論考

Thesis

苦悩する草原の国モンゴル -前編-

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共同研究

1998/5/29

本格的な民主化から8年。急激な市場経済化の中でモンゴルはどこへ向かおうとしているのか。今春、塾生有志でモンゴルを訪れた。今月号と来月号にわたり私たちが見たモンゴルの「いま」を報告する。

●分裂するモンゴル

 「黄金(Gold)の上に座った乞食」。
 農牧業産業省の事務次官ザリクハーンは自分たちのことをこう自嘲する。日本の通産省と農水省を合わせた権限を持つ省庁のNo.2をしてこの言である。日本の約4倍の広さの当る国土に金、銅、モリブデンなど豊かな鉱山資源を持ちながら、モンゴルの経済力は低く、貧しい。
 モンゴルと言えば遊牧、とその代名詞のように考えられた牧畜は、1921年の社会主義革命以降、農牧業の強制集団化で定住型畜産業に変わった。元副首相のガンボルト氏によれば、今、純粋に遊牧を行っているのは「全人口の20%程度」に過ぎないという。あとの60%は都市定住生活者、残りの20%が地方定住生活者である。
 モンゴルの人口は230万。3つの国民が存在する。定住する者、草原に生きる者、さまよう者である。第一の定住する者とは、貨幣経済と消費社会に適応し、それを謳歌している一握りの都市生活者のことだ。第二の草原に生きる者とは、伝統様式の中で五畜(馬、牛、山羊、羊、ラクダ)を愛し、貨幣を拒否し、開発とは無縁な草原の民である。そして最後は遊牧を捨てて定住しつつも産業社会に参入できずさまよう者たちである。すべての社会問題の根源には、この「さまよえるモンゴル人」の存在がある。
 そして、この国最大の不幸は、国家の経済政策やすべての価値観が、資本主義にうまく適応できた一握りの者たちの視点で決められることである。

●ソ連崩壊の余波と民主化の嵐

 1980年代後半に始まった旧ソ連のペレストロイカの波は、独立国でありながらソ連の影響下にあったモンゴルにも押し寄せた。
 「我々にとって民主化とは、即ちソ連邦からの自立を意味していた」。
 28歳で「モンゴル民主化の星」と称えられ、90年の無血革命を主導した現国会議員のS・ゾリグ(35歳)は、昔をこう振り返る。90年5月、ソ連の影響力後退と民主化運動の高まりを背景に、旧共産党政権は複数政党制導入を含む自由選挙の実施を認めた。
 92年には国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に改められた。言論の自由が公認され、抑圧の対象であったラマ教(チベット仏教)が息を吹き返した。冷戦下ではロシアへの侵略者ということでタブー視されたチンギス・ハンの人気も復活している。

 計画経済も放棄された。ネグデル(集団農牧業、中国の人民公社にあたる)は牧畜部門を中心に解散され、私有化は家畜頭数を90年の2500万頭から96年の2900万頭に押し上げた。農耕業は小麦を中心に自給自足に充分な水準にあり、90年には59万㌧の生産量を誇っていた。確かにこの時モンゴルは希望に満ちていた。
 しかし民主化モンゴルは革命後早くも失速する。旧ソ連圏からの自立は、ソ連の指導と援助で発展してきたこの国にとって支援の途絶を意味した。産業のあらゆる分野にソ連からの技術顧問を抱えていたが、彼らの引き上げで生産が落ち込んだ。小麦の生産も96年には約21万㌧にまで下がり輸入に頼るようになった。
 「当初から我々の最大の目的は、マクロ経済の安定とインフレの撲滅にありました」。大蔵省構造調整局長のオユンゲレル女史はこう言うと次のように続けた。「社会問題は我々にとって二の次なのです」。

 確かに革命直後、事態は切迫していた。92年には、325.5%に達する急激なインフレーションにみまわれた。月平均12.8%上昇という凄まじさである。通貨トゥグリグは変動相場制への移行で90年に1ドル=4.67トゥグリグだったのが、96年には1ドル=696.44トゥグリグにまで暴落した(モンゴル銀行発表)。国民所得は90年の81億4390万トゥグリグから、94年には56億7200万トゥグリグにまで後退している(モンゴル統計局資料)。国営企業は倒産が続出し、失業者が都市に溢れた。94年の失業率は8.7%だ。
 96年の総選挙で成立したエンフサイハン政権は行財政改革を断行。97年には国営企業の売却などで均衡予算を達成し、なんとかインフレを17%台に抑えた。2000年までに国営企業の約60%を民営化し、各省庁の部局以下をすべてエージェンシー化する案が計画されている。
 しかしこの性急な経済発展のつけが、今、様々な社会問題となって噴き出している。
それはまず、社会的弱者である子どもたちの上に顕れた。

