論考

Thesis

私の国家観

松下政経塾の塾生は人間観、国家観、歴史観、以上三つの観念をもつことを求められている。当初は大変持て余していたこれらの観念だが、最近漸く向き合い方が見えてきた。現在における私の国家観について述べてみたいと思う。

何故、「国家観」を持つ必要があるのか

 松下政経塾の塾生は人間観、国家観、歴史観、以上三つの観念をもつことを求められている。入塾する以前は、世の中の見方についてこのように整理したことはなく、はじめてこれらの言葉とむきあったとき、どこからどう切り込めばよいのか、皆目見当もつかなかった。しかし、入塾して一年半が経ち、漸くこれら三つの“観”の意味するところが分かってきた、というのが正直なところである。今回は、このうち「国家観」について考えるところを以下述べたいと思う。

 まずは、この「観」を広辞苑で引いてみる。そこには「見解、みかた」や、仏教用語として「真理を観察すること」とある。「国家観」であれば、「国家」に対する見解やみかた、その真理を観察することになる。字義は分かるが、「国家」の概念を理解していないうえに、その真理を観察するとはどういうことか、そもそも、なぜ「国家」の「真理を観察」する必要があるのか、考えるほどに手のつけようがなかった。そこで手始めに、なぜ○○観を持つ必要があるのかについて考えた。

 何か事を始めたり、対処するとき、私がまま失敗するのは、その方法論ばかりに気をとられ、それに熱中してしまうときである。うまくいくときもあるが、そうでないことのほうが多いような気がする。入塾してから一年間、同期と農業問題を研究してきたが、どうすれば農業が活性化されるか、ということにのみ熱中してしまい、ふと振り返った時、それは誰のための活性であり、なぜ活性が必要なのか、などの肝心要なところが抜け落ちがちになっていたことを思い出す。もし、なぜ農業活性が必要なのか、ということが明確になっていれば、ある方法論を検討していきづまったときに、果たしてそれがそもそもの目的にかなっているのか、ということに戻り、軌道修正が可能になり、より多角的な検討が可能になる。農業の問題に関していえば、誰のための農業かという問いに対して、それは農業従事者のためであり、消費者のため、ということになり、農業を通じて、国民がより幸せになることが本来の目的だ、という一段高所から目的をもって農業問題を見渡すことができることになる。そうすると、最初はこれしかないと思われていた考えも、大局的に見渡すと、実はそれに固執する必要もなく、他の方法も見えてくるということがわかってきた。結局、農業問題を考えるときに考えるべきこと、それは人間観であるということであった。農業をするのは人間、その恩恵をうけるのも人間、その人間が幸せになる農業でなければ、農業をやる意味がない、ということが、当たり前のようで、なかなか気づかなかった点だった。そこに気づくと議論は少し高いところへすすみ、では人間はどうすれば幸せになるのかや、幸せとはなにか、という抽象度は増すが、より核心的なところから問題を俯瞰することが可能になる。それが真理を追い求めることであり、○○観をもつことの大切さなのではないだろうか、と思うにいたったのである。実は、○○観をもつことの重要性を松下幸之助塾主(以下塾主)は説いていた。中でも人間観が大切だということを訴えていたのである。そして、塾主は自らの、長年の人生観や経営者という立場からの経験から「新しい人間観」というものを提唱し、そのことの理解に努めることが塾生には求められているのである。

 さて、ではなぜ国家観を考えるのか、ということである。私は政治を志すものであり、今後さまざまな課題に取り組むことになると思うが、農業問題同様に、特定の問題だけに特化して、方法論を講じても非常に矮小かつ、実はあまり本質的解決にいたらなったということになりかねない。やはり、国家とは何か、国家を運営するとはどういうことなのか、それは何のためなのか、ということを本質的に理解し、自分のなかで根本原理として持っておく必要がある。それができてはじめて種々の課題に対して高所に立ち、本来の目的を見失うことなく対処することが可能になるだろうと思うのである。着眼大局着手小局という言葉があるが、これを行うためにも国家観を持っておく必要があると思われる。

