論考

Thesis

易学に基づく人間観

古代中国が天地自然と人間世界の相関について体系化した易学。その宇宙観と松下幸之助塾主の宇宙観との驚くべき類似性。本稿は、易学の説く深遠な哲理から、塾主の生成発展論に基づく人間観の考察を踏まえた上で、易学に基づく人間観について独自の論考を展開するものである。

1. はじめに

 本レポートは、松下幸之助塾主の人間観を考察しながら「人間とは何か」について各自がテーマを設定し、それに基づいて自分の考えを述べるという「人間観レポート」である。これまでのシリーズ三部作では、塾主の人間観を構造的に紐解きながら考察を深めることを企図し、『宇宙観に基づく人間観』『人間観に基づく人間道』『人間道に基づく共同生活像』を著した。ここからは、それらの考察を踏まえつつ、塾主の人間観を起点とする任意のテーマ設定にて論考を深めることにより、私自身の考える人間観を提示していきたい。

 そこで、本稿では、松下幸之助塾主の宇宙観及び人間観の中核をなす「生成発展論」に着目し、その概念と極めて深い関連性を見出すことのできる「易学」を取り上げる。古代中国において体系化された「易」の本義を紐解くことによって浮き彫りとなる宇宙観とは何か。その宇宙観と塾主の唱える「生成発展論」との深い関連性とは何か。『易学に基づく人間観』と題する本稿は、古代中国が天地自然と人間世界の相関について纏め上げた「易」の説く深遠な哲理から、生成発展論に立脚した人間観の考察を深めるものである。

2. 易の本義

 一般的に、易とは、古代中国で考え出された占法であると認識されている。その認識が誤りということではないが、四柱推命をはじめとして易が民間に普及するとともに通俗易が流布するに至り、世間的には易が単なる占いの類であると解される傾向が強い。しかしながら、その本質に着目すると、易とは、安岡正篤氏が「東洋において最も古い思想学問であると同時に、常に新しい思想学問でもある」と説く通り、宇宙―人間の実体、本質、創造、変化というものを探求した千古不変の思想学問であることが分かる。元来、易は、中国の周代から特に普及発達し、それが春秋から戦国時代を経て漢代に至り、その思想体系を完成させたといわれている。それでは、民族が極めて長い歳月を通じて得た統計学的研究とその解説ともいえる易学とは、一体どのような学問なのであろうか。

 ここで、易の本義を考察するに、その第一義は、「変わる」ということにある。すなわち、易では、世界は常に変化して停滞・固定しないものと捉え、自然も人生も絶えず変化して止まない(化)ものと解するのである。但し、変化は、その根本に不変があって初めて成り立つ。そこで、易の第二義は、「不変」ということにある。すなわち、この不変の原理に基づいて、変化を自覚・意識するのである。かくして、変化の中に不変の真理・法則を探求し、それに基づいて変化を意識的・積極的に参じていくという観点が生じる。そこで、易の第三義は、「創造的進化の原理に基づいて変化して止まない中に、変化の原理・原則を探求し、それに基づいて、人間が意識的・自主的・積極的に変化していく(化成)」ということになる。すなわち、人間が創造主となって自己を創造していくのである。

 このように易の三義を考察すると、易とは、俗にいう運命を予言するといった単なる巷の占いではなく、人間・人生・生命などに関する維新の学問であることが分かる。そもそも、“運命”とは動いて止まざる自然と人生のことであり、他律的・予定的なものではない。人間は初めから自然や遺伝に従って決められた存在であるという予定的な考え方は“宿命”であり、いわゆる運命の宿命観である。一方、動いて止まない運命の理法を探求して原理を解明し、大自然・宇宙・神・人間の思考や意志に基づいて、自分の存在・生活・仕事というものを創造していくという考え方が“立命”であり、いわゆる運命の立命観である。したがって、易とは、運命を宿命にとどめることなく立命にするための思想学問であり、宇宙の創造的進化の理法に基づく大いなる自己の創造を説くものなのである。

