論考

Thesis

問いとしての「人間観」

「人間は崇高にして偉大な存在である」―「新しい人間観」のなかで松下幸之助塾主は高らかに宣言する。人間を自然の一部とみなし、はかない存在ととらえる日本的な人間観とは明らかに異なる「新しい人間観」がどのように生まれたのか、そして我々現代に生きる者は、松下幸之助と彼の人間観からなにを学ぶべきだろうか。

1.はじめに

 人間とはなんだろうか。
 私にとって、人間とはよくわからないものであった。

 松下政経塾に入塾する前、9年間の限られた時間だが、病院で勤務医として働いてきた。生老病死、人間の悩みが生まれ始まる場所で、多くの時間を過ごしてきた。

 前触れもなく病は訪れ、それまでの人生を突如として変えてしまう。病を前に人は戸惑い、時に病を否定する。なにかの罰や報いとしてとらえたりすることもある。病の先にある死をまるで存在しないかのようにふるまい、全力で抗って、取り乱す。そうかと思うと、死を前にしてただ静謐にたたずみ、慈愛に満ちた微笑をもって疲れた主治医を励ましたりもする。

 病院の外、新聞やテレビでは、戦争や殺人、引きこもりに詐欺まがいの商売のニュースがあふれて、今日も誰かが逮捕されている。

 人間とはなんだろうか。

 人間とは―――時に残酷で時に美しく、時にどうしようもないほど愚かであり、時に神にも似てこの上なく気高い。なんでこんなバカなことをするのかと思う一方で思慮に満ちて賢くふるまう。ほんとうになんだかよくわからない。

2.「人間を知れ」

 人間を知れ、と松下幸之助は言う。「みんながお互いに、人間とはどういうものかという、人間の本質を知らなければならない」と言い、「人間というものをはっきり把握しなくてはならない」と言う。

 社会とは人間同士でできており、互いに助けあい、助けられあってできている。それは羊飼いが羊を飼って暮らしているのと同じように、人間同士が「飼い合い」をしているのだという。羊飼いがうまく羊を飼うためにはよく羊のことを知らなければならないのと同じように、人間が人間を「飼う」ためにはよく人間を知らなければならないし、場合によってはうまく「飼われる」ためにも人間を知らなければならないのだろう。

3.「新しい人間観」への道

 では、人間とはなにものか、人間はどこから来たのか、人間はなにをなすべきなのか。幸之助の問いはいつから始まったのだろう。

 「新しい人間観」は、松下幸之助の長年のPHP研究の成果として生まれた。PHPとは「繁栄によって平和と幸福を Peace and Happiness through Prosperity」の頭文字をとったもので、物心一如、やわらかく言えば「心もゆたか、身のゆたか」な人間のあり方を研究したものだ。PHP活動の動機として、第二次世界大戦後の日本人の困窮ぶりと、働く意欲をなくすような税制などが挙げられる。松下幸之助自身は「わが国の現状があまりに繁栄に遠く、その上いまのままでは将来に繁栄が実現するという希望が持てぬから」、始めたと述べている。

 しかし、人間とはなにものか、人間はどこから来たのか、人間とはなにをなすべきなのか、という幸之助の問いは、敗戦よりはるか以前、幼少期から始っているのではないか。牽強付会となることをおそれながらも、幼少期にこの問いの源を求めてみることにする。

4.問いの源-松下幸之助の幼少期

 松下幸之助は和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木で明治27年に生まれた。松下家は「別に由緒正しいというほどでもない、まあ無名の農家にすぎないが、それでもかなり旧い家」で、「上位に属する小地主の階級」であり「親父は百姓仕事よりも、村会に出たり役場の仕事に携わったりしていた」。末っ子の幸之助は「いわば兄弟中でいちばんかわいがられ、いわゆる掌中の珠というような立場で育てられた」。しかし篤農家で村会議員の父政楠が米相場に手を出したことから「瞬くまに家も家財も吹き飛ばして跡形もなき悲惨な状態となった」。土地も家も売り払い、松下一家は和歌山市へ移り住むことになる。ここで政楠は、土地や家財を売り払った金で下駄商を始める。このとき幸之助は「まだ四歳で、そういうような一家の移り変わりにはほとんど無関心」であったという。幸之助の兄、伊三郎が卒業の直前に中学校を辞め、店を手伝うなどしたが、しかし下駄商も長くは続かなかった。開店後二年余りで下駄商を閉じることになる。この時期に松下家は悲劇に見舞われる。八郎、房江、伊三郎と三人の兄姉が立て続けにこの世を去るのである。

 その後、一家の経済的状況はいよいよ窮乏し、幸之助9歳のとき、学校をやめ、大阪の宮田火鉢店に丁稚奉公に出されることになる。明治37年11月23日のことである。あと4日で満10歳の誕生日だったことを考えると、よほど切羽つまった状況であったのだろう。

