論考

Thesis

「綺麗事」を言い続けるということ

「未来は人がこうありたいと願うことで、より確かなものになると思うなあ」幸之助塾主は、しっかりとした未来を想定し、それを真摯に希求することこそがその未来を確かなものとする第一歩であるとしている。「綺麗事」を「具現化された未来」とするために必要なこととは。政経塾生として最後の人間観レポート。

 未来は人がこうありたいと願うことで、より確かなものになると思うなあ
                           松下幸之助

 私は「綺麗事」をいうのが好きである。綺麗事というのは、まさに世の中がこのように「綺麗」であればいいのにと願う姿に他ならない。もちろん、その綺麗事は現実には実現されそうもないことが多いだろうし、綺麗事をいうだけでは現実は何一つ変わらない。それでも、私はまずは可能性や確率論にこだわらないこの世の中の「綺麗な姿」がどうあるべきかをまず考えることが重要であると考える。塾主の冒頭の言葉にあるように、こうありたいと思う「綺麗事」があって初めてそれが具現化された未来へとつながるといえる。想定のできない未来は生まれ得ないし、その綺麗事の想定をすることで初めてそこに向けての第一歩が生まれるのである。

 私は「綺麗事」を人に伝えるようにしている。これまでの実績や現在の実行を伴わない「綺麗事」を人に伝えるということは、下手をすれば他者からの信用を失いかねない。綺麗事ばかり話す人間は、現実をみようとしない空想的理想主義者ととられたり、行動を伴わない現行不一致人間ととられたり、そして、ややもすればまことしやかに善を説く偽善者として非難を浴びることになる。それでも、私はやはり「綺麗事」を人に伝えていかねばならないと思われる。日々から「素志」として自分のなかに「綺麗事」を持っていなければ、それを日々の自分自身の行動に反映していくことは困難である。だが、私は欲望に包まれた弱い人間であるし、常に心に「善」を抱き続けて行動できるような人間ではない。だからこそ、根っこにある自分の「素志」を常に行動に結びつけるために自分自身を外部から縛り付ける「鎖」が必要となるのである。それが私の「綺麗事」を人に伝えるという行為のもつ大きな意味なのである。その綺麗事が現実の状況や自らの立場を考えると「大風呂敷」に過ぎないことであればあるだけ、それだけ他者からの厳しい評価にさらされることになる。そのため、常にその評価に耐えうるだけの行動を行い、また、それだけの発言をしていても信頼を損なわない人間性を保つ努力が必要となる。小さな種ひとつを包むのに大風呂敷を用意しておくことは、現在においては非効率きわまりないし、目先の現実に対応していない無駄な行為のように思われる。しかし、その種が大きくなることが望ましい未来であるならば、大風呂敷を広げておくことは自らがその種を大きく育てるインセンティブになるし、大風呂敷があって初めて大きく育った未来を受けとめることができるのである。

 私は「綺麗事」を実現しようとする「偽善者」である。前述したように、私は常に善なる心に基づいて行動することもできない弱い人間であり、外からの「鎖」に頼らざるをえない、まさに「綺麗事をいう偽善者」でしかない。自分自身、「善なるものとは何か」ということがはっきりしないままに「綺麗事」を言い続けているのは自分自身を外からの「鎖」のみならず、内面からの「鎖」にも縛ろうとしているからである。月例レポート6月『欲望に包まれた人間の生きる道』にも述べたが、私自身が生きるエネルギーとしているのは、「痛みを背負った人々に人生をかけたい」「世界の人々が衣食足りて礼節を知ることのできる社会を創りたい」という自分自身に課した自己実現欲求に基づくものである。これらの行動に向かおうとする自分を善なのか偽善なのかは自分では評価することはできない。ただ、もし他人からも一生「偽善者」と言われ続ける行動をとっていられたならば、それは綺麗事を貫いた一生として現実のなかに「善」なるものを残せることになるのではないだろうか。幸之助塾主は、「一つの主義や立場にかたよって善悪を定めると、人間にムダな努力をさせるばかりではなく、かえって苦しめることになります」と話し、「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」と歌を詠んでいる。幸之助塾主は、「善」か「悪」かということの道徳的評価云々ではなく、「人間に資するものはすべて善」として、その行為が人間に対してもたらす結果を重んじていたといえる。日常生活のなかで、非常に刹那的で独善的な欲求に支配されそうになる自分がいる(実際に支配されることもある)一方で、「人間に資するために行動」しようとする内的欲求が存在することは、その内的欲求が人間の生存そのものに関わってくるという本能的なものなのかもしれない。私は、偽善者としてでもいい。綺麗事を貫きとおすという「素志」に基づく内的欲求を現実のなかで満たしていくつもりである。

