論考

Thesis

日露戦争と日本の自画像

日露戦争という歴史から得られる一つの気づきは、国家としての正確な自己認識の重要性である。日本という国家はいかなる自画像に基づいて、20世紀初頭のメリーゴーランドを廻ったのか。不定形な今を生きる私たちにとって、「これから」を捉えるための土台を引き出すことができればいい。

1.はじめに

 本稿の課題は、日露戦争を題材として歴史観を述べることである。昨今の歴史問題に関する政治問題化を受けて、歴史観についての様々な論説が増えると同時に、講和100周年という節目も手伝って日露戦争についても改めて注目が集まっている。その中では、50年前の戦争の是非と同じ視角から日露戦争の是非を論ずる内容も少なくないわけだが、私はここでその点を論じるつもりはない。

 その時代を実際に生きた人にとって、時代を連続する歴史のなかに位置付けることはいつの時代も難しい。人間が人間である限り、個々の体験に基づく感覚や情念に強く拘束されることが当たり前だからだ。しかし、2万人程の方を除いた大半の日本人にとって、日露戦争は生まれる前に起こった「歴史」である。回転するメリーゴーランドを、馬に乗った状態でなく、馬から下りた状態で、見渡すことができると思う。

 そこから得られる一つの気づきは、国家としての正確な自己認識の重要性である。日本という国家はいかなる自画像に基づいて、20世紀初頭のメリーゴーランドを廻ったのか。日露戦争の前と後とで、その自画像はどう変化し、その後にどう影響したのか。そして、その変化は、何がもたらし、何に結実したのか。「○○後」と「○○の時代」という言葉が多く氾濫する、不定形な今を生きる私たちにとって、「これから」を捉えるための土台を引き出すことができればいい。

2.日本の国力

 「日本はまだ駆けだしの大国に過ぎなかった。日本が戦った相手がさらに遅れた中国やツァーリのロシアだったことは幸運だった」。これは、ポール・ケネディの大作『大国の興亡』に描かれる日露戦争前後の日本の姿である。経済力の変遷を国力趨勢の基本に据える同書にひかれるデータによれば、1900年におけるイギリスの工業力を100とすると、アメリカ127、ドイツ71、ロシア47、日本は13である。戦争の帰結が経済力、なかんずく工業力に大きく左右されることは、もはや論ずるまでもないだろう。今という時代にあっては、技術力や情報力が同じように大きな影響力を持つともいえようが、時代は100年前の世界である。ロシアという国は、日本の4倍の工業力を持つ国であった。

 もっとも、日本がロシアとの戦争を想定したとき、それは必ずしもロシア全部を対象にするものでもなかった。今と同様、西はヨーロッパから東はアジアまで広大な国土を領するロシアは、所有する軍事能力を一点に集中することはできない。ロシアとの戦争において考慮すべきは、極東というロシアの東端にかの国が動員しうる軍事能力が、算定すべきものであった。

 その観点において数字上の戦力という視点でみると、日露の差はそれほどまでに大きくはなく。開戦前の陸軍兵力は日本16万に対し、ロシアは10万超であったし、海軍に関しても艦船数、トン数で比較しても遜色はない。もっとも、これは、開戦時という「点」で見た場合の話である。開戦時における戦時動員計画兵力が日本54万に対して、全ロシア207万、講話前実際の動員兵力が日本87万に対し、ロシア100万だったことを考慮すれば、戦争遂行という「線」で見た場合の日露の格差は歴然である。

 戦争遂行能力は、必ずしも一国の物理的能力だけでなく、外交や戦略の巧拙も大きく作用しうるものであるが、そうは言っても日露の格差は歴然であった。歴史の教科書に出てくる有名な風刺画で、か細い日本兵が火鉢の前に座る巨漢ロシア兵を前にしている状況は、まさにそのとおりであった。

3.伊藤の自画像

 当時の為政者がこうした彼我の格差を認識していないはずはなく、それを悲観的に捉えていた代表者は伊藤博文であったろう。日清戦争から三国干渉を経た第三次伊藤内閣の組閣前後にある伊藤の言説を拾ってみると以下のとおりである。

東洋問題ニ付、清国政治紊乱、欧州ノ諸強国将分割占領セントスル勢アリ。北方満州地方ヨリ遼東大湾旅順口ハ露之を領セントシ、雲南地方ハ仏国之領セントシ、揚子河口英之ヲ領セントス。仁川ニハ英国軍艦ヲ繋ギ、英露両国イズレヨリカ一発ノ砲声起ラバ、日本ハ英ニヨランカ、露仏独三国ヲ敵ニセザルベカラス。露ニヨランカ、英ヲ疎外視セザルヘカラズ。今日吾邦ノ内情ヲ顧レバ兵傭充分ナラス、済政ハ困難セリ。強敵ニ当タルベカラズ(「徳大寺実則日記」)

朝鮮ハ琉球ノ如キモノニテ日々衰弱、論ズルニ足ラズ。清国ニ至リテハ自動的文明ニ開発スルノ有力者ナク、総テ西洋人ニ開カルル訳故、日本ヨリ助クルノ時機ハ過去レリ。又欧州各国ノ如ク領土ヲ占メントスレバ、欧州各国聯合シテ防グベシ。兵力ニ訟フルトキハ力不足、財力ヲ以争フベカラズ。今日ノ場合我邦ハ手ヲ引テ自国富強ヲ計画スルノ秋ナリ。

