論考

Thesis

ザ・うつぐみ国家

「国家とは何か?」「え?何だっけ?」どんどんわかりづらくなる国家の姿を、虚心坦懐に根本から見つめなおした兼頭塾生、渾身の一作。

 今回は、小生の国家観について述べる。

 「さあ、見ておけ。なんともユニークでビッグな国家像をぶち上げてやる。」と思って、立ちどまってしまった。ええそう、のっけから。いきなり。それはつまり、こうだ。「待てよ、国家って何だろう?」

 いや、もちろん、いくら小生でも、世界が沢山の国で出来ていることくらいは35年も生きていれば大体わかる。自分が「日本国」って国に生まれ、「日本国籍」ってやつを持っていて、「日本人」ってカテゴライズされているってのも、ほぼ間違いない。「ほぼ」っていうのは、時々「それはうそだ!」と疑うやつがいるもんだから、一回言われたくらいなら笑って済ますけど、それが重なると「あれ、ひょっとしたら違うのかな。」と自分でも半信半疑になるのだ。でもそういうときは、たいがい「お前は、宇宙人だ。」とか「お前はサルだ。」とか「サルとイヌのあいのこだ。」となるケースが多いから、さすがに「まさかそんな。だってサルとイヌは仲が悪いじゃないか・・」と気を取り直すのだが、それでも戸籍に自分の名前があったかどうか、もう一度確かめたくなる。たった紙っぺら一枚だというのに。

 そう。戸籍などというものはただの紙っぺら一枚にすぎない。「こんな紙っぺら一枚が、俺が日本人であることの証しか?」「俺は、この紙っぺらで国家とつながっているだけなのか?」「だとしたら国家って俺の何なんだ? ええ? 国家よ、お前は一体全体何者なんだい?」とこうなってくるわけである。

 悩んだら止まらない小生は、つい先日も、家内の実家で4歳になる義理の甥Tと一緒に風呂に入っている時に、「なあT。コッカって何か知ってるか?」と尋ねてしまった。するとT氏は湯船をじゃばじゃば掻きながら、おもむろに唄いだした。
 「コッカコーラを飲もうよ。みんなで楽しくコカコーラ。」 「・・・。」

 なんともスカッとさわやかな回答である。戦後アメリカのもたらした商業主義とグローバリズムはこんなところまで蝕んでいたかと衝撃を受ける一方で、小生は一つの真理を得た。

 つまり、4歳の子供にとって「国家」は知らなくても生きていける、という事実である。

 「だから何だ?」と言われてしまったら、いつもなら「いえ、特に何でも・・」と団子虫のように萎縮してしまうところだが、今日の小生はいつもの小生とは違う。上記事実の意味するところについて今少し皆で考えたい。すなわちこういうことだ。「4歳の子供」つまり「社会に参画していない」いわば「動物として」の「生身のまま」の人間にとっては、「国家」はあってもなくても同じ、なのである。いや、まあ、うちの甥も保育園に通ったり、近所の奥様方に「お宅のお坊ちゃまは、おほほ・・」とか言われたりしながら、社会と関わって生き始めているから厳密に言うと動物のままではないのだが、そこのところは見逃して頂くとして、とにかく、そこに小生は気づいた。「そんなの当たり前じゃん。」と言われてしまえばそれまでなのだが、文明の進化のポイントは、ニュートンのリンゴに象徴されるように、当たり前だと思っているところに意外と隠されているものだから、そうプリプリしないで、もう少し掘り下げてみようではないか。

 繰り返すが、動物として生きていくのであれば、国家は必要ない。「野生の王国」というテレビの動物番組がかつてあったけれども、実際に動物が国をつくったり、動物に国籍を尋ねたりしているのを小生は見たことがない。もっといえば、人類とて、かつては国家などもたずにやっておったはずではないのか。

 では、なぜ国家が必要になったのか? おそらく、人間が社会的動物として社会を形成していくにあたり、国家という形態をとることが非常に有益だったに違いない。

 では、国家は人類に何をもたらすために存在するのか?
 そもそも国家と呼ばれるものはみな同じ、目的、性質のものなのか?
 これから国家はどのような役割を担っていくべきなのか?

