論考

Thesis

石橋湛山 ~日本の良心を守った歴史

戦前、ジャーナリストとして、戦後は政治家として、私心を顧みることなく、純粋に国家の前途を思って行動し続けた石橋湛山の生涯と、その言説に対する考察を通して、湛山が日本に残した財産の意義を考える。

 「小日本主義」という言葉がある。

 周知のとおり、石橋湛山が戦前、戦中を通じて終始一貫して唱えたものである。この言葉を湛山が最初に用いたのは、若き石橋湛山が、まだ「東洋経済新報」の切れ者経済評論者ではなく、同じ東洋経済新報社の評論雑誌「東洋時論」の記者として活動していた大正元年、英国の二大政党における大英国主義(保守党)と小英国主義(自由党)になぞらえて、日本の軍備拡張、植民地経営の拡充など、帝国主義的政策方針を批判してのものであると思われる。

 この最初の言説の内容は、実際には荒削りな感があり、後年の舌鋒の鋭さ、完璧なまでの論理構成といった特徴は見られない。しかしながら、それだけに若々しく、なおかつ後の湛山につながる視野の広さ、他に惑わされぬ冷静さといったものを有している。

 私は、この「小日本主義」という言葉の響きに惹かれて、石橋湛山に興味を持つわけだが、当初この言葉に抱いたイメージは、日本の拡張政策を、政府も世論も諸手を上げて支持していた中で、一人時流におもねらず持論を唱えるかっこよさ、ある種のロマンチシズムのようなものであったといわねばなるまい。しかもそれは、国家の行く末を案じて、危険を顧みず敢然と政府と世論に立ち向かった、警鐘を鳴らしたというものではなく、どちらかというと馬耳東風、世間が何を言おうとオレはオレ、といったはぐれ雲的行き方への憧憬を含んでいた。そもそもにおいて、この「小日本主義」という言葉自体が、「大きくなくっていいぢゃないか。」といった相田みつを的な(相田氏が言ったかどうかは知らないが)ある種の達観、「足るを知る」という老荘思想的な示唆を含めた言葉のように感じていたのだ。だからこそ、21世紀のこの現代、経済発展、物質文化の拡大のみを追い求めて走ってきて、気がついたら自分を見失っていたこの現代文明に生きる人々にとって、新しい価値観へとパラダイムを変換する大きな導きとなる考えだと、思っていたのである。勝手に、思い込んでいたのでいる。

 ところが、それらの期待の全ては裏切られた。裏切られると同時に、自分の認識の甘さを大いに恥じ入ることとなった。さらには、湛山が、この言説以降歩んでいく道程の激烈さを知り、その覚悟を思うにつけ大いに心を揺さぶられるに到るのである。

 湛山は、決して、はぐれ雲でも、達観論者でも、老荘思想家でもない。時代は、そのような心のゆとりを有していなかった。そんなに生ぬるくはなかったのである。

 今でこそ、スローで、シンプルで、スモールな生き方がもてはやされたり、独自の価値観が重視されたり、異説を唱える変わり者にも注目が集まって、注目浴びたさにわざわざ一風変わった持論を展開するなどということが普通であるが、湛山の生きた時代の空気は、そういったものを受け入れはしなかった。正確には、「小日本主義」の評論を最初に掲載した大正元年当時は、言論統制という意味では、まだ猛威をふるう前の段階ではあったが、しかし、日本の言論はいまだ未成熟であり、多様性という意味においては、圧倒的に乏しく、日露戦争後の拡張志向、欧米列強に伍すだけの軍備の充実が、大日本帝国の国威を高めるものとして圧倒的大勢を占める中で、異端の説を述べることは、単なる変わり者ではなく、帝国の威信を傷つける国賊的な目で見られても仕方の無いことであったはずだ。仮に、変わり者で済んだとしても、湛山自身はそのような耽美主義的ナルチシズムは有さず、当時はまだ若き情熱を大いに内包しつつも、客観的に国の方向性に疑問を持ち、またその方向性の導かれ方に疑問を持ち、自分が言わねばならない、幾千万といえども我行かん、という強い使命感のもと、発して言説であったことを感じるのである。

