論考

Thesis

敗戦がもたらしたもの~失われた日本の誇り~

本レポートでは、先の戦争、とりわけ日米開戦へ至るまでの経緯を見つめながら、開戦前から勝ち目のない戦いと考えられていたにもかかわらず、なぜに対米開戦という結論に至ったのかを考え、その後の敗戦という結果が現在までの日本のくにのかたちに与えた影響を私なりの視点で記述していく。

1.はじめに

 先の戦争をなんと呼ぶか、これだけで一つのレポートが書けるほどの議論ができるだろう。いかに呼ぶかをいうことだけで先の戦争の捉え方が問われ、また政治的議論に引きずりこまれることとなる。大東亜戦争なのか、太平洋戦争なのか、第二次世界大戦なのか。

 大東亜戦争と呼ぶことで、軍国主義を彷彿させ、右翼的であると指摘されるならば、その呼称は避けることが無難であるかもしれない。なぜならこのレポートでは先の戦争は侵略戦争であったか否か、という無意味な二元論を展開したいがためのレポートではないからである。しかしながら当時の日本がおかれた状況をより実体的にとらえるには、当時の日本政府が呼称として使った大東亜戦争を呼ぶことが的確であると考える。だがあくまでも議論のポイントをそこに置くつもりは毛頭ないので、あえて先の戦争という言葉にて表現を進めていく。

 そしてそれは先の戦争という過去をぼやかすことではない。むしろ私が問題にしたいのは、先の戦争での敗戦がこの日本にもたらしたものは、まだ払拭ができていないということであるのだ。その敗戦によってもたらされたもの、いわゆる戦後という呼び方が正しいのかどうか、現在の日本にまとわりついて離れることなく影響を及ぼし続ける、そのものについて議論をしたいがためであることをご理解いただきたい。

2.対米開戦への経過と終焉

 先の戦争がいかなる戦争であったのか。それを考えるには当時の世界情勢、さらにはそこに至るまでの近代の歴史の流れを考えなくてはならないであろう。本レポートの中心となる日米開戦までを追うのであれば、その半世紀も前の、日露戦争での日米間の確執についての記述を外すことはできない。

 米国は日露戦争時点では極めて親日的であった。多額の日本公債を購入し、日露戦争講和条約締結の際にも、時のアメリカ大統領。セオドア・ルーズベルトの積極的仲介があった。これには米国なりの中国(清国)支配への欲望が背景にあった。そのためにはロシアの力が邪魔であり、日米の利害関係が一致していたのである。しかし日露戦争後、米国の鉄道王、エドワード・ハリマンと日本の間で共同管理を目論んでいた肝心の南満州鉄道は、日本の単独経営の方向に舵が切られた。これによって米国は満州から締め出されることとなり、対日感情にしこりが出来たわけである。その後の中国にまつわる日本の行動に米国が敏感に反応し続けたのはこの時の確執が尾を引いていたといえよう。

 その後、米国は国内において日本人移民の排斥運動を強め、1924年には日本人移民の完全禁止を意図した排日移民法を制定した。これにより相互に国内で相手国への不信感が決定的になった。

 合わせて当時の世界、及び日本国内は慢性的な不況に陥っていた。1920年の第一次世界大戦後恐慌、1923年の関東大震災、1929年の米国株価暴落による世界恐慌。それをうけ列強諸国はブロック経済に突入していく。米国は1930年にホーリー・スムート法を制定し、輸入商品に対して高率関税をかけることとした。これによって日本の製品は次第に世界から締め出されることとなった、こうした閉鎖的経済政策は植民地を持たなかった日本にはボディーブローのように効くこととなる。

 1939年には天津事件によって米国は日米通商条約の破棄を通告。米国は完全に日本に対して敵対の姿勢を明確にした。当時の日本は米国への輸出が輸出額全体の3割以上、輸入が4割以上であり、国内経済への打撃はあまりあるものであった。

