論考

Thesis

改革の先

総選挙が終わった。今回の選挙の結果は、野党民主党が大幅に議席を伸ばしたが、政権交代までは起こらなかった。今回の月例レポートでは、今回の選挙の特徴と意義について、また、今の政治にもっとも欠けているものと私が思うものについての考えを書いておきたい。初めに、今回の総選挙について思った事を記しておきたい。

 まず、民主党については、国民の期待は大きいものの、農村部へどう入り込んで行くかなど、今後の課題が明らかになった結果だったという事が出来よう。「都市型政党」の限界を打ち破らなければ政権交代までは難しいだろう。一方与党は、議席を減らしたものの絶対安定多数を確保した。しかし、今回のこれまでにはなかったレベルでの自民党・公明党の一体化はどちらの政党にとっても今後、自らの党のアイデンティティーを揺るがすような部分まで行くのではないだろうかと思う。自民党はもはや、公明党の協力なくして選挙も政権運営も出来なくなってしまった。今後、政権内で公明党の存在感が大きくなる事は間違いないだろう。しかし、一方の公明党にしても、もう自民党と離れる訳にはいかず、これまでの党の独自の主張とは違った選択を現実政治の場でしなくてはならない事も多くなるだろう。この連立が双方の政党にとって、また国民にとってどのような意味を持つのか厳しく見て行きたい。社民党・共産党・選挙後に解散した保守新党が議席を大幅に減らした事から、二大政党への流れの中で小政党が生き残る事が容易ではない事も明らかになった。また、社民党・共産党の大幅議席減については、選挙制度の問題に関わらずイデオロギー政党の退潮が決定的になったという見方も出来るだろう。

 選挙全体についての印象を述べておきたい。今回の選挙はマニフェスト選挙などと呼ばれ、これまでの選挙とは違った選挙という事がマスコミ等でしきりに宣伝された。この4月の統一地方選挙での知事選以降、マスコミ等の報道の影響もあり、急激に日本にマニフェストという言葉が広まった。その結果、今回は民主党が、マニフェストを発表し、民主党に引っ張られるかたちで自民党やその他の政党もマニフェストを発表した。今回の選挙がマニフェスト選挙と言われた所以である。

 これまでの戦後の総選挙と今回の選挙との違いは「政権選択」が可能な選挙であった事だ。これまで野党第一党が政権公約掲げて衆院総選挙に挑んだ事はなかった。かつての新進党が野党第一党として過半数以上の候補者を擁立した事はあったし(96年総選挙)、議会の過半数以上の候補者を総選挙で擁立するという事だけなら共産党もいつも擁立はしているが、時の野党第一党が政権交代を争点として現実に政権公約を掲げての選挙は初めてであった。今回は、民主党が国民に対して、実際に政権交代の可能性を一応は示した。日本は今後二大政党制に向うのか、また本当に二大政党制が望ましいのかという議論はこの際ひとまず置くとして、野党第一党が政権公約を示して総選挙に臨んだ事は特筆して良い事であったかもしれない。

 また、今回、マニフェスト選挙が一度行われた事により、今後の選挙は個人から政策を中心として政党を選ぶという、政策重視の選挙になっていく事が予想される。私には政策による政党選択を全ての有権者が行い、その結果として、政党選択が政権選択につながるというところまで急に進む事はないように思われるが、かつての、消費税導入時の自民党候補のように「党本部の公約と自分の公約は違う」という事を平気でいう与党候補を許さなくなって行く方向には進んでいくだろう。この事は有権者として歓迎すべきことであり、政党・政治家の責任を明確にする意味でも日本の政治にとって良い事だと思われる。今はこれまでの個人中心選挙から政策・政党中心選挙の過渡期にあるという見方が出来るかも知れない。

