論考

Thesis

塾主の人間観を「性悪説」から考察する

松下幸之助塾主の人間観を「性善説」の立場に立っているものとしてとらえ、私の人間観である「性悪説」の立場からの考察を試みる。

<はじめに>

 人間は聖書によれば神の創造したアダムとイブによって誕生したと伝えられてきた。そして今日、現代科学を信じる多くの人々は、人間が、猿から、ネズミのような哺乳類から、さらには、単細胞の微生物から進化してきたと知らされている。このような人間観は、19世紀のダーウィンの進化論が契機となり、もたらされている。

 だが20世紀の塾主は、人間の誕生について次のように定義している。

「自然の条件の変化にしたがって、人間だけを発生せしめる条件ができた瞬間、そういうある期間に誕生したわけです」

 つまり人間は猿から進化したのではない、とはっきり述べている。また塾主は、

「人間の本質はつねに弱く愚かなものではない。本来もっとすぐれたものである」
「幸福、繁栄、平和は、過去現在を通じてすべての人間が求め願い続けてきた」

とも考えている。人間は崇高かつ偉大な存在であり、その本性は正邪の分別を見定める素晴らしい力を有しているのであると。ここから塾主の人間観は、原則的に「性善説」の立場であるということがいえる。

 しかし私は、人間は本来「性悪的」なものととらえる一人である。以前松下政経塾への入塾願書のなかで、塾主の考え方についてどう思うかという項目において、私は次のように述べていた。

―――人生90年の経験に基づいたその国家観、経営観など世の中に対する考え方は大いに共鳴する。しかしあえていうならば、
「よく人を得る道とともに、よく人を捨てる道(マキャヴェリ)」
「正直の通用しない現実を生き抜くために、正直の徳も捨てるほかない(韓非子)」
「タテマエとホンネ=日本人の美意識」
人間の欲、猜疑心を尊重した視点との昇華も必要ではないかと思う―――

 また一方で塾主は「素直な心」の重要性を説いているが、「素直な心」の通用しない数々の現実に、私は社会人時代遭遇したこともあった。そこで今回は、「性悪説」の観点から塾主の人間観を考察していきたいと思う。

<なぜ塾主は性善説に至ったのか?>

 まず、はじめに塾主が性善説に至った背景を考えたい。人間には誰しも思考の元となる背景やきっかけが存在するからである。私の場合であれば少年時のいじめや社会人としての職歴がそれであり、塾主であればおおよそ次のように整理できると考える。
・学問を満足にうけることができなかった幼少期
・敗戦によってすべてを失った壮年期
・経済大国を牽引した一人として責任を感じた老年期

(幼少期)

 家庭の事情から小学校を4年で終え、大阪へ丁稚奉公に出ることになり、それ以上学問を続けることができなくなった塾主。しかし私はここで塾主が学問を止めたとは到底思えない。丁稚奉公時代の「幸吉」(塾主はこう呼ばれていた)は、主人やおかみさんからしつけやマナーを学んだ。お使いで出向く先でも、人との接し方、商売のあり方を学んだ。私が知る限り「幸吉」は「素直な心」ですべてを吸収し成長していく。

(壮年期)

 敗戦の翌年、塾主はPHP活動を開始する。「素直な心になりませう」、明日食べていくことさえ困難な時代にあって、空腹を満たすことと同時に心を満たすことの重要性を説いたのである。私はその遠因を昭和8年(1933)以降制定した「松下電器の遵奉すべき7精神」に遡ることができると考える。以下に参考までに挙げておく。

「産業報国の精神」
「公明正大の精神」
「和親一致の精神」
「力闘向上の精神」
「順応同化の精神」
「感謝報恩の精神」
「礼節謙譲の精神」

 塾主は松下電器を創業し、自ら経営者となった。経営者として社員を抱えるようになって、会社を成長させていくために、どうすれば社員に働きがいが生まれるのか、働くことに生きがいを感じるのか、といった素朴な疑問から人間について考えるようになったのではないだろうか。人間の使命とは何か、いいかえれば松下電器の社員の使命とは何か、それがこの7精神なのである。

