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1998年12月

丹邱日記(7) 「親の都合と子供の気持ち」
大串正樹/卒塾生

 
§1.はじめに

 今回は、先におこなった多久市立東部小学校での研修と、先日、私が訪れた多久市内にある保育園で学んだことから、日本の教育が抱える問題について少しお話します。とはいえ、私は教育に関してはまだまだ素人ですので、素人なりに気付いたことや感じたことを書き綴ってみます。いずれにせよ東部小学校の皆様(校長先生をはじめ、私のくだらない授業を聞いてくれた生徒の一人一人に至るまで)、および、私の疑問に付き合って下さった、多久市保育会をはじめとする、5つの保育園(納所、杉の子、青い鳥、和光、多久)の皆様には本当にお世話になったことを、ここに改めて感謝いたします。

§2.国家戦略としての教育、小学校、そして子供にとっての幸せ

 日本は資源のない国で、加工貿易国であります。と、私は小学校で習ったのですが、それは今も変わりません。唯一の資源は人間であります。逆に考えると、人間の質そのものが国力と密接に関連があるということで、教育とはまさしく国家の最重要戦略として位置付けなければならないでしょう。そのことを意識してかどうかは判りませんが、文部省は様々な教育改革を行おうとしていますし、世論も様々な角度から教育を見つめ、議論をしています。しかし、教育とは一体何なのでしょうか。教育と勉強の違い、練習や暗記は勉強なのか、遊ぶことは教育なのか...等々疑問はいろいろあります。しかし、現場の雰囲気を見た感じでは、所詮、理屈で割り切れる物ではないので、人と人が接する中でお互いに(生徒も教師も)学んでいくという気風があります。それでも、敢えて教育とは何かを考えてみると、私はある言葉を思い出します。学生の頃、使用していた「力学」の教科書の中にあった演習問題の最後に次のようなものがありました。

問題
 A.Einstein は言った「教育とは学校で習ったことをすべて忘れ去った後に,残っているもののことである」と。研究の第一人者が言ったこの言葉の意味を考えてみよ。

 この答えに関しては、私は今もずっと考え続けて、その時々にそれぞれ異なる答えを見つけます。つまり、私にとってこの答えは教育の段階や環境で異なるということです。そこで、今回は特に小学校について考えてみたいと思います。
 確かに世界的に見れば、識字率の高さや九九に代表されるような計算力など、いずれをとっても日本の学力水準は高いレベルにあります。しかし、冒頭に述べたように、日本は人が唯一の資源である国ですから、この教育水準は維持していく必要があります。
 それでは、小学校ではこういった基礎学力だけをしっかり教えれば良いのでしょうか。答えはノーのように思えるかも知れませんが、イエスだと思います。そもそも学校と言うところは、学問を「教える」ところであるはずです。それ以外の部分は、例えば集団生活の中で、あるいは、対話の中から各自が「学ぶ」べきことです。学校とは学問を教えると同時に、自ら学ぶ場を提供する所ではないでしょうか。その辺にアインシュタインの言葉の答えがあるのだと思います。しかし、現実には、様々な問題が噴出してしまっています。いじめ、不登校、学級崩壊...数え上げればきりがありません。私が訪れた小学校も、市内では良い学校とされていましたが、それでも、低学年のクラスでは、私が子供の頃のそれとは全く異なる光景を目の当たりにしました。学級崩壊とまでは行かなくとも、何人かの子供が、全くコントロールが効かない状態でした。全体で見ると確かに何も変わっていないような気がします。子供というのは昔も今も変わりなくかわいいものです。しかし、一部の子供たちは明らかに変わりつつあるようです。この辺は、私もまだ、子を持つ親でないのでこれ以上は触れないようにします。いずれにせよ学校は変わりつつあるということです。しかし、それではどのような学校が子供たちにとって幸せを提供できるのでしょうか...。それを考える前に、何が子供にとって幸せかを考えなければなりません。

 かつて、偏差値教育が問題となり、「ゆとり」を重視するように教育課程がかわりました。しかし、再び、基礎基本の学力を重視するようになってきました。教育の現場では、どのように見ているかというと、結局子供たちに、きちんとした学力をつけてあげることが一番の幸せになるという見解です。つまり、かつての偏差値重視から「ゆとり」教育に移行したことによって子供たちの学力の低下が進んだことは明らかです(あるいは知的貧富の差が拡大したとも言えます)。やはり、基本的なことがわからなければ将来の可能性も開けてこないということです。
 私が研修中に、6年生の子供たちが自分の将来の夢を書く場面に出くわしました。それぞれが異なる夢を、自由に書いていました。しかし、私から見るとそれはまだまだ子供の知る限りの世界観のなかでの夢でしかありません。もちろん、6年生ですからそれはそれで良いのですが、これから彼らが自分の人生を歩んでいく中で、今の時点で将来の方向性を決めてしまうには、まだまだ、余りにも視野が狭いということは否めません。「もっと、いろんな世界を見てこい」と言ってやりたいぐらいです。それでも、大人になって本当に自分に向いている、まさに適職というものを見つけられる人は何人いることでしょう。今回の指導要領の改訂でも、「基礎・基本の確実な定着をはかり、個性を生かす教育を充実...」とありますが、個性を生かすには、やはりその人の、個性そのものを見極めなければならないし、それを伸ばすための足腰である基礎的な力は必須となるでしょう。ここで初めて、幸せに向けて歩き出せる条件が整う訳で、後は自分自身で自分の幸せを探してもらい、がんばっていく以外にないでしょう。幸せはそれが与えられた時点で幸せでなくなると思います。