 かくして、運命を立命とするために、動いて止まざる運命の理法を認識することが肝腎となる。そこで、易学では、「命(めい)」「数(すう)」という概念に着目する。「命」とは、天地創造の絶対的作用、天地自然人間を通ずる創造、進化、造化などという絶対性を表し、「数」とは、その命という絶対造化の働きの中にある因果の関係理法を表す。運命とは、常に変化して止まない様を表す「運」が「命」に結合して「動いて止まない自然と人間」を意味するのであり、しかもその「命」の中に原因結果の理法たる「数」が含まれることから、運命そのものに原因結果の理法が含まれることになるのである。したがって、動いて止まざる運命の理法を認識することは、端的には、その「数」を認識することに等しい。そこで、易は、六十四卦に代表される独自の理論に基づいて「数」を解するのである。

 ただ、因果の関係・理法たる「数」を認識するにとどまっては、宿命の範疇を出ない。易の本義は、あくまで運命の理法に従って、自らを再創造していくことにある。すなわち、自分が望む自分を創造していくのである。それこそ、運命を立命とすることに他ならない。勿論、人間の生活・存在というものは、一つの大きな「命」たる造化というものの一部分であるため、その支配制約を受けることは免れない。また、そこには原因結果の理法が含まれているため、我々はそれに基づいて思索・行動をしなければならない。しかしながら、我々人間は、そのような因果の関係・理法を解明して自分のもつ「数」を認識した上で、さらに自ら人生を創造していくことができるのである。このように、人間が自分の運命を知って、常に新しく立命していくことこそ、易の究極的な本義といえるだろう。

3. 易の宇宙観と松下幸之助塾主の宇宙観

 ここで、前項の考察を踏まえつつ、易の宇宙観と松下幸之助塾主の宇宙観を比較すると、実に興味深い類似点を指摘することができる。易は、世界が常に変化して停滞・固定しないものと捉え、自然も人生も絶えず変化して止まないものと解している。とりわけ、変転して止まないというそのものを「化」というが、自然と人生は大いなる化であるとされる。一方、松下幸之助塾主は、『新しい人間観の提唱』において、『宇宙に存在するすべてのものは、つねに生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である』と説く。塾主の思想・哲学の根幹をなすこの「生成発展論」は、古きものが滅び、それによって次々と新たなものが生まれ育っていくという日に新たな進歩の様を意味する。表現の仕方こそ違えども、「万物は常に変化して止むことがない」という捉え方において、易と塾主の示さんとするところのものは同じといってもよいであろう。

 また、易では、「創造的進化の原理に基づいて変化して止まない中に、変化の原理・原則を探求し、それに基づいて、人間が意識的・自主的・積極的に変化していく」ことを本義とする。すなわち、あくまで自らを再創造していくことに主眼を置く。一方、松下幸之助塾主曰く、『人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である』。すなわち、人間は宇宙の動きに順応しつつ、自ら創造的活動を営み得る本性をもつことを意味する。ここにおいても、「人間が主体的に創造していく」という捉え方において、易と塾主の説くものは極めて近いといえよう。

 このように考察すると、易の宇宙観と松下幸之助塾主の宇宙観とは、本質的に極めて近いものであるとの見方ができると考えられる。さらに、古代中国が長久なる歳月をかけて体系化した易の宇宙観と、塾主がその人生をかけて直感的あるいは経験的に到達した宇宙観とが重なり合う様は、各々が宇宙の真理というべきものを内包することを想起させる。ただ、ここで着目すべきは、易と松下幸之助塾主に共通する宇宙観を抽出したところに得られるものである。すなわち、それは、「常に変化して止むことがない宇宙において、人間は主体的に創造的活動を営む本性をもつ」という宇宙観に他ならない。そこで、そのような創造的活動を営むために、易では運命に内包される因果の理法である「数」を解明し、松下幸之助塾主の哲学では「新しい人間観」及び「新しい人間道」を提唱するのである。それぞれ手法は違えども、志向するものが同じであるということに着目されよう。