 また天理教との出会いも見逃すことができない。無償労働に生きがいを感じ、建物を一心不乱に建てている信者を見て、塾主が感嘆するエピソードがある。実に人間は「素直」な存在で、目的や価値を与えられたならば、元来備わる本性を発揮するのだと確信したに違いない。

(老年期)

 戦後の日本は経済大国として世界をリードする立場になりながら、逆に精神面では荒廃していく。その様を見て塾主は憂えた。そして原因を日本の「伝統精神」、日本人なら誰にでも元来備わっているはずの精神の欠如であると考えたのである。

 ここで塾主は、自身の幼少期や壮年期を振り返って、戦前のよき日本人の姿を思い出したのではないかと思う。道で出会えば挨拶をする。ものをもらえばお礼を言う。親のいいつけを守る。そのような基本的な人間の本質を、日本人が失っていることを肌で感じたのだろう。だからこそこれらを取り戻すことに、(またそれは人間に元来備わっているのだから)、解決の糸口を見出したと想像するのである。

 塾主のよりどころとする日本の伝統精神は、江戸の封建社会のなかで完成した「武士道」に代表されるような儒教の影響を強く受けている。儒教の説いた徳治主義はそのまま塾主の徳治国家と結びつく。人間の本性は善であるから、徳によって感化していくことが必要であるとするのは、塾主の政治理念からも読み取ることができる。以上、塾主が性善説へ至ったとする私の考えである。

<性悪説に基づいての考察>

 では性悪説に基づいての考察に移ろう。まず簡単な例として、カーナビゲーション(GPS)の存在を挙げたい。私たちはカーナビゲーションの登場によって非常に便益を得た。日本の各電機メーカーはこぞって高付加価値のカーナビゲーションの開発を行っている。

 だが、カーナビゲーションは軍需産業の副産物であることを私たちは理解しなければならない。軍需産業の是非は別として、戦争の存在が世界を生成発展させてきたことを一方で理解する必要があるということである。人工衛星による天気の正確な予測、宇宙の解明も無視できない。

 ドイツの哲学者ヘーゲル(1770~1831)の言葉を借りれば、あらゆるものは生成すると(正)、それと対立するものがあらわれ(反)、そして両者がより高い立場へと統合される(合)。つまり反の存在も生成発展の要であることは、人間世界の一真理なのである。

(キリスト教の人間観)

 上述のアダムとイブに始まる、キリスト教的人間観は果たして性善なのだろうか。キリスト教の人間観は、最初の人間アダムとイブは、悪や罪を知らない者として創られた。しかし、サタンの誘惑にそそのかされて、罪を犯してしまい、人間に罪が入り込んで、性悪の者になってしまったと教えている。したがって、私たちはアダムとイブの子孫として、罪の性質を持って生まれているのであり、性悪の立場にあるというのがキリスト教の人間観である。聖書には、

「正しい者はいない。一人もいない」(新約聖書:ローマの信徒への手紙3-10)
「人の心は何よりも陰険でそれは直らない」(旧約聖書:エレミヤ書17-9)

とはっきりと性悪説を主張している。確かに人間は誰からも教えられないのに、上手にウソをつくようになる。親のしつけで「ウソをつきなさい」とは誰も教えないであろう。「ウソをついてはいけません」と教えられているはずである。人間の性悪が垣間見える一面である。

(近代西欧の人間観)

 17世紀以降、それまでの絶対王政から市民革命への過渡期にあって、ヨーロッパではさまざまな思想が登場したが、なかでも代表的な2人から性悪説的な人間観を見てみたい。

「国家がない自然状態では、人間は精神と肉体両面において、誰しも平等にできていることになる。したがって、複数の人間が共通のものを欲し、しかもそれを全員が享受できない場合、人間は他人を敵と見なし、相手を滅ぼすか屈服させようとする。つまり、万人の万人に対する戦いが起こり、人々の生命が危険にさらされると同時に耐えがたい恐怖が発生する(万人の万人に対する闘争状態)」

『リヴァイアサン』で有名なホッブス(1588~1679)の人間観である。

「人類のなかには元来理性的本能を持つ民族がいる一方で、野蛮的本能を持つ民族がおり、彼らの侵入によって理性的民族の平和で牧歌的な生活は妨害されている」

 『ドイツ国民に告ぐ』で有名なフィヒテ(1762~1824)の人間観である。

(性悪説的人間観の2俊)

