論考

Thesis

これからの日本文明と「新しい人間観」

松下政経塾の塾是には、「真に国家と国民を愛し、新しい人間観に基づく政治・経営の理念を探求し、人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献しよう」とある。 伝統的宗教心をどのように受け止め、どういった理念で国を愛せば、国民の物心一如の繁栄を実現し、世界、人類に貢献する日本というものを築けるであろうか。 ここでは、神道や日本仏教というものを振り返ることにより、日本の精神性を考え、さらに真の愛国心とは何かを探った上で、これからの日本文明の可能性を探ってみたい。

1.はじめに

 日本を旅してみれば、あらゆるところに神社があり、仏寺があり、そのそれぞれに、さまざまな土地のゆかりが残っている。
 宿坊に泊れば、仏教に触れることが出来、様々な修行を体験することもできる。幼少のころに、私は信貴山に泊まったが、その体験は、今においても強い印象として残っている。以来、般若心経を暗唱したり、釈迦や仏教について独学したりという具合である。

 また、神道というものにおいても、各地の神社、あるいは伊勢神宮に行けば、その木々の木漏れ日や澄んだ空気のなかに、なんとも言えない感覚を味わうことになる。神話とともに神宮や大社を巡れば、日本というものの永い歴史に感嘆させられる。

 歴史を少し見れば分かることであるが、日本には、その形成段階において、神道という自然崇拝、先祖崇拝の信仰と、仏教という外来した教義的宗教の二つが大きく存在している。
 この神道と仏教は、聖徳太子の時代から、神仏習合というように、実に密接な関係を持って日本の歴史を形成してきており、四季と豊かな情緒を持つ風土のなかでそれらを発展させ、さまざまな日本精神や日本文化を生み出してきた。こうした日本仏教や神道は、今日においても粛々と伝統されているわけである。

 一方で、明治維新という時代背景においては、他国の宗教として神仏分離、廃仏毀釈がなされ、神道は、国家主義的なものへと変質していくことになった。さらに、戦後では、そうした国家神道に対する反動から、占領軍の政策とともに、国家主義のみならず、おおよそ宗教的思想的なものを危険視する「戦後教育」がなされている。
 また、近代科学技術文明によっては、日本に限らず人々の価値観や世界観に大きな変化をもたらしてもいる。 
 無宗教や科学万能主義が今日の日本人の特徴であるように言われることがあるのは、こうした歴史的経緯や時代背景があってのことであろう。周りを見渡しても、宗教に対しては、極めて無関心、疎遠に過ごす人々が多いように思える。その無関心は、宗教観に対する無知と結びつき、そうした人々の感性における国際性や哲学性が乏しいものになっている。

 美しく、豊かな日本の伝統的精神体系の存在と、それらとは離れた、あるいは意図的に離された、生産性、合理性を追求する自由主義経済社会の存在。これらが混在した状態が日本の現代社会のように思える。

 こうした状態が好ましくないという意見も良く聞くことがある。例えば、青年犯罪の凶悪化において、「人を殺してみたかった。」というような供述があれば、「命の尊さ」や「人間がどう生きるか」に対する教育がなされていないからだといわれる。
 あるいは、経済至上主義の世の中で、自然環境や精神的な充実といった人間性が失われている、勝手主義が蔓延しているといったこともいわれる。
 もっといえば、日本の精神文化が失われている、愛国心が崩壊しているという人もいる。例えば、教育基本法に「愛国心」や「伝統的宗教心の尊重」を入れるべきかが議論されている。

  このような現状にある日本文明の礎をどう考え、どう対処していくべきか。
 これからの日本というものを展望してみたとき、伝統的宗教心をどのように受け止め、どういった理念で国を愛せば、国民の物心一如の繁栄を実現し、世界、人類に貢献する日本というものを築けるであろうか。