●急激な市場経済化が生み出したストリートチルドレン

 近年、モンゴルではストリートチルドレンが急増している。4~18歳ぐらいの子どもたちが数人集まっては、マンホールの中で共同生活する。正確な数の把握は難しいが、その数3千とも4千とも言われ、中には1万を超えるという説もある。いずれにせよこれらの子どもたちの大部分は、モンゴル唯一の大都市、首都ウランバートルで生活している。
 なぜこれほど多くの子どもたちが、ストリートチルドレンになり、浮浪者の生活を強いられているのか。
 原因はここ数年の急激な社会変化にある。社会主義経済から市場経済に急激に移行するこの過渡期にあって(今現在も含め)、その波に乗り遅れた遊牧民は否応なく貧困状態に陥った。親は酒に逃げ、子どもに暴力をふるう。その結果、家族は崩壊し、子どもは家を出、生き残る道を求めてウランバートルを目指した。そしてストリート生活に落ち着いた。
 こうした現状に対して、モンゴル政府も手をこまねいているわけではないが、その対応は後手後手に回っている。
 ウランバートル警察は、月に2度マンホールの中で生活している子どもたちを保護して回る。しかしすべての子どもたちを保護できるわけはない。保護された子どもたちは国立子ども保護センターに送られ、最長2週間そこに留め置かれる。その間、家出の理由やどこで生活しているのかといった家庭調査、病気にかかっていないかなどの健康チェックが行われ、その後の受入機関が決められる。
 しかし、保護センターとは名ばかりで、その生活は極めて劣悪である。センター内には悪臭さえ漂い、4畳半ぐらいの部屋に子どもたちが8人ほども詰め込まれている。服装も、男の子が女性用のワンピースを着ていたり、小さな女の子が下着もつけていないなど、保護されてなお悲惨な境遇に、陰鬱な気分になった。
 受入先が決まると、子どもたちはそれぞれ割り振られた施設へと移される。受入先は、国立の保護施設と民間NGOの保護施設である。国立の保護施設は警察のすぐ隣に位置している。建物は老朽化し、内部もかなり痛んでいた。

●活躍するNGO

 民間NGOの施設は、国立の保護センターよりは規模は小さいもののその分だけ子どもたちへの気配りが行き届いている。ウランバートル市内では約20のNGOが活動しているが、我々は2つのNGOを訪問した。オユンナ基金とピース・ウィンズ・ジャパンである。

 オユンナ基金は、日本で活動しているモンゴル人歌手オユンナが基金を出して設立したもので、ウランバートル市内で子どものための施設を運営している。所長のダバドルゴア夫人は、ウランバートル市内で婦人靴店の経営もしている。彼女は、ストリートチルドレンが発生する悲惨な状況について何枚もの写真を示しながら説明してくれた。
 「子どもたちが家を棄てる最大の原因は、家庭内における父親の暴力です。でも暴力の温床はやはり貧困でしょう。貧困が父親たちを飲酒に走らせ、それが家族の崩壊をもたらしているのです」。
 オユンナ基金の施設は、国立施設に比べ部屋は清潔で、子どもたちが身につけている服もかなりこぎれいだった。約40名の子どもたちがそこで生活をしている。部屋を訪れた時、何気なくノートを覗いてみると日本語が書いてある。週に2回、日本人が日本語を教えているという。また、ドイツの企業もお金を寄付しているのでドイツ語も勉強していた。
 私たちが日本から来たと聞き、日本の歌「ふるさと」を子どもたちが歌ってくれた。モンゴルで聞く日本の歌に、少し複雑な気持ちにさせられた。

 続いて、日本のNGOピース・ウィンズ・ジャパンを訪問した。ピース・ウィンズの場合は、ホッタイル(子どもの家)という施設をウランバートル市内に2カ所持ち、そこで約40名の子どもたちの世話をしている。ホッタイルは一軒長家を購入したもので、近くには学校もある。モンゴルでは8~16歳まで義務教育となっているが、放浪生活で基礎学力の不足している子どもたちは学校に行くのを嫌がるので施設で教えている。
 ここではホッタイルのマネージャーやスタッフに現地人を雇っている。現地事務所の新島忠さんは、「モンゴルの大人たちにもストリートチルドレン問題に対して関心を持ってもらいたい。ここで働いてもらうことは、大人を教育する意味もある」とその理由を語る。
 ホッタイルでの食事を私たちも少し口にしてみた。その日の夕食は野菜とうどんを煮たようなものだった。味はともかく、育ち盛りの子どもには少し物足りない気がした。とはいえ、ストリートで物乞いをしている子どもたちからみれば恵まれたほうだろう。

●今後の対策

 ストリートチルドレンの問題は、現在の問題後追い型の対策では、いつまで経っても根本的解決は出来ない。ピース・ウィンズの新島氏の「将来、自立できるようにするために、手助けをする」という言葉のように、最終的にNGOなどの援助が不必要になることが望ましい。また、新島さんは職業技術の大切さについても力説する。
 「今秋には、職業訓練センターを立ち上げるつもりです。そこでは裁縫やコンピューターなど職業に直結する技術を教えます」。

 しかし、モンゴルの問題は、その職業技術を生かせる雇用の受入先が存在しないことにある。モンゴル政府には、急激な市場経済に猛進するのではなく、まず自国の産業を育て、国民に職を与え、国内市場を育成する地道な態度が求められる。社会問題が発生する最大の原因は、その社会に希望が持てないことにある。モンゴルで出会った子どもたちの笑顔を絶やさないためにも、政治の果たすべき役割は限りなく大きい。
 モンゴルの政治問題、経済政策については次号で報告する。(モンゴル研究グループ:稲富修二大串正樹平島廣志尾関健治

<参考資料>国際協力事業団『モンゴル 国別援助検討会報告書』、外務省アジア局中国課『外務省資料』

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