 しかし、課題は多い。有権者の側にしても、実際に与野党のマニフェストを入手して読み比べ、政策によって投票する人を決めるという人がが果たしてどれくらいただろうか。読んでも明確なイメージがわいてこないマニフェストが多いという点で政党・政治家の側に責任があるとは言え、実際にあれこれ読んで吟味した人はそう多くはないはずである。マニフェストという言葉のみがマスコミによって一人歩きした感がある。これまでのような一方的な言い放しの「公約」ではなく、間借りなりにもイギリスのように二大政党が政策によって政権を競い合うという構図が出来つつあるだけでも、政治の世界という部分だけで見ると何かが進んだような感じがしなくもない。しかし、今後、マニフェスト選挙が根付いて行くのかはまだもう少し厳しく見て行かなければならない。また、マニフェストに掲げられる政策の内容も今後もっと精度の高いものになって行かなければ意味はないだろう。一つの政策を国民に訴えるにしても、その政策が実現する可能性が本当にあるのかどうか、綿密に調査して一つの政策を立案するなど、マニフェストを「深化」させるという事が今後、政党に強く求められてくる事は間違いないであろう。

 実際の選挙戦においては、マニフェストの内容こそ違うが、自民党も民主党もひたすら「改革」を訴えていた。小泉首相が「構造改革」の継続を訴え、野党民主党は、政権交代なくして改革なしという姿勢でこちらも改革を訴えていた。その他の政党も一様に「改革」を訴えていた。改革の中身、改革の方向はさておくとして、「改革」が必要な事だけは確かだと国民の多くも認識をして選挙に臨んだことはまず間違いない。

 しかし、その「改革の先」に何があるのかという事について明確なイメージをもち、訴えている政党・政治家は、残念ながらそれほどはいなかったように私は思う。マニフェストという言葉が広まった割には、実際には政策論争はさほど盛り上がったようには感じられなかった。部分的な政策については―高速道路の無料化の是非や年金問題など―それなりに議論もされていたが、与党自民党(及び公明党)が勝つと世の中はどうなるのか、政権交代が起こって民主党政権が樹立されると、どういう世の中になるのか、改革は叫ばれても、改革後のこの国のあり様について、国民が具体的なイメージを抱ける程には議論は盛り上がらなかったと思う。分り易くなったはずの今回の選挙ではあったが、何かスッキリしない感じが残った。これは、おそらく「改革の先」にある日本のイメージが誰にも明らかになっていなかったからではないだろうか。

 ここの部分は非常に残念であった。この国の本当のあり様についての議論が深まらない理由は何なのであろうか。私は「改革」が必要―つまりこのままでは日本はダメになる―という事までは皆が認識をしはじめめていても、「改革の先」の日本の姿、この国のあり様についてまで明確なイメージを抱いている政治家及び、多くの部分で認識を同じくする議員達による政治家グループ(政党)がまだ現れてはいないからではないかと思う。部分的な政策は語れても思想がない候補・政党が多いといって良いのではないだろうか。現状はおかしいと思っていて、このままでは更に行き詰まると思っていてもおかしな事の原因まで、遡って本当に突き止めている人が少ないからではないかという気も私にはする。

 この勢力で行われる政治が日本をどのように導いていくのかは国民一人一人これからよく見なければならない。今の日本は単に「政治」と呼ばれる狭い世界での制度改革のみが求められているのではない。日本社会全体が改革を求められているのである。そして、その責任は政治家にのみにあるのではない。しかし、ここまで認識している国民は一体どのくらいいるのであろうか。政治家のみを批判して、したり顔をしていて良いという時代ではないのである。勿論、政治家・リーダー層により大きな責任があることは間違いない。しかし、リーダー層にのみ責任があるのではないし、国民の意識が低い状態でいくら志の高い政治家(候補)が出てきても国全体の雰囲気を変えることは至難の業である。国民の意識改革なくしてこの国はもう存続し得ないくらいの危機が迫っているという認識を国民一人一人が強く持つ必要がある。

