論考

Thesis

サラダボウルの世界

ここ十数年の間に、世界は急速に一体化してきつつある。冷戦終結により市場経済が世界的に拡大し、各国経済は開放体制へと向かっている。一方で情報通信の技術革新が起こり、各家庭からインターネットで直接世界に接続できるようになった。これらの変化が意味することは、人間がコミュニケーション可能な範囲が劇的に拡大していっているということだ。そして今、世界が抱える大きな問題の1つは、この世界大のコミュニケーションから起こる摩擦ではないだろうか。9.11のテロ事件はその摩擦の悲劇的な発露であるように思う。

 人と人がコミュニケーションをすることで、そこに共有できる価値や規範ができる。それを共有できる範囲こそが、人間が共同体を形成できる範囲である。人間の歴史はこのコミュニケーション可能な範囲の拡大の歴史でもある。古代その範囲は1つの集落であり、それがある程度の規模を持った地域になりと、だんだん拡大しながら現在の国家と呼ばれる範囲の共同体が形作られた。それがまた今一段と広がりつつあるのだ。

 もちろんこれは、少なくとも現時点において、国家がその機能を失うということを意味しているのではない。国家が主たる共同体となった19世紀以降の世界でも、それ以前の地域や集落などの共同体もまた大きなその役割を持っていた。その意味で1人の人間はいくつもの共同体に所属しているのだ。現段階の変化は、いぜん国家と呼ばれる共同体が主役であるが、それよりも大きな範囲にもまた、地球大での共同体というものがもう1つ増えつつあるということだ。

 実際に現在の世界の価値観はある程度まで、1つになり始めている。現在ほとんどの社会に、個人の人権に基礎をおく自由主義的価値観がもたれ、これを確保するためには、自由主義的民主制と市場経済という枠組みが最適であるという認識が普及しつつある。これらの基底をなす価値観や社会制度が共有されること自体は非常に歓迎すべきことである。

 人種(民族)、宗教などに関わらず全ての人間がそれぞれの人生を誰にも強制されることなく自由に生きることができるという価値観、そのために自らの考えや権利を暴力ではなく言葉で自由に主張し守ることができるのだというルール、何人であろうと貧しい家に生まれようとも、一生懸命がんばって働けば働くほど富が入ってくるというルールは、地球上の異質な人々が共生しようとする時、その土台となるのに非常に適していると考える。

 本稿で取り上げたいのはその共有すべきもの自体についてではなく、価値観を共有するプロセスについてだ。歴史上、共同体の範囲が変更される時、それにともない様々な悲劇が起こってきた。なぜなら新しい共同体の価値観を創る基準を握っている強い社会と、それを外から押し付けられる形になる弱い社会の2つに分かれてしまうからだ。問題はその価値観の共有のプロセスに参加できる人とできない人がいる、そこから生まれる摩擦にどう対応していくのかということだ。

 ここではコミュニケーションを、別々の社会に住む人間同士が、1つの価値観を共有していく過程と定義する。その意味でコミュニケーションには、言葉によるコミュニケーションと商品によるコミュニケーションの2つが存在すると考える。まずは言葉を通じてのコミュニケーションだ。このコミュニケーション可能な範囲はインターネットで世界中の情報発信や取得が可能になったことに加え、e-mailによって低コストで世界中の人間との会話が楽しめるようになったことにより広がった。テレビをつければ、BBCやCNNなどの国際放送が四六時中流れている。

 もう1つが、商品を通じてのコミュニケーションだ。ハリウッドの映画もコカコーラもマックも世界中のどこへ行っても存在する。映画や文学など分かりやすいものに限らず、人の生活様式を変えることから、価値観の領域に浸透する。マクドナルドと歩行者天国ができたことにより、路上で歩きながら食べるという習慣ができた。イスラムの高校生がサリーをとってジーパンをはく。これらもその社会の価値観を生活習慣から変えていくものだ。