 しかも、「小日本主義」の内容は、私が感じていたような老荘思想的な理想主義によって立つものでは決してなく、むしろ、どろどろに現実を直視し、いやらしいくらいにソロバンずくで、その結果、どうソロバンをはじいてみても割に合わないのだという、ある意味同時代のどの現実主義者よりも現実的な視点に基づくものであったといえる。

 さらに湛山がこの言説の中で、真に述べたかったのは、「小日本主義」への転換そのものではなく、拡大方針一本やりの、まるでそれしか許さないような言論界の未熟さと危険性、さらに言論の府である帝国議会において、世論をリードすべき政党がこれまた同様に、まるで他の道を断たれたかのように猫党も杓子党も一様に軍備拡張、植民地拡充へと同調しているという議会の議会たるゆえんの機能を失っている異様な現象に対する警鐘ではなかったかと私は感じるようになった。言論の自由を確保し、多様な意見を百出させて、議論を戦わせることこそ、バランスを失うことなく国家を導いていく手段であるのだということを強く言いたかったのではないかと。

 これらの姿勢、国を愛すが故に国の将来を憂い、自分の立場を犠牲にしても激烈なる批判を述べる使命感の強さと自己犠牲の精神、その激烈さの中に、客観的、実際的に国家の利害を計算する緻密さと論理性、さらにそれらの前提として守らんとした「言論の自由」への強い思いは、その後の湛山の言説、ならびに行動に一貫して、否、一貫どころか、もはや悲壮と呼べるほどの激しさを増して受け継がれている。

 時代を前後しながらではあるがその軌跡を追っていくならば、経済評論家として自己を鍛え上げた湛山が政府の方針と世論の流れに真っ向から立ち向かい、警鐘をならし、その警鐘がことごとく黙殺されながらも、警鐘どおりの結末に日本が導かれていった象徴的事例として、金解禁論争があげられる。昭和六年に蔵相井上準之助によって金輸出は解禁され、非常な恐慌の嵐を引き起こすもととなるのだが、湛山は、金解禁が実施されるずっと以前から、金輸出の解禁された後においても、一貫して危険性を警告し続けた。その的確さは、見事というほかない。

 最初に金解禁論の危険性を喝破したのは、まだ金解禁を望む声の大きくなかった大正十三年にまでさかのぼるのだ。このころから湛山は、金解禁論者のみならず、それに反対する立場の論を含め、「金本位制」に対する根本的誤解を指摘している。一般の風潮として、インフレーションによる物価高を嫌い、国内物価の下落が生活の安定と、貿易の均衡を解決する唯一の道で、それを実現する秘策が金解禁であるかのように捉えられていたわけであるが、湛山は、おそるべきは、インフレーションよりも、デフレーションによる、生産収縮と失業であり、購買力平価の視点で考えると、為替を高騰させることは、すなわち円の購買力を急激に下げることであり、すなわち金解禁による通貨収縮が国内物価を押し下げたとしても、相殺されて輸出拡大の効果はのぞめず、結果として上述デフレーションによる不況、失業の問題を招くだけとなる。しかしながら、「金本位制」には為替の安定という効果があるため、この効果を狙って金解禁をはかるのであるならば、購買力平価に近い現時点での為替相場での解禁、すなわち「新平価での金解禁」をすべきであり、政府の考えるような購買力平価とかけ離れた「旧平価(法定平価)での解禁」をするメリットは全くないのだと湛山は主張したのである。(私の稚拙な理解が正しければであるが。)

 この主張の正しさは、先に(大正14年)旧平価で金本位制に復帰したイギリスの失敗(デフレと失業の嵐)によって証明される訳であるが、日本はその絶好のサンプルに学ぼうとはしなかった。そして昭和5年、強行に旧平価での金輸出解禁に踏み切った結果、日本国は大きな痛手を蒙ることになる。注目すべきは、この後2年にわたり世界に大恐慌を巻き起こすきかっけとなるニューヨークの株式大暴落が、この金輸出解禁のほんの二ヶ月前に起こっていたという事実だ。井上蔵相はこれをまったく意に介さなかった。

