論考

Thesis

『無税国家論』の理念に基づく、地域経営

世界は今、大きな変化の局面にある。日本では格差が叫ばれ、国民生活が不安定さを増す中、時の政府は経済活性化のために国民一人に12000円の定額給付を実施し、数年後には消費税を増税するという。税とは何か、財政とは何か、国家という組織の経営とは何か。今考える、財政問題の本質。

 1980年台初頭、松下幸之助理事長兼塾長(当時)が2年目を迎えた塾生に語った言葉である。

 「だからね、百年の計な、五十年の計というものな、逐次できなきゃいけないわけや。政府で。それが立ててないわけやな。いまだに。二十一世紀の計はどうやこうやちゅうことを国民に発表してへんわけやな。」

 「政治の面でな、今のこのままいったら破綻してしまうと。ぜんぜん足らんから、金が。増税、増税と。増税してもこれ以上できないと。だから無税国家やれと。」

 当時の日本の経済発展や人口動態を考えて、食糧不足を懸念し、国土創生を念頭に国家経営の一つの形として、無税の国づくりを訴えたのだ。30年経った今、その懸念は見事に当たり、自給率の低さと外国産の品質問題により近年注目を集める食糧危機、国、地方併せて1000兆円前後との試算も出る財政危機。もちろんそれだけではない。自給エネルギー不足の問題や道義道徳の混迷など、当時社会に広がりつつあった問題を踏まえ、その研究と実践の機関として政経塾の設立を決断した。

 それから30年経った。多くの国民は政治に期待と信頼が持てないと口にする。加えて現状のみならず、将来の日本にさえ希望が持てないという調査結果もある。なんと悲しい姿であろうか。

 現在の指導者の言葉に希望を見出すことが出来ない日本国民は、今何をなすべきか。人間の潜在意識においては、不安に陥ると往々にして更なる悪化を招くことがある。思考は現実化するのだ。国民の大多数が不安に陥るような現代で必要なのは、光明が差し込むような明確な道標とビジョンを何としても打ち立てねばならない。

 確かに生活が苦しい中では、有難い一万円かもしれない。しかし根本的に考えるとその財源は降って湧いたお金ではなく、これまで先人が生み出した税金の一部なのだ。今回一回限り配給してくれるよりも、毎月納める税金こそ、極力少ないお金で済むような自治体や国の運営を願いたい。どうすれば可能であろうか。その方策はもはや短期的な政策では実現できず、子供や孫の世代を踏まえ、今を生きる我々国民自身が長期的な視点で今すぐにでも考えはじめなくてはいけない問題であるといえる。今回は、既に埃がかぶりつつある塾主の無税国家論を、単に運用益を生む方法論に止まらない、「無税国家論の理念」を再検討し、一つの方向性を検討したい。

「税」とは何か

 米国に端を発した、いわゆるサブプライムローン問題から始まる世界的な金融危機に対し、一つ別の側面で考えるべき点があった。以前に日本が直面した金融機関の不良債権問題時の情勢と今回の米国の反応を対比すると、浮かび上がってくる背景がある。それは、“税”に対する考え方である。

