論考

Thesis

幸せを「お互いに」追求しよう

第1期生に対する初めての塾長講話の際、松下幸之助塾長(当時)は「人間がどんなものかを人間自身が知らなかったらあかん。まずはお互いを把握しあうことが大切や」とおっしゃったそうだ。塾主と私の共通ワード、「お互い」。今回も、私は塾主が残した最大のメッセージの核心に近づいていけるだろうか―。

 「この日本を変えるには、やはり政治をするしかない!」

 そう思って飛び込んできた、今の生活。あの頃の私は、政治の要諦など知らないままに、ただがむしゃらに、政治というものを追い求めていたような気がする。政治家になれば何かが変えられる、何の根拠もなくそう考えて、この危うげな道を選んだような気さえする。しかし、そんな勢い先行のスタートだったから、私はすぐに壁にぶつかった。それは、とてもシンプルな壁―「『政治』っていったい何なんだ?」―だった。

 こんな時、私は決まって塾主の言葉に触れることにしている。ある日、『一日一話』を読んでいて、目にとまったページがあった。塾主が政治の要諦を話している、簡潔な文章だった。

 「私たちが決して忘れてならない大事なことは、政治は結局、お互い人間の幸せを高めるためにある、ということです。過去においては多くの人びとが政治によって苦しめられ、お互いの血を血で洗うということもありました。
しかし、そうした好ましくない姿は、政治の本来の姿ではない。政治は本来、お互い人間のそれぞれの活動をスムーズに進めることができるようなものです。それらの調整調和をはかり、共同生活の向上をはかって、一人ひとりの幸せを生み高めることをその使命としているのです。この『政治は本来、人間の幸せのためにある』ということを私たちはまず正しく認識しあう必要があると思います。」

 お互い人間の幸せを高めるためにある・・・。
一人ひとりの幸せを生み高めることをその使命としている・・・。

 またも頭をガーンと打たれたような気分だった。政治、と一度考え始めると私たちはリーダーになって、指導者になって、自分が先頭を切って皆を引っ張っていくこと、それが政治だと考えてしまう。確かにそうなのだけれど、それは政治行動の一つであって、政治の目的ではない。政治は何のためにあるのか?何のために政治をしなければならないのか?答えは簡単なのである。「お互いの幸せ」を高めるためにあるのだ。自分一人だけ幸せでもいけない、お互いに幸せでなくてはならないのだ。さらに深く読み取るならば、人間には、幸せと、それを相互に高め合える相手が必要、だということだ。こんな単純なことが、国を動かす政治の要諦だったとは―。衝撃を受けた半面、至極当然のようにも思えた。この言葉に出会ってからというもの、「人間とは、いったい何を追い求めて生きているのだろうか」と、思いめぐらせるようになった。

 「会社は社会の公器やで」と問い続けた松下幸之助が、「お互い」と「幸せ」という2つのものを常に同時に考えていたのには、非常に納得できる。特に、「お互い」の精神は、幸之助の基本精神ともいうべきものである。しかし、現代の日本において、「お互い」と「幸せ」とは共存する考え方であろうか。ここでは、人間とはどんな性質をもっているかを念頭に入れながら、この両者の関係について少し言及してみよう。

 先日、テレビニュースを見ていると、こんな世論調査が流れていた。

 「今一番ほしいものは何ですか?」―。第一位、お金。第二位、安定。第三位、豊かな暮らし。

 このニュースを見ながら、「あぁ、またか・・・人間って欲深いなぁ・・・」と呆れる自分もいながら、私だったらどう答えるだろうかと考えてみた。「今一番ほしいもの」と聞かれたら、まず思い浮かべるのは自分が幸せを感じながら毎日を過ごすのに何が必要か、ということだ。まず、というか、それしかない。そう思った時に、「お金=幸せ? 安定=幸せ? 豊かな暮らし=幸せ?」と、疑問符ばかりが頭の中をグルグルと回ってしまった。なんだか、とても自己中心的な考えに見えてしかたなかったからである。

 教師時代、怒りとも失望ともつかない感情を抱く時があった。それは、生徒と進路先について話し合っている時。彼らの多くは、最初の段階では決まってこう言うのだ。
 「将来、どんな職業に就きたいの?」
 「ハイ、医者です」(もしくは「ハイ、弁護士です」か「ハイ、会社社長です」)
 「どうしてそう思うの?」
 「ハイ、お金が儲かるからです!」