 国家というものの実態を暴き、自らの中に明確に規定しなければ、小生はこの先の人生において、あるべき社会像などというものを語ることなぞ到底できやしないものだと、なにやら気が焦るばかりである。やはり、ここは幸之助塾主の教えに従い衆知を集めるしかない。

 「なあ、親父、国家とはなんやろ?」「なんやそんなことも知らんのか?」「おおっ!親父、知っとるんか!」「あたりまえよ。ええか、コッカはなあ・・」「(息を呑む)ん、うん・・・」「コッカら、ここまでや!」
絶句である。

 「なあ、嫁はん。国家はどうあるべきや思う?」「カッコいい国家。」「おっ、なんやちょっと、安部総理の『美しい国』みたいやぞ、ええ感じになってきた。どういう意味?」「あのね、上から読んでも下から読んでも『カッコいい国家』!」

 ほうほう、なるほど。っておい! 誰もうまいこと回文作ってくれとは頼んでないのである。うちの家族は、なぜ、揃いも揃ってこうなのか? 衆知を集めること志半ばにして挫折を味わった小生は、幸之助塾主の別の教え、自らの力で自らの足で歩くという「自主自立」の言葉を思い出した。

 国家が形成された過程をもう一度自分なりに考えてみよう。

 人類の歴史が始まって、農耕という余剰を生む手段を発明し、その結果都市文明を生み出し、さらには都市が共通の利害意識を有し、一つの社会共同体としてのシステムを構築するに至るのは、それ程遠い昔の話ではない。まだ1万年にも満たず、当然我々の寿命を考えたらずいぶん長い間そのような状態にあるように思えるのだが、46億年の地球の歴史に比べれば、一瞬の出来事だし、人間が二本足で立って、言葉をしゃべるようになってから数えても、何万年と経ってやっとのことなのだから、割と最近、と表現しても、それほど責められることではあるまい。農耕の発達する以前の漁撈・狩猟・採集の経済では、食糧の備蓄がほぼ出来ないに等しい。それでは社会の分業があまり発達しないし、富の格差もほとんどないであろうから、集団であっても、平等な個の集合体。共同体と呼ぶことはできるとしても、「国家」と呼べるものではないようだ。「国家」をまだ明確に規定できないまま、それが「国家」ではないと言い切るのは少々気が引けるが、それにしても、機能的にも、性質的にも、スケールとしても、国家と呼ぶにはどうも違和感を覚えるのは小生だけではないはずだ。

 では、どうなったら国家なのか?

 やはり、食糧を蓄え、余剰分を別のものと交換する交換経済が興って、それにより、食糧生産者と他の役割を果たす者とが機能的に分かれるという社会的分業が起こり、と同時に、それまでの移住生活から、農耕に適した肥沃な土地を中心に定住生活へと移行し、農耕従事者とそれを取り巻く他の機能分担者による村落と都市という、より固定的な共同体が生まれてきてからであろう。前の時代と明らかに違うのは、農耕・定住を始めたがために、農耕に適した土地と、蓄積した食糧、さらにその余剰食糧によって引き換えられる交換物、つまり余剰生産によって生み出された富とその資源という、守り受け継ぐべき財産が生じてきたことだ。また、定住により、共同体の構成員はメンツも固定化した。

 このような固定化した村落・都市共同体が、そこここに増えていったと考える。でも、「そこ」と「ここ」では、ずいぶん環境が違ったりする。「あっちの村は、米さがとってもよく採れるみてえだが、どうもこっちは少ねえなあ。でも、待てよ。うちにはあっちより力自慢の男どもがいっぺえいるな。いっちょ、男ども率いて、あの土地さ、分捕ってやっぺか。」みたいな話にどうしてもなっちゃうと思うのだ。となると、「おらが村、おらが町を、みんな力合わせて守るべえ!」といった共同防衛意識も生まれるし、逆に「いい土地は、みんなおらたちのもんにすっぺ!」といった征服意欲もわいてくるという寸法だ。今の感覚だと「なんとも自分勝手なやつらだ、俺たちの先祖は・・」と思えるかもしれないが、しかし、そう片付けてしまうにはあまりに悲壮感が漂う。現代でも、人間という動物は、他の動物に比べて、どうも知らない他人に冷たく、反面、内向きには仲間意識を持つものの変化を嫌う傾向にあるように思えるのは、どうもこの固定的共同体の形成過程における、共同体同士のやるかやられるかという緊張感の中にあるんじゃないかと思ったりする。そんな、外向きに身勝手で、内向きに保守固陋な社会共同体同士の争いは、あるものが別のものを吸収したり殲滅したりしながら、規模を拡大し、また大きくなりすぎて分裂したりしながら、先史、古代、中世と経て近代にいたり、これが、世界規模の争いにまで発展して、争いの熾烈さを増しながら、現代にまで達している。

