論考

Thesis

荒廃する日本社会を立て直すカギ -タイ仏教に学ぶ教育- その二

○タイ仏教僧団

 

 ここから先は私の体験を中心に話を進めていくので、学術的裏付けや通説とされていることと違う点がままあるかもしれないが、そこは鷹揚な斟酌を願いたい。

 私はタイ西部の街・カンチャナブリからミャンマー国境に90キロ進んだ森の中にあるワット・パー・スナンタワラナーム寺にて修行生活をした。タイ全土に寺は10000万以上あるが、そのほとんどは街や村の寺。私の寺はワット・パー、森林派と呼ばれ仏陀の教えにより忠実に修行に励む僧侶が集まった僧団(サンガ)に属している。全部の寺を合わせても150ちょっとほど。いわば少数派だ。

 ここで日本仏教の宗派を想像されると大きな誤解になってしまうので付け加わえさせてもらいたい。日本は曹洞宗なら曹洞宗の、日蓮宗なら日蓮宗独自のお経を持ち、別々のお始祖さん、浄土宗なら法然さん、臨済宗なら栄西さんの教えの元に組織されており、別な宗派の坊さんは相手のお経も上げられないほどの違いがあるそうだが、タイは全部一所。お始祖さんはもちろん仏陀、お釈迦様。教えも、生活スタイルも仏陀が示したまま、2000年以上も続けている。タイ仏教集団はサンガラジャ(法王)を頂点に組み立てられている。その背景には国王の権威が見え隠れしているのだが、なにはともあれ一つの団体と言って良い。

 何が違うのかといえば、パーティモッカ、すなわち戒律の解釈が少しずつ違うのだ。

 例えば戒律によると坊さんはお金を持ってはいけない。「比丘が金銀(貨幣)を自ら受け取るか、他の人をして受け取らせるか、あるいは自らの蓄えとしてとっておくことに同意すればニッサギヤ・パーチティヤ(没収)である。」(ニッサギヤ・パーチティヤの第18項)。227条の戒律全ては仏陀が決めたのだが、2000年前ならいざ知らず貨幣経済が発展した現在においてお金を使わないで生きていくのは、浮き世離れした坊さんでさえ難しい。実際多くの僧侶はお金を持っている。しかし頑なに守り続けている僧侶もいる。そうした違いが宗派の違いとなっている。

 

○日頃坊さんは何をしているのか

 

 さて、うちの寺の典型的な一日のスケジュール表をまとめてみる。

 

3時     起床。

3時15分  読経。

4時     瞑想。

5時20分  食事の準備。

5時40分  托鉢。

7時20分  食事前の掃除。

8時     食事。

8時40分  後かたずけ。

9時20分  自由時間。

15時     掃除。

16時     お茶。

17時     水浴び。

18時     歩く瞑想。

19時     瞑想。

20時     読経。

21時     終了。

就寝時間はそれぞれの自由。だいたい21時半から23時までに床につく。

 

 幣寺は日本人の住職が取り仕切っているので、割とスケジュール通りに坊さんは動いているが、一般的な寺だと坊さんは全くと言っていいほどの自由でそれらの行事に参加するもしないも個人の選択に任される。軍隊生活をイメージさせる日本の修行寺を意識していただけに当初は、当初はタイはいい加減だなと落胆していたのだが慣れてきてよく見るとそうでもない。タイ人僧は他人から決められた日程通りには動かないが、個々人で断食していたり、ひたすら読経を暗記していたり日本人とは違ったやり方で修行に励んでいる。もちろんそうでない人もいるが、タイではタイ風の「真剣さ」がある。

 日程表をご覧になれば、割とヒマがあると感じられるだろう。実際にやってみるとかなり自由時間を持ち合わせている実感がある。人によってはその時間の間、ひたすら昼寝していたりして何のために坊さんをやっているのかわからない人もいるが、多くはおのおののペースで教典の勉強をしたり、瞑想したり、山歩きをしたり(山歩きと言っても、コブラやサソリ、マラリア蚊の巣窟を抜けていくので生きた心地がしない。文字通り死の恐怖が背中に張り付く)修行に励む。

 こうした修行生活を貫く背骨、指針はなんだろうか。それは(1)戒律を守って生活すること(2)悟るために努力することである。これがすなわち修行、タイ仏教僧侶としての使命といって良いと私は思う。

 

○何のために修行するのか

 

 一言で言えば、幸せになるためである。もう少し仏教的なスパイスを利かせて表現すれば、苦しみから脱却するためである。

 先月の仏教理論の説明とも重なってしまうが、再確認をすると仏陀は「人生は苦しみ」だとして、苦しみから自由になるための具体的方法論を生涯説き続けた。その方法の集大成が「仏教」だ。

 なぜ苦しみが生じるのか、それは「我」があり、「我」に執着するので苦しみが生まれる。「我」とは何か、それが「欲」であり、「欲」をコントロールし、「欲」から自由になることが最終的な目的-最終的な悟り-だと、仏教は教える。

 自分で書いていても、なんだかわかったようなわからないような説明で恐縮なので、もう少し視点を私たちの目高さに合わせた解釈に挑戦してみたい。

 人は本来幸せになるように生まれてきている。それは赤ちゃんの天真爛漫な笑顔を見れば一目瞭然だ。しかし成長するにつれて、次第に「欲」が生まれてくる。例えば「生存欲」。食事も食べて飢え死にから逃れたいし、お母さんにだっこしてもらって外敵から守ってもらいたい。これらはもちろん生きていくために必要な欲望だが、こういった欲望がどんどん生まれてくる。お母さんの愛を独り占めにしたい「独占欲」、面白いおもちゃが欲しい「物質欲」等々。

 そして欲を満たすために人は行動し始めるようになる。欲望は人が生きていくためには必要不可欠で、むしろ生活を支える偉大なシステムだ。ところがいつしか逆に欲望に自分自身の生活が流されるようになっていくのだ。

 普段こうして生活している分には、欲望に自分たちが流されていることすらなかなか気づく機会はない。修行はそこに気づくことから始まる。

 

○現在の日本社会の問題点・・先人達が教えた幸せのノウハウが消えてしまった

 

 余り「欲」に言及していても仏教法話でもない訳し、しつこく「幸せ」「幸せ」と叫んでいるとよっぽど不幸な人だと受け取られかねないのでここでで切り上げたいが、私が訴えたいのは、これまでの話はあくまでも仏教の観点からの話であるが、私たちの先輩の賢者達はそれぞれの言葉で同じ事を伝えている。

 塾主は戦争が終わった後、荒廃しきった日本の中で鳥がまるまると太っているのを見て、人間は本来、偉大であるにもかかわらずその本分が発揮されていないと喝破されてPHP運動を始められたが、仏教の教えも将しく同じだと私は受け取っている。

問題は如何にして幸せになるのか・・仏教風に言えば苦しみから解脱するのか・・PHP風なら人間の本分を最大限に発揮するようになるのか・・なのだ。

 私はそこに先人達が営々として築き上げてきたノウハウがあり、本来私たち日本社会に豊かに溢れていたのが無くなってしまっているのが、最近の日本の問題の根底に流れていると思う。

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豊島成彦の論考

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Naruhiko Toyoshima

豊島成彦

第16期

豊島 成彦

とよしま・なるひこ

公認会計士・税理士

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