 さて、ここまでに書いた事とまったく話しが変わるが、ここで以下に掲げる文章を読んで頂きたい。

前略
 …人君上位に立ちて政治をなすに道徳を以て根本とする時は、人民悦服して万国の帰向すること、譬えば、天の北極星が常に一定の場所に居りて動かず、しかして満点の衆星これを中軸としてこれに向って、環じょう旋転するがごとし。本章は蓋し孔子時代の為政者が、政の根本たるべき道徳を務めずして、もっぱら法令刑律の末に従うを警戒せられたるなり。ただし始めより必ずしも法律を用いずというにはあらざるなり。道徳を以て主となし、法律を以て従とせよとに意なり。

 現代の為政者はとかく道徳を基礎とせず、法令をもって万事を制裁し本末転倒の傾きあり。それもそのはず、法治国となりしよりもっぱら、立法院の同意を得て法律を制定し、これを施行さえすれば能事終れりとして自ら許し、世人もまたこれを許す時代となればなり。しかも為政者の地位に立つには、権謀術数を弄して多数党とならざるべからず。その立身の根基すでに道徳を離れおれば、与党の外初めより謳歌する人なし。ゆえに自己の地位擁護のために、自派の人物を要職に据えて政権も利益も壟断し、党勢拡張や後日の選挙費用捻出に余念なし。かくて反対党よりその施設に対し攻撃や質問が出れば、堅白異動の詭弁を弄し一場を瞞過して恥じとせず、這般の人を称して立憲政治家の標本と為す。余は未だその可なるを知らざるなり。

 たとえ法治国となりても立憲政治国となりても、一国の大臣となりて大政を料理する人の胸中に道徳の観念なくて可ならんや。根本の道徳を備え、公明正大に政治を行い、過失あれば改むるに憚ることなくんば、何ぞ人に殺害もしくは非難せらるることあらん。我が皇室は常に一視同仁の徳沢を垂れ道徳を本位をし給えり。ゆえに万民の皇室を尊崇すること世界無比にして、あたかも衆星の北辰に向うがごとし。これ鴻基の天壌と窮まりなき所為なり。

 そもそも為政のことたる、ただ国家の上に限るにあらず、一会社の経営も一学校の管理も一家の維持もみな政事なり。道徳に基礎をおかずして施設せば、必ず世の信用を失い、たちまち行き詰まりを生ずべし。道徳なるかな道徳なるかな。為政者も国民の一人なり。国民道徳高まらざれば、為政者独り崇尚なること能わざるべし。しかして国民道徳の培養はまた教育を担任する政府の責務なり。教育勅語は厳然として徳育を旨とせらるけれども、今日教育の実際を見るに、知育一方に偏して徳育を閑却しおれり。これ最も遺憾とするところなり。

 どうしても、もう少し精神教育に力を入れねば、今後の世界的国民としての教養が足りないと思う。ことに高等教育に入る前、小学校時代にこれが教養を施す必要があると信ず。欧米には普通教育の課目に神学科があって、宗教のことや正義人道に関する精神的教育が大いに重んぜられているのであるが、本邦にては人道を践み正義を行うて往くという、いわゆる道徳的精神教育は殆ど皆無といってよいくらいである。いたずらに欧米の物質文明のみを追うていれば、国民の道徳低下し、従って為政者の精神が賤しくなれるは当然の理であろう。

 しかも近来、思想の悪化とか左傾とかいう話しを耳にするのは、いささか本末を転倒しているにあい似たり。余をして憚りなくいわしむれば、日本の現代の教育はあまりに物質文明に趨り過ぎて少しく食傷の気味であるといいたい。これ湿地を嫌いてますます低きにつくがごときものなり。湿地を嫌うならば、よろしく高い処に遷るべきである。あえて世の為政家・教育家に差の一言を呈す。曰く「孔子の言明せられたる本章の趣意を取って実行せられよ」と。