 9歳で母と引き離され、たった一人で見知らぬ大阪の商店に放り込まれたことは、幸之助の心にどんな影響を与えたのだろうか。

 「相当困窮した生活を家でしていた自分は、仕事の手伝いや雑務にはさほどつらいと思わなかったが、心の寂しさという点においては堪えがたいものがあった。晩、店をしまって床にはいると母のことが思い出されて泣けて仕方がなかった。これは初め四、五晩も続いたし、時を経て後も時々思い出しては泣けてきた」

 こうした幼少期を考えると、そこには喪失感、孤独感、挫折感があり、また場合によっては運命の理不尽さ、不条理さを感じたかも知れない。

 幼い子の成長過程では、無条件の愛情が必要であるとされる。両親にとって子供は、子供であること自体が価値である。子供は成長過程において、両親による無条件の愛情により、自分がこの世にいることを受け入れられたと感じ、自分自身を無条件に肯定することができる。無条件の愛、全肯定の体験を得られない子供は、時に自分自身の存在意義を疑わざるを得なくなる。

 不幸にして9歳で家族と引き離され、全く自分を知る人のいない奉公先に入らざるを得なくなった幸之助にとって、自分の存在意義、すなわち自分はなぜここにいるのか、自分はなにをするために生まれてきたのか、という問いは幼少期に始まったのではないだろうか。

5.問いは常に心に―求めたからこそ与えられる

 命知、真の創業として知られるエピソードがある。

 松下幸之助の著書、『私の行き方 考え方』によると、昭和7年、幸之助のところに取引先のU氏がやってきて、自分の信仰するある宗教について熱心に語り、信仰の道に入ることを勧めた。幸之助はU氏の熱心な信仰を喜んだものの、「ある程度ありがたい説であるということは理解されるが、U氏の話を聞いただけでは信仰にはいる、教えを受けるという気持ちにはどうしてもなれなかった」。

 幸之助は結局、U氏の熱心さにほだされ、とにかくその宗教の本山を見学に行くことになった。そこで心から嬉々として信仰のために働く信者の姿を見て、強い感動と感激を覚える。しかし、幸之助自身は、その感動と感激によってその宗教に帰依することはしない。ここが幸之助の独特なところであるのだが、その感動と感激を元に、自分の事業もまた、聖なるものだとの考えに至る。

 宗教が悩める人を導くために全力をそそぐ聖なる事業であるのなら、無から有を作り出し、なによりもつらい貧を人間社会から取り除き、富を作り出すことに全力をそそぐ自らの事業もまた、聖なる事業ではないか。地上にあまねく精神的安定をもたらすことが聖なる使命ならば、物資を無尽蔵に生産し、地上から永遠に貧を追放することもまた、聖なる使命なのではないか。

 こうして幸之助は、自分の使命、彼自身の言葉を借りれば真使命を知った。

 彼はなぜ、この体験を通して使命を知ることができたのだろうか。凡百の者であったならば、某教の神殿を見学した際にも、熱心に勧誘されたときにも、なにも感じることはなかったであろう。あるいは勧誘されるままにその宗教に帰依したかも知れない。実際、心の安定を求めて、既成の宗教に帰依する経営者や政治家は多い。

 私は考える。幸之助が使命を知ることができたのは、常に使命を欲し、探し求めていたからではないか。幸之助が某教に帰依するでもなく、あるいは無関心でなにも感じないわけでもなく、製材所で働く信者の姿に感じ入り、その体験や感銘を消化し昇華した背景には、自分自身の使命を魂の根底でずっと求め続けていたからではないだろうか。自分自身とその事業の真の使命を、幸之助は求め、そして与えられたのである。

 自分とはなにものか、自分の使命とはなにかという問いに対する答え、真使命を得、幸之助は仕事に打ち込み、事業を拡大していった。事業家としての真使命を知った幸之助はしかし、問い続けることをやめなかった、いややめることができなかった。

 自分とはなにものか、自分はどこから来たのか、自分はなにをなすべきなのか、という幸之助の問いは、いつしか自分を含めた人間とはなにものか、人間はどこから来たのか、人間はなにをなすべきなのかという問いに変容していったのではないだろうか。

6.人間はどこから来たのか―「根源」

 敗戦を通じ、幸之助の問いはこう変容していったのではないか。

 すなわち、人間というものには価値がないのだろうか。人間はこの広大無辺の宇宙のなかで、孤独な存在なのだろうか。人間がもし母のない子供であるならば、なにを拠り所にして生きればいいのだろう。人間は無価値なものだろうか。そもそも人間とはなにか、どこから来たのだろうか。

 人間はどこから来たのか。人間とは根無し草で、たまたまこの世に現れただけだろうか。いや人間は根無し草なんかではない。そうではなくてすべての人間の源、そこにはなにものかがあるはずで、それを仮にすべての源、「根源」と呼ぼう。幸之助は、そう考えた。

 人間とは何者なのか。どういう存在なのか。

 そうした人間の役割、使命をつかむためには、まず人間がこの世というか宇宙に、どのようにして生まれ、存在するようになったのかということをみなければならないと幸之助は考え、人間の誕生、発生についてさまざまに思いを巡らした。すなわち、われわれ人間は親から生まれた、その親は誰から生まれたかというと、そのまた親から生まれた、その親の親はどうかというと、そのまた親の親の親から生まれたというように、ずうっと溯り、ついにはいちばん最初の人間、いわゆる人間の始祖といわれるものは、いったいどのようなものだったか、どのようにして生まれたのかということを考えたのである。(『松下幸之助 成功への軌跡』より)

