論考

Thesis

「命知」と「致良知」 ~新しい人間観と陽明学の共通点~

塾での学び、経験をどのような「実践」の形にもっていくかは、塾生の抱える大きなテーマであろう。いや、むしろ問題意識が本物ならば、「実践」せずにはおれない、というべきか。最近学ぶようになった、ある東洋の哲学と新しい人間観を比較しつつ、人間とは何か、実践とは何か、人間観レポートの締めくくりとして考えてみたい。

1 はじめに~陽明学とは~

(1)陽明学との邂逅

 本稿を書くにあたってまず、述べなければならないのは、何故に私が「陽明学」に興味を致したか、ということである。
一言で言うならば陽明学が「行動の哲学」であるからである。というよりは、人間が物事を考え、行動に至る心の作用を明解にしているからである。

 陽明学は「知行合一」をモットーとする。「良知」に達すれば直ちにこれを実行に移す行動重視の思想である。

 塾生として、研修・研究してきたものを「実践」に移さなければ、政経塾において研修してきた意味は薄れてしまう、と考えていた私にとっては、この行動の哲学は、ひとかたならぬ魅力があった。

(2)陽明学について

 陽明学は朱子学とならぶ儒学の一大学派である。朱子学が「窮理」を目指した学問であるのに対して、陽明学は「窮心」、すなわち、心の奥底を探求する学問といえよう。

 「およそ一物上に一理あり。須く是れその理を窮地すべし」とは朱子の言である。朱子学は、全ての事物には「理」があり、鳥が飛ぶのも、魚が泳ぐのも、そこにはそれぞれ理があるはずである、とする。つまり、この世のありとあらゆる存在の中に共通した絶対的なルールとしての「理」があるとする。

 これに対して、陽明学は、より直接的に「天理」を掴もうとする。陽明学的にいえば、この「天理」が「良知」である。宇宙の根源に感応する心の状態とでもいえようか。禅でいう悟りである。ただし、禅ではひたすら座禅することによって悟りを開く方法をとるが、王陽明は事情錬磨、すなわち、その人間の生き様を通じて「良知」をつかむ、すなわち「致良知」になるとするのである。

 両者の違いが鮮明になるのは「大学」にある「格物致知」という言葉の解釈においてである。朱子学のほうでは「知を致(きわ)むるは物に格(いた)るに在り」すなわち「正しい知、真知をもつということは、つまり事物の真実・真相に到達することである」と考える。さらには、「格物致知」を手に入れるためには「居敬窮理」の姿勢でなければならないと説く。つまり、「理」という絶対の法則に対して、絶対の敬いをもって臨め、とするのである。

 これに対して陽明学では、「知を致(いた)すは物を(ただ)すに在り」と読む。

 宇宙の絶対的なルールである「理」、それは決して、人の心に君臨して、人の心を操作するものではなく、心そのものが「理」であるとするのである。心の思うこと・考えること・感じること。それこそまさに「理」である。だから人は純粋に思うがままに行動すればよい。それだけで「理に合った正しい行動」をとることになる。

 ただ、ここで注意が必要なのは、「思うがまま」とは欲望の赴くままという意味では断じてないということである。

 「人の純粋な心」こそが絶対的な正しさをもつ、これが真理であり、この真理を陽明学では「心即理」という。そして、この「心の理」を「良知」とする。

 この文脈から「格物致知」を考えると「格物」とは「物事の姿を正しくする」の意であり、物事の正しき姿とは、人が素直に「こうあるのが正しい」と感じられる姿、それこそが即「正しき姿」なのである。そして、本当の正しさを見出すこと、すなわち「格物」を実践するためには、自分の「良知」を徹底しなければならないとするのである。

(3) 「致良知」

 では「良知」を徹底するとはどういうことか。それは、自分が本当に良いと思ったこと、本当に正しいと思ったこと、もっとわかりやすくいうと「気分良く納得できる」ことを明確にすることである。他人の言葉にごまかされたり、世間の風潮に流されたり、何となく釈然としないのに「まあこれでいいんだろう」と受け入れてしまうことなく、本当に納得できる「自分の心の判断」を求め続けることである。

 事に臨んで、「本当にこれでよいか、完全に納得がいったか」という心の声こそが「良知」なのである。この「良知」の声にしたがい、「良知」の求める答えを徹底して追求することを「致知」または「致良知」という。

(4)知行合一

 そして、陽明学は、全ての人間にこの「良知」が本来備わっていることを認めるのである。人は本質として「良知」を備えた存在であり、誰しもが「良知」に素直になる努力を積めば、物事の本当の正しさを見いだすことができる。

 そして、心にきめたことを行動に移すことを「知行合一」という。人は、決めたことが、本当に良知に基づくものであるのならば、行動しないでいられぬわけがない、逆をいえば、何かを決めたつもりでも行動しなければ、それは本当は何も決めていないのと同じである、ということである。ここでいう「行動」とは「自分の判断を外に問う」ことである。