国家観考察に必要なこと

 以上まで、なぜ○○観を持つ必要があるのか、そしてなぜ国家観を持つ必要があるのか、ということを述べてきた。ここでは国家観考察には何を考えなければいけないのかについて考えたい。そもそも国家という言葉は日常あまりなじみなく、大変漠然とした概念で、つかみどころがない。ヨーロッパでは古くから、プラトンをはじめ、さまざまな哲学者、思想家が国家について思考を続け、近代国家の論理的土台を固めてきた。彼らに共通しているのは、はじめに人間の本性について深い考察をしている点である。それはまさに人間観であり、そしてそれぞれの人間観に基づいて、集団としての人間社会を考察している。ここでそれらを紹介することはできないが、前提とする人間の本性についての理解は様々で、理性に基づいて行動するというものもあれば、反対に情念に基づいて行動するというものもあり、そして、自然状態と呼ばれる、思考実験上の始原的状況において、人間は闘争することがその本性であるとか、反対に平和を志向するものである等、人間の本性、本質について考察している。国家観について考察するうえで、人間観の考察は不可欠である。この人間観を前提に、人間が集団社会を構成し利害対立が起きたとき、生命の危機に直面したとき、人々は専制君主ではない仲裁者、保護者に庇護をもとめ、国家という人工物を創造した。しかし、それは個々人では対処できないことの解決を求めているため、必然的に個々人よりも強い“力”が必要になる。その力として何を与えるべきか、そしてその力の正統性は何に求めるべきか、ということが課題となる。特に、個人に比して大きな力をもつ国家は場合によっては個人の利害を損ねることは考え得ることである。したがって、国家の力をどのように制限するのかも課題になってくる。人間観と併せ、国家に求める機能、国家の力の正統性、国家の力の制限方法を考えることが国家の本質を考えるうえで重要になるのではないか。

 私の場合、国家について考えるとき、「国家に求める機能」ばかりを追い求めてきた。それは単純な原因によるもので、すでに起こった、もしくは今起きている現象にのみとらわれていたからだと振り返ってそう思う。つまり、過去の戦争をはじめ、沖縄の米軍基地の問題、原発問題など、国家利益が一部の国民の利益と相反する事象のみをとらえ、国家はこうあるべきではないかと考えていたからである。当然、国家かくあるべしを考えることは重要だが、やはり人間観というところから積み上げていかなければ、高所に立つこともできず、広く問題を俯瞰できないだろう。したがって、結局考察すべきは人間観ということになる。

 近代国家は西欧において生み出されたものだといわれている。但し、日本は西欧とは異なる伝統や思想のうえに社会を築き、歴史を歩んできた。その事実は決して無視できないということが、まずもって私の考察の原点になる。

私の国家観

 私が西欧の人間観をどれほど深く理解しているか甚だ心もとない。しかし、彼ら先哲諸氏の人間観は大変普遍的であるとの感想はぬぐえない。どうしても、つい理想気体分子のように自由に飛び回っている人間の姿を思い描いてしまうのだが、モデルとしてはいい。科学的思考実験をするとき、無用な枝葉末節は除き、理想状態から積み上げていく思考方法は大変有効だからだ。しかし、こと人間について考えるとき、理想形に近づけるためにのぞかれた要素、つまり、その国々が歴史のなかで培ってきた非合理的なもの、文化や伝統的な精神、宗教心、またそれらに基づく生活規範は、思考実験上除去可能なようで、実は重要な要素なのではないかと思うのである。例えば、人間は本来自由を求める生き物である、と一見万国について普遍的だと思える仮説から自然権という考えが生まれ、それと国家との関係が近代国家論の中で展開されているが、そもそも人間は本来自由を求める生き物であるという仮説は正しいのか、と疑いたくなる気持ちを否定できない。そもそも、「本来」という意味は何を指すのか。原始的社会における人間の行動原理を指すのか。しかし、原始的社会がどれほど原始的なのか分からないが、そのころの社会的成熟度として国家が成立しるのかどうかは怪しい。もし、本来という意味が、生まれた瞬間という意味であれば、生まれた瞬間からそこの社会的規律に浴して成長するため、いつまでも本来的な人間などは生まれようもない。ではこういうことだろうか。仮に、今この地球上に新たな大陸がうまれて、そこに誰でも移住していいとする。そこではアメリカ合衆国のようにゼロから国造りをするので、今住んでいる国の文化や道徳などのしがらみを一切捨てて、人間本来の姿に戻って集まってほしい、と言われたときはどうだろうか。たしかにそのときは、自由がほしいと思う人たちは集まるかもしれない。ただそれは自由がほしいと思う一部の人たちであって、自由を求めることが人間普遍の真理かというと自明ではないのではないか。

