論考

Thesis

5円の憂鬱、人間の価値

世界の「フラット化」により個人の力は増大した、と言われる。才能があれば世界を相手に活躍することができる。しかし一方で、生活の中で個人が自分自身の存在と力を実感することはむしろ少なくなっているのではないだろうか。変化する社会の中で、人間の価値とはいったい何か。社会は人間の何に価値を見出していくべきだろうか。

1.5円の憂鬱

 110円と115円、その二つの値段の差、5円のことを考えるたびに、私は少しばかり憂鬱な気分になる。そしてその少しばかりの憂鬱な気分を引きずりながら、110円の方を選び、車から降りて、給油口を開け、ノズルを機械からはずして、おもむろに給油をはじめる。ロードサイド、セルフ給油式のガソリンスタンドで。

 1997年4月に、「顧客に自ら給油等をさせる給油取扱所」が解禁され、いわゆるセルフ式ガソリンスタンドが全国に現れた。昭和48年、オイルショックの年に生まれた私の、子供のころの記憶では、ガソリンスタンドはちょっとやんちゃな感じの若い店員が、車に給油をしてくれるところであって、車やバイクを時に過剰なまでに愛する「お兄ちゃん」達が、やんちゃを卒業してそろそろ社会人になる場所、それがガソリンスタンドであったように思う。

 そうしたやんちゃな「お兄ちゃん」達が社会人として働いていたあのフルサービス型ガソリンスタンドが次々とセルフ式に変わり、人件費がかからなくなった分、消費者としての私たちはガソリンを1リットル当たり5円程度、安く入れることができるようになった。財布の負担はわずかばかり軽くなったが、私にはいつも気にかかることが出来てしまった。今までガソリンスタンドで働いていた、あのやんちゃお兄ちゃん達は、どこへ行ってしまったのだろう。リッターあたり5円分の憂鬱、そしてその憂鬱を増殖させるのが、憂鬱を抱きながら、従業員のいるスタンドではなく5円安いセルフ式スタンドを選択してしまう自分自身の矛盾を思うときである。

 アメリカの社会学者、ジェイ・マクラウドは、著書「ぼくにだってできるさ」の中で、低収入所得者の居住地区クラレンドンハイツで生きる若者たちの多くが、ブルーカラー雇用の急激な減少によって絶望的な苦境に追い込まれていく様を描いている。ホールウェイハンガーズと名乗る低所得世帯の若者たちは、不安定なサービス業からも「落第」した後、非合法薬物売買などの地下経済へと転じる。

 不安定なサービス業から落ちこぼれた若者が地下経済へと転じる事態というのは、果たしてアメリカだけのことなのか、日本を含む他の国にも当てはまるのかは不明である。ただ、振り込め詐欺やひったくりのニュースを見るたびに、私は、そんなことを連想してしまう。

 1992年、改正大規模小売店法が施行された。それまで田圃だった郊外に、次々と大型店舗が立ち並ぶようになる。駅前の個人商店は廃れ、シャッター通りと化した。それまで多様であった地域社会は全国どこへ行っても同じ顔を見せるようになった。三浦展はそうした画一化された日本の郊外の光景を、ファストフードならぬファスト風土である、と痛烈に批判した。

 従業員のいなくなったセルフ式ガソリンスタンドでリッターあたり5円安いガソリンを入れ、その車でシャッター通りを抜けて郊外の大型店で買い物をする。こうした消費行動を行う社会は、それまでの社会と比べて価値を増したのだろうか、減じたのだろうか。そもそも社会の価値とは何だろうか。それを考えるにはやはり、社会の構成単位である人間の価値について考えなければならないだろう。

2.ある経済学者の一言

 新進気鋭のある経済学者に、なぜ経済学を志したのか尋ねたことがある。その経済学者の答えは予想外で、今も忘れることが出来ない。

 「もともと、どうしたら世界を平和に出来るかを考えたんです」とその学者は言った。

 「突き詰めて考えると、争いというのはものを分けあおうとするときに生じるんですね。ものをどう分配するかが経済学なので、経済学を学べばうまくものを分配する方法がわかって、世界を平和にできるんじゃないかと思ったのが、経済学を志したきっかけですね」

 限られたものを分けあい、その多寡を競うところに問題は生じる。分けるものが有限であるからこそ、争いが起き、持たざる者の不幸が生まれる。争いを無くし、持たざる者の不幸を無くすためにはどうしたらよいのだろうか。その方法は三つある。一つ目はある種の強制力により、平等に分け合うこと。これは皆が等しく貧しく、等しく不幸になる道である。そして平等に分け合うことを強いる強制力は、往々にして腐敗するという欠点がある。20世紀の壮大な実験であるソビエト連邦は失敗に終わった。人間が再びこの道を選択するということはあり得ないし、選択すべきではないだろう。