 ここでは、日本文明の礎といえる神道と仏教について考え、さらに松下幸之助塾主の「新しい人間観」も踏まえて、今後の国際社会における日本のあり方を探っていきたい。

2.日本の伝統的宗教心

 日本の伝統的な宗教心と一言にいっても、日本に存在する宗教は、極めて多様であるというのが、私の実感である。なんとなくこういうものだろうということはあるが、さまざまな習慣や行事のなかで、神社に行けば、八幡宮、稲荷、八坂、金比羅、日吉、天神などなど。
 さらに、時代という観点からは、その宗教の内容自体が様々な変化を遂げている。神道にしても、奈良、平安時代における真言との習合による両部神道から、鎌倉では、伊勢神道、室町期には吉田神道、江戸時代には儒家神道、江戸中期には復古神道、そして明治における国家神道と時代の影響を受けて形がかわってきている。

 仏教に関しては、これはもう手のつけようがないといっていいほどである。
 仏教そのものが、膨大な数の経典が存在するものなのであるが、日本においてもそれらの経典から、飛鳥、奈良時代には鎮護国家を目的とした学問仏教、その後、天台宗、真言宗、平安時代には、末法思想の流行から、浄土宗、浄土真宗、鎌倉時代では、日蓮宗、室町時代には、禅宗と様々である。江戸時代のキリシタン禁圧における法門改によって、それらのどれかに大抵は属しているであろうが、それぞれの教えには、小さいようで大きな違いがある。

 このそれぞれについてみていくと切りが無いが、日本の伝統的宗教心を考える上で、私なりに重要だと思っていることを二つ上げたい。神仏習合と本地垂迹について、法華経と般若心経についてである。

 まず、神仏習合と本地垂迹であるが、日本に仏教が伝来してきた際、当然のこと、神道とのかかわりが大きな問題になったはずである。
 神道は、日本固有の民族的信仰であり、氏神や産土神といった先祖崇拝から、大和政権における天皇神道とあるように、日本という国境を越えることのない宗教である。それに対し、仏教は、インドで産まれた釈迦の教えが、普遍的な宇宙に対する信仰とともに、中国に広がり、アジアにというように、日本にも広がってきた。
 仏教においては、お経がサンスクリット語や漢語であることがそれを物語っているが、日本古来の民族であり文化であった宗教に、インドや中国の言語による宗教が入ってどうなったか。

 進歩派の蘇我氏と保守派の物部氏が戦い、蘇我が勝って血をひいた推古天皇の甥の聖徳太子が摂政として即位するわけだが、聖徳太子は神仏習合をなした。日本では、仏も神として、ともに崇拝することになったのである。
 このことは、日本人の宇宙観、自然観が、この世のあらゆるものに神の存在を見出して感謝、敬うという豊かな風土のものであったことが大きい。そして、宇宙の神秘的、根源的なエネルギーが、神としても現れ、仏としても現れるというようになるのである。こうした本地垂迹という発想は、他の宗教を認めながら、自身の宗教とともにそれらを高めていくという日本人の精神性を形作っていったように思える。

 政経塾生にとっては、「日本の伝統精神とは?」と聞かれれば、塾主の「主座を保つ」「衆知を集める」「和を尊ぶ」がまず頭に浮かぶが、まさにこれらを神仏習合や本地垂迹は物語っている。そう考えると、欧米外圧に対抗して、近代国家を形成するという時代要請があったとはいえ、神仏分離と廃仏毀釈は、神道を原理主義的なものへと変質させてしまい、それが国家主義とも結びつき、日本のそういった精神性を大きく誤らせるものであったとも言える。その結果は、歴史のなかに観る事が出来る。

 次に、法華経と般若心経であるが、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教には、聖典が旧約聖書、新約聖書、コーランと限られているが、仏教には実に多くの経典がある。そもそも釈迦が、仏陀という「目覚めた人、悟りに達した人」のうちの一人で、釈迦族出身の偉い釈迦牟尼だという設定からも、唯一の神的存在者だけを認める一神教とは大きく違う。

 そういった仏教において、日本仏教は、奈良仏教系、天台系、真言系、浄土系、禅系、日蓮系と流れがある。敢えておおざっぱに私なりの把握を述べると、「法華経」に基づく天台系と日蓮系、「般若心経」を重んじる真言系と禅系、「阿弥陀如来」(極楽浄土を建設した仏)を本尊に念仏を唱える浄土系である。