 不動産価格の高騰に乗じたバブル経済のつけは、1990年代から始まった日本の根深い不良債権問題となった。92年以降実質債務超過により複数の大手金融機関が破綻し、累積では実に46.8兆円もの“公的資金”が預金者保護と金融機関の安定化のために投入された。この間、失われた全国銀行の不良債権処分額は97.8兆円にものぼる。不良債権とは回収不能となった債権である。経済社会での取引のため、回収できない状況に陥るのはやむを得ないが、国家全体としてみた場合、リスク管理の甘さから多くの損失を生み、同時に公的資金という名の多額の税金が投入されたのだ。一方昨秋起こった米国の金融破たんの対応はどうか。2008年10月3日には、緊急経済安定化法(Emergency Economic Stabilization Act of 2008)が制定され、最大約7000億ドルの公的資金の投入が可能となった。しかしその過程に注目すると、2008年9月28日にアメリカ議会の指導部と政府が法律案に合意。翌29日に下院で採決が行われた。しかし、採決では共和党の約7割と民主党の約4割が反対にまわり、賛成205反対228の反対多数で否決された。これはアメリカ政府や議会、また世界中の投資家にとっては予想外のことであり、NY証券取引所ダウ平均株価は史上最大幅での下落を記録したが、反面考えられるのは良し悪しを別としながらも、下院議員がそれほど国民の声を聞き入れ、それを反映したともいえよう。国民に低負担低福祉の理念が浸透している米国では、経営努力を怠った企業に自分たちの税金を投入することに憤りの声が声高に上がる。もちろん、政府主導の速やかな金融機関へのテコ入れは必要なのであるが、国民の税金への真摯な考え方には、学ぶべきところもある。日本の場合、“公”、といえば聞こえはいいが“公的資金”とはつまり、我々が日頃汗水流して収めた税金が、公のためには当たり前だ、といわんばかりに使われているのである。日本の“公的資金”の意味合いと、米国の“Taxpayer’s”尊重の気風。ここに、日本人の“税”というものに対する必要な考えが含まれていると考える。

 「税」という字は、「禾」と「ハ」と「口」と「儿(ニンニョウ)」で構成されている。「禾」は穀物を表し、「ハ」は人を意味する。「口」の下が「儿」、開いているという意味だ。つまりこの字は、税としての穀物が集まって、役人たちが口をあけて喜んでいる様、というのだ。そもそも税金とは、民主主義の過程で始まったものだろう。物納であった時代は自給自足の生活が主であった。道も田んぼの整備も周辺住民で整備した。地域で老いた人々を支えあい、学校は寺や教会など地域の有識層でまかなわれた。主従関係で土地を治めて頂く代わりに年貢として物納していた時代である。日本では明治期に入りお金を出してもの(商品やサービス)を買う生活になった。物々交換では商品の流通に限界があり、貨幣という代替ツールが必要となる。農をはじめとする一次産業を離れ、貨幣を求めて市場に参加するようになる。同時に土地は一般の所有となり、個々の調整も含め自らの生活圏内だけではなく、広い地域を共同で発展させていく必要ができた。日々の生活を賄うためにもそれぞれの稼業を行う必要があるため直接「共同」の運営に参加できない。だから「税金」を納め、その代表者がそれらを代わって執行する。それが民主主義の原型だともいえる。そうした生活目線での民主主義は、日本での歴史は200年に満たずまだ浅く、そして欧米と比較した場合まだ成熟していないといえるかもしれない。

 納税義務の制度が制定される過程を考えれば、表面的には国から義務化されたもの、という発想になる。しかし実際の原理としてはお互いが必要な環境をみんなで構築せねばいけないが、警備も教育も福祉も道路整備も街灯工事も全て個人で対応できず、同時に同じニーズを多くの人が抱えている、だからこそ個人個人が行うことに代わって税金を納め、その業務を行政に委託しているのだ。そうした考えに基づくならば、税金の使い道や、納める税金の額、そして住民が要望する使途にしっかり執行してくれているかという監督の責任が住民にはある。「税」という漢字の意味が、役人が取り立てて喜んでいるのみならず、住民自身が喜んで納められる、そうした意味合いに出来るような努力が必要なのである。行政や政治に興味が少なく、また希望が持てない、少しでも税金逃れしたくなる、、、そうした姿勢を生んでいるのは、まさに民主主義の錬度が低いといえる。そうした結果が、結局住民への税負担を大きくし、必要なところに配分されない結果になっている。

 「国事多難なときでも、国民の心情を無視した重税は、国家社会に対する義務観念を弱め、ひいては一般の道義も衰えさせる結果となります。」

 「為政者は国費の合理化に意を用い、低率の税金でも国庫の収入が増大する道を工夫しなければなりません。そこに国家繁栄の基があります。」
~昭和24年1月発表「PHPのことば」松下幸之助

