論考

Thesis

「地域教育」が解決する日本の教育

我が国は、99%以上の識字率を誇り、PISAの学力も世界で上位を占めている。また、国民すべからく教育を受け、その水準も高いものにあるといえる。しかし、犯罪の低年齢化や凶悪化が進み、モラルや道徳規範といったものは著しく低下したと言われて久しい。一体、教育とは何を指し、何を育て、何で評価されるものなのであろうか。

1.はじめに

 我が国は、99%以上の識字率を誇り、PISAの学力も世界で上位を占めている。また、6-3制の義務教育制度をとり、国民すべからく教育を平等に受け、その水準は高いものにあるといえる。しかし、犯罪の低年齢化や凶悪化が進み、モラルや道徳規範といったものは著しく低下したと言われて久しい。一体、教育とは何を指し、何を育て、何で評価されるものなのであろうか。

2.背景

 私自身は、地元の公立学校で義務教育を受け、受験をし、大学まで進学した。大学では経済学を勉強し、政府系金融機関に就職した。有り難いことに、素晴らしい先生方に恵まれ、高度な教育を受けさせて頂いたことになる。しかし、実際の社会人生活や人生において私の血肉となったのは、それらの高度な学問だけではなく、様々な世代の方と触れ合う中で経験してきた痛みや苦しみや厳しさであり、優しさや情愛や美徳であった。カリキュラムにはない人生経験の中から「人間」を学んできたといえる。そしてそれは、地域の中でたくさんの人に育てられてきた結果なのである。広く言えば、地域の人すべてが私の先生であったといっても過言ではない。しかし、これを教育だと意識したことは一度もなかった。

 私は、2人の子を育てる父親である。父親となって我が子を育てていく責務を負った時、翻ってみた現状の日本の教育の姿には、いささか不安を覚えるものがあった。

 多くの小学校で、放課後に泥だらけになって遊んだ記憶のある校庭が、放課後に開放されず遊ぶことができない。そうなってしまった経緯も、かつて多くの児童が殺傷された事件が原因である。また、家庭では核家族化が進み、共働き世代も増えた上に、携帯電話やインターネット、本格的なテレビゲームの普及で非現実の世界に触れる機会が非常に増えた。更には、昔ながらの商店が次々と閉店し、商店街はシャッター通りとなり、大型郊外店に車で買い物をするようなライフスタイルに変わってしまった。

 これらは、日本の生活を非常に便利に効率的にした反面、地域で育ち、地域に育てられてきた子供たちの教育環境を大きく変えてしまったといえる。結果として、地域にあった絆やつながりといったものが希薄化し、地域全体のあり方が大きく変わってしまった。

 これは、私が政府系金融機関で地域振興を担っていた時にも強く感じたことである。

 このように、親としても、社会人としても、地域のあり方と人の心、そして子供たちの教育ということに強い問題意識を感じてきたのである。

3.日本の義務教育の現状

 日本の義務教育は、日本国憲法第26条に以下の通り、規定されている。

1.すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2.すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 つまり、大人には、子供たちに教育を受けさせる義務が発生し、子供たちには教育を受ける権利が与えられている。権利主体は子供たちであり、大人にはその環境整備の責務を課しているのである。

 しかしながら、我々大人が意識して教育の環境整備を行ってきたかといえばそうとは言えないだろう。教育の責任主体は学校であり、教師であり、教育行政であると割り切って、批判だけしてきたとも言えるのではないだろうか。そういった我々大人のあり方が、教育行政や学校のあり方を萎縮させてきたといえる。それによって世論の流れに敏感に呼応して教育指針を修正、転換するという、批判を避けることに主眼をおくような運営の仕方をしてきたのではないだろうか。

 教育効果が上がるには時間がかかる。ロボットとは違い、プログラミングを修正すればすぐに意図通りの反応をするというものではない。しかしながら、情報化社会への対応が叫ばれればパソコン授業を導入し、グローバル化が叫ばれれば英語教育を盛んにし、ゆとり教育を導入したり、脱ゆとり教育に転換したりと、その時の社会情勢や社会的事象によって、教育が即応して変動していく。これこそ我々大人が教育に本気で関与してこなかった証拠であり、教育行政が子どもでなく大人に目が向いてしまっていた故の結果であるということができるのである。

4.問題の所在

 これまで述べてきたように、現在の日本の教育の問題の根幹には、親も含む多くの大人が、教育の責任を学校に押し付けてきたことにあると考える。

 それにより、学校だけでは学ぶことのできない人間関係や社会経験、世代間の継承や日本人の美徳といったものを学ぶ場が不足した教育環境になってしまったのである。

 そして更に、学校という教育環境それ自体のあり方にも制度的な問題があったことによって、それに拍車をかけてしまったのだと考える。具体的には、学校長や基礎自治体の首長に裁量権がないという点である。それは派生して、都道府県と市区町村にそれぞれ設置されている二重の教育委員会の制度的問題でもあるといえる。

