論考

Thesis

『新しい人間観』の再考

入塾以来四苦八苦してきた「新しい人間観」。意味は分かれど腹に落ちず、が続いてきたが、最近漸く落ちてきた。入塾して二年たった現時点での理解を整理する。

人間を肯定する

塾生は毎朝「塾是」を唱和する。その中に「新しい人間観」という言葉があらわれる。

「真に国家と国民を愛し 新しい人間観に基づく 政治・経営の理念を探求し
人類の繁栄幸福と 世界の平和に貢献しよう」

 松下幸之助塾主(以下塾主)が唱え、そして塾是に謳われている「新しい人間観」を学ぶことは塾生にとっては重要な課題のひとつだ。私も入塾して以来二年間、この「新しい人間観」と向き合い、考えつづけた。今回のレポートは、入塾してから今日までの考えを整理することを目的とする。但し、人間観というものはあまりに深く、容易でない。頭で考えるよりもむしろ人生の経験の中で培っていくものだと思うので、今回のレポートはあくまで現時点で思うところを記録したものだということをご承知願いたい。むしろ今後の人生の中で反芻し醸成していくことに力点をおきたいのである。
 さて、塾主は生前、折に触れては人間を知ること、「人間観」を養うことの大切さを説いてきた。おそらく、多くの方々も人間を知ることの大切さは肌身に感じていることと思う。なぜなら、ほとんどの方々が、毎日を人とのかかわりの中で生きており、善いことも、悪いことも、嬉しいことも、悲しいことも、結局は人のなすこと、なせること、だと感じていると思うからだ。ただ、それを悲観的にとらえるのか、それとも積極的にとらえるのかには、大きな違いがある。
 私の場合、昨今の暗いニュースに触れるたびに、「人間というものはまったく、、、」と悲観的に捉えがちだ。塾主は50歳で敗戦を迎えたが、原爆投下をはじめ、多くの惨劇が繰り返された時代を生き、私以上に人間に対して憂慮することもあっただろうと思われる。しかし、それにも拘らず、塾主はこう言っている。

「まこと人間は崇高にして偉大な存在である」

 そのように言い切ってよいのか、というのが私にとってそもそもの躓きだった。一部の受益者が、他を犠牲にして、一時の利を求めて動く、動かざるを得ないのが人間ではないか。また、仮によかれと思ってやったことも必ず矛盾を含み、誰かを救っても誰かを傷つけ、犠牲にするではないか。その人間のどこが崇高にして偉大なのだろうか、と。悲観的に「人間の仕業」と表現したくなる、目をふさぎ、耳をふさぎたくなる事例は枚挙に暇がない。ここで具体的に挙げはしないが、少し考えただけでもすぐに思いつく。どうだろうか。身の回りのこと、地域の問題のこと、そして国のこと。あちらをたてればこちらがたたず、という難題ばかりに囲まれていやしまいか。そうこうしているうちに、あちらもたたず、こちらもたたず、今や首がまわらなくなりつつあるのでは!?と空恐ろしくなってくることもある。人間の世は所詮そんな風。ああ、これが人間の限界か。ただ、せめてこの閉塞感だけは打破してほしい。現状をそうとらえるのは私だけだろうか。
 ここで塾主は、私の脳内に満ち満ちて、凝り固まった閉塞感を打開するヒントを与えてくれた。それは何かの言葉ではなく、塾主のもろもろの著書である。どれでもいい、手に取って読んでみてほしい。文章がとても前向きなのである。ものの見方が大変積極的なのである。ものごとの善いも悪いも結局は人の心次第。そもそも物事に善悪の区別はない。人が勝手に色をつけているだけである。「花の色は心の色」である。その色をどうみるのかは心次第。そうならば、心の持ちようを変える努力をしたほうがいいのではないか。つまり、どうせみるなら積極的にみたほうがいい。そして、悲観的な見方は行き詰まりやすいが、不思議なもので、積極的に考えると突破口が見いだせるものなのだ。ゆえに見方を変えろ、というのは塾主から学んだことの一つである。以下は塾主の著書『実践経営哲学』からの抜粋である。