無税国家論の理念

 昭和54年11月7日読売国際経済懇話会の講演会で、経営者・松下幸之助から無税国家論が公に述べられた。簡潔に述べるならば「収入と収支をバランスさせ、余剰金を生みストックを重視する」考えであるといえる。趣旨を掻い摘んで述べると、まず(1)「二十一世紀の末、百二十年先には日本を無税国家にする」という提唱で始まる。次いで(2)「使いきりの予算のうち、一割なら一割を年々積み立てていく」、更に(3)「余剰金の運用」で国家予算の一部を積み立て運用する、またこれをやるためには(4)「行政機構の見直し」を述べる。加えて富裕層には「所得の格差を多少調整する意味において」、(5)「富裕税」をはじめ税制の簡素化と抜本見直しを行う。結果、国税の徴収費を大幅に減らし、実質的な支出を抑える。そうした積み立てとその運用、また行政や支出内容の見直しにより軽税、無税、ゆくゆくは収益分配が出来る理想的な国家になる、というものだ。そして、最後に述べるのが、(6)「長期的展望を持ち、決意する」ことを述べている。「国民に発奮と希望を与えなければいけない。そういうことをしなければ、この混迷した世相を一変することはできないやないかと思います。」「決意したならば、それに伴うところの知恵才覚というものは、無尽に私は生まれると思うのです。」と述べている。

 この発表は、各界に大きな衝撃を生んだ。石油など天然資源の産出が少ない我国において、多くの人々に希望と可能性を与えたことは事実だ。反面、誰も発想しえないものであり絵空事の一経営者の理想論と揶揄されることや、常に変動する経済の中で血税をリスクに晒すことになるとの批判、また無税にすることが、真の幸せを生むのかは疑問である、などの批判的意見が加えられたことも事実なのである。これほどの反響を呼んだ論理だけに、積み立てに対する運用益の計算等は多くの方が試算されており、まさに「決意すれば知恵才覚は集まる」とおり、ここでは詳しく言及しない。

 しかしここで注目しなければならない視点を別の観点から設ける。それは、(1)~(6)の発言の骨子である。この柱こそ、我々が今まさにしっかりと汲み取って生かさねばならないと考える。

(1)無税国家にするという「目標樹立」、実行する「決意」
(2)「ストック」の概念
(3)余剰金の「有効な運用」する
(4)行政等不要な「コスト整理」
(5)「税制改定」
(6)「長期的展望」

 以上の観点は、現代社会においてもまさに注目すべき視点であろう。

 財政学の原則は、「出を量って入りを制す(量出制入)」だといわれてきた。同じ経済主体である企業会計は、量入制出である。入りが無ければ無用に支出をすることが出来ず、借入を行うにしても信用のない取引は成立しない。自治体の決算では、予算に対する「不要額申請」という事務がある。予算で算出された額よりも多く使うことはもちろんできないが、それを執行する際、少なくしてしまうのも議会制民主主義から反する、というものだ。というのも、年度予算は、本来は住民が必要な財やサービスを提供するために計画し、実行されるはずだ。だからそれが計画通り執行されないのは、住民から委託された行政の怠慢、との捉え方をする。単年度毎に予算編成するため税制法上使い切ることに専念し、ストックの価値を見出す仕組みになっていないのだ。既に一般に存在する自治体のサービスは、非常に多岐に渡っている。また単式簿記が主であり、お金の増減が見えにくい構造になっている。だからこそ住民もチェックしづらい。そうした発想の下、企業人からみた国家財政の視点は非常に説得力があるものだ。

 今まさに必要なのは、どういったビジョンを持つか、そしてそれに向かうためにどういう目標を持ち、決意するのか。発言の最初と最後に述べた項目が最も欠如している。それをなくして闇雲なコスト削減はなく、もちろん税制の改定やストック、運用量や方法など決められるわけもないのである。我々は、ビジョンを描くために、財政問題の本質を考えたい。一体何が問題なのか。それを踏まえた上で、ビジョンを描きたい。

財政問題の本質

 財政問題を語られる際に必ず目にするグラフである。それぞれ建設公債と特例公債の残高であるが、増えて当然、とばかりの伸びを示している。本グラフは2005年の国債残高を示すものであり、2008年度予算案を基に試算された国・地方・短期・政府調達を含めた総債務は1084兆円、国債残高551兆円との試算がある。2008年度の一般会計税収予算が53兆円と考えると、実に税収の10年以上分の借金がある。このままの様相では破綻は目前なのだろうか。

