論考

Thesis

埼玉を人の母港に

人が住んでいる街こそエライ!

 ここ数年、埼玉県への人口流入が急速に減ってきている。かつて10年連続全国トップを誇った埼玉県の人口の社会増(出生ではなく、他地域からの流入による増加)は、バブル崩壊で東京の地価が下落し始めたとたんパタッとやんでしまった。平成12年度には東京都0.50%、神奈川県0.27%、千葉県0.16%の増に対し、埼玉県はわずか0.04%増という事態にまで落ち込み、首都圏中心4県では最低となってしまった。
 これは長年、埼玉県に住む者にとっては少しショッキングな事実である。今まで埼玉に人が集まっていたのは、単に東京に近くて地価が安いというだけなのだと見せ付けられているようなものだからだ。埼玉自身には人を惹き付ける魅力はないのだろうか。
 2001年5月、旧浦和、大宮、与野の3市合併により「さいたま市」が誕生した。その中核とされる「さいたま新都心」の整備は、こうした埼玉の新しい顔、魅力を作り出す期待を一身に背負っている。多額の費用をかけて、各中央省庁の関東局が集まる官庁オフィスビルが作られ、「さいたまスーパーアリーナ」などの集客施設が建設された。まだ実力を出し切ってないこの新都心を大切に育て、十分な経済効果を発揮させるようにしなければならない。
 しかしこの新都心を離れ、埼玉全体の未来を考えた時、私は今、大胆な発想の転換を提案したい。大きなアミューズメント施設を造って観光客を集めよう、大きな会社の本社を誘致してオフィス街にしよう、これはそれぞれに大切なことだが、何か一つとても大事なことを忘れてはいないだろうか。それは埼玉県にとって最も大きな資産のことだ。そう、約700万人にものぼる県民のことだ。埼玉県は外から来る観光客や勤め人ではなく、その街に住んでいる人にこそ注目すべきである。観光客がたくさん来る名所や、勤め人がたくさん来るオフィスの街にあこがれ、自らの不遇を嘆く必要はない。「そこにたくさん人が住んでいる街こそが一番えらい!」と、埼玉はもっと自分に誇りを持つべきである。

暮らしやすさって何?

 残念ながら今の埼玉は、この自分が持っている最大の資産に無頓着である。それどころか、住んでいる人をあまりに粗雑に扱いすぎている感さえある。ここで暮らしやすさをはかる上で重要な指標をピックアップし、埼玉県を他県と比較してみたい。例えば、0~5歳の人口10万人当たりに対する保育所数は170.5と全国46位、一般病院数は4.8で41位、保健婦数は13.3で最下位、ホームヘルパー数は43.48で45位と、教育・医療・社会福祉の分野での低迷が目立っている。こうした状況を放置してきたことが、(例えそれが東京に近いという理由であっても)せっかく埼玉に住みたいと思って来てくれた人々を失望させ、冒頭で述べたように、社会的な人口増がほとんどないほど、人々を埼玉から立ち去らせている。
 現在の知事も生活重視・環境優先を掲げ、生活環境の向上に熱心に取り組んでいる。特に交通の便に関しては、県内1時間道路網構想を掲げ、着々と整備を進めている。埼京線に代表される朝の通勤ラッシュも、昨年の埼玉高速鉄道の開通などにより徐々に軽減されてきている。こうしたハード面での街づくり、暮らしやすさの追求は、埼玉の得意とするところだが、いかんせん育児、介護環境のようなソフト面の暮らしやすさでは問題が多い。そのためか女性の就労状況を表す埼玉県のM字カーブは、全国平均と比べるとはるかに深い切れ込みとなっている。埼玉は女性が仕事をしながら子供を育てるのが最も難しい県の一つである。
 さらに悲惨なのが、都心に通うサラリーマン男性だ。毎日、満員電車に揺られて、趣味や遊ぶ時間などほとんどなく、家族と夢のマイホームのために一生懸命働いている。旧総務庁の調査によると、埼玉県の第2次生活時間(通勤通学時間を含めた仕事をする時間)は全国最長、第3次生活時間(余暇、趣味、ボランティアなどの時間)は全国で最短だそうだ。そうした現役時代を送ってくれば、当然地域とのつながりは薄くならざるをえない。定年してふと気づいてみれば、せっかく作った夢のマイホームのまわりには自分の居場所さえないという笑えない話がそこかしこで起こっている。サラリーマンが休日にゆっくり家族と余暇を楽しめ、主婦が仕事をしながら安心して子育てができる、定年後には地域で充実した第2の人生が待っている、ハードだけではなくて、ソフトな社会環境を整えてこそ、本当の意味での暮らしやすさが生まれる。
 住んでいる人を大事にハード、ソフト両面にわたり暮らしやすさを追求することこそが、埼玉が目指すべきことではないだろうか。