 こうしたコミュニケーションはどちらも建前では、自由で双方向にやり取りされるものである。しかしながら、実際にはある一定の社会から別の社会へと洪水のように流れ込むだけになっていることが多い。特にそれは言葉のコミュニケーションのレベルで大きい。フィリピンなどに行けばそこでは母国語のタガログ語の番組を見ているのは年寄りか、英語の話せない人々しかいない。若い世代で英語の教養のある者(フィリピンの場合は大学に入るくらいの学生は皆、英語が話せて書けて当たり前のようである。)は海外の英語のニュース番組とそこの娯楽番組を見て育っている。

 インターネット上のサイバースペースでやり取りされる情報の9割は英語である。当然のことながら日本のような非英語圏の人々でこれらの情報がすらすらと読める人などほとんどいない。ましてやそこに英語で文章を書くとなるとその率はさらに減るだろう。

 要は地球大でのコミュニケーションに、8割の大衆が参加できる社会と0.1割のエリートのみしか参加できない社会との格差があるということである。人々は大量の情報や商品の怒涛のような洪水にあらわれているのだ。そこで一方的に流れ込まれる側の社会の人々はどうしても今までの価値観との齟齬に苦しむ。流されきってしまって、自分の価値観や文化を見失ってしまうか、あるいは頑なに拒否し、時に他の社会が認められなくなってしまうか、というどちらに行っても良いとは思えない2タイプになってしまう。そこから発生するストレスや摩擦というものは想像以上に大きいものである。

 この摩擦はコミュニケーション範囲の拡大とともに、歴史上何度も起こってきたことである。その中では暴力で対応することが正統とされた時代もあった。帝国主義の時代には未開のアジア・アフリカ・南アメリカの民を啓蒙し、正しい価値観を教えてやるという、あまりに傲慢な思考をもとに植民地が次々と作られていった。私達の日本も植民地を作る側にもなったし、敗戦によりその社会の価値観をかなり大きく変えた側にもなった歴史を持つ。そこでは残念ながら価値観の共有のプロセスで多くの血が流されたのだ。今でもそれは起こっている。9.11はこの摩擦に堪えかねた弱い社会の側からの暴走した者達が行ったテロである。それに対する「民主主義を守る戦い」として、テログループだけではなくてアフガニスタンへ向けられた爆撃もまたこの摩擦が生んだ暴力だ。価値観の共有において、その価値観がどんなに優れていたとしても、普及や共有のプロセスで暴力が使われることは許されない。軍事介入は現に脅かされている生命を救うため、最低限の秩序を回復するためのみにしか用いられるべきではない。

 では21世紀に世界はどのようにしてこのギャップを乗り越えたらば良いのか。私はその答えは地球大のコミュニケーションの場への参加の機会を、世界中のあまねく社会に保障し、皆で価値観を共有していく建設的なプロセスを作り出すことでしかないと考える。その上で今、それぞれの立場に立っている社会の人々に言いたい。現在、文化や価値観の流入の受け手にまわっている人々に対して。大事なことは、まず自分の文化を見失ってしまわないこと、誇りを失わないこと。その次に、相手の文化から目をそむけたり、気分的鎖国をしたりしないこと。自分たちの文化とか誇りとかを大声で語って、他のものが入ってくるのを拒否しようとする社会は、実は自信がない人々なのだと思う。コミュニケーションを絶つことからは何も生まれない。ディズニーのミッキーマウスを輸入しても、自分達流に消化して、世界中にポケットモンスターを輸出する、どの文明でもそれくらいの強さを持っているのではないだろうか。何もおびえてチャンネルを閉ざす必要はない。