 近代国家を獲得する以前は、専制君主によって過度に自由を制限された時代であっただろう。また周辺諸国からの度重なる侵略をうけ、自己の生命、財産は保障されず、常に脅かされる時代だったと思う。それに比較すれば、私が生きている現在など大変自由で、自由という言葉への思いなり理解がそのもの、浅いのかもしれない。ただし、である。私の中で腑に落ちないことは、日本人がもっている「世間様に生かされている」という感覚や、「この世のものは借り物」という精神構造と、西欧人のいうところの人間が自由をもとめる自然権の発想の整合性である。西欧人にしてみれば、私のいう日本人の精神を一枚めくれば自由を求める人間の本性があるはずだと主張するかもしれない。しかも、今私が言ったことは日本人の中でも共有されているものではないだろうから、強く主張することは憚られるが、しかし、日本人として国家を考えるうえで、この日本人の心はどうも無視できないし、要である気がする。

 ためしに、日本人の本質が「世間様に生かされている」「この世のものは借り物」的精神であるならば、西欧国家観はどのように変更されるべきか。「世間」とは自分を除くすべての人であり、そして、為政者、民間者の立場は問わないとする。更に「生かされている」ということは一方的な使役ではなく、生かしてくれているものに対する絶対的な信頼があると想像される。それは、徳治政治に対する望みの表れなのかもしれない。もし、日本が性善説に基づく徳治を実行できるならば、そこには社会契約説のような人民と国家との契約は必要ないし、契約できない。自由をもとめるという個人が確立されないため、個々人が生命、財産をもとめる権利、自然権が発生しない。したがって、自然権を守るために国家と契約を結ぶという発想も生まれない。国家による力の制裁はある。その正統性はどこにあるのかというと、それは為政者の「徳」そのものへの信頼である。そして国家権力を法という外的なもので制限するかわりに、為政者個人の内的な「徳」によって制限するのである。このような国家を運営していくうえで大切なことは法やルールを構築し、理解し、実行できる人間作りではなく、人間の内面を鍛えるような教育を国民に施すことである。ルールという外的なもので人間を拘束するとそれは際限なく、ルールは増え続け、かえって人は自由を奪われる。むしろ、人間の内面に自制を促す社会こそ、人間の自由は保障されるのではないだろうか。「世間様に生かされている」や、「この世のものは借り物」的精神は一見すると自由度ゼロのようでも、その心をもって生き、それを信じる国家のほうがはるかに自由な社会になるのではないか。そして日本にはこのような国家観のほうがあっているのではないかと思うのである。

 西欧と日本では、地政学的環境も異なるし、それゆえにたどってきた歴史、育まれてきた精神も異なる。ゆえに、西欧において普遍だと想定されるものであっても、少なくとも日本においてそうではない可能性があるので、そこは冷静に判断すべきだ。かといって、全てに対して懐疑的、批判的になる必要はなく、よいものは取り入れるべきだし、その門戸は開いておく態度が望ましい。

 以上が私の国家観である。浅学故にたたけば埃だらけのものだが、それでもこれをベースにしたい。そのためには一にも二にも人間観であることは間違いない。古典から、そして、周囲に意見をもとめ、さらには経験を積み、私の人間観、国家観を磨いていきたい。

参考文献

佐伯啓思著 『国家についての考察』 飛鳥新社

Back

内田直志の論考

Thesis

Tadashi Uchida

内田直志

第31期

内田 直志

うちだ・ただし

福岡県みやこ町長/無所属

Mission

過疎対策および地方経済の活性化策の研究

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門