 子曰く、詩三百。一言以てこれを蔽う。曰く、思い邪なし。
 この文章は明治の実業家渋沢栄一の『論語講義(一)』(講談社学術文庫)からの引用である。ここの部分は『論語』の為政第二の
「子曰く、政をなすに徳を以てすれば、譬え北辰のその所に居り、しかして集星のこれに共うがごとし。」
という部分への講義の一部分である。この中で渋沢栄一は政治は道徳に依らなければならないと事、そして国民道徳が高まらなければ為政者だけが高い精神でいる事は出来ないと言うこと、その国民道徳を高めるのは教育によること、その責任は政府にある事などを述べている。私はこの本のこの一節を見つけて本当に感動すると共に、今の日本政治と社会全般の価値観、また選挙戦での論争に腹立たしい気持ちになった。あまりに今の政治家がここで渋沢栄一が指摘している通りの政治家ばかりであり、今の社会の状態も教育のあり方も渋沢栄一が指摘しているものと似た状態に思えたからである。

 私は現在の政治に全く欠けているものはここで渋沢栄一がいう道徳に基礎をおいた政治という部分であると思う。渋沢栄一がこの『論語講義』を記したのは明治時代であるが、ここで批判させている政治家と今の政治家にどれほどの違いがあるだろうか。今も昔も同じようなものだと言えばそれまでである。あるいは、今の方が国全体は豊になったために大きな汚職や日常的な小さな汚職などは減ったので政治は進歩しているのだとの考えをする事も可能かも知れない。また、国民の全体の教育レベルが上がったので良い政治が行われているという考えも出来るかもしれない。しかし、また、別の見方をすれば、私はまだ昔の為政者の方が、リーダーとしての自覚をもち東洋的な教養というものをもっていたが故に立派な人もいたのではないかとの気もする。今の日本を見ていると、国民全体の教育レベル(知識レベル)こそ上がってはいるものの、根本的に何が重要であるかが分っている人が増えているかどうかはまた別問題だと思う。また、本当に為政者としての自覚をもった政治家が少な過ぎる気がしてならないのである。政治の捉え方や政治家のあり様についてどれほど深く考えられているかという疑問を持たざるを得ない。

 私が先にこの文章の上の方で、現状について、このままでは更に行き詰まると思っていてもおかしな事の原因まで、遡って本当に突き止めている人が少ないのではないかという気がするという事と、日本社会全体が改革を求められており、そして、その責任は政治家にのみにあるのではない、という内容の事を書いたのは、この引用した文章で渋沢栄一が述べているような事を認識している人の少なさについて指摘したかったからである。

 今の政治家の中で相変わらずの利権政治を守ることに汲々とし、自らの立場のみを守ろうとしているグループ(族議員・官僚・業界を含む大きな構造)を駆逐しなければならないのは言うまでもない事だ。また、その事により無駄な大型公共事業をやめ、税金の使い途を大幅に改め、教育や社会保障の充実、雇用増をもたらす企業・産業の育成策などを採らなければならない事も言うまでもない事だと私は思っている。しかし、これは本気になれば政策・立法の部分で出来る事である。今の日本の行き詰まりを考えると、これを行う事は大事ではあっても、これで全てではないのである。政治家の質と国民の質―これは知識レベルを上げるというような事ではない―この双方が上がってこない限り、小手先のマニフェスト対決選挙が続こうとも、また景気が回復しようとも日本は真に復活しないであろう。

 人々のありようまで含めて―ここは政策のレベルでいうと広義の教育問題という事になるのだろうと思うが―議論されないといけない。全ての人がこういう意識を持たなくても良いが、もう少しはこういう認識をもつ人が増えて来ても良いと思う。また、仮にそこまで急に皆が考えられないとしても、現実の税金の使い途の改革という事を切り口にしても大きなこの国の「改革の先」について考える事は出来る。選挙時に根本的な国のありようについての議論が行われにくいのはある程度致仕方がなかったとしても「改革の先」の日本のあり様についての議論が政治の場で今後もっと活発に行われなくてはならない。それがないままに、国民不在・政治家不在の官僚政治―現行制度と決められた予算配分、あまりに手厚い人事制度の中で完全に守られた高級行政官僚のみがただただ今の枠組みで全てを決めていく状態―が今後も続くようであれば日本は制度疲労面からも人心・国民士気の低下の面からももう立ち上がれない国になってしまうであろう。

参考文献

  • 『論語講義(一)(二)』 渋沢栄一 講談社学術文庫

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吉田健一の論考

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Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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