 ここで財政破綻について考えたい。大幅な財政赤字の局面で、その解消あるいは財政再建を検討せねばならない。ここで考慮に入れなければいけないのは、借金をしている先、である。企業は、市場や金融機関から必要資金を調達する。家計も同様に金融機関にてローンを組む。しかし政府の場合、借金に相当する国債は、全額国民から借金をしている。つまり「内国債」だけなのである。噛み砕いて言えば、国民に借りて国民に返している。言い換えれば、家族内でお金の貸し借りをしている、という状況なのだ。だから家族からいびられることはあっても、一家が破綻するわけではないのだと、財政学者は言う。内国債を発行しすぎて破綻したという例は、人間の歴史では一度もない。しかも実は日本は、第二次大戦中いまよりももっと多くの借金を抱えていたというのだ。それは、戦後のインフレーションと、財産税という一回限りの巨額の税金をかけて一挙に償還したことによる。財産税とは、戦後すぐに膨大な財産を持っていた階級を対象に高い税率をかけた。インフレにより貨幣価値を下げる方法と、富裕層に対する税をかける方法がある。前者は経済の大混乱を招き、後者は富裕層(国債保有者)の資産を一挙に減少させることになる。日本国債の保有割合図をご参照頂ければ明確だが、その大半を政府と金融機関が保有している。いずれにしろ国家の破綻はないといえるようだが、国民に大きな不安と負担が待ち構えているのは事実なのである。地方自治体の場合はどうなのか。上記した試算では地方だけで500兆円程度の債務残高を有する。財政再建団体の指定、といわれるが、国と地方との違いは何なのか。それは、保有者の違いである。要は地方債の保有者は地方の住民が全て保有しているわけでなく、大手金融機関その他から調達しているのだ。

 国と地方の債務の状況を比較したが、いずれにしろ借金の無用な増加を止め、利払いは確実に行いつつ、社会情勢に応じた必要な公共サービスは継続することが必要だ。そのためには、次に公共のあり方について検討を進めなくてはならない。

公共とは何か

 財政を考える場合、抑えるべき点がある。Public finance、つまり「おおやけ」の「お金まわり」を翻訳した財政は、公の財・サービスを提供するためのものである。公に適する財・サービスとは何か。実は財政問題の根幹には、この“おおやけ”の概念があいまい化していると考えられるのである。例えば、夕張市の財政破綻の主原因は、ホテルやスキー場の経営に自治体が手を出すことで赤字が増加したものだ。本来は、住民が必要最小限のサービスを提供することを公共が担うはずであるが、甘い収益目測を基に民間の手法にかなわない経営を行うことで自治体の舵取りは失敗している。これこそ、公共を担うべき自治体の役割があいまいになっているのだ。また社会構造の変化で公共の範囲は広がりつつある場合もある。生活を行うためには貨幣を稼ぐ必要があり、労働に出る。最近では共働きの家庭も非常に多い。そうすると一家総出の状態となり、以前は働くことの出来ない人々の介助、つまり高齢者介護や乳幼児の保育施設も家庭では面倒を見切れなくなる。そうした場合、その割合が高まれば公共で担う、つまり税金を持ち寄った中で対応することが人々のニーズになるのだ。近年都市部で入所待ちが増加しているのは、まさにこういった世相を反映しているのだといえる。

 これまでの財政負担の問題や社会情勢を踏まえると、自治体と住民の間にある公共の範囲を今一度再設定し、そしてそれらをどちらが担うべきか、検討する必要がある。ここで留意したいのは、自治体毎での検討が必要だということだ。南北に2000キロもの環境の違いがある国家において、その自治体を通り一辺倒の方針で住民生活を守ることは無駄が多くなる。また住民の感性もある。住民参画しやすい土壌が既に形成されている自治体もあれば、裕福な財政を持ち自治体の業務を大きくしてでも投資やサービスの幅を広げることが必要だと感じるところもあるだろう。ただし、ここで今一度確認しなくてはいけないのは、地方もやたらと補助金や地方交付税、地方譲与税に頼らない、からだづくりが必要だということだ。確かに自治体内に殆ど企業もなく自主財源がないところもあるだろう。しかしかといって国に依存し続ける状況では、いずれにしろそのつけは、自治体の住民も含めた国民全体に及ぶのは確実なのである。だからこそ、住民を巻き込んだ地域経営の工夫と質を高めなくてはならない。