 現代は、争いが見えにくい。資源やエネルギー、食糧、さらには労働市場や商品市場をめぐって、水面下で火花を散らす。しかも主体は、国家とは限らない。企業の場合もあるし、投資家の場合もある。目に見える武力紛争にしても、民族・宗教などさまざまな要因を背景に、もはや紛争の常識であった国家間の利害衝突という固定観念を打ち砕くものとなっている。

 でも考えようによっては、国家を、共通する利害意識を有し、利益の伸張と損害に対する共同防衛をその活動の目的とする社会共同体と規定するならば、現代においては、そういった企業や宗教組織が、むしろ国家の本来的な役割を担っているんじゃないかとも思えてくる。そこまでくると、「じゃあ、今の国家は何なんだ。いらないじゃないか。」ってことになるが、でも、国家がなくなって、地理的な境界もない企業や宗教組織やその他の共同体だけで世界が成り立つのか、と考えると、そうでもないように思える。

 要するに国家の役割というのは、構成員共通の利益の拡張と損害に対する共同防衛だけではないのではないかと思うのだ。

 そこで、国家の別の側面について、もう一度考えてみたい。
思えば、共同体の利益を高め、損失を抑える活動は、なにも外部者の侵入を防いだり、あるいは外部に侵出していくことだけではない。

 たとえば、国家の基礎が農耕にあったとするならば(いや別に牧畜でもいいのだが)、より農業生産性を向上させる知恵や品種や道具の改良・開発技術、あるいは農耕者を悩ます日照りや大雨、冷害など天候の動きを予測したり対策を練ったりする知恵などは、共同体を富ませ、その構成員の生活を向上させる。これは明らかに共同体の利益を高める行為である。原始国家において、呪術的な能力を持ち合わせた者がその国家を支配することがしばしば見られたのも、気象・天文学の未発達な時代において、荒ぶる神の怒りを沈め、自然災害から身を守り、また雨の恵みに預かって豊かな実りを得るための合理的な帰結であったろう。また、名執政家と呼ばれる先人たちの遺した事跡の中には、灌漑・用水・干拓など農業生産を高めるための事業が数多くある。もちろん、近代以降の殖産興業や戦後日本の官主導による高度経済成長などの経済・産業政策などもその延長上にあるといってよいだろう。

 もちろん富を肥やすことだけが国家の利益ではない。たとえば、平穏を濫すのは何も外敵だけとは限らない。共同体に社会的分業が加わってくると、共同体の中にも利害の衝突を生んだり、あるいは前述のように共同体を支配したり指導したりする役割の者が現れると、当然それに反発する作用も生じたりするわけだ。それをうまく防いだり、諌めたり、利害調整したりという技術も、国家の安定を保ち、利益に資する機能である。さらには、天災や凶作や疫病が重なると、人心は頽廃し、風紀・治安がみだれ、人々は不安におびえる。貧困救済などの実際的な福祉機能もさることながら、人々の心を導き、知恵と勇気と希望を与えるような教育・善導も国家の利益に大いに資する機能であると思われる。

 つまり共同体の外に対してではなく、内部を安定し、体質を改善・向上させていくこと、すなわち外交・軍事に対する内政である。
もっとも外向きにしたって、なにも食うか食われるかって行き方だけではない。お互いに協力し合って共通の敵から身を守りましょうとか、交易して補い合って共に繁栄しましょう、ってことも実際に国家単位で出来る話だし、実際にそうやって来た。