 二つ目は、分け合う有限のものを無限に近づけていく方法だ。松下幸之助は言う。水は、それなくして生命を維持できない貴重なものだ。だがしかし、喉の渇いた者が勝手に他人の水道の栓をひねって水を思うさま飲んでも、水道水を盗んだといって咎める者はいない。いのちに不可欠な水が、水道水として無尽蔵に近く、ただに近い値段で供給されるからこそ、水道水を分けあうことに伴う争いは起こらず、不幸も生まれない。すなわち、物資を豊富に生産することが争いをなくし、不幸をなくしていくことにつながるという道である。

 三つ目の道は、分け合うもの、価値の基準となるものを無限であるものに切り替えていく方法である。

 人間社会において、無限に存在し、同時に価値の源となるものはなんであろうか。それを考えるにはやはり、人間とは何であるかを問わなければならない。

3.「フラット化する世界」における人間の価値

 「いいか、私は子供の頃、よく親に『トム、ご飯をちゃんと食べなさい―中国とインドの人たちは食べるものもないのよ』といわれた。おまえたちへのアドバイスはこうだ。宿題をすませなさい―中国とインドの人たちがおまえたちの仕事を食べようとしているぞ」(トーマス・フリードマン著「フラット化する世界」より)

 トーマス・フリードマンは著書、「フラット化する世界」の中でこんなエピソードを書いている。フラット化する世界、すなわちIT革命によりアメリカ国内の仕事がインドや中国へとアウトソーシングされた世界では、娘たちにこんなアドバイスをしなければならない、と。そして、フラット化された世界では、人々は「無敵な民」を目指さなければならない、と続ける。「無敵な民」とは、世界中の誰にも自分の仕事を代替されない者のことだ。誰かに―その誰かは地球の裏側に住む人かも知れない―自分の仕事を代替されるような人間は、これからの「フラット化された」世界では生き抜けないのだ、とフリードマンは説く。特化し、適応し、<かけがえのない>存在になれば、フラット化した世界の中で生き抜くことができ、世界のどこに生まれても価値ある人間となることができるのだ、と。

 これは裏を返せば、<かけがえのない>人間でなければ価値がない、ということにつながるのではないだろうか。

 <かけがえのない>人間でない人間には、価値がないのだろうか。<かけがえのない>人間でない人間も、人間であることそのものだけが価値となるような世界は築けないものだろうか。

4.人間であることそのものの価値

 それでは、人間であることそのものの価値、とはいったいなんだろうか。そのことを追求するためには、やはり人間とは何か、を考えなければならないだろう。

 和辻哲郎はいう。「人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現わしている」(『人間の学としての倫理学』)。人間、人の間という言葉が人を現わしているという事実が、人間はすでに社会全体であり同時に個人であることを指し示すのだと和辻は続ける。

 人間が人間たる根本に、人と人との間に存在する個人、という意味を内包するならば、個人を指す人間のそのもの価値は、人と人との関係の間にあること、関係性そのものなのではないだろうか。

 人間が人間であることの価値を、他者との関係性に求めたとき、われわれの前には新たな地平が開ける。

 個としての人間の能力や才能は有限であり、そしてその有限なものを、経済効率を高めるために伸ばさなければいけない、とする社会は、正直息苦しい。そして才能や能力といったものの価値は相対的なものであり、他者との差異にこそ価値があるために、社会の参加者それぞれが競って才能や能力を伸ばし始めたら、個としての努力は全く無意味になってしまう。つまり、100メートルを15秒で走る集団において100メートルを12秒で走れる者Aは優位に立ち価値を持つが、もしその集団全体が努力して全員が12秒で走れるように能力を伸ばしたとしたら、Aが持つ価値は無となってしまう。才能や能力とは、他者との差異に他ならないからである。

 だがしかし、人間の価値を個の能力ではなく、ある個が持つ他者との関係性だとすると、それは無限の可能性を持つ。なぜなら個の数は有限であっても、個と個の間に結ばれる関係性にはさまざまな深さや種類があり、そしてまた個と個の組み合わせも無数にあるからである。例を挙げて考えてみる。社会の構成員がA、B、C、Dの4名の社会では、二者間の関係性の組み合わせはA-B間、A-C間、A-D間、B-C間、B-D間、C-D間の6通りある。そしてABCD社会における関係性は、前記の6通りの二者関係だけでなく、A-B-C間、A-B-D間、A-C-D間、B-C-D間の4通りの三者関係、A―B-C-D間の四者関係もある。すなわち、個の能力そのものに価値を置く場合には、見るべきポイントは4つに限られるのに比べ、関係性こそが人間の価値と考えた場合には11通りのポイントに価値を見出すことになるのである。こうした関係性に価値を見出すことが出来れば、人間の持つ価値というのはまさに増大し続けることになる。