PPPの概念

 小泉改革以降、「民間に出来ることは民間に」という旗印の下、行政サービスの民営化が推進されている。特に自治体では、市バス路線廃止や病院の閉鎖など住民生活に直結する現状も様々報告されている。これまで公共を支えた世代が老いていくとき、行政のスリム化により生活に悪影響を及ぼすようなことがあってはならない。だからこそ、民間に出来ることは全て民間に委託することが重要なのではないのだ。住民のニーズに応じたサービスを提供するその線引きが必要なのである。しかし収入には限界があり、全てのニーズに対応することは出来ない。そこで注目を集めているのが、PPPの概念である。

 PPPとは、Public Private Partnershipsの略語である。つまり公共の範囲拡大が求められる中で、行政と住民が協力関係の下で公共サービスを展開しようというものだ。

 これまで国と地方の再分配機能は、土建を中心とした公共事業を中心に担ってきたが、その需要の減少→民間消費の減少・建設業の縮小→雇用減少→地域経済の縮小→人材の流出・地域経済の更なる縮小、、、といったスパイラル状況にあるといえる。その為、今後の自治体においては将来の自治体に相応しい業務範囲と仕訳が必要不可欠なのである。だからこそ、これまで抱え込んできた行政サービスを民間に担い手を変えることで、公共サービスを継続しながら、住民の求める行政サービスを拡充していく必要があるといえる。

 これまでは、私的領域と公共領域以外は、第三セクターを中心とする行政主導の民間経営が検討されてきたが、今後必要なのはこれまで自治体が担ってきた公共の分野も含めて、官と民のパートナーシップで補っていく必要がある。

少負担高福祉社会を目指して 「税金1円の価値を上げよう!」

 これまで検討してきたように、全ての国民に降りかかる国家財政の危機は、地域づくりから始まる。というのも、PPPのように住民が担う範囲、税の負担で自治体が補完するサービスというように、自治体から徐々に補完体制を構築することが必要なのだと考える。道州制の議論が活発化しているが、どこで区切るかという単なる線引き議論に終わっては意味がない。住民のために、自治体はここまでやる。だから広域ではここまでを協働し、残りは国として対応して欲しいという下からの積み上げ式制度構築が必要だと考える。

 それでは、お上頼りにならない地域経営を考えるフローを検討したい。

 まず、自治体独自で担うべき業務を限定する。特に、教育、福祉、安全面を優先した住民のいのちに関わる分野はまず自治体が担う。その上で、現在抱えている行政サービスのうち、民間の力を活用できる業務の仕訳を行い、その担い手を広く募集する。まさにPPPの分野である。住民自身が公共を担うことで税金1円が本当に必要なところに再配分され、同じ税金額でもより広い公共サービスを官民両方から得られる構図を作らなくてはならない。結局政治も行政も、人を生かすために存在している。人のいのちを守り、より豊かな生活を求めるために住民自身も税金を払い、業務が成り立っているのである。だからこそ、国や自治体で無駄な税金が投入されることがあってならないのは当然だが、より安く、よりニーズに合ったサービスを提供できる柔軟性が必要なのである。この変化期に決断する国のかたちは、今後100年200年と日本という国家の繁栄に大きく左右するものだ。だからこそ、国の改革に指をくわえて待っているのではなく、地域に住む住民自身がどういった地域のあり方が必要なのか、主体的に検討していく時期にあるのではないかと考える。税金1円の価値を、我々住民自身のためにもあげる努力をしなくてはならない。

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中西祐介の論考

Thesis

Yusuke Nakanishi

中西祐介

第28期

中西 祐介

なかにし・ゆうすけ

参議院議員/徳島・高知選挙区/自民党

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