§3.小学校の必須科目「しつけ」

 私が研修で小学校にいる間は、丁度「あいさつ週間」で毎朝校門に立って子供たちを元気に迎えました。
 「おはようございます」というと、元気に「おはようございます」と返ってくる場合もあるし、照れくさいのか無視される場合もあります。個人的にはひねくれた目つきで「何がおはようだ、朝っぱらから...」というような子供が大好きなのですが、それでも、大人たちは子供たちに「元気」を強要します。しかし、むしろ、大人の方に元気がないのです。先生方は皆、疲れきっている様子でした。それは授業を見るとよくわかります。
 大半は子供の「しつけ」にエネルギーをとられています。しかも、小学校は朝から晩までそのクラスを受け持つわけですから、提出物のチェックや、テストの採点、次の授業の準備などは、休み時間や放課後に、こなさなければなりません。それが間に合わないと、自宅に持ち帰って時間を作るしかありません。
 昼食(給食)も、クラスでとるとなると、しつけの授業に変わります。しかし、よくよく見ていると、大方のしつけは本来家庭で行ってしかるべき物であります。つまり家庭でのしつけが出来ていないということです。さらに、保育園でも自由保育という名の下で、しつけが先送りされています。従って、そのしわ寄せが、小学校に及んで来て、しつけに終始するがために授業が出来なくなっているのが現状です。当然、中学に上がっても、勉強の遅れはそう簡単には取り戻せません。最近の高校生が幼稚であるとか、学力の低下が深刻であるとかは、元を正すと、この辺にあるような気がします。

 文部省はこの事態に対して、自分の所管である学校の改革を検討しますが、実態として、小学校の改革は煮詰まった感があります。それが証拠に、常に事態に対して後手後手の対応であるし、あまり効果も出ていません。むしろやるべきことは、保育園(幼稚園も含む)でどのような教育をすべきかで、これは、むしろ、小学校に送り出すにはどういう教育をしておくべきかを考える必要があります。また、親の教育も必要です。子供をどのように育てるべきか、それがよくわかっていない親がいかに多いかということです。
 小学校の先生は、「家庭の責任にするのは簡単なこと。われわれは、それでもプロだからどんな子供もきちんと教育しなければならない」といいます。確かに、立派なのですが、どう考えても、家庭を直した方が手っ取り早いような気がしました。しかし、問題はこれを政策として行えないということです。
 学校は文部省が指導できます。しかし、ご存知のように、保育園と幼稚園の改革に関しては、厚生省と文部省の壁がありますし、親の教育に至っては、所管はもちろんありませんし、それどころか情報の伝達さえもままならない状態です。話の中では、子供たちを学校から地域に戻そうという考え方もあります。地域社会の中で...という考え方は、理想ではありますが、その地域社会が、コミュニティーが都市部を中心に崩壊していくなかで、どこに子供を帰そうというのでしょうか。行き場を失った子供たちは肉体的にも精神的にもさまよい続けます。