 「法華経」は、大乗、小乗に分かれる仏教を統一しようとしているものであり、その優位性と、全ての人を平等に救おうという精神のあるものである。聖徳太子はこれを中心経典としようとし、その流れは、最澄、日蓮と続く。
 天台宗は般若心経も唱えるが、日蓮宗は唱えない。私の見る限り、日蓮はその生涯が、若干過激な部分があり、法華経の優位性を強く訴える。「立正安国論」にもあるように、どこか、国家というものを意識したところがある。私が「法華経」をまず挙げたのも、そうした理由である。「法華経安楽行品」には、人々を救うための教えと、教えを守る難しさ、信奉者の誹謗や迫害に対する擁護が書かれている。そこには、平等を強く訴える一方で、どこか組織というものや統一に対する権力的なものを感じる。
 日蓮正宗を信仰されている方にお話を聞いたとき、中国天台大師の『法華玄義』に「法華折伏 破権門理」というものがあり、これに、「法華は折伏(しゃくぶく=他の邪義を打ち破ること)して権門(ごんもん)の理を破す」とあるということであった。
 なるほど、そうすることによって、強い信仰心と組織を持たれる方々は、「安国」に必要かもしれない。私自身は、自分が信仰する「本地垂迹」における「宇宙の根源的エネルギー」と其れに基づく宗教観、人間観というものが、ひょっとして毒のように間違っていないか、ということを法華経から指摘されながら、日々新たに考えていきたいと思っている。 
 創価学会に関しても、法華経を経典としている。池田大作氏は、著書で内外問わず様々な哲学との対話、考察を行い、人間革命や地球市民を訴えている。その組織力という点においては、同じように歴史的な流れを見ることができる。

 これに対し、「般若心経」は、「空」の境地を説いている。簡単に言えば、一切の執着、こだわりを捨て、妄想に捉われることなく、苦しみを解き放つということである。 そこには、国家や組織、不平等、平等というものに対峙するというよりは、人間の心性に目を向けている。

 また、「南無阿弥陀仏」を唱えることによって悟りが開け、極楽往生出来るとする浄土系は、極めて民衆的である。

 このように、一言に日本仏教といっても、大乗仏教というなかで、宗派によって時代性や感性が大きく違うわけであるが、そのそれぞれが共存しているのがまた、日本の宗教精神の多様性を生み出していると言える。宇宙的、人類的な構想を持ち得るといえる「本地垂迹」と、その中での様々な多様性を持つ日本の伝統的宗教心は、精神性の大きな発展可能性を意味するのではないだろうか。

 豊かな自然と四季という気候風土のなかで、建国以来二千年におよんで発展をしてきた歴史を経て、日本の伝統的宗教心というのは育まれてきており、これからにおいても発展していく余地があると思える。これだけ科学技術が進展し、物的な豊かさを手に入れ、世界的な貢献を期待されている日本においては、そうした精神性をしっかりと受け止め、時代に合わせて、より高めていく努力があって然るべしである。そのためには、日本の風土から生まれてきた信仰のあり方という「主座を保つ」ことと、宇宙的な視野で人やものあらゆる因縁の「和を尊重」し、西洋、東洋問わずあらゆるものの本質から「衆知を集め」て生成発展いくことであろう。

3.真の愛国心とは

 では、真の愛国心とはどういうものか。
 軍隊、貨幣、政府があれば国か、もし仮に、それが国だと定義して、何が為にその国なるものを愛するのか。
 19世紀や20世紀半ばにおける帝国主義時代における日本の国家主義的宗教心なるもの、国家主義的愛国心なるものは、やはり、歴史の上での反省材料である。本来の日本の伝統的精神性というものは、つまりは国家主義に収束するものではないはずである。

 今日は、市場化、民主化といったグローバル化のなかにある。国民国家という枠組みのあり方が、改めて問われている。なかでも、EUに観るヨーロッパの統合は、大きな価値観の転換を促している。その基本理念である「補完性の原理」という理念は、やはり、先進的である。
 個人をまず中心とし、最大限の個の努力に対して、家族は積極的に補完していく、その家族に不可能なものは、自治政府が、そして、州が、国が、EUが、国連がというように、またその上位の単位は、最低限の補完に留めることによって、個の努力はまた、引き立っていく。スウェーデンに年金改革の海外調査を行ったとき、何よりも日本との違いを感じたのは、国会というところにおける年金制度に対する議論に、NGOやNPOといった市民の多くが参加し、行政官から情報を受け、議員とともに意見を述べていた。
 そこに見出せるものは、個々の人間性に大きく依る社会であり、その対象としての国家という一つの枠組みである。そういった社会には、やはりそれぞれの国民ないし市民の理念や哲学といったものが、改めて重要になってくる。
 新たな時代における愛国心とは、人類全体とその個々の人々に目をむけたものと同時性を持つものであると言えるであろう。日本の伝統精神には、そうした時代に応え、さらなる生成発展を実現していく可能性が十分にあるとも思える。