仕事は暮らしの中にある

 こうした提案をした場合、必ず「暮らしやすさというけどね…。都心に出ているサラリーマンはそりゃ休日が充実していいかもしれないが、地元で商売している人間はどうなる?」という懐疑の声にぶつかる。埼玉県は、もともと東京や神奈川に本社のある会社の下請け加工製造業の街として発展してきた。失業率が5%をはるかに超える雇用状況の中、生産基地が人件費の安い海外や、地価の安い栃木、茨城、群馬などへ次々と移転し、県内で生活の糧を得ている人々は悲鳴を上げている。
 しかし、心配無用である。暮らしやすさを追求することこそが同時に埼玉県内に雇用を生み出すのだ。表を見ていただきたい。これは埼玉県内での産業ごとの雇用者数を示したものである。製造業の不振が最も大きく、7万人近くが職を失っている。その他にも伝統的に県内経済を支えてきた建設業、卸売・小売業などで雇用が大きく減っていることが分かる。こうした状況下で元気だったのが、運輸・通信業とサービス業である(林業も増えているが絶対数が少ないのでここでは取り上げない)。私がここで注目するのは、製造業と肩を並べるほど雇用規模が大きいサービス業である。サービス業には、美容業や遊戯・娯楽、ソフトウェア、情報処理、医療、獣医業、スポーツ・娯楽用品賃貸業、フィットネスクラブなどさまざまなものが含まれるが、その多くが病院(4176人増)、保育所(692人増)、老人福祉事業(2167人増)など、前章で触れた、埼玉では人口に比して人手も施設も足りない分野にはいる。


 政府の経済財政諮問会議の専門調査会は昨年5月、サービス業9分野での規制緩和を進め、今後5年間で530万人雇用を創出する目標を打ち出した。その主な内容は、家事代行・家庭向けサービスで195万人、医療で55万人、高齢者ケアで50万人、子育てで35万人、メンテナンスなどの住宅関連サービスで55万人、環境で10万人というものである。これらは全て「暮らしやすさ」に関わる生活直結産業である。こうした生活関連サービスは安いところに移転してしまうことはないし、東京まで出ていって消費されてしまうこともほとんどない。人がいるところ、家があるところがそのまま仕事の場となる。700万の人が住み、持ち家数で日本有数のベットタウン埼玉はまさしく有望なマーケットである。
 仕事はオフィス街にだけあるのではない。これからの新しい仕事の可能性は暮らしの中にこそ埋もれている。

埼玉を人の母港に

 新しい埼玉の顔、「さいたま市」は、海なし県に生まれた全国初の内陸型100万都市である。この街は、東京とも横浜とも千葉とも違う。さいたま新都心もお台場や港みらいの後追いを望むのならば、さいたま市が「北東京市」になるだけで、それこそ東京の地価が安くなれば誰も見向きもしなくなってしまうだろう。
 では何を埼玉は誇りにすべきか。それはこの世界有数のベットタウンで暮らす700万の住民そのものだ。21世紀は人こそが資産の時代である。
 私は、街の魅力は、何も施設や街並みだけにあるとは思わない。その上に築かれる人間の生活、社会環境もまた、街の個性になるのではないだろうか。家を選ぶ時に、職場から何分、スーパーがあるかないかだけではなく、高齢者が活き活きしている街か、働きながら安心して子供を育てられる街か、サッカーをやりたい時にすぐに仲間が集まる街か、などといったことが、これからの時代に評価される街の資産だと考える。一つの施設より、そこに住む人々が織りなす街の姿、社会環境が重要なのだ。
 そしてこの街の上にある人と暮らしは、豊富な雇用を生み出す可能性を秘めたマーケットでもある。生活直結産業はまさに埼玉のようなベットタウンでこそ、花開く新産業と言えよう。
 東京・横浜・神戸…、これまで栄えてきた街はみな港がある街だ。残念ながら海のない埼玉は、ただ大東京へ集まる人々の寝床に過ぎなかった。21世紀、人こそが資産となる時代に、埼玉は人々の暮らし、人生を支える世界一の「人の母港」を目指す。

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森岡洋一郎の論考

Thesis

Yoichiro Morioka

森岡洋一郎

第20期

森岡 洋一郎

もりおか・よういちろう

公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾 研修部長

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