5.理想のあるべき教育の姿とは

 私は、「家庭」、「地域」、「学校」の3つの場が、それぞれの役割を果たして補完し合うことが理想の教育環境であると考える。

 「家庭」では、親が一番の教育者となる。特に愛情あふれる教育環境であることが望ましい。生まれてきたことの有り難さと、世代を継承すべきその責任から、ご先祖様に恥じない立派な生き方をしようという精神的支柱を形成することが必要である。その前提を持つならば、どんなしつけを施せばよいのか、どんなスタンスで自分の子どもに向き合えばいいのかは自然と答えが出てくるはずである。子どもが日常の生活の中で直面するたくさんの経験を温かく見守り、何があっても最後は抱きかかえてあげられるだけのいつでも帰ることのできる懐(環境)でなければならないと考える。

 「学校」では、教師が一番の教育者となる。特に厳しい教育環境であることが望ましい。家庭とは異なり、多くの同級生と共に集団生活を営む場所であるからこそ、規律や規範を重視し、勉学と共に日本人としての精神的基礎を築くことが重要である。物事に取り組む集中力を身につけ、子ども同士での程良い競争環境を保つことで、正しいことや良いことを一生懸命に努力することが当たり前に良いことであるという環境でなければならない。多様性や個性の担保も重要であるが、“ならぬことはならぬものです”という厳しい姿勢で臨む少し緊張感のある教室(環境)でなければならないと考える。

 「地域」では、地域に生活する全ての人が教育者となる。特に多くの世代の方と触れ合うことのできる総合的な教育環境であることが望ましい。地域の子どもに対する関心さえあればどんな環境でも優れた教育環境となる。地域には、多くの世代が存在し、何もかもが詰め込まれている小さな社会である。だからこそ、ここでたくさんの社会実践を行い、様々な体験から肌で感じて学びとっていくことが重要である。更に、ここで地域の風習や歴史を学び、昔の人の智慧を学ぶことで、古き良き日本のこころが世代をまたいで継承されていくのである。「いかに生きるか」ということを学ぶ小さくも大きな社会(環境)でなければならないと考える。

 「学校」で学んだことを礎に「地域」で実践し、「家庭」に帰る。このサイクルが的確に機能することで、これからの日本人はかつての輝きを取り戻すのではないだろうか。それはつまり、「愛情あふれる優しさ」と「厳しさ」と「先人の知恵に基づく実践」の絶妙なバランスと相互作用が人を育てるのであって、その環境を創っていくことこそが今の日本に求められていると考えるのである。そのためにも、つまる所、日本国民総動員で教育を行う必要があるということである。日本人が日本人を育てるという観点に立って、それぞれがそれぞれの役割を果たしていくことが必要なのではないだろうか。

 そしてこれら3つのどの環境においてもその手本となるものは、「大人の背中」である。大人の口から聞いた様々な教えを懐深くに染み込ませるものは、その人への憧れであり親しみであり、尊敬である。コンピュータでもマニュアルでもなく、愛情深く本気で自分のことを思ってくれる生身の人間の存在が教育にとっては必要不可欠な環境なのである。

6.解決へのアプローチ

 「学校」、「家庭」、「地域」の相互補完が必要でありながら、現在では「学校」だけにその責任が所在している。また、「学校」には、その責任を果たそうにも果たせない制度の問題点がある、と述べてきた。

 私は、これらの問題を解決に導くためには、まずもって「地域」の役割を積極的に果たしていくことが重要であると考えている。その具体的方策は「地域教育」の推進である。つまり、学校に押し付けてきた教育の責任を学校から地域へと引き受けていくことを意味する。そしてその足掛かりとして、地域をフィールドとして武道や芸道などの「道教育」を行っていくことができるのではないかと考えているのである。

 なぜ「道」なのか。それは、歴史の変遷の中でも、静かにその伝統を連綿と継承しつづけてきた日本の伝統であり、日本人の精神性と秩序を支えた生き方の教えがそこに多く詰まっているからである。それぞれの道場では、今の「学校」では教えることが難しくなった厳しさを教育することのできる環境を有している。私自身も空手道場の運営に参画しており、武道の教えの有用性や教育効果の高さを感じているし、それを求めて通う人も多い。また、武道や芸道などの道場はそれぞれ指導者とともに地域に数多く存在しており、昼間はあまり使用されていないという現実的な導入可能性も高い。

 今の状態でも地域に道場があり、教育環境があるのであれば問題ないと思われるかもしれない。しかしながら、私は学校の授業として地域の道場を教室にして行うことに意味があると考えている。そしてそれを試金石として、将来的には多くの授業を地域の人たちに先生となって頂き、学校の授業半分、地域での授業が半分になるほどまで推し進めるべきだと考えている。簡単にいえば、公教育の地域への外注化である。