  生物には、自己保存の本能がある。身を守り、成長、発展していこうとする本能である。それは、種族の存続を大きな目的としている。人間にはまた、自分の命、人生、生き方を大切にする自己愛がある。そのためには、自分の家族、住む町、そして国を愛する必要がある。グローバル時代おいては、当然、地球や人類全体を愛するということも重要になる。私は、愛国心とは、やはりそういうものであると思う。

 「真に国家を愛する」というのは、そうした生物のなかでもとりわけ社会を形成する人間が、国という近代的な仕組みの中で、より良い生き方を求めようと発展していく自己愛のなせるものであり、それらが各国同様に寄りあえば、世界の平和へと通じるものである。個々の国における最低限の自己防衛的な枠組みは必然的に必要になってくるが、それは、他国の文化や歴史、文明というものとは、絶えず共存を図るのが自然の理法である。また、そうした多様な国々や文明がなければ、人類の持続性もまた危ういと思える。

 日本という国家と国民を愛するということは、その伝統や文化、風土によって培われてきた特性や優れた精神性を、その歴史とともにしっかりと認識し、より人類の繁栄・幸福や世界の平和に貢献できるように、さらに高めていくということではないだろうか。

4.真言密教の「即身成仏」と「新しい人間観」

 さて、高野山の宿坊に泊まったり、修験道を実践したりと、そのなかでも、私は、空海の密教というものに関心が強い。
 空海は豪族の三男で産まれ、都の大学に進むも、儒教を中心とした官吏養成的な場であるとして中退し、真の幸福や多くの庶民の困窮を仏教に求めて出家した。遣唐使の第一船に青年僧として乗り込み、唐へ渡れば、その才能から恵果和尚に認められて密教の全てを教わり、密教正系第八代として帰国する。密教を日本に広める一方で、綜芸種智院といった教育機関の設立や漢方医学、著書、あるいは高野山での寺院建立や満濃池といった土木工学などと、多才にて巨大な業績を残している。

 空海の密教は、「即身成仏」を究極の目標としている。それまでの大乗仏教が、三劫成仏というように、長い期間の修行と輪廻によって仏に成れるというものであるのに対し、「即身成仏」は、人間というものは、仏であるという本覚を自覚することである。
 そもそもこの密教とは、釈迦が教える顕教に対して、「大日如来」が説く真理である。「大日如来」とは、本地垂迹によって神道では、天照大神にあたるわけであるが、即ち、宇宙を成り立たせている根源である。架空の仏ともいえるが、それにはわけがある。
 実在した仏陀としての釈迦は相手の能力や状況に応じて教えるので、その宇宙の真理そのものは、秘められているという「如来秘密」と、宇宙に存在する人間は、本来持っているその仏性を「無明妄想」で自ら覆い隠しているという「衆生秘密」の二つをもって「密教」というわけである。そうした秘密を解き明かし、「即身成仏」を為し、この世へ貢献していく存在へとなることが密教における悟りの最終段階である。

 こうした発想には、松下幸之助塾主の「新しい人間観」に繋がっていくものを見ることが出来る。塾主は、ややもすると弱い存在とされる人間を、崇高で偉大な存在、「万物の王者」であるとし、物心一如の繁栄を実現する天命を自然の理法から与えられているとする。そうすることによって、宇宙の生成発展というものに従っていくということである。そのためには、素直な心になり、衆知を集めていかなければならないというわけである。
 これらを空海流に言い換えれば、人間は、「即身成仏」、そのまま大日如来であるとし、宇宙の真理そのものを体現する存在である。そのためには、「無明妄想」を取り払うために、煩悩や妄想から解き放たれるよう心を修め、本源的真実を得るための智慧を得ていかなければならない。自分の中に隠れている仏性を三密の修法をもって発見し、それを世のため、人のために生かしていくということである。