 そして、共同体の外に対しても内に対しても利益(経済的なという意味だけでなく)を高めることのできる指導者が、治世者として国家の分業体制の中で政治という役割を担ってきたのである。

 以上、ざっと国家の成り立ちから考えて、国家の担ってきた役割を考察してきたわけであるが、これらすべてが、国家という枠組みによって施される必要はないし、今後益々他の枠組みが担えるし、担わざるを得ない可能性が高まってくる。たとえば経済におけるEUや軍事におけるNATOのような国家同士の共同体という、国家がありつつその上に覆い被さる構造も考えられるし、他方で、国家がありつつ今まで国家の担ってきた機能を部分的に自治体や民間企業へ移していくという「官から民へ」「中央から地方へ」のシフトの流れは周知の通りである。行政機能の多元化・多重化は益々広がっていくのである。

 でも、そうなればなるほど、「国家」の依拠する所以はおぼつかなくなる。通貨も関税も軍事も国家単位ではない時代だ。「小さな政府」の代名詞である「夜警国家」の機能ですら、国家が担わないことだってありうるのだ。世界を複数の機能的レイヤーの積み重なる構造と見るならば、かつては地方自治体と国家、よくて国家同士の共同体という単純かつ機能的にも明快だったものが、多層化すると同時に、機能が明確に分かれるものでなく、複雑に入り組んできている。お菓子にたとえるなら、イチゴショートがミルクレープみたいなパイ生地の複雑に折り重なったケーキに取って替わられたようなものだ。もはや世界というレイヤー構造を見た場合、何枚目のレイヤーが国家とは言い切れないし、世界共同体の何層目かの自治的枠組みをたまたま国家と呼ぶ、という状況ができつつあるのではないだろうか。そのことの不思議さ、末恐ろしさのようなものを皆さんは感じ取られないだろうか。小生はそれを感じるのだ。いや、決してその傾向が駄目だというわけではない。つまり国家がいろんな機能を切り売りしたり、M&A宜しくくっつけたりすることについて言うならば、一長一短はあるだろうが、いろいろ意見ぶつけ合って、トライしてみるのがいい。それが人類の進化の過程だ。また、それでも国家は国家で残すのだという判断についても、過渡的かもしれないが、少なくとも今の日本について言うならば、外交・安全保障をはじめ、日本国単位でまとまる機能は、結構あるだから、充分合理性がありそうである。

 小生が珍妙かつ少々不安に思えるのは、小生がまさに今、悶絶・格闘している「国家とは何か」という問題、「今、国家が果たすべき役割は何なのか」という根本的命題を、誰も(とあえて大袈裟にいうのだが)正面から向き合わず、とりあえず慣例に従ってみたり、とりあえず世界のトレンドに迎合してみたりということになってはしないかという点である。膨大な赤字財政も、叫ばれ始めて久しい教育の荒廃も、みな「国家」についての根本的考察にかけているからではなかろうか。本来、果たすべき役割があるのに、見失ってか、見てみぬふりか知らないが、やらでもがな機能をどんどんふやし、機能のための機能でがんじがらめになっているような気がしてならない。

 小生は、決して「小さな政府」論を展開しているわけではない。小生には、今の日本国家の有り様が、どうもしっかり地面に立っていない、目先のことにとらわれて、振り回されて、どこへ行くともなく、自分が誰かともわからず、よたよたとよたついているように思えるのだ。

 では、今の国家が果たすべき役割とは何であろうか?

