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1999年10月

ドゥック・ユル ~実録~
大串正樹/卒塾生

 
§0.はじめに

 1999年10月初頭、ようやく念願のブータン王国を訪れることが出来ました。今回は、前回、前々回と二回続けてお話ししたブータン事前調査を踏まえて、現地で見た状況を報告します。

§1.のどかな風景

 ブータンへの入国は、バンコクよりブータン国営の航空会社「ドゥックエアー」を利用するのが一般的です。途中カルカッタを経由するのですが、バンコク・カルカッタ間は片道4000バーツ(約1万円)と格安ですが、ブータンの空の玄関口、パロまでとなると、往復で680ドル(約7万円)と一気に値が上がります。おまけに、観光客の入国を制限していて、事前にビザを申請してから、滞在一日あたり240ドル(個人旅行の場合:これで、ホテルから食事、ガイド、運転手、専用車まですべてがまかなわれる)を支払わなければなりません。これだけ見ると、ブータンが外貨を必要としているようにも思えます。しかし、外貨が欲しい割には、入国者数を制限しているのはなぜでしょうか。外国人旅行者が増えることによる、様々な弊害を恐れてのことです。このように、ブータンは常にバランスを意識しています。

 飛行機は、BAe146-100型(72人乗り)の小型ジェット機です。切り立ったヒマラヤの谷間にある標高2,300mのパロ空港へ着陸するパイロットの腕は確かです。おそらく気流も乱れやすいでしょうが、雲を突き抜けて山の中に突入する様は、他の空港では得難い経験です。ようやく到着すると、そこに見える、空港ビルはいかにもブータンらしい建築です。ブータンでは、建築様式に厳しい決まりがあります。伝統と景観を守るためです。


 空港を出ると、専用車とガイドが出迎えてくれます。彼らは、外国文化に最も触れているブータン人ですが、それでも、礼儀正しく、人と人との距離感が極めて日本と近いのです。ブータン国内での移動は、電車がないため、すべてこの専用車になります。しかし、標高が200mから7,000mにまたがる小国ですから、国自体が急斜面であることは想像に難くないでしょう。しかも、それらヒマラヤの山々を、雪解け水がえぐり取った地形のため、移動は山を越え谷を越えの激しいアップダウンを繰り返します。その道すがら、車窓に目をやると、辺り一面、収穫を待つ稲穂で覆われています。しかも、斜面にある水田ですから、日本の田舎によく見られる棚田が広がっているのです。ここの農業指導は、JICAの故西岡氏(現地で亡くなるまで30年近くに渡り、ブータンで農業指導を行った功績から、ダショーの称号を国王より贈られた)が行ったものです。


 また、道路を走りながら気付くのは、谷に面した道路の脇には白く塗られた石がいくつも並べられ、山側の岩肌にも間隔を置いて白いペンキが塗られていることです。これは、夜間の車の走行が危険(街灯がなく闇に覆われる)であるため、車が谷底に落ちたり岩にぶつからないための目印だそうです。つまり、日本で言うところのガードレールと反射板の「機能だけ」がここにあるのです。移動の途中、何カ所も土砂崩れを見かけました。雨期の終わりだったせいか、処理途中のものも多かったのでしょう。しかし、道路復旧作業現場には女性の方が多いのです。女性も肉体労働をするという、厳しい平等社会を感じました。

§2.子供と家庭

(1)小学校へ


 まずは、パロにある田舎の小学校に寄りました。低学年の子供達はグラウンドで遊んでいます。いきなりの訪問にも先生は歓迎してくれて、教室の中へ立ち入ることを拒みません。授業が始まり、入り口に立つと、子供達が全員、起立して、同じ顔つきにもかかわらず見慣れない格好の異国人に挨拶をしてくれます。その中から、一人の生徒がイスを用意してくれて、掛けるようにすすめてくれます。一緒に授業を聞いて良いようです。ブータンの教育制度は、小・中・高が日本の6・3・3制とは異なり、6・2・4制であるという点を除いてはほとんど同じで、一クラスあたり45、6人だそうです。ただ、もう一つ大きな違いは、授業が英語で行われるということです。従って、幼稚園で徹底的に英語を勉強して、試験に受からなければ小学校には上がれません。子供達の表情は日本と変わりありません...といいたいところですが、ちょっと違うようです。みなしっかりして、生き生きした表情をしています。ここでは、学級崩壊など無縁なのでしょう。先生の呼びかけにもいちいち「イエス・サー」と声をそろえて応えます。暗くて汚い教室ですが、皆、楽しそうに勉強しています。インド人の先生も多く、ブータンという異国の地で教育に情熱を燃やしています。教員養成学校の校長先生の話では、今やインド人の先生は5~7%程度しかいないそうですが、見た限りでは、もうちょっといるようです。ただ現実には、子供の数がどんどん増えていて、先生の数が不足しているという事情もあります。後日訪れた、首都ティンプーの小学校でも、状況は同じです。そこでは、たまたま全校朝会の時間にお邪魔したのですが、国旗の掲揚と国歌の斉唱はきちんと行っていました。また、教室には必ず国王の写真が飾られています。ただ、気になったのは、小学校の低学年になるほど、女の子が異常に多いのです。8割位が女の子のクラスもあるのです。男の子が労働力として使われているのか、女の子の出生率が異常に高いのか定かではありませんが、不思議な光景でした。