 この後は泥沼である。半年で準備金に相当する以上の正貨が流出、昭和二年の金融恐慌の原因となった第一次大戦バブルの後遺症(不良債権、不良資産)からいまだ抜け出せていない産業界、金融界は悲鳴を上げた。さらに翌昭和6年には、財政膨張の要因を作り出す満州事変の勃発、イギリスの金本位制の再離脱という事象があるにも関わらず、金本位制はとり続けられた。貿易、外国投資を手がける企業はこぞって、「自己防衛」(為替カバー)のために、「ドル買い」を行ったが、井上蔵相は、その行為を「国賊行為」と非難した。

 この間の経緯を、国を憂い国の将来を案じて、渾身の警告を発し続けた湛山はどういう思いで見届けていただのだろう。おそらく全ての歯を欠いて失うほどの歯噛みであったに違いない。日本は、湛山の描く理想とは、異なる方へ、悪いほうへ悪い方へと転がっていくのである。

 これほど、政治の、政治家の誤った判断が、木を見て森を見ない大局観のなさが、導くべき方向性、ビジョンの欠落が、国を国民を破壊していくような景観がありえるだろうか、と思ったに違いない。

 この判断の誤りは、単なる景気後退、一時の不況などという生やさしいものではなかった。不況のしわ寄せは無産階級に大きく蔓延し、井上蔵相の見当違いな非難に乗じて財界を攻撃し、のみならず、財界の支援を受ける政党へもその矛先は向けられた。政治不信は蔓延し、にもかかわらず、政党政治はなす術を知らず、テロが横行し始めた。この中で、一方では、政府による言論弾圧の強化、他方で政治不信の中、陸軍の政治に対する関与の風潮と、彼らに対する国民の期待、同時に政党政治の弱体化が急速に進行していくのである。いわば、政府の認識、自覚の甘さ、一時の経済の失策が一国の運命すら左右してしまう重大性がこのときほど強く現れたことはかつてなかったのではないだろうか?そのことを湛山はかねてより予測し、予測するのみならず、たえず訴え続けていただけに、その悔しさは想像を絶するものがあったであろう。その湛山の思いとは裏腹に、その後、日本は坂道を転がるようにして、軍国主義化、拡大路線、言論弾圧、戦争、破滅への道を突き進むことになる。

 ここで、戦争の是非を言うつもりは毛頭ない。しかしながら、戦争を回避する道は最早なかったのだという意見には私は疑問を呈さずにはいられない。現に湛山という一言論人が、只中で常に、その時々に応じた方向修正の方策を提示し続けていた。それは所詮不可能であった、とはいえないはずだ。なぜならば、可能性について議論することを時の政治は行っていないからだ。一顧だにしなかった。どころか国民を不安におとしめる言説として弾圧したのである。

 しかし、湛山は決してあきらめなかった。あきらめないどころか、国家が危険な道を歩めば歩むほど、声を大にして、警告を発した。そして、言論が弾圧されればされるほど、弾圧を跳ね除け、かいくぐり、言論の自由の重要性を訴え続けた。湛山の言論の自由に対する訴えは、この時期に始まったわけではなく、湛山のジャーナリストとしての人生の当初から、閥族政治への批判、普通選挙制度実現への訴えなどの形で常に声高に叫ばれてきた。

 言論の自由だけではない。軍部の政治干渉、政党、議会の機能不全、政治家の覚悟の欠落を大いに叩いた。国民の心情が日本の軍国主義化、国際的孤立、拡張政策を容認する風潮の中で、「小日本主義」にますますの磨きをかけて、一人気をはいたのである。