 これら地域教育の効果は3点ある。

 1点目は、これまで述べてきたように、子どもたちに社会性と世代の継承を教育することが可能となるという地域の教育機能の再考という点である。

 2点目は、地域をフィールドに地域の人々が主体となって教育を行うことで、地域コミュニティの繋がりや支え合いが必要不可欠となり、地域が教育を通じてひとつになる。また、地域が子どもを中心に活性化していくことで、地域共同体が再構築されるという点である。

 3点目は、教育行政の改革が必要になるということである。地域教育の概念では、最も重要なのは地域と学校の連携である。より地域性の把握が重要となり、地域ごとにそれぞれの特色を活かしながら独自の工夫のもとに教育行政を運営していくことが求められてくる。そうなればより地域に教育の裁量権を持たせていくことが望ましい。教育行政がより教育効果の高い教育を達成するために、教育委員会制度が再構築されるという点である。

 この3点目について、現在の私の認識と考え方を整理しておきたい。

 現在は、都道府県の教育長が教育委員会と事務局の下で、予算権や人事権を持って、地域事情を加味しながら全体を調整し配分する。そして、その配分と決定に従って市区町村の教育長が教育委員会とともに同様の行政事務機能を果たしていく。そこに学校長などの地域を良く知る教育者の裁量権はないに等しい。もちろん、教育に力を入れる首長が独自の教育をする例はあるが、それは自らの自治体から捻出した予算のもとに行われるものであり、都道府県採用の教師に対しての人事権は有していない。

 義務教育という中で、最低水準の維持や質の担保という点は重要な課題である。しかしながら、それを理由に地域の意思や独自性を軽視して教育に規制をかけている現状では、それぞれが誇りと生きがいをもって教育にあたることができないのではないだろうか。確かに、教育機関によって差が出ることは極力避けなければならないことなのかもしれないが、私立の学校が独自の教育観の下に教育を行うことで素晴らしい教育効果を挙げている多くの例を鑑みても、最悪の事態というのは想定しにくい。ましてや、公教育の裁量権を第三者に移すのではなく、地域の公部門が担うわけであって、首長は選挙によって選ばれる人材であるし、学校長は公務員である。教育基本法に則した適切な教育行政や効率的な配分が担保することが十分可能であると考えるのである。

 その意味においても、義務教育においては、都道府県の教育委員会は一定の環境整備や監視監督にその機能を限定し、基礎自治体に教育委員会の主機能を集約していくとともに、教育委員会の長として、教育長ではなく首長がその権限を持つことが望ましいと考える。

 首長に権限を持たせずとも、教育長を選挙で選出するという選択肢も考えられる。しかし、昨年、韓国の教育制度を現地で研究してきたが、教育長(教育監)を選挙で選ぶ韓国では、地域行政から教育が分離されており、首長の口から教育を語られることはほとんどない。また、首長と教育長の教育方針の違いによる混乱等を考えてみても、教育長を選挙で選ぶという選択肢ではなく、首長がその権限を持つことが望ましいのではないかと考えている。

 そして、首長の方針のもとで、学校長の創意工夫ある教育が行われるように変わっていくことができたならば、地域教育を推進せずとも、「家庭」、「学校」、「地域」の三者がそれぞれに責任ある教育を施し、私の理想とする教育が達成されると考えるのである。

7.最後に

 教育とは何を指し、何を育て、何で評価されるのだろうかと問うた。これからも私はその答えを追い続けていくことだろう。しかし、今の時点ではこう思っている。『教育とは、「大人の背中」を指し、「先人に恥じない日本人」を育て、「それが次の世代に継承されていくかどうか」ということで評価される』のではないだろうかと。

 私自身、教員免許は持たずとも、一人の教育者として自らの人生を全うしようと考えている。自分の子どもをもって初めて感じた「自分の経験や智慧を全部授けたい」という思いは、教育への熱い思いであるとともに、自分のご先祖様への決意でもあったように思う。私たち一人一人の存在が、長きに渡って綿々と受け継がれてきた有り難き命であると思うことができたならば、今渡された襷を持つ私たちが、その襷をしっかりと次の世代へと託すことが私たちの使命であると考えるのではないだろうか。そう考えた時、黙って今を見過ごすことはできない。大切な日本のこころを後世に受け継いでいく為にも、私は一人の教育者として、一人の日本人として、生涯を教育の向上に捧げることを誓いたい。

参考文献

「子どもの社会力」 門脇厚司著 岩波新書
「教育改革のゆくえ-国から地方へ」 小川正人 ちくま新書
「公教育の原理-教育基本法の教育理念」 中村清 東洋館出版社

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杉島理一郎の論考

Thesis

Riichiro Sugishima

杉島理一郎

第31期

杉島 理一郎

すぎしま・りいちろう

埼玉県入間市長/無所属

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