(2)一般家庭へ

 一般の家庭にもお邪魔しました。病院に勤める方の家は、多少立派ですが、お伺いするときは「散らかっていますが...」と恥ずかしそうに迎える姿が日本的で面白いです。そして、客人には必ず、スジャ(バター茶)かミルクティーが出されます。そのほかに枝豆が出されたのはおかしかったです。その家庭は小さな子供がいて、勉強のため壁じゅうに英語の表が張ってありました。毎日の勉強スケジュール表もあります。月曜日は英語、火曜日は科学、水曜日は数学...日曜日はEVSなどと書いてあります。EVSというのはEnvironment Studyの略で、ブータンでは環境教育にはたいそう熱心なのです。小学校の低学年から既に、環境教育は始まります。もちろん、机上の勉強ばかりではなく、キャンプをしたり、山に登ったりしながら、自然の中で学んでいくのです。厚生文部省の環境教育課のテンジン氏は「行き過ぎた精神主義も、物質主義も決して良くない。われわれはバランスをとりながら常に中道を行く。これはまさに仏教の精神そのものである。そして、自然の大切さとともに、そのことを子供達に教えていくことが重要なのである。」と語ってくれます。その家庭から、帰るときには「なんのお構いもしませんで...」と、これまた日本的な挨拶で送り出されました。不思議な感覚です。


 別の日に、農家を二軒訪問しました。確かに都会の家庭とは違う様子で物質的には貧しいです。特にトイレは、二階のベランダの床に四角く穴をあけただけのもので、一階まで落下式です。水もどこからかホースで引いてきて、料理の燃料は木です。郊外の山に行くと、木の枝を拾っている女性を何度も見かけました。このように上下水道が整備されていない点では、衛生的とは言えません。肝炎やコレラ、チフス、マラリアなど病気も多いのですが、現地の人たちは、自然淘汰されて強いものだけが生き残っている感が強いです。しかも、仏教国である故に、殺生をしません。ハエやネズミがいても平気で放っておきます。それが、彼らのスタイルなのです。

§3.首都ティンプー


 ブータンの話をすると、「のどか」で「礼儀正しい」と、みなが言います。しかし、首都ティンプーに行くと、手放しで喜んでもいられません。ブータンには産業らしいものがほとんどなくて、農産物以外はほとんどが輸入に頼っています。そのほとんどがインドからの輸入で、町中はかなりインド化しています。自国の文化を守るとはいえ、モノの力は大きいのです。ティンプーは首都といいながら、1時間もあれば歩いて回れるほど小さな都市です。都市と言うよりはひなびた温泉街という方が近いかも知れません。しかし、農村と違って、サービス業が多いためか、明らかに貧富の差が出始めています。またインド人の期間労働者も多く、ホームレス風のインド人(もしくはネパール人?)も見かけました。このように、都市計画が不十分なまま、人口が密集しだしたため、道路事情も悪く、生活排水はそのまま川に流すなど、すぐに問題は表面化してくるでしょう。若者も、徐々にインドの文化に触れ、大都市へのあこがれが強いようです。ただそれはまだ一部の事象ですから、「概ね」国王の政策はうまくいっているようです。

§4.ブータンとインド

 いろんな話を伺う中で、最もデリケートな問題は、ブータンのインドに対する感情ではないかと思います。イギリスとの「シンチュラ条約」から、1949年に、そのままインドが引き継いだ「インド・ブータン条約」は、インド政府のブータン政府への不干渉を約束しているのですが、外交に関してはインドの助言を受けなければならないという内容であります。これにより、ブータンは外交に非常に気を遣わなければならないのです。まず、中国との国境はすべて閉鎖。さらに、他国との関係を結ぶ場合も、つねに、インドを怒らせないようにと配慮します。もちろんその分、大きな援助があることも確かですし、最大の輸出品は対インドの電力(水力発電)であることもまた事実です。どんなに山奥の道路でも、インドから物資を運ぶトラックが頻繁に走っています。それだけ、政治的・経済的に関係が深いのです。しかし、街を見ると、建設作業現場(いわゆる3Kの職業)ではインド人が目立ちますし、彼らは貧しい家に住み、安い賃金でブータン人に雇われています。逆に、市内の大きな店を経営しているインド人もいるわけで、微妙な感情があるわけです。

