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1999年9月

ドゥック・ユル ~後編~
大串正樹/卒塾生
 
§5.国家のアイデンティティー

 1989年、ワンチュック国王は「伝統的な価値と礼儀作法を守る運動」を開始しました。その主な内容はと言うと民族衣装の着用を義務化することと、公用語であるゾンカ語の普及を奨励することなどがあげられます。かつて、ジーンズやTシャツが見られたこともあったそうですが、国王が、ネパールのように外国の文化を無秩序に取り入れすぎて、自国の文化、すなわちアイデンティティーを喪失してしまうことを恐れたからです。ここには、「経済力のないブータンのような小国は軍事力では国家を守れない。国家を守るものは愛国心である。」と言う発想があります。愛国心は、すなわち、文化的アイデンティティーを維持することによって生まれるという意味からも、「文化と伝統的価値の保護」は第8次5カ年計画にもきちんと盛り込まれています。このように、いつの時代も、ブータンにとってネパールは反面教師でした。敢えて理想をあげるならば、ブータンを東洋のスイスにしたいと考えているようです。次に、歴史的にインド(すなわちイギリス)との関係が深いことからも、英語が普及しています。国王は、「これからの若者は世界で活躍する。従って、英語教育は欠かせない。」とかなり熱心に英語教育を行いました。しかし、実態は、学校を作った当初、かなりの教師をインドから招いたことにより、授業は英語で行われたという経緯があります。また、専門書は、すべて英語で書かれたものが多く、それをゾンカ語に翻訳する余裕がなかったとも言えましょう。逆に考えると、これだけ、翻訳が進んでいる我が国が特殊なのかも知れません。いずれにせよ、先にお話ししたように英語が普及しすぎることによって、自国の文化が廃れることを恐れて、ゾンカ語の教育にも力を入れ始めたようです。

§6.南部問題

 ブータンにも大きな問題があります。南部問題と言われる民族紛争です。これは、先の「伝統的な価値と礼儀作法を守る運動」により、民族衣装の着用を身につけなければならないという法律に、ネパール系住民が反発したことに始まります。ある意味では、民族浄化の考えがあります。そもそも、20世紀初頭にはブータンにネパール人はいませんでした。しかし、ブータンの政策で、医療と教育を無料にしたこと、ネパール人を安い賃金で雇うなどしたため、多くのネパール人がブータンにやってきました。その比率は人口全体の35%にも達しています。しかし、ブータンもこれ以上ネパール人が流入してくることを歓迎はしませんでした。国家が失われてしまった、シッキムのことも、強く意識していました。シッキムがインドへの(準州としての)併合を決議した最大の理由は、インド系の住民が増えたことによります。結局、住民投票で併合が決まりました。ブータンも同じようになることを非常に恐れていました。そこで、民族衣装の着用義務化の法制定を行ったのです。確かに、先に、お話ししたように、国家のアイデンティティーを守るという目的もあったでしょう。しかし、実態は、ネパール人を排除したいという思惑がなかったと言えば嘘になるでしょう。その結果、流血の惨事を経て大量の難民がネパールに逃げ込みました。未だに解決していない、ブータンの問題です。

§7.残された国 ~ブータンの環境政策と観光資源

 「文化の根元は森林であるから、木は切らない。」1992年、ブラジルで行われた地球サミットでのブータン政府の演説は、多くの国々の代表に感銘を与えました。繰り返しになりますが、ネパールが開発を急いだあまり、急速に森林伐採が進み、環境破壊が深刻な問題になりました。ここでも、ネパールを反面教師にして、自然保護と開発のバランスを意識していました。「我々は自然を破壊してまで、産業化を急ぐ政策はとらない。」と表明したとおり、現在でも、ブータンの国土の72.5%が森林であります。ちなみに、ネパールは、既に、10%を切っている状態なのです。環境に対する意識は相当強いようで、初等中等教育の中で、環境科学を週に2,3時間取り入れて、その重要性を子供たちにも教えています。しかも、現地に赴きキャンプをしながら、土砂崩れ・土壌浸食・美林地域の観察など、生きた環境保護教育を行っているのです。