§4.親の都合と子供の気持ち

 社会が変わりつつある原因の一つに、核家族化があります。両親も最近では共稼ぎが増えています。不景気ならばなおさらです。そういう背景から今や、保育園はゼロ歳児(産休明け)から預かる状態です。もちろん少子化の影響で、今後は子供の数自体が減ってきますから、保育園の競争は熾烈になってくるでしょう。「ゼロ歳児狩り」という言葉があるぐらいです。そんな保育園ですが、問題は多いようです。
 ご承知のように、厚生省の管轄であるわけですから、「保育に欠ける子」を保護する意味合いが強いです。従って、教育という点では、十分な議論がなされていないのが現状です。それがあってか、多久市にある私が訪れた保育園は皆、個性的で内容も全く違う保育でした。
 自由保育が提唱されてから、この「自由」という意味が様々に解釈されているのが現状です。私が見てきた中だけでも、完全に放任と思われる所、個々の状態に併せて自由の状態をそれぞれに提供している(個性を分析して選択の自由を与える)所、自由保育を否定して完全に一斉保育を行っている所等々、園によってその考え方は様々です。園と言うよりは園長の考え方がそのまま反映されているようです。しかし、もう一点大切なことは、園の教育方針以前にその地域性が大きな影響を及ぼしているということです。
 明らかに異なる保育園がありました。保母さんの言うことをきちんと聞いて、何でも自主的に動いている園児であるにも関わらず自由保育です。それほど強烈な個性のない保育園ですが、なぜこのような理想的な状態かというと、その地域は核家族がほとんどいないということです。やはり、家庭にまさる保育現場はないということでしょう。ちなみに、園の方針は天地の差があっても、一緒に遊んでいる限りは、子供たちには変わりありません。しかし、親はというと、大きな違いがあるようです。それぞれの園の方針がこんなに違うというのに、おおよそ、保育園選びは、開所時間の長さや場所(職場に近いとか)で選ぶようです。園の見栄えも大事な要素(驚くほど立派なところもあります)のようです。つまり、皆、親の都合でしかありません。子供と一番接しているからこそ、その子の気持ちが判らないのかも知れません。あるいは、判っていてもどうしようもないのかも知れません。親自身が自分のことを分かっていないから...。

§5.パンツを売って何が悪い

 今、小学校では学級崩壊(クラスで先生の指導を聞かない、私語をやめない、歩き回る、奇声を発するなど授業が成立しない状態)が深刻な問題として取り上げられています。その背景には様々な原因が見え隠れします。先にお話しした、家庭の問題や、保育園の問題も一つの原因となっているでしょう。しかし、根はもっと深いような気がします。

 話を小学生から少し高くして高校生に持っていきましょう。特に女子高生、マスコミで良く取り上げられる「コギャル」について考えてみたいと思います。
 援助交際などで小遣いを稼ぐ彼女たちには、倫理観に大きなずれがあります。もちろん、この倫理観は社会全体で抱える物でありますから、具体的にどの規範に対して、どれぐらいずれているとは言えません。しかし、今や大人たちは彼女たちを説得できないでいます。
 彼女たちの理屈では、「オヤジたちからお金をもらって何をしようが、他人には迷惑をかけていないし、パンツを売ったってちゃんと買う客がいるのだから何が悪い」ということになります。まさに、資本主義の理屈では彼女たちが正しいのです。従って、大人たちが同じ資本主義の理屈という土俵の上で戦っても勝てないのです。つまり、資本主義の思想の蔓延に伴って、社会規範が失われてしまった結果こういう社会現象を生んでしまったということです。本来、資本主義は暴力的で倫理的な歯止めの利きにくいシステムです。したがって、倫理規範を宗教や儒教のような別のシステムに依存しなければならない、いわば不完全なシステムだと思います。
 アメリカで信仰心の薄れから社会が荒れてきたように、元来信仰心の薄い日本でも儒教のような社会規範を与える物が忘れ去られて来た結果が、今のありさまです。戦後の急速な欧米化によるものかも知れません。文化やライフスタイルの変遷に伴う物であることは明らかです。ただ、せめてもの救いは、コギャルたちも最後には「親に悪い」と言う言葉を発することが良くあります。これは、まだ、儒教の心が死んでいないとう証でもあります。

 さて、話を元に戻してみましょう。今小学校で起こっている学級崩壊のような問題も、結局このような社会規範の欠落による物ではないでしょうか。家庭が崩壊し、地域が崩壊し、その結果として、子供たちが学級ごと崩壊していくという、まさに大人の責任であります。大人が、家庭が、そして地域が倫理観を失っているのに、どうやって子供たちの中に倫理観が育っていくでしょうか。これはすでに、教育を越えた社会システムそのものの問題だと思います。

§6.我々の本当の課題

 教育を通じていろいろなことが見えてきました。結局、失われた倫理観や社会規範をどのように確立するかが我々の本当の課題なのかも知れません。我々は幕藩体制から民主化を進めて来たような錯覚をしていますが、未だ、独立できない、ぬるま湯に浸かった国民です。この中途半端な民主主義と暴力的な資本主義が我々の社会をずたずたにしてしまったようです。
 昨今、世界経済は連鎖的な不景気に陥ったり、金融の世界ではヘッジファンドの規制をうたったり、もはや資本主義の限界を唱える人もいます。しかし、社会主義が崩壊したようなことはおきないでしょう。なぜなら、資本主義に変わる経済体制が見あたらないからです。従って、我々が取り組まなければならない課題は、社会規範を与える強力なシステムを資本主義というシステムの中に注入するか、全く新しい経済システムを構築するか、のどちらかのような気がしてなりません。

次回は丹邱日記最終回。

1998年12月 執筆
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