論考

Thesis

市場原理主義を超えて

ベルリンの壁崩壊から10年。世界経済は未だ確たるシステムを築き得ていない。そんな中、日欧共同の新しい世界秩序構築の試みが始まった。その実態を、国連貿易開発会議(UNCTAD)で研修する立場から分析・報告する。

1990年代という時代

 1990年代とは、どのような10年間であったのだろう。1989年ベルリンの壁の崩壊によって劇的に幕が開かれた1990年代。冷戦が終わり、軍事的にはもちろん、経済的にも西側陣営の勝利が明らかになった。さらに西側陣営の中でも、不況の日本を後目に、米国は長期好景気を謳歌した。この米国の成功は、市場原理を働かせさえすれば経済は好転するという市場原理主義に基づくとされることが多い。そして世界各国は、米国で成功したこの市場原理主義的経済政策を一斉に採用しだした。1990年代とは、米国の市場原理主義が世界を席巻した10年と位置づけることができる。
 しかし、アジア金融危機、市場原理主義に基づく変革を実行したロシアの経済崩壊と、市場原理主義が必ずしも有効に機能しないことが明らかになってきた(注1)。このような市場原理主義の限界を踏まえ、「市場での競争原理は尊重しながらも、特定の分野については市場原理を適用しないような協力のシステム」(注2)の必要を訴える声が高まっている。

市場原理主義に対する日欧の違和感

 米国主導の市場原理主義の限界に直面している現在、日欧の役割は大きい。EU日本政府代表部木村崇之大使は、「いわゆる民主主義といった基本的な価値から一歩進んで、ソーシャルな、例えば環境や文化の尊重などの価値について、次第に日欧間で価値が類似してきている」と指摘する。例えば、後述する(WTO)世界貿易機関のシアトル閣僚会議においても、米国がサービスなど自国に有利な分野のみで交渉を進めることをめざし、セクター別交渉方式を主張したのに対して、日欧は加盟各国全体に有益となるような交渉をめざし、一括受諾方式を主張した。国際交渉を単純な図式で捉えることはできないが、「自国の利益を一部犠牲にしても、加盟国全体に資するような形で交渉を成立させなければならない」という使命感ともいうべき価値観を、欧州委員会の同僚と日本政府の交渉担当者の双方から感じることが多かった。このように、「基本的な価値から一歩進んだ価値」を日欧が共有し始めていることは注目に値する。市場原理主義の限界が明らかになる中で、価値観の共有を土台にして日欧が協力し、米国の行き過ぎを是正し、米国とともに新たな世界経済システムを形成することが求められている。

WTOにおける新世界システム構築の試み

 世界のグローバル化が進む中で、国際カルテルや不公正な国際企業統合の問題が注目を浴びている。市場原理主義という言葉は主として国際金融の場で用いられることが多い。しかし、国際カルテルなどの問題も市場原理主義の行き過ぎの所産であるといえる。このような問題を是正できる国際経済システムを構築する試みが、現在WTOの場でなされている(注3)。「市場での競争原理を尊重しながらも、特定の分野については市場原理を適用しないような協力のシステム」構築への営みの一例を以下、検討したい。
 WTOは、関税と貿易に関する一般協定(GATT)を引き継ぐ形で1995年に設立された。GATTは、第二次世界大戦を引き起こした原因の一つが過度な世界経済のブロック化にあったことを反省し、自由貿易経済体制の確立を目指して締結された。GATTが過去、加盟各国の関税引き下げに果たしてきた貢献は計り知れない。また一協定からWTOという機関にまで機能が高められたことから、今後、その重要性は一層高まると予想される。