 1940年9月27日、日独伊三国同盟成立後には米国は屑鉄の対日全面禁輸を決定し、完全に仮想敵国として日本を捉えるようになった。その後日米間では戦争回避に向けての交渉が続けられたが、相互の不信から進展することはなく、1941年7月の日本による南部仏印への進駐に対し、米国は日本に対する石油の全面輸出禁止を発表し、同時にイギリス・中国・オランダに経済封鎖網、いわゆるABCD包囲網を構築し、日本を追い詰めることとした。当時の日本はアメリカに石油の8割を依存しており、この時点で当時の海軍軍令部総長永野修身は「備蓄石油は1年半で消費しつくす」と発言していた。これによって日本政府内では対米開戦論も出ていたが、天皇陛下の意図を受けた近衛首相は戦争回避に向けての日米交渉を継続していた。1941年9月6日の御前会議において、陸海軍による帝国国策遂行要領は原案どおり通され、10月上旬までに日米交渉が妥結しないときには開戦となる方針が決定された。このときに昭和天皇陛下は日米開戦には反対の意思であったといわれる。

 その後近衛首相は日米開戦回避に向けて駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと通して、コーデル・ハル国務長官との交渉を繰り返した。しかし後にハル国務長官が回想録で語るには、既にこの時点では日米交渉が成立する見込みはなく、アメリカの太平洋正面に対する軍備が整うまで、対日戦突入を先に引き伸ばすだけであったということである。近衛首相は10月上旬を迎えても、9月6日の御前会議の決議を撤回してでも日米交渉を継続すべきだと主張したが、即時開戦派であった東条陸相に御前会議の決定を覆すことの責任を問われ、近衛内閣は10月18日に総辞職し、10月19日には東条内閣が出来た。

 東条首相のもと、1941年11月5日の御前会議にて新たな帝国国策遂行要領が決定された。11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争へ突入するということとなる。連合艦隊司令長官山本五十六は「開戦後1年くらいは暴れてみせるが、そのあとはどうなるかわからない」と悲観論を開陳しており、なにより軍中央部には米国への本土攻撃計画もなかったにもかかわらずである。この悲壮な覚悟はなぜゆえであろうか。

 1941年11月26日、ハル国務長官から平和解決要綱、いわゆるハル・ノートが提示された。この内容は日本軍の南方・中国からの完全撤退、蒋介石政権の承認、日独伊三国同盟の離脱が主であった。これは到底日本が受け入れられる内容ではなく、これがアメリカの最後通牒と認識した日本は、12月1日の御前会議にて正式に対米開戦を決定したのである。

 こうして日米間の歴史を振り返れば、先の戦争の対米開戦が決して真珠湾攻撃という単純な勃発ではなかったということがわかるだろう。帝国主義全盛の当時の時代背景において、極東の有色人種であった日本が世界に伍していく中で、資源を持たない日本が資源を求めて大陸に進出することを列強諸国が決して歓迎しなかったことが伺える。対米開戦については勝ち目がなかったことは当時の状況でも認識をされていた。しかしながら当時の資源に関する抜き差しならぬ状況を考えれば、進むも地獄、退くも地獄。一国の独立と存続を考えるうえで究極の選択であったこともまた事実である。それが先の悲壮な覚悟につながっているといえよう。そしてこれは政府一部の人間だけではなく、報道を通じた国内の熱狂に近い盛り上がりがあったことも付け加えておきたい。

 後に天皇陛下はこのように語っている。

「私がもし開戦の決定に対して拒絶したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない。それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨時が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」

陛下のこの覚悟をして、こうして先の戦争は避けることが困難であったという結論に至るのである。

 対米開戦後の戦史については、ここでは触れることはしない。それは本レポートの視点では書くに余りある内容であるからである。

3.敗戦後

 2度の原子爆弾の投下という屈辱を受けた敗戦後、日本をまさに仕切ったのはダグラス・マッカーサーであった。マッカーサーを語るうえで外すことができないのは、あの昭和天皇陛下との写真であろう。当時の国民にとって衝撃的であり、かつ屈辱的であった写真には、マッカーサーの大きな意図が隠されていた。それは日本をマッカーサーの理想の国に作り変えるというものである。戦時中は現人神であった天皇に対してあのような写真が撮れるということを、彼のいうところの12歳の国、日本の国民達に見せ付けたわけである。戦後の混乱の中で、マッカーサーをこれまでの天皇陛下の代わりと考え、マッカーサー様と拝みたてまつり、親愛の手紙を送るという軽薄な輩が出現したことも事実である。