「好況のときと違って、不景気のときは経営にしろ、製品にしろ、需要者、また社会から厳しく吟味される。ほんとうにいいものだけが買われるというようになる。だから、それにふさわしい立派な経営をやっている企業にとっては、不景気はむしろ発展のチャンスだともいる。“好景気よし、不景気さらによし”である。」

 この“好景気よし、不景気さらによし”の例えは、物事の見方をかえると、それまで閉塞的にしか捉えられなかった状況が一変する、という好例だ。何事も人の心次第であるならば、“不景気さらによし”の見方に転じるべきとはいえないか。
 ただ、ここで注意してほしい。“不景気さらによし”には前提条件がある。それはこの言葉の前段にある「それにふさわしい立派な経営をやっている企業にとっては」がそれである。なんでもかんでも見方さえかえれば全てよし、ではないことに注意が必要だろう。ふと、似たことを思いだした。それは親鸞の教え、

「善人尚もて往生をとぐ いわんや悪人をや」

である。悪人をも救われることを説くものの、誰でも彼でも無条件で救われるわけではない。心から助けてほしいと願いを込めて、「南無阿弥陀仏」を唱えるところに悪人をも救われる道が開ける、といわれている。それなりの努力が必要なのだ。
 そこで本題。やや、展開が急かもしれないが、人間の見方についても同様のことがいえるはずだ。この世の矛盾は所詮、不完全の人間がなすことである、問題・課題が多いのは人間の宿業であると悲観的にみるものも一つの見方である。しかし、悲観的にみる見方があるならばもっと積極的、楽観的にみる見方もあっていいはずだ。その方が、久しく澱む世の中の閉塞感を打破して、多くの課題を解決する糸口を見出すことができるのではないか。そんな思いがあって塾主をして、

「まこと人間は崇高にして偉大な存在である」

と言わしめたのではないかと思うのである。しかし、この場合の前提条件は何になるのだろうか。

「万物の王者」の真意

 人間を積極的に捉える、というアプローチはここにきて腑に落ちた。しかし、それから先に進もうとするとすぐに大きな壁が待っていた。それは塾主が唱えた「人間は万物の王者」という表現である。どういう文脈で語られているのかを知っていただくために、やや長いが抜粋する。

「宇宙に存在するすべてのものは、つねに生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である。人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、その支配者となる。すなわち人間は、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする。そしてなにものもかかる人間の判定を否定することはできない。まことに人間は崇高にして偉大な存在である。」