  この二つに共通するものは、神性、仏性なるものが、人間に内在していることを強く認識するところにある。それどころか、それを自覚し、行き方を正しくすれば、崇高な存在という人間の本質を得られるということである。
 塾主は、その人間の本質というものは、宇宙を観ても、自然の理法に与えられた天命なのであるとし、そうして、繁栄というものによる人類の幸福と平和、そうして生成発展する宇宙というものを実践していかなければならないとする。
 空海もまた、綜芸種智院による教育、土木工事による経済、科学といった積極的な貢献があるように、当時の現実的な経済社会に対する生成発展を実践していた。その瞑想のなかで、現代そして未来の人間の生きるべき姿をひょっとすると描いていたかもしれない。

5.日本文明の可能性

 日本人は、長い歴史と伝統というものの中で、その豊かな風土のうえに、非常に豊かな精神文化を築き上げてきた。「武士道」として新渡戸稲造が示したように、神道、仏教、儒学が高められ、政治や経営といったものにおいても、先述した一部の時代を除けば、それらに対し、理想に向って着実な歩みを行ってきたといえよう。

 現在を見ると、冒頭の通り、そうした高尚な精神文化を維持する社会と、物的繁栄を重視した西欧的自由経済社会というものが、両端では極端に、また混在する部分もあって、日本社会が構成されている。この二つの混在する部分というものをより広げていくこと、またそこにある精神性をより高めていくというのが、物心一如の繁栄に向かる日本のこれからの課題であると考えられる。

 また、そのように、豊かな経済社会と精神社会を持ち合わせた日本という国家を愛し、今後も高めていくのは最もなことであるが、人類、衆生というものに目をやったとき、極めて悲惨な状態、今の日本人には想像のつかない状況が世界には存在する。それらは、世界のあらゆる地域で、地域紛争としても形を現してきている。
 サミュエル・ハンチントンは、冷戦終焉後の世界を「文明の衝突」としている。アラブの文明と西欧の文明、地域における民族、文明における宗教といったものが衝突してくる時代という。超大国アメリカをもとに、ヨーロッパ、ロシア、中国、日本、インドとそれぞれの地域に影響力のある地域大国が存在しているなか、独自の文化を持ち、経済力のある独立した日本の存在というものが、これからの世界においては、非常に重要になってくる。

  日本は、その歴史、伝統からも、神道や日本仏教を維持しながら、近代化に成功した文明である。そうした独立した文明を、真に国家と国民を愛することによって、より高めていき、人類全体、宇宙全体に視野をおいた「新しい人間観」に基づく政治・経営を行い、粛々と世界の調整役を担っていくとき、空海や松下幸之助の夢見た世界は訪れるのかもしれない。 
 塾主が晩年に提唱した「大番頭国家日本」は、冷戦後の世界の混迷、混乱は強力なリーダー不在にあるとし、リーダー国アメリカを支えつつ、世界の国々の利害を調整する日本の国家像を描こうとするものであった。
 その具体策を今後さらに追究していきたい。

以上
(平成16年9月11日橿原神宮前にて)
【参考文献】
『松下幸之助発言集』 (PHP)
『人間を考える』 松下幸之助 著 (PHP文庫)
『私の夢・日本の夢・二十一世紀の日本』 松下幸之助 著 (PHP文庫)
『荒野の宗教・緑の宗教』 久保田展弘 著 (PHP新書) 2004年
『文明の衝突と21世紀の日本』サミュエル・ハンチントン著 (集英社新書) 2000年
『国民の文明史』 中西輝政 著 (産経新聞社) 平成15年
『理想的日本人 日本文明の礎を築いた12人』 渡部昇一 著 2004年
『日本仏教を行く』 梅原猛 著 (朝日新聞社) 2004年
『弁顕密二教論』 空海著 金岡秀友 訳・解説 (太陽出版) 2003年
『空海密教の思想』 藤巻一保 著(学研) 1997年

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前川桂恵三の論考

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Keizo Maekawa

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第24期

前川 桂恵三

まえかわ・けいぞう

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