 愕然とするのだ、彼らのそのキッパリとした口調に。両親が同席していても同じで、「先生、やっぱりお金が儲かる仕事をさせたいんです。そうしたら、この子も幸せでいられますから」と言う。だから、私はあえて「お金儲けのために医者になりたいのなら、私は全力で阻止します」と宣言する。お金儲けばかりに気を取られた医者や弁護士や社長に、自分の身など預けられるはずもないからだ。

 別の例を挙げれば、東大も狙えそうな成績優秀な生徒が、突然「考古学者になりたい」と言い出した。猛反対する親を目の前にして彼が話したのは、「考古学って、なんかロマンを感じるんです。過去を生きた人たちの営みを、現代に生きる僕が解明したり発見したりして、それを未来の人たちに教えていくわけだから。3つの時代の人たちをつなげていけるんだから」ということだった。私は思わずスタンディングオベーションを送ったが、矢継ぎ早に両親が投げかけた質問は「それで幸せな人生が送れると思っているの?!」だった。彼は明らかに、「僕の幸せは、誰かに『過去』や『現在』を遺していくことだと思う」と答えた。私が心の中で拍手喝采を送ったのは、言うまでもない。

 こういった場面に遭遇するたびに、私は「人間の幸せっていったい何なんだろう・・・」と考えさせられた。もちろん、お金もあって、何の不安もなく生活が安定していて、いわゆる「豊かな暮らし」ができたらいいと願うことを否定はしない。しかし、お金を儲けるだけが、安定な生活を送ることだけが、私たちに幸せをもたらすとは言えないのも、また事実である。

 私は幸いにも「子ども」という、恐ろしいほど素直で正直な存在と向き合っていたから、「子ども」という「素の人間」が考えるところに、意外と真実があると思っている。中学生・高校生くらいの年齢の子どもたちに「あなたの幸せって何?」と問うと、ほとんどが「好きな人と一緒にいる時!」と答える。「好きな人」というのは、片思いしているあの子でも、友達でも、家族でも、自分が好意を寄せている人間なら誰でもよいらしい。「お金についてはどう思う?」と問えば、「それはあればいいけれど、お金ばかりあっても楽しくない」。「安定ってどう思う?」と問えば、「経済的な安定はいつ壊れるかわからない。それより、いつも心が安定していたい」。時にこちらが驚いてしまうほど、彼らの考えは解りやすい。周囲や社会の中で、「お金=幸せ」の価値観が確実に植え付けられている一方で、彼らの正直な部分はそこにあまり魅力を感じていないのである。私が見てきた「子ども」という素直な人間は、残酷な一面を見せることもあるけれども、人と心を通わせること、人の役に立つこと、人を助けること、人に好かれることに、大きな喜びを感じている。「お金があれば幸せになれるのよ」という大人の囁きはどこ吹く風、彼らは人間にとって本当に必要な「幸せ」を知っていると、私は感じている。

 経済至上主義が発達する中で、お金の価値は飛躍的に大きくなった。お金があれば最新の機器が手に入り、最新の住宅に住むことができ、お金がこれまでの生活を一変させてくれる飛び道具のような役割を果たしてきた。その価値観は、2009年を迎えんとするこの時まで、私たちの中に息づいている。しかし、どこかで気がついているはずだ。本当は、自分たちが、もうお金では買えないものに幸せを求めているということに。いや、お金を追いかける一方で虚無感を感じ、本質的な幸せとは何か考え続けてきたということに。その証拠に、お金をもっていても、現代人はちっとも幸せそうではないだろう。むしろ、不幸な感じさえする人が多い。それとは正反対に、人と比べてお金はもっていないけれど、幸せに満ち満ちている人もいる。傍から見ていても、「あんなに幸せそうだなんて・・・うらやましいな」と感じさせる人もいる。つまり、私は「幸せ」を追求していくことで、人間の本来の姿が見えてくるような気がしてならないのである。

