論考

Thesis

国家の存在意義

グローバル化の中で、国民国家はなくなると言われる。本当にそうであろうか?戦前戦後の日本を体現した徳富蘇峰から日本の置かれた状況などを学び、現在に照らして国家そのものの存在を再確認したい。

1、塾主の国家に関する問題意識

 塾主、松下幸之助は、我が国には戦後「国家意識がない」という問題意識を持っていた。企業経営をとおして、「松下電器は松下電器の伝統なり、会社意識を持って社会に歓迎され立派な会社を作ろうということに、全員が相協力すべきでは無いかと思うんです。そうゆう事が薄いか強いか。私は薄い会社は発展しないと思うんです。」と述べている。政治に経営という概念を強く持ち込んだ塾主は、会社経営と国家経営は一緒であり、我が国の国民の間で国家意識が欠如することで、発展が阻害され、存在意義がなくなる事に対して悩みを持っていたと推察される。

 また戦前、我が国が「国家」という言葉を使い、敗戦を導いて以来、この言葉はあまり使われないようになったが、塾主はこの言葉を肯定しており、その前提として、我が国が世界の模範となり、多くの友好国をもって、世界の発展に寄与することであると述べている。

 現在、マスコミ等で「国民国家はなくなり、グローバリズムの時代だ」と言われている。しかし果たして、その二者択一的な議論をする事に意味があるのだろうか。また、この論文の中で、私は逆に今の時代だからこその国家の存在意義を述べたいと思う。

2、明治から戦後直後までの日本を体現した徳富蘇峰から学ぶ国家とは

 司馬遼太郎の歴史小説の種本として、『近世日本国民史』がある。これは30余年かけて徳富蘇峰が書いた書物である。徳富といえば、明治維新以後の日本のナショナリズムと体現者だと言われる。ここで、徳富の生涯について簡単に記したい。

 徳富は、青年期から人並みはずれた洞察力と先見性を持っていた人物である。それは幼少期、少年期の環境に起因するところが大きいと思うが、儒教的理想主義とも武断主義とも異なる、戦力的道義主義なるものが、欧米帝国主義にあることをいち早く理解していた事である。

 条約改正問題が大きくなるころからナショナリズムは芽生えているが、それだけではなく、平民主義も大変重視した。つまり、国民の自由と国の自主独立が矛盾しないと考えていたのである。当時の徳富の観点は非常に新鮮で、産業型の社会を作る事が国家の独立につながるという自由主義的観点で論を展開していく。この時、高知の中江兆民も徳富の英国的思考に共鳴し、藩閥政治を打破するために、当時の民党である改進党と自由党を統一する運動を展開していく。しかし、結果的に両党の対立が激しかった事、そして、自由党が政府に対して妥協した事によって挫折する。

 この挫折により、中江兆民は実業界へ行き、この頃、日清戦争を目前に控えている状況であったので、徳富はペリー来航以来の近代化は強姦だということを全面的に出して、ナショナリズムを強く打ち出していくのである。この時代の徳富の目的は、日本を国際社会の一員として認めさせることであった。また、対等な扱いを欧米から受けたいという気持ちを強く持っていた。しかし、この戦争の結末は、三国干渉という侮辱を受けることになるのである。結局、欧米列強は日本を同等に見てくれなかったのである。

 その後、1904年に日露戦争を経験する。日清戦争後の三国干渉等が契機となって、国民の間でも、この時期は強いナショナリズムが存在していた。当時の時代性として認識しておかなければならないのは、内村鑑三のような非戦論や日比谷焼き討ち事件など、明治国家の枠組みを超えるような運動が起こってきたことである。日露戦争周辺に特徴的なのは、そうした、都市を中心として大衆社会運動が数多くおこってくる事である。この状況に関して、徳富は強い危機感を抱いた。そして、国体論的な枠組みを強く訴えていく。

 かつて、「将来の日本」を処女作として論壇に華々しく登場し、多くは青年から指示を集めてきたが、この場に及んでは、若者の心理がよく理解出来ないと述べているのである。この時期に、国体論の枠組みだけでは国民を包み込むことができなくなっていく。さらにこの時期に、朝鮮を植民地とすることで、これまで固有の歴史や文化を所有した国家を植民地化する必要性がでてくる。つまり、日本民族の中に朝鮮を同化させていく必要性が出てくる。しかし、なかなかこの問題について解決方法が見いだすことができず、国体論に陰りが見えてくるわけである。徳富はこの時期、「昔の人は国が命ずる忠誠や服従に対して『なぜ』などという疑問を持たなかったが、徐々に理論的な限界が見えてきたのは、大衆の中で特に若者が、この問題に関して『なぜ』などという理屈を考えはじめてきたからである。」と述べている。

 日露戦争の勝利をもってしても、我が国が欧米列強から正当な評価を受けることはなかった。差別的な見られ方を修正することができなかったのである。日清・日露戦争における勝利に対して、欧米人は感嘆の念を惜しまなかったが、本物の尊敬が生まれることはなかった。ここで、徳富の脱亜論は挫折した。その後、アジア主義へと回帰していく。しかし、それはアジアのほうが受け入れることができなかったのである。なぜか、結局彼が持つアジア観は欧米側の視点に立っていたからである。すなわち、日本がアジアを巡査するという考え方を持っていたからである。吉野作造などの様に、辛亥革命に同情を寄せ、中国の国家建設の援助、共存する連携関係を深めるといったものではなかった。欧米に認めて欲しいと思う反面、アジア諸国に対しては、自尊心を傷つけるような考えを持っていたのである。