4. 易学に基づく人間観

 前項までにおいて、易の本義に関する考察を踏まえつつ、易の宇宙観と松下幸之助塾主の宇宙観とがもつ関連性について考察した。これにより、双方に共通するものとして、「常に変化して止むことがない宇宙において、人間は主体的に創造的活動を営む本性をもつ」という宇宙観が抽出されたわけである。ここでは、そのような考察を踏まえながら、易学に基づく人間観から得られる示唆について、私自身の論考を展開してみたい。

 第一に、「我々人間には、無限の可能性が秘められている」ということを指摘したい。易の本義の考察に明らかな通り、人間は、運命の理法を解明しつつ、自らを再創造していくという本性をもつのである。勿論、動いて止まざる運命には因果の関係・理法が含まれることから、自然の一部である人間がその支配を受けることは免れない。そして、その支配に身を委ねるのみであれば、運命は他律的・予定的なものとして宿命に堕すことになる。しかしながら、そのような運命の理法を踏まえた上で、我々は自らを創造していくことが可能なのである。そのとき、運命は宿命を脱して立命となる。我々は、運命に翻弄される存在なのではなく、運命を乗りこなすべき存在なのである。その意味において、人間には無限の可能性が秘められているといってよい。立命を志向する限り、道は無限にある。

 第二に、「立命は、いつ始めても遅くはない」ということを指摘したい。『淮南子』という書物に、「蘧伯玉行年五十にして四十九の非を知り、六十にして六十化す」という言葉がある。これは、衛の国の有名な賢者であった蘧伯玉が、五十という人生の終点に到達して、それまでの四十九年が全て間違っていたと悟るものの、そこから自己改革を行い、六十になっても六十になっただけの変化をしたという言葉である。この宇宙は常に進化して止むことがなく、運命もまた絶えず動いている。そこに、もはや時間の概念は意味をなさない。運命を立命にしたいと希求したそのときから、新たなる一歩を踏み出せばよいだけの話である。勿論、この物質宇宙においては絶えず時間が経過し、過ぎた時間を取り戻すことはできない。しかしながら、立命を志向したその瞬間から、立命が始められるのである。

 第三に、「たとえ如何なる状況にあろうとも、未来は立命によって創造できる」ということを指摘したい。人生の中で、我々は様々な選択を強いられる。過去を振り返るに、運命に含まれる因果の理法に流されるがまま、芳しい結果に辿り着いたこともあれば、芳しくない結果に辿り着いたこともあろう。また、運命の理法に抵抗して苦悩したこともあれば、それを活用した上で自ら望む結果を引き出したこともあろう。いずれにせよ、人生の様々な分岐点を通過して現在に至ることに変わりはない。ただ、ここで重要なのは、現在如何なる状況にあろうとも、運命が動いて止まざるものであることに基づけば、その後の未来を立命によって創造することが可能であるということである。確かに、我々に降りかかる因果の理法はある。しかしながら、如何なる状況にあろうとも、常に立命は可能である。

 以上三点を総括するに、私は、「我々人間には無限の可能性が秘められており、いつ如何なる状況からも立命という新たなる自己創造が可能である」と指摘したいのである。この基本的宇宙観を認識していれば、人生が歓喜に満ちたものとなる。なぜならば、無限に広がる可能性の中で、人生を創造していく喜びが自ずと生まれてくるからである。かくして、通俗的な占い師による運命鑑定に一喜一憂することが徒労と分かる。人生を創造するのは自分であり、選択権も自分にある。また、困難が人を成長させることに鑑みれば、過去の選択の是非は一面的に断定され得るはずもなく、むしろ、創造したい人生を志向して立命し続けることこそ、進むべき道として相応しいと考える。さすれば、そこに自ずともてる天分が発揮され、大いなる学びと成長が拓けてくるものと信ずる次第である。

以上

■参考文献
『人間を考える』松下幸之助(PHP文庫)
『松下幸之助の哲学』松下幸之助(PHP研究所)
『易と人生哲学』安岡正篤(至知出版社)
『易学入門』安岡正篤(明徳出版社)

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谷中修吾の論考

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Shugo Yanaka

谷中修吾

第24期

谷中 修吾

やなか・しゅうご

ビジネスプロデューサー/BBT大学 経営学部 教授/BBT大学大学院 経営学研究科 MBA 教授

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