 さて、ここで幸之助の「お互い」の精神に話を戻そう。彼はいろいろな著書の中で、「物心一如の繁栄」こそが、人間の幸福につながると記してきた。私は今まさに「物心一如」のバランスが著しく崩れているのだと思っている。人間が「物」であるお金や機会や製品に操られているかのように、それらを獲得することだけに躍起になっていて、どこかに「心」を置き去りにしてきてしまってはいないだろうか。共存すればさらなる幸福を生みだす「物心」も、一度バランスを欠いてしまうと、ガラガラと音をたてて人の感覚を乱してしまうものになり兼ねないのである。現代の日本人は、この感覚が乱れた結果、人間にとっての本来の幸せが何であるかを、見失っているように思えてならない。

 アマゾンやアフリカの奥地に住む原住民の生活を、一つの例として挙げてみよう。時々テレビなどで放映されるが、彼らは自然の中で、その日に必要な食料を集めて生活をしている。遠い水場からの毎日の水汲みなど、生活に必要な仕事をそれぞれ分担し、その日に必要なものだけを手に入れて毎日を暮らしている。必要以上に取らず、将来に渡って同様な暮らしが維持できるように考えているし、そして、彼らの社会では、お互いに助け合わないと生活できないのである。したがって、彼らにとって仲間は大切な共同生活者であり、自分の幸せは仲間全体の幸せであって、仲間の幸せなしに自分の幸せはあり得ないのだ。このような人と人、人々が自然と調和した暮らしが、私たちの祖先が過去数万年も続けてきた暮らしなのだと、彼らの様子から感じとることはできないだろうか。

 それに引き替え、お互いの役割分担が極度に細分化されている現代は、多くの人々が仕事を分担していることによって、自分の生活が成り立っていることを意識できなくなっている。そして、自分が社会の大勢の仲間から恩恵を受けていることが理解できず、仲間の幸せを考えることなく、自分の幸せのみを考えるようになっている。つまり、他人の幸せと自分の幸せとを結びつけることができないのである。本当の幸せは、信頼できて助け合える大切な家族・友人・仲間がいることであるのに、だ。人が生きる本来の使命は、人と調和し、次世代に社会と環境を引き継ぐことである。その中で、自分自身の望みや夢をかなえることは二次的な目的でなくてはならない。しかし、ほとんどの人はこのことに気づいておらず、多くの場合、自分の欲望の方を優先させるために、人と調和できないことが人を不幸にする大きな原因となっているのではなかろうか。

 だからこそ、現代に生きる私たちは、幸之助の「お互い」の精神に学ぶべきである。自分の日々の生活は自分以外の誰かによって支えられていて、自分が幸せな毎日を送れるのは、自分以外の誰かの存在あってことだということを、もっと積極的に受け入れたらよい。冒頭で私は政治の要諦について言及したが、政治が人々を幸せにするためのものであるなら、その要諦―つまり「お互いに人間としての幸せを高めること」―はすべての人の生活に当てはまるのではないかと思うのだ。

 人間は欲深いものである。何かが手に入ってしまうと、また別の何かを手に入れようと奔走する。欲の尽きない、卑しい生き物である。でも、その反面、本当に些細で純粋なところに幸せを感じたりする、非常に正直な生き物でもある。そして、どんな「物」を以てしても、たった一人では幸せとは何であるかを見失ってしまう弱い生き物でもある。そんな生き物であればこそ、やはり人間は「お互い」を求めずにはいられないのである。

 幸之助が「お互い」と再三口にした理由は、きっとそんなところにあるのだと思えてならない。

 「自分一人で、この日本を変えていくんだ!」と、闇雲に政治を志していたあの頃。あの頃の私にとって、塾主が「人間を把握することが一番大切やで」と塾生に向かって発した言葉は、胸に突き刺さるものがある。ここでいう「人間」とは、自分の周りにいる大切な他者であり、自分自身でもある。きっと、物事の要諦は、すべて「人とは何か」と考え、「人を知る」ことにあるのだろう。

 今回もまた、塾主との共通ワードを通して、新たに「人間とは何か」を考えられた。

 「君な、人を幸せにしたいんやったら『お互いに』幸せになる道を考えなあかんで。それが心底考えられるようになったら、君も一人前の塾生になれるで。」

 松下幸之助塾主の写真が、なんだか私にそう語りかけているような気がする。

【参考文献】

・松下幸之助『一日一話』(PHP文庫)

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宮川典子の論考

Thesis

Noriko Miyagawa

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第28期

宮川 典子

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