 どれほど、出来事についてそれらしい解説を並べ立て、もっともらしい理屈を唱えても、しょせんは「行動を生み出すだけの判断」が生まれていなければ、「本当は何も知らない」のである。

 「致良知」とは、その「良知」を発揮することであり、それを観念の遊戯ではなく、実践するのが「知行合一」であり、陽明学の「行動の哲学」たる所以である。

2 「命知」と「致良知」

 塾主が陽明学を意識していたとは聞いたことがないが、「命知」を自覚する過程が「致良知」に通ずるものがある、と考えることが出来る。

 「命知」とは自らに課せられた真使命を知覚・認識するということだと考えるが、それにまつわるエピソードとしてよく知られているのは、塾主が天理教の本部において、いきいきと奉仕する信徒を見聞した後、教団の経営と電器事業における経営を比較していくうちに、「われわれの事業も、某教の経営も同等に聖なる事業であり、同等になくてはならぬ経営である。私はここまで考えてくると稲妻のごとく頭に走るものがあった」となって、続けて、生産につぐ生産によって、生活物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供するのが使命という「水道哲学」に至る場面であろう。この「稲妻のごとく頭に走る」とは陽明学的な表現でいう「頓悟」に似ている。

 陽明学的に言えば、水道哲学が塾主が達した「致知」であり、それが、実践されたのが二百五十年計画の策定なのだろうし、その後の松下電器の経営なのであろう。

 また、PHP運動についても同様であるように思う。PHP運動を始めたのは昭和21年であるが、敗戦直後の、非常に混乱していたときである。あまつさえ、自身が財閥指定を受け、往々にして楽しまない心境であったとて、不思議ではないはずなのに、

どうして人間が野原にすんでいる獣とか鳥なんかよりそんなに劣った生活をしなくてはならんのか。そんなはずはない。人間は万物の霊長といわれるくらい、すべての点に於いて、すぐれておる。それにもかかわらず、みずから招いて貧乏している。栄養失調に陥っている。これはおかしい。

と考えたわけである。これも一つの「致知」であろう。そして、そう考えただけにとどまらず、PHP運動をはじめたのは「知行合一」といえる。

 誤解のないように言っておくと、私は、「塾主が陽明学徒である」などというつもりは毛頭ない。陽明学であれ、塾主の行き方・考え方であれ、単なる学問ではないのである。おそらくは、そこに通底するのは「人の道」である。その人の道を表現したものの一方が、陽明学であり、一方が塾主の考え方なのであろう。

 また、「良知」というものが本来、人間に備わっているという考え方にも、陽明学と新しい人間観に共通点を見いだすこともできる。

 安岡正篤先生の『王陽明』に拠れば、

「良知」という語は、良能とともに、『孟子』によってあまねく知られた言葉である。「孟子曰く、人の学ばずして而して、能くする所の者は、その良能なり。慮らずして而して知る者はその良知なり。孩提の童もその親を愛するを知らざるなきなり。その長ずるに及んでや、その兄を敬するを知らざるなきなり」(『孟子』尽心章上)から採られています。「良知」という言葉は人間の優れた知能知覚のことと考えられやすいのですが、そうではなく、「良」はア・プリオリ、つまり先天的に備わっているという意味であります。先天的に備わっておるところの実に意義深い知能、それを「良知良能」という。「良知」というものは天然自然に備わっている働きという意味で、それ故に根源的・本能的・究竟的であります。

 とあり、一方、「新しい人間観」に拠れば、

 宇宙に存在するすべてのものは、つねに生成し、たえず発展する。
万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である。
 人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。
 人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。
 かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である。
 この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、その支配者となる。すなわち人間は、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする。

 とある。「人間」というものを考える際、どうしても、個々の人間の心の動きや価値観というものに考えが奪われがちである。もちろん、それとて必要なことであろう。しかし、「新しい人間観」の「新しい」たる所以は、陽明学でいう「良知」のごとく、「この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力」を具有している存在として「人間」を捉まえることにあると考える。陽明学では、自分に「良知」があるのであれば、他の人にも同じく「良知」があると考える、ゆえに全ての人間の価値は等しく、自分を大切にするように、他者を大切にしなければならない、と考える。それが「万物一体の仁」である。他者を思いやる「仁」の心は「全ての人間が全ての人間に」向けられなければならない。

 ただ、人間は、自分の良知を発揮しようと思えば、考えておかなければならないことがある。それは、自分の「良知」が本当に「良知」であるか、どうやって確認するのか、ということである。どのような状況、どのような基準で「良知が発揮できた」「致良知」に至ったと判断できるのか。簡単にいえば、自分でそう自覚したときである。すなわち、徹底した主観主義である。「自分で自分を信じる姿勢」に何の疑いもなく徹することができたときに「致良知」に至ったといえるのである。