 次に、現在、文化や価値観を発信する側になっている人々に対して。大事なことは、自分たちの文化が相手の文化より優れているということはないということを理解すること。もちろんそれぞれの社会がある分野で、とりわけ秀でているということはある。それを伝えていくということは非常に良いことだ。ただしそれを良いと思ってくれるかどうかの選択権は相手にあるということを知らなければならない。それと相手を非文明的なクレージーな連中だと決めつけることだけはだめだ。どの文化でも文明でも、人間生活の基礎をなす価値観、「人を殺してはいけない」「人の自由を奪ってはいけない」「人の物を盗んではいけない」といった部分は共通している。それはかつての自由主義的民主制 対 全体主義とか、自由主義的民主制 対 マルクス・レーニン主義などの、イデオロギーや社会制度上の対立などではなく、それぞれの社会の底にある数百年、数千年にわたって培われてきた文明の土壌の話だ。どんな文明でもほぼこの根本的な価値観は共有している。

 人類はこのコミュニケーション範囲の拡大をどう扱っていけばよいのか。 地球上のあらゆる社会の人々に、文化や価値観を発信する機会を保障することだ。そのための方法として、英語教育(*1)やデジタルディバイドといった問題の解決だ。その中で受け入れる側と発信する側に分かれるのではなく、全員が発信し、また受け入れるマルチコミュニケーションのプロセスを時間がかかっても作り上げていくことだ。

 人々がそのプロセスを創る時に大切なことは二つである。第一に地球上のどんな文明圏でもどんな社会に生きている人々でも、その底の一番土台の部分は共有できるのだと信じることだ。 第二にその土台の上には、各文化の特性に合わせて変わっている部分がある。そこはお互い変わっていて当たり前と認めてやればいい。人から見れば自分も変わっている。何も自分と全てが同じである必要はない。

 もちろん時間をかけてコミュニケーションが密になれば、お互いに影響を与えるだろう。それが当たり前だ。そこでは現実に力強く大声で自らを主張する力を持つ社会と、力いっぱい叫んでも小声にしかならない社会があるかもしれない。でも小さな社会はおびえることも、卑屈になることもない。人間や文明のアイデンティティーというものはそんなに簡単に消え去るものではない。過去の自分達を消し去って、新しいものが入ってくるのではなく、地層のように重なるだけだ。一人の人間や文明はいろんなアイデンティティーが重層的に積み重なって出来ているものだ。その中の一つのアイデンティティーは比較的みんなが共有しているものかもしれないし、あるアイデンティティーはある一つの文明にしかないものかもしれない。その中の一つ一つをつかみ出してこれは良い、これは悪いと審判をくだす権利は誰にもない。ただその積み重なり方の違いをお互いに楽しめる、その違いを否定するのではなく意義あるものにできる地球共同体を創り出していきたい。

 この共同体は『メルティングポット』ではないだろう。皆を溶かしてのっぺりとした一つの同じ価値観や文化にしてしまうのではない。私は『サラダボウル』みたいなものだと思う。みんな煮溶けてしまったスープは一番たくさん入っていた具の味ばかりしてしまう。だがボウル皿に盛られたサラダなら、確かに味は9割のレタスかもしれないが、そこにちょこんと乗ったミニトマトの鮮やかさに目が行く。薄くスライスされた玉ねぎが隠し味でおいしいかもしれない。そして何よりも9割のレタスもほんのちょっとのトマトや玉ねぎも、みんなそろって、おいしくて素敵なサラダボウルになるのだ。

(*1 )英語圏に生まれた者の優位は厳然として存在する。文化と言葉というのは密接に結びついている。自分の文化や価値観を、自分のネイティブの言葉で説明できないというのは大きなハンディキャップだ。だが歴史上、今のスペイン語や英語が広く世界で使われている理由は、帝国主義時代の植民地拡大によるものだ。今後、その方向性を否定する限り、別の言葉が世界的に使われるようになるとは考えづらい。世界共通語のエスペラント語のようなものを全員で学ぶということを選ばないのであれば、他の言語圏の者は多少の不利は覚悟して、英語でコミュニケーションを取るしかない。

Back

森岡洋一郎の論考

Thesis

Yoichiro Morioka

森岡洋一郎

第20期

森岡 洋一郎

もりおか・よういちろう

公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾 研修部長

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門