 恐露と罵られた伊藤であったが、彼が信念をもって大陸での戦争を回避すべきとの認識を抱いていたことは疑いない。この2つに示されている日本の孤立感を埋め合わせる日英同盟の交渉開始後も、国内的な支援を得られないまま、伊藤は個人で日露協商交渉を行う。後知恵から言えば、ツァーリの意を体し、東西を股にかけて海を目指した南進政策を採ってきたロシアとの妥協の余地はなかったわけで、その点は幕末からの国家建設の中心を歩んできた伊藤も重々承知していたことだろう。それでも、実力者によるこうした見解の存在と、一定のインパクトをもった発言と行動があったことは、日露戦争の始め方と終わり方に大きく作用したことだろう。

4.開戦と自画像

 一方、市井では、戸水寛人ら七博士による強硬論の建白や、対露同志会による主戦論が耳目を集めていく。こうした強硬論を述べた実力者としては、山県有朋や小村寿太郎が知られるところである。ただし、新聞等のメディアとは異なり、山県にしても小村にしても、当然ながら日本の現状は明確に意識していた。1902年の日英同盟締結時に山県が伊藤に送った書簡では、「此の衝突を避け戦争を未然に防ぐの策は、唯彼の与国の勢援に籍(かり)て彼の南下を抑制するに在り」と記されている。いわゆる行け行けどんどんの単純論で山県が主戦論をとなえていたわけではなかろう。また、小村にしても、義和団事件に乗じて満州地域を実効支配したロシアを見て、いわゆる「満韓交換論」をいち早くウィッテに提示したことが知られている。いずれの両者も、頭からの強硬論が先行したとは考えられない。共通するのは、時期に違いはあれ、ロシアの南下政策と日本の対外戦略の利害調整が戦争という最終手段をもって以外、決着しないことを比較的早期に確信していたことだろう。先述した小村による「満韓交換論」提示の結果、彼は「交換論」の実現性を見切り、「満韓一体論」即ち戦争による最終決着を覚悟したのであった。

 伊藤にしても、日露協商交渉後、最終的には開戦の不可避を決意することとなる。ただ、この際、再度強調していいのは、日本の現状・自画像に関する表現が、特に伊藤の言葉に多く見られることである。それが、この上なく慎重な態度、時に「恐」と表現されようと、冷徹な自己認識が戦争の始め方と進め方、終わらせ方に大きく作用したことは疑いようがない。

 大山巌の言葉を借りれば、四分六の勝ち方で英米の仲介をもって戦争を終わらせ、朝鮮半島からロシアの影を除去すること、これが日本の戦略であった。そこに大きく寄与したのが開戦同時に両国へ派遣された金子堅太郎と末松謙澄であったことは有名である。両者に課せられたのは、いわゆる黄禍論を抑制する広報外交、今風に言えばパブリック・ディプロマシーということになろうか。なかでも、金子は最終的に仲介者となるルーズベルトとの知己もあり、シナリオ実現の立役者であったとも言えよう。

5.終わりに

 開戦後の事実関係は改めてここで羅列するまでもない。持てる国力を傾けて日本はヒト・モノ・カネを日露戦争に集中動員し、四分六の勝ち方まで持っていった。冷徹な自画像に基づいた開戦前のシナリオを、ある意味忠実に実現し、欲するモノをある程度手にした。ただ、講和後の自画像は開戦前といかなる違いがあったろうか。しばしば指摘されるように、対外的視点から見た場合、形はどうあれ日本がロシア勝利したことによって日本を見る目は大きく変わり、少なくともアジアの東端におけるプレゼンスは高まった。現実問題としても、戦争前よりは、パワーポリティクスにおける日本の戦略的能動性は高まったといって間違いなかろう。問題は、それが自画像にどう程度影響したのかということである。

 ポーツマス条約調印後の騒擾は、限界まで我慢を重ねた民衆の素朴な爆発でもあったろうが、そこに日本人それぞれが持つ開戦前とは違う自画像がなかったろうか。講和条約により日本は東清鉄道南満州線を得た。これは、それ以前から山県がとなえていた日本の「利益線」の外側に位置するものであり、小村が決断した「満韓一体論」に通ずるものでもある。領土保全、独立を根源的な目的とした明治維新にて設定した一つの線を越えたことは、明治維新を貫いた一つのビジョンの転接であるようにも思える。日露戦争後、小村が南満州線のアメリカ資本との共同経営を否定したことを見ても、自負心の回復と同時に新たな自画像の萌芽を見るのが妥当と思う。それは、大国日本という自画像の萌芽である。新たな大国日本という自画像は、そこに待ち受けるそれぞれの国が持つ自画像とどう調整していったのか。それを論じるのは別稿になるが、そこに悲しいまでの冷徹さが必要なことだけは、今の時点から指摘できそうである。

以上

参考文献

佐々木隆 「明治人の力量」 講談社 2002年8月
児島襄 「日露戦争」 文芸春秋社 1989年7月
ポール・ケネディ 「大国の興亡」 草思社 1993年3月
岡義武 「近代日本の政治家」 岩波書店 2001年8月
戸部良一 「逆説の軍隊」 中央公論社 1998年11月
横手慎二 「日露戦争史」 中公新書 2005年4月
片山隆康 「明治新聞ものがたり」 大阪経済法科大学出版部 1989年4月

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Yosuke Kamiyama

神山洋介

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