 第一次大戦への参戦、対華二十一カ条要求、シベリア出兵のころより、湛山の「小日本主義」に基づく批判は、美しいほどの論理性と説得力を帯びていた。

 これは、決して単純なヒューマニズムなどに基づくものではない。(ヒューマニズムを否定するわけではない。むしろ、ヒューマニズムを理想主義、空想平和主義として全否定する、昨今の二項対立的な議論の風潮に私は辟易している。) 経済面と国防面の両面から、メリット、デメリットを比較衡量し、なおかつ世界の趨勢を勘案した結果、植民地を持つことの愚かさをずばり指摘したのであった。日本国民が日本の国威高揚と諸手を上げて支持し、植民地を持つことが繁栄の省庁であるかのような風潮の中で、このことを見抜き訴えた湛山の卓見のすばらしさと、大いなる勇気は言うに及ばないが、おどろくべきは、戦時下の言論統制の中で、この政府方針の全否定といってなんら相違ないこの持論を、ますます強調していったのである。

 しかし、この軍国主義化、言論統制下の中での訴えは、命を危険にさらすものであり、とうていヒーロイックな感傷に駆られて出来るものではない。現に多くの「賢明な」批評家は口をつぐんでいたのだ。

 にもかかわらず、湛山は、命を顧みず、信念を貫き通した。その勇気の強固さ、更に私心を捨て国を思う思いの深さは、戦争の只中の東洋経済新報社における社員総会の席での言葉にありありと表れている。

 当時、湛山の弾圧に屈せぬ激烈な政府批判により、同社は当局から徹底的にマークされ、印刷用紙すら政府の統制下にある中で、事業継続の危機にさらされていた。湛山がやめれば、東洋経済を救うという当局の意向がうわさとしてまことしやかに流れる中で、湛山はこう言う。

 「東洋経済は決して単なる商売で雑誌を発行しているのではない。我が誌の目的は、言論に依って国運の興隆に寄与することである」
「故に此の目的に照して欠ける所があると云うなら、如何なる咎めでも我々は喜んで受ける。併し理由なき外部からの要求に倉皇屈従し、迎合するが如きは、如何なる場合に於ても断じて国運の興隆に寄与する行動ではない」
「(倉皇屈従すれば)雑誌の発行はそれに依って便宜を加え得るとするも、東洋経済新報は精神的に滅びるであろう」
「我々は最後の最後まで、国家に対する自己の使命と信ずるところを遂行し、そう上でもし要すれば花と散ろう。それが我が皇国民の勤めである」

 言論人としてこれ以上の使命感、責任感があるだろうか。かといって湛山は、自らの不退転の決意を持って、社員の生活に危険が及ぶことを良しとしなかった。社員のために社の土地建物を売却して生活費用を捻出しようとしていたのである。(幸いそのような結果は招かなかったが)

 湛山の恐るべきは、そこにとどまらない。日本が敗戦へとまっしぐらに突き進む中で、先駆けて、日本の戦後復興について研究を始めた。この時期、愛息を戦場にとられ、失っているにも関わらずである。

 この純粋に国を憂う気持ちは、彼の実際重視の信念にもとづき、その術を、戦後、象牙の塔であったと彼自身が省みるところの言論界から、政策として社会への還元を図るべく政治の道へと彼を転進させた。

 そして、昭和31年12月20日内閣総理大臣に就任する。

 周知のとおり、湛山は、一月後老人性急性肺炎で倒れ、予算審議に出席できないことの責任をとって辞表を提出し、昭和32年2月23日、二ヶ月の短命をもって内閣は総辞職するのである。

 かつて、東洋経済時代に浜口雄幸首相の進退を国難を招くものとして痛烈に批判した彼自身の言行一致や、出処進退の潔さばかりが目立ってしまうこの進退劇であるが、私は、湛山の評論化時代の言動、その姿勢に重ね合わせて、また別のことも思わずにはいられない。

 湛山は、事跡としては、歴史に名を残すことは何もなかったかもしれない。しかしながら、日本人の良心が、政治の信が存在することを(少なくとも存在できることを)、この歴史の中に残したのではないかと思うのである。彼は日本の良心の火を守りぬいたのである。これ以上の功績を求めようとするのであれば、それが何かを私は知りたい。

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兼頭一司の論考

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Kazushi Kaneto

兼頭一司

第26期

兼頭 一司

かねとう・かずし

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