 そんな、環境政策の成果とあいまって、ブータンはいまだに美しい景観を保っています。建築基準法にも、ブータンの伝統建築様式が事細かに規定されていて、西洋建築は許されていません。加えて、国民全員が民族衣装を着用している国であります。国立民族学博物館の栗田教授は「国全体がテーマパークだ。」と表現します。最後の秘境とよばれたり、観光客が後を絶たない(入国に制限はありますが...)のはそいうった「残された国」という希少性があってのことだと思います。このことは、ある意味では王制であったから可能だったのかも知れません。民主主義ではあっという間に、森はなくなってしまったでしょうし、様々な新しい建物が乱立していたことでしょう。ネパールのように。つまり、国王への信頼があってこそ、今のブータンがあると言えるのです。

§8.ジグメ・センゲ・ワンチュック国王

 定期的に地方都市を回り、住民一人一人に酒をつぐ...ワンチュック国王はそんな親近感の持てる国王のようです。住民対話集会と呼ばれる場では、国王を中心に閣僚が開催県に移動して、その地で、住民に開発計画の説明や質疑、再提案などを行っています。言い替えると「移動国会」と言えるでしょう。住民の意見を非常に大切にしています。1972年に若干17才で即位したワンチュック国王は国民からの信頼も多大なものがあります。その反面、「One Nation, One People.」と言うメッセージにも見られるように、強い意志も感じられます。しかし、議会の中で、国王は、「議会の3分の2の賛成があれば国王を退位させられる。」と言う法案を可決させました。当然、議会からは、「国王がそんなことを言うのはやめてほしい。」と反発がありましたが、ワンチュック国王は、「今は私も間違わずに政治をやってきている。しかし、いつか間違うときが来る。その時のために、この法律を作っておくことが必要なのである。」と、周りの意見を聞き入れませんでした。しかし、逆に、そういうところが、信頼を集める要因なのかも知れません。

§9.テレビ解禁

 そんなブータンもいよいよ民主化に動き出します。ワンチュック国王は、昨年6月に政治改革を行うために、22人いた閣僚をすべて退任させて、改めて6人の閣僚を議会に選出させました。確かに議会にも僧侶が多くいるなど、仏教国すなわち政教一体の弊害も指摘されていました。しかし、今見る限りでは、冒頭にお話ししたGNHの考え方が、政治の基本理念として、うまく機能しているようです。しかし、時代の波を意識してか、海外からの情報を取り入れる動きを見せています。今年、即位25周年を記念して、ワンチュック国王は、「国民も25年間よく頑張ったから、テレビ放送を解禁する。」として、国営放送がこの6月から始まりました。同時にインターネットの接続サービスも始まったため、国民は事実上、海外の情報をいつでも瞬時に手に入れることが可能となりました。

 しかし、ブータンがこれまで、文化と伝統を維持できた理由の一つは、国民が他国の文明に対する知識を持っていなかったからといえます。実際に、海外留学した若者には、先進諸外国へのあこがれが強く、そういった層から、ブータンがこれまで培ってきた様々なものが崩れていく可能性があります。現時点では、ブータンの海外留学生も卒業後は、ほとんどがブータンに戻ってきているようですが、それは、やはり、ブータンの良さが分かっているからと言えます。その良さが、崩れたとき、ネパールの二の舞になるのではないでしょうか。栗田教授は言います、「欲望の開発により、ブータンはやがて(文化的な意味で)滅びる。」と。

おしまい


参考文献
  1. 栗田靖之他,「ブータンを知る」, ASIA FORUM, No.73, 1994
  2. 河合明宣,「発展途上国の開発戦略」, 放送大学教材, 1999
  3. A.C.Sinha, Bhutan: Political Culture and National Dilemma,
    p. 203, Kiscadale Asia Research Series No.3, 1994
  4. Karma Ura, Development and Decentralization in Medieval and Modern Bhutan,
    p. 25, Kiscadale Asia Research Series No.5, 1994
  5. 小松征司, 「ヒマラヤ山系の小国、ブータン国王の開発ビジョンは何とも刺激的」
    p.46, JOCV Monthly Magazine, クロスロード6月号, 1999
  6. 日本経済新聞, 1999.6.7

1999年9月 執筆
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