 さて、昨年12月に開かれたシアトル閣僚会議の新交渉議題の一つに「競争」がある。この「競争」の分野では、(1)多発する国際カルテルをWTO加盟各国の競争当局が協力して取り締まること、(2)自由貿易を阻害している制限的商慣行等を取り締まること、(3)増加する国際企業合併を各国で協力して管理して行くこと、等が目標とされている。そして、その第一段階として、WTO加盟国で「競争」政策に関する基本的なルールの合意をめざしている。
 「競争」に関する交渉は、もとは1996年のシンガポール閣僚会議で米欧が提案し、WTO内での作業部会の設置という形で始められたものである。ところが、シアトル会議で、米国は「競争」に関して消極的な立場をとり、EUは積極的な立場をとった。これには様々な背景がある。米国は、1980年代以降、市場原理主義に基づいた政府規制緩和の一環としてアンチ・トラスト法の運用を緩和している。これに対して、EUは域内統一市場確立のために比較的厳格な競争法の運用を行っている。一概にどちらが正しいとはいえないが、この両者の「競争」に対するスタンスの違いが、WTOでの交渉姿勢に影響を与えていることは否めない。さらに、仮にWTOが「競争」を扱うようになれば、一旦米国内で決定された事例がWTOにおいて覆される可能性もでてくる。これが、米国を消極的にさせている。二国間協議ならば、自らに有利な成果を引き出すことができるのに、というわけである。こうした事情から、シアトル会議では「競争」を次期交渉議題にすることを日欧が共同で提案した。
 シアトルでは合意が見られなかったが、この「競争」という分野はWTO交渉全体の枠組みを変える可能性を持っている(注4)。WTO交渉の基本は、関税や非関税障壁を低くし、各国市場へのアクセスをいかに保つかにある。これに対し、「競争」という分野では、いかにして「公正な競争」を世界市場で確保するかという点に主眼がある。お互いに関税をなくしましょう、という従来のマーケット・アクセス重視の交渉から、いわば「基本的な価値から一歩進んだ価値」として「公正な競争」を設定し、これを実現してゆきましょう、という交渉に変わるのである。この試みには、「基本的な価値から一歩進んだ価値」を共有する日欧の協力が欠かせない。資本主義対社会主義というイデオロギー対立が終焉した現在求められているのは、資本主義の行き過ぎを是正しうる確固たるシステムと、それを絶えず改善してゆこうとする各アクターの積極的な発言と関与である。WTOにおける日欧の試みは、その先駆となりうるであろう。

求められる新しい価値を生み出す力

 「公正な競争」という価値を世界各国が共有する価値として設定し、国際経済システムを再構築しようという日欧の試みは始まったばかりである。世界第二位の経済力に不釣り合いな、日本のリーダーシップの欠如が指摘されて久しい。残念ながら先のシアトル会議を見ても、EUと「競争」分野において共同歩調をとってはいるが、日本政府の交渉姿勢ではアンチ・ダンピングと農業ばかりが目につく。自国の、しかもごく一部の利益を擁護することも国家の任務ではある。しかし日本が世界のリーダーとなろうとするならば、一歩進んで、世界各国と共有しうる価値と枠組みを提示してゆくことが不可欠である。このような包括的な視点に立った政策立案は、残念ながら現在の縦割り行政システムからは生まれにくい。個々の分野における問題を把握しつつ、世界全体の将来像を念頭に置き、WTOにおいて価値と枠組みを提示してゆけるような政治的リーダーシップが、今求められている。

(注1)福島清彦『暴走する市場原理主義』ダイヤモンド社 2000年 参照
(注2)神野直彦『システム改革の政治経済学』岩波書店 1998年
(注3)Eleanor M. Fox,”Toward World Antitrust and Market Access”,American journal of International Law,vol.91,1997
(注4)Josef Drex, “Trade-Related Restraints of Competition,-the Competition Policy Approach-“,in Roger Zoeger(ed.),Towards WTO Competition Rules,1999 参照

Back

小林献一の論考

Thesis

Kenichi Kobayashi

小林献一

第19期

小林 献一

こばやし・けんいち

Philip Morris Japan 副社長

Mission

産業政策(日本産業界の再生) 通商政策(WTO/EPA/TPP)

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門