜の夜に放送している『NHKアーカイブス』という番組で、昭和50(1975)年に放送された『警世・松下幸之助 日本経済の本当の病根を警告する』という番組を観た。はるか、28年前の松下幸之助塾主がこの国を憂えておられた言葉を聞いた。そして、私は塾主が本当に考えておられた事とは何かについて深く思いを巡らせた。この番組は戦後30年目の昭和50年に作られたものであった。当時も深刻な不況であった。この番組で塾主は、日本経済の行く末について大変な危機感をもっておられたが、話されていた内容は、短に不況を克服する為の方法ではなかった。戦後30年かかって、日本の精神が腐食されたという事と、日本の精神を復興しなければ、本当に日本は復興しないという内容の事を語られていた。戦後の混乱期は物に不自由したが日本人の精神が生きていた事、今(昭和50年)は日本人の精神が腐食したという事をも言われていた。

 実際の日本経済は、その後、好景気になった。しかし、これは今では全ての日本人が「バブル」と呼んでいるものであって、実質的な経済発展ではなかった。そして、塾主は昭和63年に亡くなられた。その後、しばらくして「バブル」は崩壊する。その後の惨状は周知の通りだ。失われた10年という時期を経て、未だに失われ続けている。そして、今年は昭和で言えば79年、戦後59年目である。この番組を観て私が考えたのは、何故に日本人はあの時に根本的な問題に気が付かなかったのかという事である。

 本当の事をいうならば、昭和50年代初めの不況の時に根本的な問題を考えるべきだったのだ。それをせず、また景気回復から経済成長という事のみを重視する思考で全日本人が突っ走った結果、バブルからその後の崩壊、そして現在の浮遊する社会が続いている。塾主がこの政経塾を創られたのは昭和55年である。この時も大きな危機感をもっておられるが、その危機感は、当時の指導者が本当の危機に気付いていなかったという事だと思う。今もし、またも現在の危機の本質について考えず、なまじ景気が多少回復したりすると、私は本当に今度は国家崩壊の危機がくる事が間違いないと思っている。

終わりに―教育による文化の伝承を―

 私は教育問題をテーマとしつつ、一方で日本とは何か、なぜ、今の日本はここまで荒廃したのか、果して景気さえ回復すれば、日本は再生したと言えるのかという問題意識をもって、塾生としての研修を行って来たのは上述した通りだ。私はここに来て、「文化」と「教育」は別物ではないという認識を日に日に新たにしている。文化は教育によって伝承されるべきものであり、文化の影響を受けない、無色透明の教育も民主主義もそもそもは有り得ないのである。

 そして、文化を大事にする事、次世代を担う子どもに伝承して行くという事は、実は政治の問題・責任でもある。以前の月例報告で私は『日本を取り戻し、日本を護る』という文章を書いた。そこでは、現状の日本を見て、私がどうしようもないと思う問題について指摘した後、その根本原因として、日本人が日本を失っている事を指摘した。更に、先の総選挙の終わった後の月例報告で私は『改革の先』と銘打って、マニフェスト選挙が行われたが、結局、今叫ばれている「改革」の先に何があるかまで見通した主張をしている政党・政治家の少なさに対する批判を述べた。また、同じ文章で、明治の実業家、渋沢栄一の『論語講義』の一部分を引用し、道徳の必要性及び、教育によって道徳を子どもに身に付けさせる事の重要性を説いた文章を紹介して現在の政治家へ反省を求めた。

 昨今のニュースを聞いていると、景気はやや良くなっているとの事である。これは誠に喜ばしい事ではある。しかし、大きな視点で見ると本当にこれは望ましい事だろうか。多くの方々の反発を敢えて覚悟の上、敢えて強烈な事を書くと、私はこんな状態で日本の景気が回復する事が望ましい事かどうか分らない。ここでなまじ経済が少し良くなれば、日本人はまた重要な事を考える事なく、日本の文化・精神は失われ続けるのではないだろうか。そして、次にもっと大きな不況・行き詰まりが来た時には本当に国家(日本社会)は崩壊するかもしれない。制度・システム面からの崩壊ではない。

 私がこの文章で述べて来たような、文化の重要性、それを子どもに教育という手段で伝える重要性に気付いて、国柄を大事にするという政治を行わない限り、多少、景気が回復し、雇用が増えたところで、この日本の状況は良くならないだろう。何故なら、人間そのものが崩れ去った国には福祉も安全保障も環境政策もそもそもありえないからである。ここで私が書いている事を実感レベルで分る人が少しでも出てきて欲しいと思う。行き当たりばったりの「改革」が続き、経済の回復がすればそれで良いというような発想しかないようでは、この国は衰亡するより道はないと断ぜざるを得ない。

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吉田健一の論考

Thesis

Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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