 一読されていかがだろう。もっともだ、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、私は最近まで引っ掛かりが多くて、もろ手を挙げて首肯できなかった。引っ掛かりを感じる大きな原因は「王者、支配、君臨」の言葉である。塾主はこれらの言葉に対して、これまでの通念にとらわれることなく読んでほしい、と注記している。そうは言っても私にはできなかった。このわずか数語に囚われてしまうのだ。ある意味、この囚われから逃れようとして、さまざま解釈を試みてきた二年間だったように思われる。しかし最近、そうだなあ、と思えるようになってきた。きっかけはある。突然ではない。次第に、である。
 些細なことだ。昨年4月より震災ボランティアとして岩手県に滞在した。私は内陸花巻市に居を構えて、そこから沿岸部に行くことが多かった。片道車で二時間。頻繁に往復した。岩手は、自然豊かで美しく、見とれるばかりだった。春先、モンシロチョウがたくさん飛んでいた。綺麗だと思いつつ眺めるが、なぜかいつも引き寄せられるように近づいてきて、車の前にスーッと流れてくる。そして、綺麗だと思ったその蝶をどれほど多く、轢いてきたことか。いや、あまりに小さく、軽すぎるので、「轢く」というのは大げさな表現かもしれないが、しかし、実際多くを車ではねてきた。ああ、またか、といやになるほどたくさんのモンシロチョウを轢いたことがやけに記憶に残っている。幸い自分はなかったが、狸も毎日のように轢かれていた。
 ほかにも似たようなことがある。現在、農業問題に取り組む一環として畑や田んぼを借りて農業をやっている。そこで田んぼの畔の草刈りをやっていると、やたらとサワガニが出てくるのである。高速回転する刃の側からヒョコヒョコと出てくるのである。それが、中には刃にあたって、爪が折れたのも結構でてくるのである。サワガニだけではない。カエルもたくさんでてくる。中には切られて死んだのもある。はじめはかわいそうにと思っていたが、あまり気にしすぎると作業もすすまないので、仕方ない、と考えるのをやめて作業に集中した。人間は生きていく限り、殺生はつきものである。それは人間が食べるだけでなく、ただ移動したり、草を刈ったりするだけでも殺生してしまう。相手が物申さないだけに不憫なのだが、しかし、仕方がない。仕方ないと思わないとやっていけない。力を与えられたものの宿命なのだ。以上は小動物を例に出したが、人間社会の中においても同じことがいえるのではないか。力、能力を与えられたとき、その事実に対して人間はなすすべがない。受け入れるしかない。このことをどのように受け止めたらよいのだろうか。悲観的に受け止めるべきだろうか、それとも積極的に受け止めるべきだろうか。積極的に受け入れたのが塾主であった。
 人間を積極的にみるべきだということと、人間の能力、力の存在はいかんともしがたいものだということに気付いたとき、先ほど長めに抜粋した箇所について、文末を「…せざるを得ない」と読み替えてみた。そしてはじめて、なるほど、と思うことができた。王者たらざるを得ず、支配せざるを得ず、君臨せざるを得ない、のである。望むと望まざるとそうなのである。そしてこのことが理解できたとき、今度は「王者、支配、君臨」から強い問いが聞こえてくる。王者たらざるを得ず、支配せざるを得ず、君臨せざるを得ないならば、人間はどのようにふるまうべきなのか?と。強烈なこれらの言葉だからこそ、同じくらい強い逆説も導かれる気がする。それは強い自覚と責任である。いやでもなんでも王者たらざるを得ず、支配せざるを得ず、君臨せざるを得ないのである。そうであるならば、まずはその自覚と責任をしっかりともつべきだ。そしてこのことこそは、人間の存在を積極的に受け入れるための前提条件であるはずだ。ただ単純に、人間は万物の王者であると肯定しても、それへの自覚と責任感をもちあわせなければ無道に陥って、却って不幸を招く結果になるだろう。人間は「万物の王者」という特性をもちつつも、そのことを自覚して、責任を感じてこそ全てを繁栄に導く「万物の王者」たり得、「崇高にして偉大な存在である」と肯定することも可能である。因みに、この自覚と責任は政治の世界にこそ当てはまると思う。権力は極めて強い影響力をもつ。望むことを実行できる。しかし、その影響を受ける多くの国民が存在することを忘れてはならない。塾主の人間観は権力を否定しない。むしろ使い方によっては国民を繁栄に導くものだと肯定している筈だ。しかし、その大前提として、よくよく自覚と責任をもたなければならないことを促している。以上は、悲惨な戦争を経験し、また長年大企業を経営してきた塾主だからこそ導き出された人間観ではないだろうか。

最後に

 最後に塾主はこうも釘をさしている。

「すなわち、人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力ではこれを十分に発揮することはできない。古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の人々の知恵が、自由に、何のさまげも受けずして高められつつ融合されていくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を活かすのである。まさに衆知こそ、自然の理法をひろく共同生活の上に具現せしめ、人間の天命を発揮させる最大の力である。」

 これを達成するにはどうすればいいのだろうか。ここでもとめられる資質は「素直」に、「謙虚」に、そして積極的に人に意見を求め、人の意見を聞く態度だろう。自分で書いていて耳が痛いが、実践すべき道である。
 物事を積極的にみる大切さ、それは人間も例外ではないこと。そして人間を積極的に肯定することは、同時に極めて険しい人間修練をも求められている。そのことに気付いたとき、いままでとらわれていた「王者、支配、君臨」に対して前向きに向き合えるようになってきた。
 冒頭述べたとおり、この人間観をこれからの人生の中でよく吟味して、そして実践のなかで活かしていきたいと思う。

参考文献

松下幸之助『人間を考える』PHP文庫 1995年
松下幸之助『実践経営哲学』PHP文庫 2001年

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内田直志の論考

Thesis

Tadashi Uchida

内田直志

第31期

内田 直志

うちだ・ただし

福岡県みやこ町長/無所属

Mission

過疎対策および地方経済の活性化策の研究

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