 小生のこれまでの思考過程において、経済的利益を向上させたり、軍事的脅威や災害から守ったりすることももちろん必要なことではあるが、どうも今の時代においては、それらの役割が国家の国家たる所以とは言い切れないどこか歯切れの悪さを感じている、ということは皆様にも感じ取っていただけたかと思う。

 国家の役割のひとつが、共同体の安定、平和の構築にあるならば、今、少なくともこの日本国家がそういう状況にあるだろうか?
小生の答えは断然NOだ。NO、NO、NO、NO、NOだ。

 「でも、日本は、北朝鮮に核実験されても、中韓と喧嘩しても、目下戦争に巻き込まれてはいないし、失われた10年はあったけど、いまだGDP世界第2位の経済大国だし、平和で安定してるじゃないの、何を贅沢言ってんの。」というご意見もあるだろう。しかし、にもかかわらず、いやむしろ経済的に豊かになればなるほど、差し迫る生命の危険が希薄であればあるほど、日本の国民の不安は増大しているように思える。

 その不安は、明日食べるものがないとか、殺されるかもしれない、とかいう性質のものであれば、まだよかったかもしれない。今皆が感じている不安は、茫漠として形が見えないのだ。見えない不安に苛まれる事にさらに怯えるというスパイラルに陥っている、と言えはしないだろうか?

 今、国家に求められるのは、この茫漠とした鵺の嘶きのような不安を、とりさることであり、そのとりさった心の器を希望でみたすことにあるような気がする。

 その不安はどこから来るのか?

 決して、北朝鮮の暴発に対する危機感でも、中国の経済台頭でもないはずだ。貧しく、モノがなかった時代から、懸命に生活を便利にモノで充たすために日本人は走り続けてきたが、ある日ふと、自分たちは必要以上にモノに充たされていて、でも心は、いくらモノで充たそうとしても充たされないのだ、ということに気づく。この空虚さは何なのか。この先、自分たちはどこへ向かえばよいのか。見えない不安に襲われることになる。

 では、その不安をどうやってとりさるのか?

 心をモノで充たそうとして失敗し、不安が訪れるのだとすれば、別のもので充たせばよい。それは生きる希望であり、生きていることに対する感謝であり、生命に対する感動であろう。

 どうすれば、それが得られるのか?

 これは、国家を含む社会が、利益を生むために合理性ばかりを重視したことの弊害を考えなくてはならない。合理性、目に見える機能性といってもよい。目に見えること、頭で考えること、あるいは本から得られる知識などである。世の中は、合理性と、情報と知識であふれすぎた。

 感じることが少なくなりすぎたのだ。暑い、寒い、痛い、悲しい、嬉しい・・・。感じることが出来なければ、感動も、感謝も、思いやりも生まれはしないのだ。

 では、どうすれば感じられる社会になるのだろうか?

 人と触れ合い、自然と触れ合うことであろう。人が一人では生きてはいないし、生きてもいけないことを思い、感じることである。小生も家内がいなければろくに飯も食えない・・・。

 かつては、感じられる社会があった。貧しいゆえの成り行きかも知れぬが、人との触れ合い、自然との触れ合いがそこら中にあったのだ。だから、昔と今とを比べて、どっちが心が豊かかなんてことはわからない、のである。

 では、(この幾度とない「では」の連続の、最後の「では」となろうが、)国家はそのために何をするべきであろうか?

 人と触れ合い、自然と触れ合い、感じることの重要性を認識することは、もちろん大前提だが、それを認識し説くだけでは、国家の役割とはいえまい。もちろん、教育という機能によって、人々の心にその苗を植えていくことは、最重要項目の一つといってよいほど大事なことだが、やはり、合理性偏重、経済偏重、物質文明の絶対視の弊害を強く認識し、反省のもとにたって、政治、経済、福祉などあらゆる社会システムを根本から設計しなおしていくことが必要だと考える。

 小生は、これを共生と共助にもとづく「うつぐみ国家」の建設と呼ぶ。「うつぐみ」とは聞きなれない言葉であろうが、日本の最南端・八重山諸島の言葉で共助の精神を指す。「うつぐみ国家」建設は、今まさに、小生の人生における重要命題として、行く末に横たわったわけである。「うつぐみ国家」の具体的な形については稿を新たにしたいと思うが、小生は、今後、ない知恵をほじくり出してこの実現に立ち向かわねばなるまい。

 目下、衆知募集中である。(ただし小生の親族をのぞく。)

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兼頭一司の論考

Thesis

Kazushi Kaneto

兼頭一司

第26期

兼頭 一司

かねとう・かずし

株式会社空と海 代表取締役/海賊の学校 キャプテン

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