 塾主が水道哲学に思い至ったとき、その哲学を客観的に、論理的に説明することは恐らくできなかったのではあるまいか。しかし、「電化製品を水道の水のように、無尽蔵に安価に生産し、供給することがわが使命である」と寝ても覚めても考えていたに違いない。

 ビジョンにも二種類あって、一つは情報を収集し、分析して、インテリジェンスを元にして、現在の延長はどうなるかを推定して、「何年後にはこれくらいになりたい」という意味のビジョンである。ところが、それとは全く別の次元で「それが可能だという根拠はないけれど、ともかくこういうようにしたい」というビジョンもある。それが単なる大風呂敷か、真のビジョンかを分かつものが、それは他者を思いやる「仁」の心に貫かれているかどうかではないだろうか。

おわりに

 さいごに、陽明学の開祖である王陽明が、賊の討伐に任じ、抜群の功績を上げながら、皇帝側近の許泰、張忠らの讒言により、謀反の疑いをかけられたが、そのときの軍旅の途中で賦した「啾啾吟」を紹介しておきたい。

知者不惑仁不憂  知者は惑わず 仁[者]は憂えず
君胡戚々眉双愁 君なんぞ戚々として眉ふたつながら愁う
信歩行来皆坦道 歩に信せて行き来す 皆な坦道
憑天判下非人謀 天に憑りて判下る 人の謀るに非ず
用之則行舎則休 之を用ふれば則ち行ひ 舎つれば即ち休す
此身浩蕩浮虚舟 この身 浩蕩に虚舟を浮かぶ
丈夫落々掀天地 丈夫落々 天地をあぐ
豈顧束縛如窮囚 あに束縛を顧みて 窮囚の如くならんや
千金之珠弾鳥雀 千金の珠 鳥雀を弾たんや
掘土何煩用钃鏤 土を掘るに 何ぞしょくる[の剣]を用ふるを煩わさむ
君不見東家老翁防虎患 君見ずや 東家の老翁 虎の患ひを防ぐも
虎夜入室銜其頭 虎 夜 室に入りて其の頭をかむ
西家児童不識虎 西家の児童 虎を識らず
執竿駆虎如駆牛 竿を執りて虎を駆ること 牛を駆るが如し
痴人懲噎遂廃食 痴人は噎びに懲りて 遂に食を廃し
愚者畏溺先自投 愚者は溺るるを畏れて 先ず自ら投ず
人生達命自灑落 人生 命に達すれば 自ずから灑落
憂讒避毀徒啾啾 讒を憂へ 毀を避け 徒に啾啾せむや

知者は道理が明らかだから迷わない。仁者は道理に従い、私欲がなく、その処に安んずるから心配することはない。
君はなぜ眉をひそめて、こせこせとびくついているのか。
歩みに任せて往き来していわば道は平坦である。
天によって判かれれば、人の思惑だけで決められるものではない。
「自分を認めて用いてくれるものがあれば、出て行って道を天下に行い、世の中から見捨てられたなら、道を胸の中におさめて、身を休めて、自らを養っておればよい」と孔子も言っているではないか。
思えば大海原に人気のない舟が漂っているようなものだ。
丈夫は天地を持ち上げるほどの度量を持っているではないか。
牢の囚人のようにしていることはないだろう。
雀に千金する弾を使う必要はないだろう。
土を掘るには鐲鏤の名剣を使用しなくて良い。
東家のおじいさん虎の害を防ごうとしたのに、
虎が夜中に室に入りおじいさんの頭をかんだ。
西家の子供は虎の恐ろしさを知らず、
竹竿で牛を追うように虎を追っている。
愚人は食事がのどにつかえたので食を止めた。
また人の溺死をみて人は皆こうなると身を投げた。
天命を知るに到っては、こだわりなく生きられるものだ。
讒言に憂えたり、そしりを避けて嘆き悲しんでいられようか。

 自らの「天命」は、これこそ「わが天命」と確信し、自らのなすことは「万物一体の仁」に貫かれていれば、何を言われようと、どんなに非難されようと、嘆き悲しむことはない。恐らく、塾主も到達したであろうこの境地に、私も到達できるであろうか。

<参考文献>

松下幸之助著『人間を考える』PHP文庫
安岡正篤著『王陽明』PHP文庫
岡田武彦著『王陽明抜本塞源論』明徳出版社
長尾 剛著『陽明学がわかる本』PHP研究書

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日下部晃志の論考

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Koji Kusakabe

日下部晃志

第25期

日下部 晃志

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(公財)松下幸之助記念志財団 松下政経塾 研修局 人財開発部部長

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