 その後、アメリカではカリフォルニアを中心に排日移民法が制定され、日本がはっきりと欧米から拒絶されるに至ったとき、蘇峰は亜細亜モンロー主義を唱えるようになり、鬱積した感情を爆発させ、太平洋戦争への道を進んでいくのである。徳富は、日本の存在意義、自らの存在意義を確かにするために、一貫して日本が国際社会から敬われるように言論活動を展開して、日露戦争後にそれが挫折したことで、亜細亜モンロー主義に走ったと思われる。それは、近代日本が歩んできた道であり、欧米からもアジアからも拒否されることで暴発せざるをえなかったのではないかと感じる。

 徳富を調べて、日本は地理的要因もあるのか、近隣諸国に翻弄されていると感じた。また、今も変わらずに、ある意味での欧米に対してのトラウマが潜んでいるように感じるのである。それゆえに、徳富独自の国家観を形成することができたのではないかと思う。東アジアを見渡しても不安定要素が多くある状況の中で、国家という言葉に対するアレルギーが多いように感じる。徳富蘇峰の生き方、考えを越えて、国家の存在意義を考えたい。

3、私が考える国家像

 冒頭にも述べた通り、国家というものを議論することが時代遅れだとか、国民国家は時代遅れだとか、国境の壁は壊れているというのが世の中の風潮であると思われるので、ここで、国家についての定義を明確にしておく必要がある。こういった議論を展開していく上で大切なことは、どういった時間の流れで議論をしていくのかが、非常に重要なように思われる。原始の時代には、国家なるものは存在しなかったわけだから、本当に今まで考えられてきた国家が必要であるかということは、一概に言えないはずある。であるとするなら、ここ50年ぐらいの時間の流れと、日本という国の地理的要因を鑑みて話を進めていくのが妥当だと思う。

 日本とその周辺の状況を考えると、ここ50年で、東アジアでEUのようながっちりとした枠組みができるかは考えにくい。よくEUを例に出して、東アジアは統合されるといった議論がよくあるが、地理、歴史、空間を考えるとなかなか困難のように思われる。EUが成立し、統合された背景には、ヨーロッパが第二次世界大戦後に没落し、ソビエト、アメリカという二大強国が台頭したため、ヨーロッパを一つに統合する必要性が生じたことが挙げられる。しかも、EUの誕生は、国家の枠組みが壊れたというよりは、ヨーロッパという一つの新しい国家ができようとしているとも考えることもできると思われる。我が国でEUの事情をつかまえてきて、日本のことを議論する時、残念なことに明治以来のヨーロッパに対するコンプレックスであるように思われる。

 しかしこれだけでは、グローバル化によって国家の存在がなくなるという証明にはならないので、経済のグローバル化の話を交えて説明を加える。経済は確かに、グローバルになってきており、人、モノ、金は国境を越えての移動が活発である。ここで問題にしたいのは、モノ、金は非常に移動をしているわけあるが、人は本当に前者ほど活発に移動しているのかということである。結論は、していないと思う。

 私が考えるに、アーティスト等の世界水準で仕事をしている人は、現時点でも移動は活発である。また、肉体労働的なものに携わっている人たちも、活発だと言えるかもしれない。しかし、一般的な例で言えば、それほど活発ではないと思う。たとえば、就職活動を考えてもらえると良い、確かにここ数年で、外資系の企業に就職する若者は増加したが、多くはやはり、日本企業に就職をする傾向は全体を考えれば変わっていない。労働というのは、生活様式や言語等々で障害がない状況で働くことが一番良いのであって、通常の日本人であれば、技術なり、能力を最も発揮できる国内での職場を選択しているのである。

 こういった事を考えていくと、私は国家を考える事に直結していくように思う。人間はおそらく、生まれた場所の言語、文化からそう簡単には離れることができないということであり、これは国家の存在意義にも深く関わってくる話である。

 しかし、我が国の若者は以上のことを深くは考えていないようである。以前、新聞社の調査で、20代の女性の5割以上が外国籍と取得したい、あるいは、外国人になりたいと答えたとの調査結果が出ていたようである。これは、どちらかというと戦争のない時代に生まれ育ったからこそ、こういった思考になっているようである。しかし、極端な言い方ではあるが、これは日本国内だけの話であると感じる。これは、グローバルな環境で働きたいと望みながら、国際認識が少々欠如している。なぜなら、アメリカしかり、イギリスしかり、日本人が憧れる多くの国々は、戦争に関わっているのである。それを考えると安易な感覚と言わざるをえない。

 国家はよくフィクションだといわれる。実物がない以上、確かにフィクションだと感じる。この論文の中で記したいのは、フィクションがいるのか、それともいらないのかということである。

 国家の定義についてはいろいろあるが、私は、人が期待している、かつ認めている仕組みだと思う。具体的にいえば、交通事故をした際、人が急病で倒れた際に110番をすれば必ず救急車がくるという仕組みだと思う。多くの人がどれだけ国家を否定しても、国家に多くの人が期待をし、そして、安心感を与えられていることを考えて見れば、必要性はある。こういった生活協同モデルの仕組みが必要とされる限り存在意義はある。

 では、国家を構成するのは誰かという問題がわきあがってくる。普通考えれば、低負担で大きなサービスを得ることができる国家に人が集まるはずである。でも、そうはならない。一国家、一民族というのは理解しづらいが、同じように経験してきた歴史や文化、生活習慣を共有している人たちが自分たちで作っていくものが国家であると考える。21世紀は、対外的な意味での国家形成の時期を迎えていると思う。今一度、足元を固める議論が必要であると感じる。

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仁戸田元氣の論考

Thesis

Genki Nieda

仁戸田元氣

第27期

仁戸田 元氣

にえだ・げんき

福岡県議(福岡市西区)/立憲民主党

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中小企業振興、規制改革、健康と医療

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