 私の「綺麗事」とは何か。まさに松下幸之助塾主のいう「Peace(平和)、Happiness(幸福)and Prosperity(繁栄)」の社会のなかで人々が生きるということに尽きるであろう。私は、特に一人の人間という部分にこだわって「綺麗事」を言いたい。どの人間も「衣食足りて、そしてその上で礼節を知る」ことができるようになる。「衣食足りて礼節を知ることのできた人間」が集まって創っていく人間の社会こそが塾主の願った社会への近道ではないかと考えている。私は在塾中に、アフリカ、東南アジアの数カ国に約半年間滞在し、エイズのプロジェクトに携わりながら現地の人々とともに生活をしてきた。そのなかで身をもって感じたことは、ある環境においては基本的な生きるための「衣食住」を得るということがいかに困難であるかということ、そして、そのような環境の中で生きながら「礼節」を知るということがとてつもなく困難を極めるということである。先に「人間に資するための行動」は、自身が生存していくための本能的な欲求であると述べたが、それはあくまで「衣食住」が満たされた状態における話であり、最優先の生き延びるという生物学的な基本欲求のまえには「他者」や「社会」を守るための「礼節」を保つことは難しい。一方で、日本を含めた先進国で「衣食住」が満たされていても必ずしも「礼節」が保たれるとは限らない。もちろん、地球規模で考えたときにどのレベルが基本的な衣食住といえるのかを決めることはできないし、「正しい礼節」という基準も存在しない。ただ、「万物の王者」たる人間は、すべての地球上に住む人間が「衣食足りて礼節を知る社会」に生きることができるための知恵を出し、現実に反映させることができる能力を持っている。そして、私たちが住む日本という国家は、世界のなかでそのための「衆知を集める」紐帯となることのできる国家になりうるし、ならねばならない。

 国名ともなった「和」の精神を尊んできた日本は、改めて現在その精神を国内外に示していかねばならないであろう。国際的には、冷戦後起こりうる様々な「地球規模での課題」に対応していくなかで、日本が高い専門性を持つ分野において国際的な枠組みづくりに政治的イニシアティブをとっていかねばならない。食料・エネルギー自給率が低く、また、国際環境のなかで様々な危機に曝されている日本という国家は、他国との「和」のなかで生きることが唯一の生存手段である。また、核廃絶・核の平和利用に向けての中立的政策提言やこれまでのアジアでの実績を生かしたアフリカ諸国への有効な開発支援などは、世界のなかで日本がもっとも効果的に行なえる政策分野であり、日本がグローバル・パワーとしての存在価値を示す大きな外交的手段でもある。
 また、国際社会のなかで「和を尊ぶ」姿勢を示すことは、国内において国民の「礼節」を育てる最もいい教育につながっていく。政治がどのような国家のヴィジョンを示し、それに伴ってどのような行動をとるかは国民に直接的に反映されていく。また、そのヴィジョンに基づいて育てられた国民は、長期的には政治に、国家にそして改めて国際社会にその効果を及ぼしていくといえる。

 現実を生きるなかで本当の意味で人間に資するための「綺麗事」を常に考え、常に人に伝えていきたい。そして、その綺麗事を政治の分野を通じて社会に還元していきたい。「綺麗事」であったものがより確かな未来へとつながっていくために。

以上
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山中光茂の論考

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Mitsushige Yamanaka

松下政経塾 本館

第24期

山中 光茂

やまなか・みつしげ

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「地球規模での課題」に対する日本の外交政策

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