 情報テクノロジーと交通手段の爆発的な発展に伴い、確実に世界はせまくなった。世界がせまくなったことにより、自分の仕事を聞いたこともない国の、会ったこともない人に奪われる事態も起こるようになった。「フラット化する世界」の中で価値のある人間でいるためには、努力し、工夫し、能力を磨き続け、<かけがえのない>「無敵の民」であれ、とフリードマンは言う。個の能力を伸ばし続けることは確かにすばらしい。しかし、「フラット化した」この世界から奈落の底に振り落とされないよう、個に、かけがえのない人間であり続けよ、特化し続けよ、適応し続けよと強いるそういった社会は、時に息苦しい。

 つまり、人間に、個としての能力、才能にのみ価値を見出す社会は息苦しさを生じさせる。そしてより重大なことに、能力、才能の評価というものは基本的に相対的なものであるということだ。そして相対的な順列の中での競争では、構造的に敗者を作りだすということである。誰かが才能、能力競争で一番を取る者がいれば、必ず最下位を占める者も生まれる。才能、能力競争が経済的価値を生み出す場合、悪いことに、その競争は有利・不利を再生産し、拡大させるということだ。

 和辻のいうように、人間という言葉が個としての人とともに人と人の間=関係性=社会を指し示すとしたならば、人間の価値は、個が持つ才能、能力だけでなく、人と人との間=関係性にも見出せるはずである。そして個と個の間には無数の関係性が成り立つために、関係性こそが人間の価値だと考えれば、人間の価値は無限になるだろう。才能主義、能力主義への偏りにより、個の能力を高める方向性は必ず行き詰りを迎える。理由の一つは、生物としての人間の能力には限界があるからであり、もう一つは能力、才能が相対的なものであるからだ。

 しかし、関係性は無限に作り上げることができるので、関係性に価値を置く社会には行き詰まりはない。

5.関係性に価値を見出す社会

 有限なものの多寡を競い、どれだけ個々人の能力が高いかというところに社会の価値を求めていく時、必ずそこには行き詰まりが来る。そうした行き詰まりが来たときにどう対応するのか。個の能力を高めていくことに行き詰ったとき、われわれは、社会の構成員同士の間にどれだけ多様で深い関係性が築けているかに、社会や国の価値を見出す方向に社会の価値観を切り替えていかなければならないのではないだろうか。

 個々人の能力の高さを競いあう社会では、他者は競争相手であり競合者であって、蹴落とすだけの存在となる。そこでは努力しかけがえのない人間になろうとすればするほど、他者に心を許すことはできないだろう。個人は孤立し、疑心暗鬼が人の心を支配する。そんな社会では、住人の言葉は隣人を罵るために、右手は敵をなぐるために、脚は互いに引っ張りあうために使われる。

 しかし、個と個の間の関係性の多様さ、深さこそを価値とする社会では、他者は競争相手ではなく、協働相手であり協調者である。社会の価値を増そうとすれば、他者と心を分かちあい、許し合わなければならない。社会の共同通貨は本来の意味での信頼=クレジットである。住人は言葉を隣人を罵るためでなく褒めるために、右手は敵をなぐるためでなく握手をするために、そして脚は引っ張りあうためでなくともに歩むために使われるのだ。

 個の能力を最大限に高めることに価値を置くのではなく、関係性を深めることに価値を置く社会とはいったいどんな所だろうか。そうしたものは机上の空論に過ぎないのだろうか。

終わりに.今そこにあるヒント

 昔、ある雑誌でアルゼンチン人の話を読んだことがある。世界の人々の暮らしぶりを取材して回っている日本人記者が、取材相手のアルゼンチン人の資産を尋ねた。そうだな、貯金なら、日本円にして1万円くらいかな。そんな答えに、思わず日本人記者が驚いて尋ねる。1万円だって! 貯金がそれだけで、あなたは不安に思わないんですか、と。そう問われたアルゼンチン人は答えた。「不安かって? 言われて初めて気づいたよ。今まであんまり不安に思ったことはなかったなあ。だって私にはファミリアとアミーゴ、家族と友達がいるんだから」

 関係性に価値を置く社会を作る、それはそんなに難しいことではないのかもしれない。

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高橋宏和の論考

Thesis

Hirokatsu Takahashi

高橋宏和

第29期

高橋 宏和

たかはし・ひろかつ

医療法人理事長

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医療体制の再生 科学技術による高齢化社会の克服

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