 根源によって人間の始祖が生み出され、根源こそが人間の母であるならば、人間は、母のない子供のような、孤独さからも拠り所のなさからも解放されることになる。

 人間を生んだ力、人間を越えた存在というと、根源とは新たな宗教のように聞こえる。しかし、根源の考え方には、こういうふうに拝みなさいといったような教義はない。根源に祈る専門の神官がいるわけでもない。根源を祀る根源の社のなかには、松下幸之助自身が自分で根源と書いた木の板が入っているだけだという。

 脱線するが、根源について、現実主義者、合理主義者、プラグマティストたる幸之助の性質が垣間見える発言がある。

 「宇宙根源の力というものは、いいかえると、この宇宙をつくった力というか、創造神というか、まあそういう言葉をつかうこともできるわね。そういう力というものを根底として、われわれはこの宇宙というものを考えよう、ひいては人間を考えようというわけや。いや、そんなものはあらへん、というても、あるというても、それじゃこれを裁判所に訴えて判決をもらおうというわけにはいかんやろ、きみ。ただ問題は、そういうものがあるとしてこの社会を見、人間を見ていくのと、ないとして社会、人間を見ていくのでは、おのずとそこに違いがあるんじゃないかということや。(中略)そんなことだから、この宇宙根源の力があるかないかということについては、われわれが、ないというても別に殺されん。(笑)つまり無事に暮らせるわけや。そのかわり、あるというてもすぐにはよくならん。あってもなくても、どっちでもいいわけや。しかし、そういうものがあるということを前提としてやっていくと、社会生活というものを非常に能率よく営んでいくことができる」(昭和37年 PHP研究会での発言)

7.「新しい人間観」-問いの果てに

 人間とはなにか、人間の使命とはなにか。幸之助は問うて問うて問い続け、考えて考えて考え抜き、新しい人間観を生んだ。

 人間とはなにか。
 「人間は崇高にして偉大な存在である」

 「新しい人間観の提唱」のなかで、松下幸之助は高らかに宣言する。人間は生成発展する万物の王者であり、支配者である、という。そこには本来、人間とはそういった存在であるはずだ、いやそうでなければおかしい、という憤りに近いものすら感じる。そしてまた、問い続けた幸之助を思うとき、「新しい人間観」には、問い続けたことに対する誇りと、問いに対する答えに到達した安堵があるのかも知れない。

 もっとも、問い続ける幸之助の旅はこれで終わるわけではなく、「新しい人間観」に至ったあとも、真の指導者の条件とは、理想の国家とは、という問いが続いていくことになる。

8.我らの学ぶべきもの―問いの泉の足下で

 我々は、幸之助の言葉、幸之助の人生、幸之助の教えからなにを学ぶべきだろうか。その言葉、その人生、その教えをそのまま丸暗記し、そらんじ、不変の教えとして帰依すべきだろうか。

 あえて言えば、そうではない。幸之助の言葉は、答えではなく、問いとしてとらえなければいけないのではないか。「人間は万物の王者であり、支配者である…。君、これどう思う?」「まことに人間は崇高にして偉大な存在である。…君はどう思うんや」もし今も幸之助が生きていたなら、塾生にこう問うかも知れない。

 生成発展が自然の理ならば、問いは常に生成するし、答えはたえず発展しなければならないのだから。問い続ける姿こそ、我らの学ぶべきものなのかも知れない。

 神奈川県茅ケ崎市にある松下政経塾には、松下幸之助の銅像が立つ。幸之助像は、今日も塾生に問い続ける。
 繁栄とはなにか、平和とは、幸福とは。理想の社会とはなにか、使命とはなにか。日本とはなにか、日本人とはなにか。そして、人間とはなにか。
 幸之助像こそは、塾生への無限の問いが湧き出る泉である。

 幸之助像は、今日も塾生に問い続ける。
 人間とはなにか。
 幸之助の問いは、いつも日に新ただ。

参考文献

松下幸之助『君に志はあるか 松下政経塾 塾長問答集』 PHP研究所 1995年
松下幸之助『リーダーを志す君へ』 PHP研究所 1995年
松下幸之助『人間を考える』 PHP研究所 1995年
松下政経塾・塾理念の手引「新しい人間観」について
松下政経塾・塾理念の手引き「PHP研究とPHP理念」
松下幸之助『PHPのことば』 PHP研究所 昭和50年
『松下幸之助発言集 第43巻』
松下幸之助『わが半生の記録 私の行き方 考え方』 PHP研究所 1986年
佐藤悌二郎『松下幸之助 成功への軌跡』 PHP研究所 1997年
北康利『同行二人 松下幸之助と歩む旅』 PHP研究所 2008年
ジョン・P・コッター『幸之助論』 ダイヤモンド社 2008年

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