 マッカーサーは日本を古い封建社会ととらえ、理想の民主主義国家、極東のスイスとなるべく、教育の自由主義、男女平等、労働組合の推進、農地解放、などの政策を次々と展開した。同時にアメリカ文化の普及を徹底し、日本に脈々と続いてきた精神主義を否定した。日本の軍国化、帝国主義の復権をなにより恐れていたからこそ、戦後の日本をアメリカ礼讃の国へと作り変えることを進めていった。非軍事化と民主化によって日本が二度とアメリカに立ち向かうことないようにという狙いがあったのである。

 そして日本の民主化の象徴となったのが日本憲法の制定である。GHQの意向が強く繁栄されたこの憲法においては憲法九条に戦争の放棄が明記される画期的な内容として、当時の世界の注目を受けたと伝えられている。当時の報道には戦後の壊滅的な打撃に嫌気が指していた国民もこの憲法を歓迎したという記述もあれば、当時は極度の食糧難であったため、国民は今に毎日を生き抜くかで精一杯であり、憲法などかえりみる余裕はなかったという記述もある。どちらにせよ、占領下での混乱期を示すものであるといえるだろう。

 さて結果として、マッカーサーはどのような影響を現在の日本に残したのであろうか。戦後民主主義こそがその大きな遺産であるということもいえるだろう。だがそれ以上に私が問題にしたいのは、それまでの日本が維持していた精神性・道徳の完全否定である。物質文明の価値を喧伝し、日本を日本たらしめてきた公という概念、恥の精神、神話、大和魂といった精神性の価値を貶めた。戦後の焼け野原では精神性では腹いっぱいにならなかったのであるから、当たり前と言われれば当たり前なのかもしれない。しかし、戦後に失われた精神性、そして現在に至るまで、そこからもたらされている日本という国家の形のあやふやさ。これこそが戦後60年を超えた今、このくにに問われているものなのである。戦前までの日本を全否定されたこと。その後は経済成長のみを追いかけてきたこと。そして今、現在の日本があるのである。

 歴史の中で脈々と続く国家の意識、日本独自の価値観を断絶してしまったこと、これこそが敗戦がもたらしたものなのだ。連合国の物量に負けた、民主主義に負けた、その反動が経済大国への道であったともいえよう。しかし、その後の60年の間に国家として経済繁栄以上に重要な精神を失ってしまったのである。精神とは伝統から育まれるものである。日本人が日本人である限り、精神性が続くとはまるで限らない。断ち切られた伝統からは、空虚しか生まれないのである。

4.国家とは

 道徳の退廃を示すような事件、その事件の発生自体を疑いたくなるような犯罪、社会生活の中でのモラルの欠如、こうした報道を聞くたび、そして実際に目の当たりにするたびに、一体誰がこんな国にしたのだ、という憤りに駆られる、そうした純粋な良識を持つ方々がまだこの日本には多くおられることを私は知っている。

 その良心の代表として、戦後から25年後に自決を遂げた三島由紀夫をあえて挙げたい。私は日本の戦後が清算しなくてはならないもの、それこそが込められているのがこの檄文であると考える。

「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を糾さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
 政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」

 三島は一体何を歯噛みしていたのか、日本の美しさが踏みにじられたことであるのか、ナショナリズムが解体されたにも関わらず国家が存続していることなのか。なによりもこの日本という国がまるで淫したかのような事態に陥っていることに嘆いたのか。それはこの国に生きる国民一人一人の想像力に掛かっている。その想像力すらも働かなくなった日本人がいることもまた悲しむべき事実でもあるが。