 だが性悪説と聞いて、真っ先に思いつくのは韓非(B.C.280?~233)とマキャヴェリ(1469~1527)であろう。「人間の性は本来悪で、これを善に教化するのは不可能で、むだな努力である。人民の良識忠誠に期待せず、彼らを悪人と見て、悪人を手抜かりなく使うことを考えよ」と彼らは訴える。韓非から儒教による徳治主義を批判したくだりを紹介しよう。

「周の文王は仁義に基づいて天下に主たるも、偃王は仁義を行いてその国を失う。これ仁義は古に用いられ、今には用いられざるなり」

 道徳だけでは国は保てない。道徳だけで治めている国は、必ず武力によって滅んでいる。君主は人民への愛で、政治が行えるはずもない。天下の聖人孔子がその仁によって弟子にしたのは70人に過ぎないが、その地の君主哀公は、孔子をはじめとして全国民を支配した。哀公が孔子よりも優れていたのではない。哀公はただ、孔子が持たない力を持っていただけである。

 次はマキャヴェリが、武器なき人格者は滅びると主張したくだりである。

「サボナローラは神父であり、フィレンツェがフランスの侵略を受けた際、支配者に推されて事態を収拾し、庶民のための清潔な政治をすることに貢献した。ところが意外なことに、わずか3年3ヵ月後にその庶民のために火刑に処せられて死んだ。彼を滅ぼした者は、時のローマ教皇アレクサンデル6世であった。彼は人間的には零の人間であるが、サボナローラにないもの、すなわち武力を持っていた。サボナローラは力の戦いに敗れたのである」

 他人のために、他人は善であり、真面目であり、信用すべきである、という性善説の考えだけでは、他人の策により自分が被害にあう。そんな被害にあわないためには、他人はだらしがない、自分の思うようには動かない、信用できない存在である、という考えをも一面で知識に入れておくべきではないだろうか。

 もちろん自己を戒めるためには、性善説で自己を研磨する必要がある。そして他人を見るには、性悪説で判断していく、そうすることにより他人には寛容な態度となり自己に厳しい見方になっていくのではないだろうか。現代の中国古典の聖人である安岡正篤氏も、性悪説の重要性を解いている。性善説だけでは、現実を無視することになる。現実は市場原理に基づく競争世界である。自分が、自分だけが合格するために、自分だけが入社するために、自分だけが進学するために、自分だけが昇進するために努力している。自分がよければという性悪説を無視すれば、現代を生きていけないことになるのである。

<新しい人間観-結びにかえて>

 これまで、私は塾主の「性善説」的人間観を「性悪説」的立場から考察してきたわけであるが、実は塾主の人間観には、次の3つに代表される「性悪説」的な要素も多分に含まれている。

「人も物もすべてをあるがままに容認する。いいかえれば、いかなるものでもその存在を否定したり排除しないということです」 (cf.泥棒にも三分の理)
「人間の欲望を適切に満たしつつ、これをコントロールしていくことが政治の要諦であります」
「対立しつつ調和することは可能である」 (cf.矛盾は存在する)

 つまりここからコペルニクス的転回をすれば、塾主の性善説の立場でも性悪説の立場でもない、まさに「新しい人間観」への到達が可能になるのである。

 性善説と性悪説。この2つで割り切れるほど、塾主の人間観は一面的なものではないということである。だからこそ私も性悪説的な立場からの人間観にとらわれず、先の安岡正篤氏の言葉を借りれば、より多面的に、より根本的に、これからも塾主の人間観を追い続け、「人間とは何か」、「人間の本質」に想いを巡らせたい。塾主が終生「新しい人間観」を追い続けたように。

(参考文献)
松下幸之助 『人間を考える』 PHP文庫
金森誠也 『西洋の哲学・思想がよくわかる本』 PHP文庫
マキャヴェリ 『君主論』 岩波文庫
大橋武夫 『戦いの原則』 PHP文庫
日本聖書教会 『聖書』

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井桁幹人の論考

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Mikito Igeta

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第27期

井桁 幹人

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