論考

Thesis

防衛庁の省昇格論議を振り返る その1

毎年、日本のゴールデン・ウィークに合わせて国会議員が、大挙してワシントンD.C.に押しかけてくる。そして、この数年指摘されている現象の一つに「アーミテージ詣で」と言うものがある。アーミテージとは、現在、国務副長官を務めており、日米安保に深くコミットしている人物である。与党三幹事長も先頃「アーミテージ詣で」を行い、日本側はアフガンに関しての支援内容の報告、有事法制や各党の政策の説明などをし、その中で保守党の二階幹事長は、同党の政策である防衛庁の防衛省への格上げを説明した。その説明を受けてアーミテージは、同党の政策に理解を示し、更に防衛庁が防衛省に格上げされれば日本が国連の安全保障理事国になり易くなる、と応答した。

 この防衛庁を省に昇格する問題は、今始まったことではなく、戦後直後から論じられている議論である。そして、これは、国防族と防衛官僚の悲願とされている。その経緯を戦後から、防衛庁を省に昇格しようとした事例で振り返ってみたい。それらを見ていく中でなぜ防衛庁を省へと昇格させることが出来なかったのか、分析することを試みる。今月の月例レポートでは昭和30年代の前半に生じた昇格議論に焦点を当てることにする。来月は30年代後半に防衛省昇格の閣議決定を引き出した臨時行政調査会での流れを追う事にする。

昭和30年代

 昭和30年8月15日、防衛庁では砂田重政防衛庁長官の指示に基づいて、防衛庁を改組して国防省へ切り替えるために必要な諸般の問題の検討に着手した。砂田長官が国防省を設けようとする主な理由は、第一に、防衛庁の機構が庁として、既に規模が大き過ぎ、各省とのバランスからしても省に昇格させるのが当然である、第二に、防衛庁を国防省に改組することによって防衛庁の力を一段と強め、更には防衛問題の比重を大きく浮かび上がらせたい、以上の二点に有ると見られた。そして、防衛庁当局は国防省設置法案を通常国会に提出できるように立案作業に取り掛かった。※1

 しかし、砂田長官の昇格への論拠が乏しいこと、加えて、当時は民主党と自由党との保守合同、という極めて重大な政治問題があったことなどによって、結局、砂田長官在任中には、この構想は成立しなかった。

 保守合同後の第3次鳩山内閣に砂田長官は留任せず、船田氏が新長官になった。昭和30年12月1日、船田中防衛庁長官が、これまでの方針通り通常国会に国防省設置法案を提出する意向を示し、“砂田構想”を受け継ぐことを発表した形となった。しかし、旧自由党議員の間では、時期尚早と反論が噴出し、この構想は断ち切れとなった。※2

 それから約4年後の昭和34年9月18日、赤木宗徳防衛庁長官が「防衛庁は、総理府の外局のようなものだから省に昇格すべきだと思う。いま安保改定などで問題があるので昇格を見送ろうと思うが、見通しが立てば、途中からでも国会に昇格案を出すつもりだ。」※3と語り、防衛庁を省に昇格する案を考慮中であることを示唆した。しかし、その後の安保問題は熾烈を極め、昇格問題どころではなくなってしまった。

 昭和36年4月12日、西村直己防衛庁長官は、ミサイル導入計画、師団改編や統合幕僚会議の強化案を池田勇人首相に説明した後、更に自衛隊が間接侵略に対処する必要性や基地行政を充実させるため、この際、調達庁を吸収して防衛庁の省昇格案を検討すべきだ、と進言した※4。この調達庁の吸収を論拠にした昇格論議はしばらく続くこととなった。

 そして、池田政権下において防衛庁昇格問題は、大きな波を迎えた。つまり、昭和37年4月から池田首相の諮問を受けて始まることとなる臨時行政調査会(佐藤喜一郎会長)において防衛庁の昇格問題が論じられることとなるのである。この議論は、来月の月例レポートで詳しく紹介することとする。

※1 砂田長官は、国防省の新設に始まり、予備幹部自衛官制度・郷土防衛隊の設置など続けざまに提案し「砂田方言」と呼ばれた。『朝日新聞』昭和30年8月15・24,10月16日。
※2 『朝日新聞』昭和30年12月1日
※3 『朝日新聞』昭和34年9月19日
※4 『朝日新聞』昭和36年4月13日

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山本朋広の論考

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Tomohiro Yamamoto

山本朋広

第21期

山本 朋広

やまもと・ともひろ

衆議院議員/南関東ブロック比例(神奈川4区)/自民党

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外交、安保政策

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