 結局のところ、先の戦争の敗戦がもたらしたもの、それはいわゆる戦後であり、戦後民主主義は日本の伝統精神、価値といったものを断絶させ、復興させることはなかった。先の戦争以降の民主主義が外部からの効力によって成就されたものであること、そしてその戦後民主主義が、マッカーサーから与えられたアメリカ民主主義の理想の模倣に過ぎず、そこに安易な戦後民主主義者が乗っかっていった結果が象徴しているのは戦後教育の荒廃であり、現在の教育の崩壊である。

 結果として国家の共通の価値基準、規範といったものは取り戻されることなく今に至った。この精神の空洞化こそが、現在の日本における諸処の混乱の元凶であると私は考えるのである。今必要なのは、戦後というものを近代日本の歴史の中で相対化し、俯瞰的な視点で日本の歴史を捉え、どんな価値、規範がこの日本という国家・社会の根本に置かれるべきなのかということを議論することである。そのときにはじめて国家という存在について、共同体の意義について、宗教的な伝統について自らの国を定義し、国家としての日本を取り戻すことができるであろう。これによって、心ある人々が感じている現在の日本への違和感を解消することができると私は信じている。

5.おわりに

 ここまで私は先の戦争の敗北がもたらしたもの、それはいわゆる日本の戦後であり、戦後民主主義であり、その存在ゆえに日本が精神の空洞化に陥り、国家としての明確なくにのかたちを打ち出すことができずにここまで経過したと論じてきた。

 無論こうした意見に異を唱える方も多くいるだろう。抽象的かつ感覚的な論であるゆえ理解できないという方もおられるだろう。しかし私は国民の中に同意をされる方もまた多くおられると信じている。いわゆる戦後、そして戦後民主主義になんら問題がなかったのであれば、ではなぜいま、靖国問題に関する論議がこれまでに盛り上がりを見せるのか。それは中国、韓国からの批判にさらされているという一事象だけの結果ではない。

 そしてなぜこれまで堂々と語られることのなかった憲法改正が現実の政治問題として机上に乗ってきたのか。現実との乖離に国民が目をそむけることができなくなったのではないのか。こうした象徴的な事態が指し示すのは日本という国の国家像の欠如であり、ナショナルアイデンティティの漂流である。この漂流は無策無為のままでは決して止まることが無いだろう。

 ここで戦前の政治家であり、東条内閣の打倒に動いて自決に追い込まれた中野正剛の戦時宰相論をここで取り上げたい。

「国は経済によりて滅びず、敗戦によりて滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことによりて滅びるのである」

 国家の再生を指導者が示すことができなければ国家は滅びるというこの言葉は非常に深く、重いものがある。戦後多くの政治家が取り組んできたこの国家の再生こそが、現代の日本が真っ先に取り組まなくてはならない政治課題であると私は考える。

 昨今の構造改革によってバブル崩壊後を乗り越え、真に経済大国となった今こそ、経済至上主義を超えた次の価値を政治が提示していくことが必要であるはずだ。真・善・美という古来日本からの伝統的な価値に沿った国家像を作り上げ、犯罪の多発、教育の崩壊、経済モラルの溶解、様々な問題をはらんだカオス状態の現在の日本と、物心のバランスが取れた美しい日本とを厳然と対峙させなくてはならない。そのためには深遠なる歴史観を携え、高貴なる使命感を持って日本の将来像を描き出すリーダーシップを携えた政治家が求められるのである。

以上

<参考文献>

ジョン・ダワー 「敗北を抱きしめて 上・下」 岩波書店 2004年2月
小熊英二 「民主と愛国」 新曜社 2002年11月
田原総一朗 「日本の戦争」 小学館 2000年11月
河合 敦 「目からウロコの太平洋戦争」 PHP研究所  2002年8月
松本健一 「日本の失敗」 東洋経済新報社 1998年12月
渡部昇一 「ラディカルな日本国家論」 徳間書店 2004年4月
佐伯啓思 「総理の資質となにか」 小学館文庫 2002年6月
堺屋太一 「日本を創った12人」 PHP研究所 2006年2月
佐伯啓思・筒井清忠・中西輝政・吉田和男
「優雅なる衰退の世紀」 文藝春秋 2000年1月

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