§5.データの意味するもの

(1)GNP(国民総生産量)
 GNH(国民総幸福量)のお話は前々回に致しましたが、それでは、GNPはどんなものでしょうか。一人あたりで見ると、400ドル(1998年、世銀)と日本の100分の1程度しかありませんが、インドが430ドル、ネパールが210ドルであることを考えると、思ったよりは良い数値です。しかし、現実はもっと違います。ほとんどのブータン人は農家(就労人口の85%)で、しかも、自給自足が成り立っています。また、穀物とヤクの肉を物々交換もしますから、先進国の方法で豊かさを測ることには無理があります。つまり、貧しいとはいえ、食料には全く困らないため生活には余裕があるのです。従って、その国の豊かさを、GNPではなく、GNHで測ろうというブータンの考え方は、むしろ正当であるともいえます。もっとも、幸福量を数値化できないと言う点では先進国の指標となり得ないことは言うまでもありません。ただ、本当に大切なことは、やはり、その国で国民がどれだけ幸福であるかと言うことではないでしょうか。

(2)平均寿命と乳幼児死亡率
 ブータンでは、みな何かしら働いています。高齢者の姿があまり目立たないのです。これはブータンの平均寿命(英語ではLife expectancy at birthといいますから、寿命よりは余命が正しいのでしょう)が、男60、女62才(1998年、WHO)と、かなり低いことに起因するのでしょうか。確かに、高齢化が深刻な日本(男77、女84才)からすると、人口構成が全く違います。しかし、この平均寿命の値は、発展途上国にありがちな、高い乳幼児死亡率が改善されれば、大幅に変わります。この乳幼児死亡率、ブータンでは1000人あたり63と高い数値なのです。ちなみにインドは72、ネパールは83と、さらに高く、ここでもブータンが意外に健闘しています(医療がすべて無料であるという政策が功を奏しているのでしょう)。ちなみに、この乳幼児死亡率が世界一小さい日本は4.3という極端な数値ですから、ブータンの平均寿命が61才といっても、我々の感覚とは事情が違います。逆に考えると、より強いもの(確かに衛生状態はひどく悪いです)が生き残ったたため、高齢となってもみな元気に働けると言えば、短絡的でしょうか。

(3)人口
 ブータンの人口は、はっきり言ってよく分かりません。おそらく60万人から70万人位の間でしょう。しかし、そもそも国家において適正人口とはいったい何人位なのでしょうか。はっきりと、その研究がなされているかは判りませんが、少なくとも簡単な問題ではありません。中には、我が国の人口は適正を超えているから少子化は大歓迎などという無責任な意見もあるようです。しかし、この適正人口という問題を考える場合、まず、国内の問題として、財政や福祉サービスにおける世代間の相互扶助システム、教育と産業構造のマッチング、医療・福祉体制と平均寿命や乳幼児死亡率、国土の地形や気候の影響、食料やエネルギーの自給率とそれに付随する外交関係等々、数え上げればきりがありませんが、こういった様々な問題を関連づけながら考える必要があります。さらに、世界の問題としても、同様な検討を行う必要があると思います。昨今問題となる、首都圏への一極集中、年金を初めとする社会保障制度の破綻、世界の南北問題、発展途上国の飢餓など、この「適正」を見誤ると深刻な問題となることは容易に理解できるでしょう。ただ、これは難しい課題であることは火を見るより明らかで、政策として対応するにも限界があることも事実です。とにかく、その数値がいかなるにせよ、ブータンでは、すでに産児制限を行っています。ワンチュック国王にとって60万人という人口は適正を越えているか、もしくはこのまま人口が増え続けることが好ましくないとの判断です。

§6.社会規範の復活は可能か

 乱暴な言い方をすると、日本という国は、自国の文化を省みず、欧米のシステムを取り入れてきた経緯があります。民主主義、資本主義とそのほとんどが、戦後という歴史的にも浅いものです。逆に言えば、柔軟に異国のシステムを取り入れることが日本の特徴でもあります。しかし、人々が生活をする中で、目に見えない社会のシステムを考える場合には、どうしても、長年培ってきた文化的背景を無視する訳にはいきません。アジアの通貨危機を期に、世界中で資本主義の危機やそれに変わる経済システムの必要性が謳われています。いずれも、資本主義の暴力性に対して、どのように倫理観を維持するかという問題です。今の日本の社会システムが抱えている問題の多くも、この倫理観の欠如によるものが多く、それは先進国共通の問題でもあります。それでは倫理観、すなわち、社会規範はどのように復活させればいいのでしょうか。ブータンに関心を持った経緯もそこにあります。自国の文化を大切にしながら、外部システムを導入して、ゆるやかな発展を目指すブータン。かたや、既に行き着くところまで来てしまって、身動きのとれない我が国日本。この問題については、回を改めて検討していきたいと思います。

以 上

1999年10月 執筆
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